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平成9年に解体された平和台球場。元西鉄ライオンズ、故・中西太氏が放った特大の場外ホームランを打ったとされる場所に記念樹が植えられた。そこまで飛ばしたホームランを放ったのは現巨人監督の原辰徳氏だけだというのはほぼ知られていない。そして東海大相模のイメージが強いが彼は福岡県大牟田市の出身者である。#野球
ひとつ前の当ブログで書いたように、超高校級の「怪童」中西太さんが早大進学、卒業後に西鉄ライオンズ入りという予定だったのが、高卒で即ライオンズ入団となりました。毎日オリオンズが契約寸前までいったのが西鉄を焦らせたのですが、毎日は中西さんのお兄さんをターゲットに、いろいろ攻勢をかけたのです。入団する本人の意志は関係なく、周囲を懐柔して契約に持ち込む、というのは、ドラフト以前の「自由競争」時代にはよくあったことでした。そこにつけこんで暗躍する人も多く、スカウトにとっても一番厄介だったのは選手の周囲
ひとつ前の当ブログで、高松一高時代の中西太さんがバッティング練習をすると、内野手は「避難」のため外野を守ったというエピソードを取り上げました。そんな規格外の「怪童」もプロ野球に入るときは「通用するだろうか……」と不安で怖かったといいます。元来、気の弱い人だったようで、そういうところが「監督」をとして成功しなかったり、2つ前の当ブログに書いたように「断りきれなかった」のかもしれません。中西太さんが西鉄ライオンズに入る経緯ですが、元々同じ香川県出身の三原脩さん(高松中→早大→巨人)に憧れていたそ
ひとつ前の当ブログで書いたように、「怪童」と言われた中西太さんが5月11日に心不全で亡くなりました。90歳です。心よりご冥福をお祈りいたします。この訃報は大きく伝えられましたし、そのバッティングの「伝説」は人口に膾炙されていますよね。すさまじいスイングでファウルチップしたボールの皮が焦げた匂いがしたとか、ベンチ前で素振りをしている中西選手のスイング音が反対側のベンチまで聞こえてきたとか、ほとんど「漫画の世界」です。『巨人の星』のオズマ選手の「見えないスイング」なみです。対戦した投手の証言も色
当ブログ6月10日に、名ピッチングコーチで知られる植村義信さんが5月30日に88歳で亡くなったことを書きました。植村義信さんは高3のとき、1952年の夏の甲子園で芦屋高校のエースとして優勝に導き、大毎オリオンズに入団しました。その前年、1951年に高2のときも出場していますが、このときは準々決勝で高松一高に負けています。その高松一高の四番バッター、中西太さんもこの5月11日に90歳でお亡くなりになりました。心よりご冥福をお祈りいたします。相次いで亡くなった中西太さんと植村義信さんですが、ある
殆ど無抵抗のライオンズの試合を観ていると、1970年前後の弱体化した西鉄ライオンズの姿と重なる。けど、あの頃よりは今の方がまだ戦力があると思えるのに、殆ど勝てる気がしない。松井監督の力量が分からないけど、1番若林って、なんなんだろう。。あの打率と最近のbattingを見ても、1番にする理由が見当たらない。嘗ての若林は良かったよ。おいらも好きだった。足も抜群に速かったし。でも、怪我をしてからはもう別人。あの頃の若林とは全然違う。ファームによく打ってる選手居るけど、松井監督は
ニュースは既に入っていたんですけどね。NHK朝ドラの主人公の誕生日が娘の誕生日と一緒だったりでビックリでした。そしてG7広島サミットなどでテーマが意外に豊富だったのでついついご不幸は後回しになってしまいました。今日アップは元プロ野球選手そして監督。プロ野球も今はパリーグも盛り上がっていますが半世紀前は球場には閑古鳥が鳴くと言われた頃のスター選手です。人気がなかったのでなんか地味な感じですけど、なかなかの御仁だと爺さんは思ってます。似顔絵はいい男になってしまってます。似てないわ。彼はもっとゴツく
5月23日は天才打者大下弘の命日です。戦後、神に選ばれた野球選手『大下弘』を考える昭和20年8月15日、日本は戦争に負けた。私の父は戦中派だ。愛媛の片田舎で育った。毎日、大本営放送があったが、その日は正午に「今日は玉音放送があるから・・」という事で近くの役場に行った。大人たちは土下座をしながら泣いていたのを子供たちは見ていた。しかし、数日後、村の人たちは『戦争が終わった』ことを大いに喜んでいたのを強烈に覚えていて不思議に思ったらしい。子供達はすぐに三角ベース
西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)の黄金期を支えた中西太さん(なかにし・ふとし)が5月11日に心不全のため都内の自宅で死去しました。90歳でした。中西太さんは1933年4月11日生まれ、香川県出身。1951年の甲子園大会で2本のランニングホームランを放ったことで注目され、高松第一高校から1952年に西鉄ライオンズに入団しました。現役時代は史上最長とも言われる平和台球場バックスクリーン越えの大アーチを放つなど、プロ2年目で2冠王に輝き“怪童”の異名を取りました。高卒ルーキーで新人王を受賞
私がもの心つく頃。だからたぶん昭和38〜39年あたりかなぁ中西太さんは西鉄ライオンズの選手兼監督やったね(^_^)vいわば元祖二刀流だな♫いろいろ逸話もあるようだが、西鉄ライオンズが、1957年(昭和32年)に日本シリーズ優勝したときのメンバーが中西太さんをもって全員がお亡くなりになられたらしい。フィールド・オブ・ドリームス。
プロ野球西鉄(現西武)の強打者として、西鉄の黄金期を支えた中西太さんが、今月11日にお亡くなりになりました。享年90歳。お父さんが小学生の野球少年だった頃、生まれが京都なので阪神タイガースの熱狂的なファンでしたが、パ・リーグの西鉄は中西・豊田・稲尾など野武士集団が核となって、プロ野球を引っ張っていました!中西さんのイメージはその名のとおり、がっちりした足腰で、お腹が出ていて、そのパワーは人並外れていました!本塁打王:5回首位打者:3回打点王:3回の強打者ら
5月11日、西鉄ライオンズの黄金期を支えて来た巨星が旅立っていった。。。中西太(なかにし・ふとし)氏、享年90歳。当時は福岡の球団がホークスをライバルにしていたが、今はホークスが福岡の球団となり、ライオンズをライバルにしている。。。そんな因縁深きカード3連戦の舞台は、PayPayドーム。。。それにしても、派手な打ち合いでしたこと!!!2回ウラまでに下位打線が頑張ってくれたことが、最終的にはモノを言った。もちろん、モイネロ投手の魂の
ただいま5月19日朝6時すぎです。昨日は昭和32年から3年連続で日本一になり野武士軍団とたたえられた西鉄ライオンズの主力打者である中西太さんの訃報が届きました。昭和34年生まれの煙のぼせが当時は生まれていませんし昭和36年の監督時代の優勝も記憶はありません。強い西鉄ライオンズを知らない煙のぼせは幼いころから父親や叔父から「昔のライオンズは強かったつぉ。中西が、稲尾が、豊田が、仰木が、関口が、高倉が、和田が、河野が、~」さんざんに教えられいつの間にか『西鉄ラインズ』のファンになってました。
涙が一杯一杯(泣)(泣)(泣)涙が止まらなかったです…西鉄ライオンズはいつまでも最高です…さあ~次なる世代を睡魔に勝つまでいや俺の後輩を含めて見に行って来ます⚾⚾⚾中西さん天国から博多へ見てやって下さい…瀬古さんのマラソン…やっぱり🏃🏃🏃
“怪童”中西太さん死去90歳プロ野球の西鉄で活躍|NHK【NHK】“怪童”と呼ばれた強打者で、プロ野球の西鉄で活躍し、5球団で監督や監督代行を務めた中西太さんが、今月11日亡くなりました…www3.nhk.or.jp日本ハムファイターズ初代監督・中西太さんが5月11日に亡くなりました。現役時代は強打の内野手として数々のタイトルを獲得。引退後は西鉄ライオンズ、日本ハムファイターズ、阪神タイガースで監督を務めるなど、長きに渡り野球界の発展に努められました。心からご冥福をお祈
おはようございます今朝は曇り空…昼前からは雨になりそうです…昨日の昼前にあったニュース何ですが…市川猿之助さん緊急搬送と同時位で訃報がありました…西鉄ライオンズの主砲と知られ、多球団でコーチ・監督を勤めた中西太氏が5月11日に亡くなっていたことが分かりました。90歳でした。香川・高松一高から1952年に西鉄ライオンズに入団。当時の監督は高松一高の先輩でもある三原脩氏です。因みに中西さんの奥さんは三原脩氏の娘さんでした。高卒1年目で打率.28112本塁打65打点
西鉄ライオンズでスラッガーとして、コーチとしても多くの選手を輩出した中西太氏が11日に亡くなっていた事がわかったとの事。90歳というから天寿を全うされたということになるのでしょうか。監督としては「ノミの心臓」だったとの事で振るわなかったところがありましたが、打撃コーチとして若松勉等多くの選手を出して定評がありました。バファローズのヘッドコーチとして貢献した事が印象的でしたが、1年限りとは言え巨人コーチを務め、打撃成績を向上させた事も強烈な印象でした。いつも小さい肩掛けポーチを掛けていま
2023年5月19日今日の弁当麦ごはん・カレイの煮付け・鶏の竜田揚げ・スパム・ブロッコリー。元西鉄ライオンズの怪童中西太氏が亡くなられました〜自分が産まれる5年前ぐらいが全盛期で西鉄ライオンズの優勝にも貢献された選手で西鉄はもとより多数のチームの監督やコーチとして引退後は活躍されていました~!!
マブイカコ社避けて通れぬ訃報記事(号泣)西鉄流線型打線・ついに終焉。ああ、巨星落つ。三冠王実質4回の中西太さんが亡くなられました(号泣)。怪童の三冠王を阻んだ選手岡本伊佐美(南海)山内一弘(毎日)豊田泰光(西鉄)葛城隆雄(毎日)*豊田泰光さん以外、後阪神在籍あり(コーチ含)。中西太さんは後阪神監督!“怪童”中西太さん死去、90歳心不全本塁打王5回、3球団で監督、イチローら育てた名伯楽(日刊スポーツ)-Yahoo!ニュース西鉄ライオンズの黄金期
ブログスタンプ全獲得おめでとう!4月は、スペシャルランクだったのね今日は、朝から暑かったです。金沢は、今季初の真夏日になりました。また、阪神でも指揮(監督)を取っていた、中西太氏が亡くなられていました。ベンチがアホやから…が記憶にあります。江本が…ロッカールームで…。中西太氏のご冥福をお祈りいたします阪神・岡田監督が死去の中西太氏を悼む「いや、もう、職人というかな。夜ネット張って、庭で」(スポニチアネックス)-Yahoo!ニュース西鉄(現西武)の強打者として黄金期を支え、選
中西さん今のプロ野球の碇を沢山作ってくれてそしてあの川崎球場での10・19…一番燃えて戦っていた姿はいつまでも忘れません。仰木さんと久しぶりに最強チームを作ってやって下さい。豊田さんや稲尾さんも入れて…吉井監督に沢山魂や元気を与えてやって下さいね。本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りします。明日にも平和台へ行きたいです。更に次の世代も楽しみな選手が次から次へと出て来て更に楽しみです。天国から見てやって下さいね。もっと盤石に抑えてやれるように頼
西鉄ライオンズ、最後の大物野武士が逝きました。僕はリアルタイムで西鉄ライオンズを見ていませんが、西鉄ライオンズが大好きです。かつての平和台球場の近くにあるスポーツショップまで行って、豊田泰光氏のレプリカユニフォームを作ったくらいですから。西鉄のことはたびたびこのブログでも取り上げてきたのでご存知の方も多いでしょう。伝説が更に伝説になり、もはやこの球団にはどんな話が起ころうとも全てが伝説になる、そんな魅力的なチームです。今後のプロ野球の歴史の中で、これほどまでに魅力的で不思議な引力を
今日は北海道でも夏日となったり、芸能人のショッキングなニュース、さらにはG7が広島で行われたりとかなり盛りだくさんでしたが、とりわけ僕は中西太さんの逝去のニュースに衝撃を受けました。現役時代はもちろんリアルタイムで見ていませんが、NPBの長い歴史を紐解くと必ず出てくる名選手として名を連ねます。野武士軍団と呼ばれた西鉄ライオンズの主軸打者。打った打球は焦げ臭かったとの伝説も残っています。『怪童』の異名は高校時代につけられ、本塁打王5回、打点王3回。選手晩年は怪我に苦しみ、怪我がなければまだまだ
まいどおおきにお疲れさんです端末が新しくなって便利になるはずがむしろ不便に単純に持ちにくい作業するのに時間がかかるいつもよりも1時間遅い前の方がよかった3歩進んで5歩下がるって感じ進んでへんがな昔のライオンズ西鉄ライオンズ全盛期の怪童稲尾和久と中西太稲尾さんは先発で3連投して4戦目もリリーフで投げた怪童もう一人の怪童中西太さんが90歳でお亡くなりに御存命やった
追悼中西太さん元西鉄ライオンズ元近鉄バファローズ元オリックスブルーウェーブヘッドコーチ
中西太怪童と言われた強打者(香川県出身、1933年4月11日~2023年5月11日)“怪童”中西太さん死去、90歳心不全本塁打王5回、3球団で監督、イチローら育てた名伯楽(日刊スポーツ)-Yahoo!ニュース西鉄ライオンズの黄金期を支えた中西太氏(日刊スポーツ評論家)が、11日午前3時38分、東京都内の自宅で心不全のため死去していたことが18日、分かった。90歳。現役時代は“怪童”と称されたスラッガーnews.yahoo.co.jp中西太さんが5月11日に亡くなら
LINEのニュースに中西太さん死去って……一瞬、誰だった?って思ったGoogle検索で顔写真を見て、あ~って判った西鉄ライオンズのピッチャーだった方よね福岡県生まれ、中学2年まで過ごして父が西鉄ライオンズを応援していたような気がする中西さん、稲尾さんって名前はうっすら憶えてる西鉄ライオンズは西武ライオンズに受け継がれたけど……福岡県では南海Hawks→ダイエー→ソフトバンクHawks福岡県人も西武ファンとHawksファンがいる中西太さん90歳だったそうですご冥福をお祈りい
怪童と呼ばれた希代のスラッガー・中西太さんが亡くなられたそうです。私は中西太さんの活躍する姿は見たことがなく、怪童という特別な呼称や、伝説の大ホームランの話を聞いたばかりでしたが、数年前、全く違う文脈で中西太さんのことを認識することになりました。私の名前、大(おおき)は、大五郎と付けようと思ったが直前に会社の同僚がその名前を使ってしまったので五郎を抜いて大とし、読み方はあとで考えた。などとうそぶかれていて、真相が不明だったのですが、どうやら中西太さんが私の生まれる前年に西鉄ライオンズの
西鉄ライオンズ黄金期のスラッガー中西太さんが亡くなっていた。今は亡き母が僕が幼稚園児だった頃から、ラジオにかじりつき声援を上げ、西鉄ライオンズを応援していた光景を憶えています。錆鉄!さび鉄!といわれ弱かった九州唯一の球団西鉄ライオンズが最も強かった時に大活躍したのが”神様!仏様!”と言われたピッチャーの稲尾、そして野手では”怪童”と言われた中西、豊田、大下、高倉、仰木といったスラッガーの野武士たち。1958年の巨人との日本シリーズは3連敗からの逆転優勝。野球史上の名勝負ですね。西鉄は島原で
中西太さんが亡くなった。西鉄ライオンズの黄金期を支えたホームランバッター。65歳の私にはほとんど現役時代は知らない。初めて知った時は西鉄の若き青年監督でした。あの時代は30歳前半で監督になることが多く、選手兼監督として中西さんも活躍なさった。写真は1972年(昭和47年)。ヤクルトのヘッドコーチ時代の「週刊ベースボール」表紙です。義理の父である三原監督と二人三脚で「ヤクルト」を強くしていた頃でした。年代によって異なるが70歳以上の方には本塁打王として。