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伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第23回近親婚ネットのなかでは、朝鮮は毎年美女3000人を2000年に渡って中国に貢いでいたので、女性不足になって強姦民族になり、近親婚を繰り返したので遺伝子が劣化して、世界最悪の劣等民族になったとされていますが、実際には朝鮮のような儒教の倫理で長年運営されていた国は近親婚を嫌います。なにもしなかったのに名前だけは有名な厩戸皇子の父親は用明天皇で、母親は穴穂部間人皇女ですが、このふたりは舒明天皇の子で異母兄妹なのです。用明天皇の母は
用明(ようめい)天皇の治世は2年しかありません。加えて、2年目の4月には病で崩御されますから、事績が少ないのは仕方ないのですが、用明天皇紀は天皇自身が主体ではない記事がほとんどなのです。元年の大部分を占める記事は、崇峻天皇の項でも触れましたが、穴穂部皇子(あなほべのみこ)と物部守屋による三輪君逆(みわのきみさかう)の謀殺の経緯です。また、2年は、仏教をめぐる崇仏派:蘇我馬子大臣と廃仏派:物部守屋大連の対立が、記事の大半を占めています。そんな用明天皇紀ですが、将来を左右する非常に重要な事柄
明日香村に来たら見ずには帰れない石舞台古墳日本最大級の横穴式石室墓丘の盛土が全く残っていないので横穴式石室が見えています。古墳内部です。蘇我馬子の墓ではないかとされています。
☆植木家墳墓(伝蘇我馬子塚)河内国石川郡大阪府南河内郡太子町太子(「太子1536」と「1520」の間)(P無し、近隣停め置き不可、「太子和みの広場」から徒歩10分ほど)蘇我馬子の墓と地元で伝承されている地。蘇我氏の根拠地であった河内国石川郡、その郡内の「磯長郷(しなが、古代は科長郷とも)」。「二上山」の河内側西麓、最古の官道「竹内街道」沿いに位置します。付近には蘇我氏と血縁関係のある敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と王陵が密集する地。概要は
令和4年2月1日火曜日、快晴。電気保安協会の検査が来ると手紙が入っていた。屋外に設置されているスマートメーターを確認する、在宅なら配電盤を確認すると書かれていた。自分でソーラーパネルを設置し、色々すべて自分で電気工事しているので、違法だとか申請がとかあれこれ言われそうだと思って居留守を決め込んだ。来訪時間に呼鈴が鳴ったが無視していると_「失礼しまぁーすぅ💛」え!えっ?なんか作ってない若い女性の声が。慌てて飛び出ると、電気保安協会の制服を着て脚立を担いだ、顔も姿も抜群の女子が
令和4年6月11日土曜日、晴れ。夕べは夜中から急に気温が上がり目が覚めた。「うぉぉ今年初の熱帯夜か!?」とはいえエアコンつけるも嫌だし何も掛けずにそのまま寝ました。やっぱ今年は暑いんだろーなぁ…さて。キリストが怪しい存在だったのは遥か昔から。そして釈迦にしても聖徳太子にしても、みーんな出生に秘密がある。蘇りし我は馬やとの子、ウヤマト王子、大和王朝。五十鈴とはイエスのことだし稲荷は初期キリスト教、アマテラスとはアブラハムだし、どう転んでも大和魂ってのはキリスト教徒の支配する
みなさんこんばんは(´Д`)。歴史大好きなぶたさん、ぶーです。さてさて、本日は日本史系図トリビア。飛鳥時代の推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の関係について、系図から見ていきたいと思います。あくまでも血縁関係のみです(´Д`)。政治的な立場などは記載せず、血縁関係のみを淡々と系図で紹介していきます。血縁関係が近いから同派閥だとか、政治的志向も一緒だとか考えているわけではありませんので、ご了承ください。なお、系図は『日本書紀』や『古事記』などをもとに作成しています。聖徳太子は、この呼
この日、S夫妻と近鉄奈良駅で10時過ぎに合流し、向かったのは……あの『蘇我氏』の末裔が宮司を務められているという……【宗我坐宗我都比古神社】(そがにますそがつひこじんじゃ)奈良県橿原市曽我町1196住所にまで『そが』の文字がココロは二回目の参拝だ通称を「入鹿宮(いるかのみや)」ともいわれ、古代豪族の『蘇我氏』に関係する神社として知られる。延長5年(927年)成立の『延喜式』では、【宗我坐宗我都比古神社】すなわち「宗我(=地名)に鎮座する宗我都比古を祀る社」と記載されていた。創