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明日香村に来たら見ずには帰れない石舞台古墳日本最大級の横穴式石室墓丘の盛土が全く残っていないので横穴式石室が見えています。古墳内部です。蘇我馬子の墓ではないかとされています。
☆植木家墳墓(伝蘇我馬子塚)河内国石川郡大阪府南河内郡太子町太子(「太子1536」と「1520」の間)(P無し、近隣停め置き不可、「太子和みの広場」から徒歩10分ほど)蘇我馬子の墓と地元で伝承されている地。蘇我氏の根拠地であった河内国石川郡、その郡内の「磯長郷(しなが、古代は科長郷とも)」。「二上山」の河内側西麓、最古の官道「竹内街道」沿いに位置します。付近には蘇我氏と血縁関係のある敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と王陵が密集する地。概要は
今回はこういうお題でいきます。けっこう日本史の専門的な内容なので、なるべくわかりやすく書いていくつもりですが、あまり興味のない方はスルー推奨かもしれません。表題の小野妹子は、第2回の遣隋使として中国に赴いた人物ですが、生没年もよくわからない謎の人なんですね。もちろん男性です。さて、西暦600年(推古8年)、『隋書』倭国伝に、隋の初代皇帝、高祖文帝のもとに、倭国からの使者が訪れたとあります。この使者が妹子かどうかははっきりしていません。このとき、倭国はまだ国際外交にうとかったようで
蘇我馬子が発願し推古天皇に創建された本尊の釈迦如来坐像は日本最古の仏像聖徳太子養像阿弥陀如来坐像弘法大師坐像
第三十三代推古天皇は、飛鳥時代の天皇です。また、日本初のみならず東アジア初の女帝です。ただし神功皇后を入れれば、神功皇后こそが初の女帝なんですけれども・・・。現在の歴史教育できちんと天皇として最初に教えられる天皇として、日本人なら誰もが知っている天皇でもありますが、既にこの時三十三代目となっています。何事も始めがあるわけですから、突然天皇が登場する歴史教育はやはりおかしいと言わざるを得ません。御名は額田部(ぬかたべ)、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)。欽明天皇十五年(554年)
斉藤実氏の冒険に関する記事をコピーしてて、そのついでにコピーされてしまったのがこちら。「小古墳つぶし建設?」蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳の近くに、さらに古い小古墳が発見された。という記事。石舞台に大型の古墳を建造するにあたり、もともとそこにあった古墳が邪魔だったためそれを潰し、新しく大きな古墳を造ったことがわかったのだそうです。昭和50年11月5日の記事。石舞台古墳は蘇我馬子の墓と言われ、ということは飛鳥時代以前に存在した先人の墓を蘇我馬子もしくは蝦夷辺りがそ
飛鳥寺の西側には鎌倉時代に建てられたと言われる五輪塔あります中大兄皇子に討ち取られた蘇我入鹿の首がここまで飛んで来たんだって❗️飛鳥寺は蘇我馬子が596年推古天皇の時代に建立した日本初の寺院でした釈迦如来像は日本最古の仏像です酒船石を見てから右側にある道を歩いて行くと飛鳥寺が左手に現れます
桜満開になりましたね↓記事とは縁もゆかりもない姫路城先日、ブログで仲良くしていただいているすてれんきょさんにお会いしました♪鶴林寺の鬼瓦の件→聖徳太子信仰→聖徳太子ってナニモノみたいなチャートのお話をするつもりが…ランチが美味しかったのと久しぶりにお会いしたので話が空を飛びまくり〜そうそう…聖徳太子の話をするのならやっぱり「飛鳥」やろ?ってラインしたら「明日香村の飛鳥か?」いやホンマうちの地元に明日香村あるんかいなって思ってしもたゎ(≧∇≦)「飛鳥」も久しぶりにランチし
こんばんは、mmm(まーママ)です。3月17日(日)奈良観光4ヶ所め。お天気が下り坂なので、駆け足で観光します。飛鳥寺奈良県高市郡明日香村飛鳥682588年、蘇我馬子が建てたと伝わる日本最古の本格的仏教寺院。大化の改新の主役、中大兄皇子と中臣鎌足が知り合ったのも飛鳥寺で行われた蹴鞠の会であったといわれています。通称「飛鳥大仏」の銅造釈迦如来坐像。(仏師鞍作鳥作)飛鳥大仏は609年には完成したとされ、鋳造年が絞れる仏像としては日本で最古級。
草薙剣を奉還し、約1年間の年月を掛けたお役目を成し得たことで、ホッとしていた...。もう、やるべきことはやった...終わった...と思っていた。しかし、私がこの世に生まれる前に設定してきたストーリーとそのお役目は、まだまだ続く...。たくさんの過去世が折り重なり、まるで、すべての「生」が同時に動いているかのような感覚に襲われる...。が・・・、文字通り、同時に動いている...。多くの過去世が、ここに・・・、この「今」に、同時に存在し、たくさんの未来世も同時に
こんばんは、mmm(まーママ)です。3月17日(日)早朝5時30分、大阪南港に到着。途中、チョウジョをピックアップして、向かうは奈良県。道の駅飛鳥で休憩。駅のある道の駅でした。ちょうど電車来た最初の観光は、こちら。石舞台古墳奈良県高市郡明日香村島庄254拝観料:300円横穴式石室をもつ、方形墳です。古墳上部の封土は失われ、巨大な天井石が露出した姿になっています。被葬者は
■仏教伝来時代欽明天皇509年生まれ571年崩御即位539年蘇我稲目506年生まれ570年没■仏教受容時代聖徳太子574年生まれ622年没推古天皇554年生まれ628年崩御即位593年蘇我馬子551年生まれ626年没1つの時代が終わるとき、時代を作った関係者も終わりを遂げる。■蘇我稲目は娘2人を欽明天皇の妃とした。稲目の孫は用明天皇、崇峻天皇、推古天皇など、曾孫は聖徳太子など、孫や曾孫にはたくさん恵まれた。ただやはり操縦できない孫もいた。崇峻天皇
平成30年(1018年)9月15日(土)から9月17日(月・祝)の敬老の日連休に、蘇我氏、物部氏、聖徳太子、初代神武天皇、第15代応神天皇の母の神功皇后の足跡を辿るため奈良を訪れたところ、非常に実り多き旅になったのですが、まだ回り切れなかったところもあったので、平成31年(2019年)4月28日(日)、29日(昭和の日)、30日(国民の休日)の3連休で、再び奈良を訪れました。◇元興寺平成31年(2019年)4月28日(日)、新幹線、JR奈良線を乗り継いで、11時過ぎにJR奈良駅に
蜂子皇子へつぐ忘れられない震災のあの日。2週間後、やっと実家に帰ることができ、姉が山形まで迎えにきてくれて山形空港から羽田まで帰った。全国から集まった自衛隊の中で飛行機を待った。唯一、山形だけがあの時、道を繋いでくれた。あれから13年。再び仙台に戻り、今もこうしてブログを書いていることは、奇跡です。------------------------------※震災の16年前から巨大津波の予測、研究をされていた方の本をご紹介。震災後に話題になった本で、この本でアウター
先日、『薫集類抄』を勅撰したとされている藤原範兼のことを調べていて色々疑問が湧いてきて中臣鎌足、さらに蘇我馬子まで調べていた時に家人が帰宅しました「何してたの?」って聞かれたので「蘇我馬子について調べていたの」と答えたら苦笑い😅していました確かに変な人ですよね。私。。でも歴史もただ覚えろって言われて勉強していた時は楽しくなかったですけど香りという自分の好きなものからのつながりであれば知りたいと思う気持ちも自然と湧いて勉強も楽しいですね
図書館の本を読んで。『唐木順三全集(13)』(唐木順三著筑摩書房)「古代史試論」を読む。大和朝廷というのは、北魏みたいなもので、騎馬民族王朝であろう。蘇我馬子のブレインには帰化人たちがいた。聖徳太子は蘇我馬子と相いれないものを感じ、斑鳩宮に転居した。
四天王寺は聖徳太子が建立されたとされる仏教の最古のものとされ、日本書紀にも記された西暦500年後半からの歴史のあるランドマークです四天王寺に鳥居があります。石鳥居と言われ、鎌倉時代に再建されたとされ、最古の石鳥居と言われています石鳥居をくぐると西大門(極楽門)があります。極楽浄土につながるとされています五重塔です。度重なる災難により再建され、現在のものは1959年に再建された八代目とのこと。こちらは伽藍回廊です。伽藍配置は6世紀から7世紀ごろの建築様式の一つとのことですこのときは202
今井町から歩いてやってきたのは。入鹿神社⛩️。再訪です。拝殿。入鹿とは、そう蘇我入鹿大化の改新の蘇我入鹿の木造坐像を神体とする。現在の橿原市周辺は蘇我氏ゆかりの地であり、「蘇我」、「曽我」といった地名も残る。小綱町の隣の曽我町には、蘇我馬子が創建した宗我坐宗我都比古神社があり、蘇我氏の始祖を祀っている。明治時代に、皇国史観に基づいて逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった「小綱神社」に改めるように政府から言われたが、地元住民はそれを
最近再び明治政府、明治維新について思うことがあり、書いてみようと思います。まず大前提がこれ。明治維新の背後が英国だった、という事実をNHKが認めている。『150年ぶりに醍醐寺で行われた太元帥法要と泉涌寺の孝明天皇陵』先日京都の醍醐寺で、太元帥大法が明治以来150年ぶりに執り行われました。こちらの記事の続きとなります。『橘逸勢に導かれて京都を巡るvol.1醍醐寺編』…ameblo.jp今週のNHK特集を見ていて「ついにこのことが表立って語られ始めたな」と思ったので、
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第23回近親婚ネットのなかでは、朝鮮は毎年美女3000人を2000年に渡って中国に貢いでいたので、女性不足になって強姦民族になり、近親婚を繰り返したので遺伝子が劣化して、世界最悪の劣等民族になったとされていますが、実際には朝鮮のような儒教の倫理で長年運営されていた国は近親婚を嫌います。なにもしなかったのに名前だけは有名な厩戸皇子の父親は用明天皇で、母親は穴穂部間人皇女ですが、このふたりは舒明天皇の子で異母兄妹なのです。用明天皇の母は
この日もまぁまぁ寒かったです。でもクロスカブで出掛けたんで、電熱ウェアは無くハンカバ+グリヒだけ。でもさすがイージスそんなに寒さは感じませんでしたよこんばんは。やぶです。あちこち古墳巡りをしてますが、肝心の奈良明日香の代表的古墳である、いしぶたいこふん石舞台古墳古墳師匠からも行ったコトあるやろと言われて…昔行ったコトあるような無いような記憶が曖昧でしたが、今日行ってわかりました初めて行きました
つづく夜の予約更新でこんばんわ。lalaです。旅行記つづきます。和歌山・奈良旅①かつらぎ温泉・丹生都比売神社編②高野山編③野迫川の宿編④みたらい渓谷と洞川温泉街編⑤洞川温泉街散策と面不動鍾乳洞編⑥面不動鍾乳洞と洞川温泉編⑦夜ご飯と橿原ホテルと朝日編前回はこちら↓『2021年和歌山・奈良旅⑦夜ごはんと橿原ホテルと朝日編』久々夜の予約更新でこんばんわ。lalaです。進まないwww。ま、ぼちぼち頑張ります。続きです。和歌山・奈良旅①かつらぎ温泉・丹生都比売神社
第三十二代崇峻天皇は古代飛鳥時代の天皇です。御父は欽明天皇、御母は蘇我小姉君。御名は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)。在位、用明天皇二年(587年)から崇峻天皇五年(592年)。泊瀬部皇子は欽明天皇の第十二皇子で、兄には異母兄の敏達天皇と用明天皇がいます。敏達天皇の後即位した用明天皇が数年で崩御されると、物部守屋が即位させようとした泊瀬部皇子の同母の兄、穴穂部皇子を蘇我馬子が殺してしまいました。そしてその後物部氏も攻め滅ぼしたのです。泊瀬部皇子はそれから即位しましたが、わずか
今日は沢村一樹版の浅見光彦シリーズ「箸墓幻想」を観ながら寝たいと思います。邪馬台国の女王、卑弥呼の墓ではないかとされる、箸墓古墳。浅見光彦とは年齢差を超えた友人であり、箸墓古墳の研究に生涯を尽くした小池教授が謎の死を遂げる。教授の死後に発掘された銅鏡の歴史的発見と、新たな殺人事件。そして、小池教授と過去の因縁で結ばれた2人の美女。小池教授が遺した言葉「生涯を費やしても贖うことのない罪」とは一体何なのか?草笛光子さん、松原智恵子さん、河合奈保子さん、北村総一朗さん、左とん平さんといった錚々たる
「冠位十二階」LG〇T法は家族を破壊するみなさん、おはようございます「広島〇ミットの成功とバイ〇ン大統領の出席を引き換えにLG〇T法を成立させた日本を〇り飛ばした」「共〇革命に家族は邪魔法律でLG〇Tを擁護言論を封鎖した」「家族さえしっかりしていれば親が子供に、こればダメと言える間違った方向に進まないLG〇Tで言えなくした」さあ、今日「12月5日」の國史を学びましょう「冠位十二階制定」推古天皇11年(603年)摂政の聖徳太
この日は、飛鳥宮跡の発掘現場現地説明会があり、そのあと気の向くまま明日香めぐりを楽しみました。万葉文化館前でバスに乗ろうと思ったのですが、1時間に一本のバス。待ち時間が結構あったので、次のバス停、次のバス停と先を進む内に、石舞台古墳まで来てしまいました。この時点でバスが来るまであと10分少々。サクッと秋の景色を楽しみました。※※※石舞台古墳。かの蘇我馬子のお墓ともくされているところです。彼方に二上山が見えますね。※※※
「山背大兄王」聖徳太子家みなさん、おはようございます!11月、霜月です10月の行動をさらに実践してくださいさあ、今日「11月1日」の國史を学びましょう!「山背大兄王、没」皇極天皇2年(643年)山背大兄王(やましろおおえのおう)は聖徳太子の息子(長男)です推古天皇(33代)の後継候補となりますが大臣の蘇我蝦夷(馬子の子)の意向で田村皇子が舒明天皇(34代)となります舒明天皇の後継候補でもありましたが蘇我蝦夷が中心となって検討し皇后が皇