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権門(けんもん)とは、古代末期から中世の日本において、社会的な特権を有した権勢のある門閥・家柄・集団を指す言葉です。中国の古典に記された故事に由来する語で、平安時代初め頃から使われるようになりました。写真の「権門駕籠」は、「引戸駕籠(ひきどかご)」とも呼ばれ、江戸時代、大名の家臣(武士)や僧侶(お坊さん)が用事で他家へ行くときに用いられた乗り物です。漆塗りの屋根は上に大きく開くようになっており、また乗り口は引戸になっていて竹のすだれが掛けられています。
資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。滋賀県大津市坂本5丁目にある、日吉大社(ひよしたいしゃ)です。全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮です。天台宗の護法神であり、社殿の立つ場所が平安京の表鬼門にあたるため、平安時代より都の守護神としても信仰され、方除け、厄除けのご利益で知られています。また、もみじの名所としても有名で、「青もみじ」の新緑や11月中旬の紅葉が美しく境内を彩ります。絵馬は、猿の顔をモチーフにした顔型絵馬。日吉大社の神様のお
拾餌(えひろい)親鳥がひなに餌を口移しであげている、可愛いらしい鶴です。首を少し斜め前に折るのがポイントです。【狂歌】餌を拾うように恋路の粟ばたけ人が来るやら引板(ひだ)の音する<注>引板…ひだとは鳴子の事。粟…ここでは、驚き慌てるの意味の「泡を食らう」にかけている。
資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。東京都台東区今戸1丁目にある、今戸神社(いまどじんじゃ)です。今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義、義家父子が奥州征伐の折、京都の岩清水八幡宮を鎌倉鶴ヶ岡八幡宮と共にこの地に八幡宮を勧請し創建、後三年の役の後祈願成就を感謝して再建、江戸時代に至っても今戸八幡宮と称して武家の尊崇が篤かったといいます。また、浅草七福神のひとつ福禄寿が祀られている他、下町八社巡りの一社とされています。今戸神社に祀られる福禄寿は、
令和6年4月29日犬山焼窯元尾関家蔵ギャラリーでの谷中美佳子さんの個展と犬山に伝わる伝説を描いた絵巻物の世界を語る会お話としてもとても面白そうな題材で聴きにいきたかったのですが…🍵🌸体調がもう少し良ければ、お伺いすることもできたのですが語り部によるお話しをお聴きしたかったです。犬山の地元の方たちにとっても深い意味のあるお話しとして地元の皆さんにも、親しまれ聴き継がれていくことを願いやみません。
四日市赤堀の旧東海道沿いにあった鈴木薬局さんが、江戸時代に製造していた膏薬「即治膏」「赤万膏」など“官許(お上の許可を得た)薬”の引札(ひきふだ)と看板です。(引札)引札とは、江戸、明治、大正時代にかけて、商店、問屋、仲買、製造販売元などの宣伝のために作られた広告チラシです。朱塗りの看板には、竹の切り口を示す「丸二つの組合せ」の登録商法に、「赤万能即治膏」の名前が書かれています。写真の建物(参考)は取り壊され存在していませんが、当時の鈴木薬局さんは200年以上も
資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。岐阜県岐阜市伊奈波通1丁目にある、伊奈波神社(いなばじんじゃ)です。天文8年(1539年)、稲葉山城の築城にともなって、斎藤道三公が現在の場所に移したと伝えられています。岐阜市の総産土神で、毎年4月には「岐阜まつり」が開催されます。御祭神は五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)淳熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)物部十千
「判じ絵」は、江戸時代に庶民の間で流行った「なぞなぞ」みたいなものです。「判じる」とは「判断する」とか「推し量って考える」という意味で、絵を見て、それが何を意味するか当てる遊びです。題材は名所の地名だったり、食べ物、道具など。「洒落」の効いた言葉遊びで、なかにはちょっとお下品でばかばかしいものもありますが、庶民に愛されたささやかな娯楽でした。資料館入り口に掲げられているこの看板は、「かまわんはいれ」(構わないからお入りください)と表現されています。語のネタ「江戸時代の
江戸時代の両替屋の木製看板です。モチーフになっているのは両替商が使う秤の分銅です。両替屋の看板にはほかにも、お金(貨幣)をモチーフにしたものもありました。語り部のネタ「江戸時代に発展した両替商」江戸時代の両替商は、金銀銭貨の両替のほかに、預金や手形や貸付などの金融業務を行っていました。両替商は、商人や大名を主な取引先とし、大坂を中心に日本中の商いに関わっていました。江戸時代の両替商の中でも、鴻池、三井、住友の3つは特に有名で、現代の大企業に発展しています。
資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。和歌山県伊都郡九度山町にある、慈尊院(じそんいん)です。慈尊院は、弘仁七年(816年)、弘法大師が、高野山開創の時に、高野山参詣の要所に当たるこの地に、表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とされました。大師の御母公(玉依御前:たまよりごぜん)が香川県善通寺より、我が子の開いている山を一目見たいとの一念から、ご高齢にも関わらず当院へ参られ、ご本尊弥勒菩
暇ジジイの小遣い稼ぎに、午前中だけ、時給500円にも満たない『在宅・指遊びバイト(=データ入力作業)・・・』をさせて貰って居ることは、幾度か白状させて貰って居るが、その中で、以前、此処の『アンケート回答入力』と云うのを、駄文ネタにしたことが有った・・・(汗)『福島へ行こう・・・!』(令和5[2023]年7月27日・投稿)この時の御縁で、ジジイは、来館者が記入された感想や意見に触発されて、この2月の『Bolivia彷徨い・・・』の序でに、わざわざ福島に行脚し、運の悪い『
令和6年4月24日(水)この日は消防隊の方々に消防訓練を指導していただきました。消火器の使い方を教えていただきました。実際には「水」の入った練習用の水消火器を使用しました。午後からは語り部地蔵に来ていただきました。いつものことながら心地よい語り口調でほっこりした時間を過ごすことができました。***以上***
<告知>名取老女とは、名取に熊野三社を勧請した熊野の巫女さんの物語です。世阿弥がお能にし、紀州と同じように三社を模してお祀りしています。さて、度々こちらでもご紹介しておりました。名取老女研究会を発足して10年近くがたちます。昨年、名取熊野神社900年勧請記念で盛り上がりましたが、研究会として何か形にするものを残したいと思い、900年祭の時期もあり、仲間たちと冊子を作りました。旅をしたヤタガラスと船と海をイメージした見開きのデザインです!1320円(税込)/B5版フルカ
野干平(やかんべい)この鶴は、妹背山と同じ紙の切り方で、同じ様に折り、頭の向きを左右反対に折ります。【狂歌】野干平つれて狐の嫁入りかな時雨もしたり日も照りにけり<注>野干…狐の意味狐の嫁入り…日が照っているのに雨が降っている天気の事を言う
🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿精麻妖精の隠れ家🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿緑と虹が溢れる光のサロン🌿精麻妖精の隠れ家🌿へようこそYukaですご訪問いただきありがとうございます精麻妖精の隠れ家開催WSスケジュールネットショップminne【語り部お茶会&おやつマルコ】開催しました洸ひかりちゃんによる『エルフの竪琴』大野みかちゃんによる『すみ鬼にげた』
資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。東京都江東区亀戸3丁目にある、亀戸天神社(かめいどてんじんしゃ)です。菅原道真公をお祀りする亀戸天神社は下町の天神さまとして親しまれています。古くはご本社にあたる九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されていましたが、明治6年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和11年に現在の亀戸天神社と正称されました。絵馬には、春と夏を分けるといわれている藤の花房が描かれて
資料館の近現代コーナーには懐かしい(昔見たことのあるような)品々が展示されています。今回登場するのは、「ホーロー看板」です。ホーロー(琺瑯)看板とは、主に屋外で使用される金属製の看板で、光沢のある塗装や印刷が施されています。明治21年(1888年)から明治22年(1889年)頃に誕生し、明治・大正・昭和中期まで商品宣伝手法の主流として活躍しました。しかし、商品サイクルの加速化や住宅事情、新聞やテレビなどのメディアの発達に伴い、昭和50年(1975年)頃より徐々にその姿を消して
門前宿:和空法隆寺奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺1丁目5-32世界遺産法隆寺の参道に2019年開業【公式】門前宿和空法隆寺|奈良世界遺産・奈良県(斑鳩町)法隆寺を眼前に望む場所で宿泊ができる門前宿「和空法隆寺」(ホテル、旅館)。宿泊中はさまざまな日本文化をすることができます。歴史の特等席で特別な時間をご満喫ください。waqoo-horyuji.com西方館フロント・客室・食事処・湯処などロビー東方館・宿泊棟宿泊棟ロビー宿に到着後17時からこ
資料館では、江戸時代の旅人が持参していた品々を陳列しています。その一部をご紹介します。「小田原提灯」コンパクトに折り畳みできるように工夫された提灯です。川越富洲原駅西にあるまちかど博物館「小田原提灯参考館」からお借りしているものです。高級品から普及品までさまざまなものがありました。「煙草入れと煙管(キセル)筒」金具の細工などが見どころです。「印籠」腰に下げる三重または五重の長円筒形の小箱。箱には蒔絵(まきえ)、堆朱(ついしゅ)、螺鈿(らでん)などの細工が施され、緒には緒
江戸時代になる前、中世・戦国時代に関連する資料として、室町時代後期の甲冑(かっちゅう)を展示しています。鎧(よろい)は、白絲威(しろいとおどし)二枚胴具足(にまいどうぐそく)という形式です。兜(かぶと)は、六十二間星兜(ろくじゅうにけんほしかぶと)で、前立ての鍬形(くわがた)は葉っぱの組み合わせたもので、今のところ、何の葉なのか判っておりません。また、家紋については、切り竹に雀ですが、武将の名はまだ判りません。語り部のネタ江戸時代の平均身長は、だいたい男性は155cm~1
🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿精麻妖精の隠れ家🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿緑と虹が溢れる光のサロン🌿精麻妖精の隠れ家🌿へようこそYukaですご訪問いただきありがとうございます精麻妖精の隠れ家開催WSスケジュールネットショップminne語り部お茶会◆日時7/13(土)13:00〜16:00◆場所精麻妖精の隠れ家◆参加費2500円+マルコサンドイッチ(別途)◆定員8名
資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。豊橋市小松原町字坪尻にある、小松原山東観音寺(とうかんのんじ)です。飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した日本の仏教僧であった行基(ぎょうき)がこの地を訪れた際に熊野神社のお告げを聞いて馬頭観音像を刻み天平5年(733年)に開山したと伝えられています。境内には国の重要文化財の多宝塔があり、また旧暦2月の午の日には「馬頭観音二の午祭」が開催され牛馬の飼い主らが祈願を行います。絵馬は「駒曳き猿」。馬の轡(くつわ
資料館の入り口に、「郵便差出箱(丸型)」が展示されています。この形の差出箱は、昭和20年に終戦を迎え物資の入手が軌道に乗るようになった、昭和24年(1949年)から新しい鉄製のポストとして採用されました。さて、江戸時代では情報伝達の方法として最も発達したのが「飛脚制度」です。江戸幕府は、各地へ公用文書を伝達する上で、継飛脚を設け、江戸を中心として整備した五街道の宿駅ごとに脚夫を置き、情報ネットワークを張り巡らせていきました。当資料館内には、「江戸時代の飛脚箱」「明治21年頃の四日市郵便
妹背山(いもせやま)固く結ばれた夫婦や恋人同志の象徴として折られた形です。<狂歌>結びては妹背の山の中に折れる吉野の紙のよしや離れぬ<注>妹背…男女、夫婦、兄妹、姉弟の意味吉野の紙…吉野地方で作られる極めて薄く柔らかい紙
おはようございます🌹独演会直前スペシャルQ&A❕その2❕Q、どうやって何役も演じ分ける?A、背骨の可動域と身体の重心を変えて、様々な人格を”声”だけで表現しています。私は舞台経験がお能しかないので、現代的な演技がわからなくて🤔なので、語りながら瞬時に”身体を別人”にして声の出し方を変えてます。⇩独演会詳細はこちら⇩かたりべ満茶乃十周年東京独演会2014年2月に京都にて日本文化の親子イベントを中心に古典怪談と地方伝承をかたりはじめたかたりべ満茶乃の新たな"はじめの一歩”。!
四日市は萬古焼(ばんこやき)の産地として知られていますが、江戸時代には桑名の沼波弄山(ぬなみろうざん)が朝日町の小向(おぶけ)で窯を開いたのが始まりです。(萬古焼きの歴史)(沼波弄山作古萬古「赤絵草花文茶碗)作品に、いつまでも変わらないものという意味の「萬古」あるいは「萬古不易」の印を押したものです。(古萬古色絵鳳凰文小皿)その後、朝日町の森有節(もりゆうせつ)が萬古を再興したのが、”有節萬古”と言われています。(有節萬古「色絵草花文福面鉢」)この小さな急須は型萬
資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。東京都台東区千束3丁目にある、鷲神社(おおとりじんじゃ)です。ご祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)と、日本武尊(やまとたけるのみこと)です。天日鷲命は、天照大御神が天岩戸にお隠れになった際、弦という楽器を司った神様で、岩戸が開かれた際に、その弦の先に鷲がとまったといわれています。紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部(いんべ)氏の祖神でもあります。日本武尊は、第12代景行天皇の皇子、第14代仲哀天皇の
資料館に入っていただくとあちらこちらにたくさんの連鶴たちが出迎えます。これらは、指先の器用な語り部横田さんの作品の数々です。連鶴は、江戸時代お隣り桑名の長円寺の住職であった魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)によって考案され、その折り方は桑名市の無形文化財に指定されているほど奥の深い作品です。<連載予告>今回、横田さんにお願いして、新たなシリーズとして「桑名の千羽鶴49羽とその鶴に詠まれた狂歌」をブログにてご紹介させていただく運びとなりました。どんな鶴たちと出会えるの
江戸時代、およそ60年ごとに発生したと言われるお蔭参りは、庶民が旅をする数少ないチャンスでした。お蔭参りが始まると、奉公人は主人に内緒で、妻は夫に内緒で参宮することが認められていました。中でも文政13年(1830年)に起こったお蔭参りは、もっとも規模が大きく、参宮した人はおよそ440万人と言われています。当時の人口の14%近くの人が数か月の間に伊勢を目指すのですから、街道沿いの村々では旅人の旅を少しでも助けるために数々の施しを行ないます。旅人の多くがお金を持たなくても旅を続けら
大名行列は、大名の家格によって隊列の人数や威儀(かっこう)が決められており、大藩では数百人、小藩でも数十人の規模で移動します。参勤交代は地域によって江戸へ向かう時期、国元に帰る時期が決められており、一度に大勢が動き回るということはありません。それでも川留めなどで日程が狂うこともあり、大名の宿泊が重なると、宿場が大名行列の宿泊客で一杯になり、一般の旅人は野宿になることもあります。ちなみに大名は一頭(ひとかしら)、二頭(ふたかしら)と数えます。話のネタ「四日市の大名行列」四日市