ブログ記事202件
2026年3月19日の考察過去に、卑弥呼を殺したのはスサノウではないのか。と書きました。筑紫(大宰府付近)で暗殺して川を下り日本海側の潮に乗って出雲まで逃げた。現地でクシナダヒメと結婚して子孫を残した。と解釈していましたが、出雲国風土記には、ほとんど書かれておらず素戔嗚尊が、筑紫で卑弥呼を殺した後で、臺與(ダヨ)が跡を継いだ童女がクシナダヒメではないのか。と想像しました。記紀にも出雲国風土記にも臺與(ダヨ)やクシナダヒメがその後どうなったかは書かれていません。素戔嗚尊に櫛にされただけです
祭日とは天皇がお隠れになられた日、命日です。宮中祭祀では初代神武天皇祭と先帝祭として先帝以前三代の天皇の例祭が当日に行われていますが御歴代の天皇・皇后・皇親については沢山いらっしゃるため、春季皇霊祭、秋季皇霊祭(春分の日・秋分の日)にまとめて霊をお祭りされています。ただし100年毎には大祭として当日お祭りをされます。第二十八代宣化天皇は大和時代の天皇です。この時代は、古事記、日本書紀の時代です。御名は、桧隈高田皇子(ひのくまたかたのみこ)、建小広国押楯命/武小広国押盾尊(たけおひろくにお
本日は旧暦の1月28日ですが、和銅五年正月廿八日(712年)古事記は時の天皇である元明天皇に献上されました。何度も改暦されていますから、本来の正月二十八日の時期とは違うかもしれませんが、和銅五年正月二十八日に古事記が献上されたことは何度でも何度でも機会がある度に繰り返し伝えていきたい日本が誇る歴史の一つです。『日本製の原点・・・日本と日本人の取説』「和銅五年正月廿八日正五位上勲五等太朝臣安萬侶」これは、上表文の署名です。上表文とは、天子に上奏する文のことです。和銅五年正月廿八日は、71
ここへ来て突然、『古事記』についての講演のご依頼をいただいた。Kという団体からは、3月と5月に1回ずつ。Nという団体からは、4月に1回、5月に2回。Kさんからのご依頼は2回目で、前回は2019年4月だった。「『もう一度聞きたい講座は何ですか?』というアンケートを取りますと、鉄田さんの古事記に関する講座が上位にランクインしました」とのことだった。これは、やらないわけにはいかない。今回は90分を2回の連続講座なので、前回できなかった個別の神話のストーリーに踏み込んでお話しするつもりである。
第十四代仲哀天皇は、古代の天皇で四世紀後半頃の、古事記、日本書紀の時代の天皇です。御名は帯中津日子命/足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)。御父は倭建命/日本武尊(やまとたけるのみこと)、御母は布多遅能入理毘売命/両道入姫命(ふたじのいりびめのみこと)で垂仁天皇の皇女。容姿端麗で背も高かったといわれています。成務天皇四十八年、成務天皇に皇子がいないため、天皇の異母兄である日本武尊の第二皇子の足仲彦尊が三十一歳で皇太子となられました。それから十二年後に天皇の崩御により即位されまし
箸墓古墳を卑弥呼の墓だとする人たちがいる。根拠はその墓の大きさにあるようだが、これは「日本書記」によると、「倭迹々日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」としている。(崇神天皇項)。孝元天皇の皇女であり、大三輪神(大物主神・大己貴命)の妻となった。大物主が蛇の化身であることを知らず、その正体を知った百襲姫命は腰を抜かしドスンと座り込んだところ、箸で陰を突いて死んだという有名な逸話がある。それが「箸墓」の命名の由来だとされる。そうすると「卑弥呼=倭迹々日百襲姫命」という図式が成り立つが、
TOLANDVLOGより【削除覚悟】古事記・日本書紀に仕掛けられた日本史最大級のタブーについて。天武天皇=八咫烏=賀茂族=裏天皇ありがとうございました。(o__)o))
オシリスとセトの神話古代エジプトにおける「秩序(オシリス)」と「混沌・破壊(セト)」の闘争を描いた、最も重要でドラマチックな物語です。肥沃なナイルの神オシリスは、美しい妻イシスと共にエジプトを統治し、農耕や法律を教え、人々から愛される理想的な王でした。兄オシリスを嫉妬した弟セト(砂漠と混沌の神)は、謀略で箱に閉じ込めたオシリスをナイル川に投げ込んで殺害。さらに、遺体をバラバラにしてエジプト全土に撒き散らしました。わたしは、旧王朝のルーツをエジプトで太陽を中心にオリオン座(オシリス)
録画していた「歴史探偵七支刀と蛇行剣謎の四世紀」(NHK2/25放送)を見た。古代史をテーマにしたNHKの番組には何度も肩透かしされているので、さほど期待はしていなかったけど、相変わらず視聴者というか古代史ファンを見くびっているようなぁ、って悲しくなる七支刀の不明瞭だった文字が「泰和4年」で西暦369年だとし、百済から倭国に七支刀が贈られてきたことを、当時高句麗と緊張関係にあった百済が倭国との同盟を求めるのに、自国の製鉄技術の高さを交渉条件(技術の教示?)にした、というような
日本列島の大王たち古田武彦朝日文庫日本史は古文書が読めないのでニガテだ。そこで活字化が進んでいる近現代と文字のない古代に興味を持っている。古代なら何とかわかるのではないかと思い本書を読んで見たが全く歯が立たない。お隣中国には膨大な文書が残っている。一方、日本には記紀しかない。しかも記紀は神話形式で書かれている。これらには伝世の天皇名とは異なる名称で書かれている。この対応が大変だ。著者は大和朝廷の日本統一はかなり遅れ、九州や出雲に有力な権力が長期間併存していたという立場をとる。地理的な
以前紹介したように生野先生は、「記紀」は神武やその御子の手研耳命による近畿東遷後の全国平定を崇神や景行などダミー天皇の事跡として記述していると考えてあります。今回は神武が全国平定のための戦略として奴国の王族を利用したという考察です。神武は、東遷後、奴国の王族を「四道将軍」に任命して、比較的短期間に全国平定を成し遂げていると思われる。「四道将軍」遠征地域は、九州や出雲が含まれておらず、「吉備国・丹波国・越国・東海道・東山道・東北蝦夷」など「奴国の領域」が征伐の対象地域になっている。
「和銅五年正月廿八日正五位上勲五等太朝臣安萬侶」これは、上表文の署名です。上表文とは、天子に上奏する文のことです。和銅五年正月廿八日は、712年1月28日のこと。1314年前の今日、いや実際には新暦の今日ではないのですが、1314年前「古事記」が元明天皇へ献上された日付です。つまりこれは、「古事記」献上の上表文の署名です。古事記編纂を発案したのは天武天皇です。一度読んだものは決して忘れないという当時28歳の聡明な稗田阿礼(ひえだのあれ)に、「帝記」「本辞」を誦習させたのです。帝記と
天津甕星(あまつみかぼし)は日本書紀で悪神とされていた神樣です。➖星の神樣が悪神として描かれた➖これがこの時代まで封印されてきた宝箱です💎宝箱の蓋を開けるとそこには無数の星々が輝いていました🌟🌟🌟星の象徴とされる神樣がもう一柱。北極星・天之御中主です。天之御中主の両隣には高御産巣日と神産巣日。高御産巣日は男性性を神産巣日は女性性を示していて、人との関わり方としてそれを表しています。男性性である高御産巣日が昼(陽)☀️女性性である神産巣
前宮から北上本宮の近くの山の中腹に鎮座する北斗神社階段の数は二百段先日降った雪が凍り、非常に滑りやすく危険な状態だ祭神は天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)記紀では最初に宇宙に顕現した神で八百万の神々の筆頭始原神とか最高神とも…そのあまりの尊さに信仰の対象とはならなかった一説に、古くからの日本の神々ではなく、記紀の編纂された時代以前に大陸からやってきた『道教』の思想(北極星や北斗七星への信仰)が記紀の編纂時に反映されたのでは?とも考察されている階段を昇り切った先で振り返ると諏
今日(1月13日)の朝日新聞朝刊「文化」欄のテーマは銅鐸の考察記事(中村俊介編集委員)。記事の見出しそのままに、銅鐸の研究成果はまだまだ混沌としているらしい研究者たちそれぞれの視点を紹介しているだけで、もやもや感が残る。「謎」の解明の一手段として、「記紀」を始めとした文献にその存在を消し去られている事実を考察する姿勢も欲しいなぁ・・・例えば、纏向遺跡の溝にあった人糞化石の中から寄生虫が見つかったのは、そこが古代の(水洗)トイレだった可能性があり、『古事記』には丹塗矢に化身した大物主
第二十五代武烈(ぶれつ)天皇は五世紀末の古代の天皇で仁徳天皇系最後の天皇です。御名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかささぎのみこと)。御父は仁賢天皇、御母は雄略天皇の皇女、春日大娘皇女。継体天皇の皇后で欽明天皇の母である手白香皇女、宣化天皇の皇后である橘仲皇女は同母姉妹にあたる。仁賢天皇の崩御により即位。漢風諡号のその字からもとても激しそうな感じが想像できますが、日本書紀にはその暴虐ぶりが書き連ねてあり驚きます。これは、この代で仁徳天皇系が終わってしまうためにわざと悪く書かれた
今回は「記紀」が表向き消し去っている「奴国・奴国王」を別の表記や表現でその存在を示唆しているのと同じように、「銅鐸」の存在も同じ方法で示唆しているのでないかという生野先生の考察です。ヤマト王家によって廃棄されたはずの「銅鐸」が今も地中から出てくるということは、それも必ず「文献史上から掘り出されるはず!」「記紀」の中で「鐸」に関する記事は顕宗紀の中に一か所だけある。〇『古事記』顕宗紀~故に、その老媼(おみな:老婆)の住屋を宮の近くに作(た)て、日毎必ず召(め)す。故(かれ
奈良時代以前の記紀万葉の歌の言語は平安時代のかな文書言語とは異なる。つまり言語断層が明らかにある。しかし、国文学では奈良時代以前のものを上代日本語として、あたかも言語が連続しているかのような解釈をしてきた。これは科学的態度ではない。8〜9世紀にかけてその前後に書き残された言語は異なっており、この理由が何なのか、突き止める必要がある。また地方言語はほとんど文書化されておらず、どのような変遷をとったのかは不明である。
RK氏の記紀はフェイク‼️2025/12/10高校生のブログこれは田中英道氏も言ってます(YouTube)フェイクといってもすべてが嘘ではありませんネットで9割真実1割嘘と言うアレですそれから言っとくけんど日本人は太陽信仰だかんね無信仰じゃない人間は1日として信仰無しには生きられない(田中英道)彼らは宗教というへんてこりんな訳語にした(明治に福沢諭吉がだよ)が宗教はレリジョンreligion。つまり縛る意味や。田中英道氏はつながりと言ってるとにか
今回は、大和王朝に先興していた奴国王家の王や御子に付けられていた名前の「主」や「耳」が神武東遷以降、「根子」に変わっているという生野先生の考察です。生野先生は、「根子」とは「奴国王家の子孫」という意味ではないかと考えてあります。「記紀」では、奴国の「な」の名が消されているが、それを「ね(根)」に書き変えていると思われる。<その理由>まず、音韻上、ナ行の「な」と「ね」が相通(音便)することと、「魏志倭人伝」にある「次に奴国有り。此れ女王の境界の盡(つき)る所」の記事を利用して、そ
『60-⑫二日目は女性に優しい神社さん『石神さん』から』『60-⑪相差からの日の出と、期待の朝ごはん』『60-⑩『リゾートヒルズ豊浜蒼空の風』の食事は豪華だった!』『60-⑨パールロードを走り『鳥羽展望台』で夕陽を…ameblo.jp石神さん(神明神社)の参拝を終えて伊勢志摩を出ます。着いたのが椿大神社紅葉が綺麗でしたね〜こちらの御祭神は猿田彦大神後ろの門柱に椿大神地祇猿田彦本宮と書いてありますがこちらも全国の猿田彦神社の総本宮とされているんですね。🤔はて?伊勢津彦と呼ば
スサノヲの正体その③古事記日本書紀の前に書かれたであろう文書が存在する不思議とあまり語られないことが多く、偽文書とか囁かれる始末記紀には論理的な部分と非論理的な部分があるそうな。元々は系統立てて思想的に確立した物語だったのを改ざん!?恣意的に歪めた部分が、非論理的な部分となって表れている、らしい江戸時代の滝沢馬琴の指摘のごとく、陰陽五行説を土台として記されているのに、いきなり三貴子(アマテラス、スサノヲ、ツクヨミ)は論理的に矛盾する、ようだ。因ってスサノヲは作為であるとでは一体、スサノ
記紀とは、古事記と日本書紀のこと。これらは本当の歴史の真実を伝えていないことはすでに多くの方にはわかっていることです。因みに、記紀はわざと時系列や系図が書き換えられれいたり同一人物が異なる名をいくつも持たされていたり神話という隠れ蓑(比喩)を使って真実をカモフラージュしている。編纂者側の都合も当然あったので致し方ないところではあります。真実に近づくには?逆の立場・見解・意見を必ず調査する必要があります。出雲口伝や竹内文書
今回は、生野先生がこれまでの検証・考察のまとめとして作られた「推定年表(実年代)」を掲載します。※表裏2ページ(P233とP234)に掲載されている年表を中央で張り合わせて一つの画像にしました。年表中の「298年・吉備国を素通りして、~」の意味がよくわからず、勉強会資料や「記紀」の記事をあれこれ読み直ししていますが、今ひとつ・・・『日本紀』では乙卯(295)年春に吉備国に入り高嶋宮を作らせたと書いてあり、『古事記』にも「吉備の高嶋宮に八年坐しき」とあるので、吉備を素通りって事にはならな
今回は生野先生が作られた「神武天皇の実在と実年代」についての「推定年表」を紹介するつもりでしたが、著書では割愛されていた日本武尊の陵と聖徳太子の関係に関する考察を先に紹介した方が「推定年表」を理解してもらえるかなぁと思い、平成27年(2015)3月勉強会資料の概要を書いてみようと思います。<聖徳と神武は辛酉革命説で結ばれ、相互に史実を示唆している>「記紀」は、日本の古代における二人の英雄「神武」と「聖徳」を「辛酉革命」で結び付けて史実を改竄編纂したわけだが、その二か所及びその周辺で直
【158】「まわし」のルーツ?「ミャンマーの拳法」を解説した本と、「バンドーとバンシャイの秘技(secret-techniques-of-bando-and-banshay)」を解説した本。表紙も中身も見慣れない文字が並んでいる。東南アジアの武術は中国やインドの影響を色濃く反映している可能性がある。そして、見れば見るほど・・・日本の相撲の原型は、これら東南アジアの拳法に極めて近かったのではないか?と云う気がしてきた。「相撲」と云う字は、「互いに撲り合う」ことを表わしているし、
前回は、『日本紀』が春秋の筆法を駆使した「天子の四点セット(日本⇔倭、尊⇔命、崩⇔薨、陵⇔墓)」で、日本武尊(景行の御子:手研耳命の分身)が実は天皇(天子)に即位していたという生野先生の考察を紹介しました。今回はその考察をもとに日本武尊のモデルとなった「手研耳命(神武の長子)」も即位していたという説明です。「記紀」はどちらも、手研耳命が即位したとは書いていないが、「即位したのではないか」と疑えるような書き方をしている。(まるでサスペンスドラマのような展開です)A『古事記』神武紀
今回紹介するのは「記紀」の中で悲劇のヒーローみたいに描かれている「日本武尊」に関する生野先生の考察です。生野先生は、日本武尊を神武の長子「手研耳命(たぎしみみのみこと)の分身」、つまり「手研耳命=日本武尊(分身)」だと考えてあります。「記紀」に記定された景行の御子の日本武尊そのものは架空だが、日本武尊には「モデルの手研耳命」がいて、その手研耳命は、神武の長子ということ。また、手研耳命(『記』では「当芸志美美命」)は神武崩御後に即位はしたが、翌年の319年(己卯)、神武の葬儀が畢(お
前回に続き「箸墓伝説」の考察です。「箸墓伝説」は『日本紀(崇神紀)』にしか書かれていない大物主命の神婚説話だが、似た話が『古事記(神武紀)』の「神武の皇后選び」の中に出てくる。どちらも大物主命が登場する話でありながら『古事記』では初代天皇の神武の時代、一方の『日本紀』では十代天皇の崇神の時代で、その間には大きな時間的隔たりがある。この矛盾は「神武と崇神が同世代」であり、ひいては崇神がダミーの天皇であることを示唆するものだと、生野先生は考えてあります。今回はさらにこの「箸墓伝説」
『古事記』『日本書紀』以前にも日本には文字が有った事は、僕の記事でも再三述べて参りましたので、繰り返しませんが、其の事は『日本書紀』等に《ある書に曰く》等と有る事からも推測可能な訳です。其の点を学者さんが何故考慮して観なかったのかは知りませんが、皆其処に関しては公式には曖昧な侭に現在に至っている様なのです…ともあれ、時の御用学者達の立場では偽書、贋作と呆気無く断じられた書物は日本中に夥しいものが有ります。書物と言うより、石に、竹に、皮に刻まれたり彫り込まれた古代文字、神代文字と言う日本語が多く