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清浄華院⑳浄土宗大本山令和6年5月15日参拝御朱印『此の世をば我が世とぞ思ふ望月の虧けたることも無しと思へば』(令和6年5月藤原道長和歌御朱印)清浄華院境内法成寺(藤原道長建立)推定地出土「礎石」御朱印ランキング※掲出の御朱印はこの日この時頂いた「一期一会の御縁」で、今現在も頂けるとは限りません。観光寺社以外は、基本的にアポイントを取ったうえで、先方の御迷惑にならないよう自己責任でお参り下さい。
税とは、消費税、神倭朝16、若小玉、アルプスの少女ハイジ、おじとら|かなまさなぜ赤字でも消費税を取られる?日本一の税金オタクに教えてもらいました。[三橋TV第1104回]三森羊一・三橋貴明・菅沢こゆき税とは、国民の私有財産を侵害する行為売り上げから一部取ること売り上げ課税国や都道府県・市区町村が使うお金多くの公共サービス「生活・健康のため」「道路整備のため」「教育のため」に使用消費税は賃上げ妨害税だと、参政党…note.comなぜ赤字でも消費税を取られる?日本一の税金
歴史系図トリビアこれは楽しい!おもしろい!そう感じるような歴史上の人物の系図を紹介していきます歴史上の人物の系図を追っていく歴史系図トリビアです。はい(´Д`)。今回は大河ドラマ「光る君へ」の前史的なお話です。「光る君へ」に登場した花山天皇・三条天皇の父帝である冷泉天皇の后妃について見ていきたいと思います。冷泉天皇は第六十三代天皇で、諱は憲平親王と言います。村上天皇の第二皇子で、母は藤原師輔の娘・安子であり、同母弟に円融天皇がいます。在位中には源高明が失脚した安和の変が起き
陽成天皇陵からは直線距離で300m程と指呼の距離でした。そろそろかなと思う間なしにこの景色でした。基礎が傾斜を持った切り込み接ぎになっているが、天皇陵では珍しいのではないかと思います。念のため、間違いはないかと天皇の名を確かめました。時の権力者である藤原道長が娘を入内させ、待望の男子が誕生して無事即位させたッ天皇です。道長の孫で、一条天皇の息子である第68代後一条天皇の陵墓です。後一條院天皇菩提樹院陵と刻印されています。隣の刻まれた章子内親王は、後一条天皇の第1子で
昨夜、ふと、チャンネルを変えた時にわたしの眼に留まりました『平城京』を上空から観た景色そのままなんとなく観続けていたら今度は『金峯山寺』がそしてさらには『仁徳天皇陵』まですべて、今までに御心事を勤めさせていただいた土地だったもので興味深く、見入っておりました。歴史探偵【NHK】佐藤二朗が探偵社を結成、歴史に挑む新感覚番組。現場調査、科学実験、シミュレーションを駆使。古代、戦国、幕末、あの大事件の真相に迫ります。www.web.nhk『『聖帝オホサザキ』』2010-04
承香殿の女御角田文衞あらすじ一条天皇の時代の「承香殿の女御」こと、藤原元子(藤原顕光の娘)の生涯に迫った1冊。藤原道長が栄華を極めたのと同時期に、一条天皇の女御だった女性がどのような人生を送ったのか、様々な史料をもとに書かれています。グッときたポイント歴史を扱った本ですが、まるで小説のようなドラマティックな話であるところ。こんな人におすすめ平安時代が好きな人、もしくは興味がある人。また、昨年の大河ドラマ「光る君へ」を楽しんだ方は、より楽しめるかも久しぶりの読書記録です今回
昨年の大河ドラマは紫式部の話でしたので、藤原道長も主要登場人物だったのは記憶に新しいところです。私は観ていませんでしたが、歴史上に知られたエピソードの回は、必ずネットで話題になっていて、その一つに望月の歌がありました。その望月の歌の晩は、旧暦でいうと今夜のことになります。昨夜、東京はきれいな月が輝いていましたが、今夜も北陸以外は全国的に晴天の予報ですので、今年最後の満月を多くの方が愛でることができるはずです。空をご覧ください。天高く、十五夜月が冴えた光を放っています。(今、望遠鏡
こんにちは。星煌学院有松校の花谷です。今日、12月4日は藤原道長の命日。『この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば』とこの世の全てを手に入れたと高らかに歌った道長の死因は意外なものでした。それが糖尿病です!そんなことわかるの?と思うかもしれませんが当時の人の日記に道長の様々な症状が記されており、そこから糖尿病だったのでは?と推測されているのです。『道長
下毛野金時しもつけののきんとき⏬️✨️下毛野金時インターネットより✨️⏬️🌟時代、平安時代中期🌟生誕、長保2年(1000年)🌟死没寛仁元年(1017年)🌟別名近衛府官人「第一の者」🌟官位無位、随身・相撲使🌟主君一条天皇、三条天皇後一条天皇藤原道長🌟氏族、下毛野朝臣🌟父母父、下毛野公友母、尾張兼時娘特記事項童話『金太郎』のモデルとなったとされる⏬️✨️金太郎インターネットより✨️⏬️🌟下毛野氏は、10世紀以降に代々下級武官を務めた氏族であった
下毛野金時しもつけのきんとき⏬️✨️インターネットより✨️⏬️🌟下毛野公時(しもつけのきんとき)は藤原道長に仕えた随身(ずいじん)であり金太郎伝説のモデルになった人物だと考えられています公時は弓馬や相撲に優れ道長から『両府者中第一の者』と称賛されましたが若くして亡くなっていますこの優秀な人物が、約100年後の『今昔物語集』に源頼光の家来『金時』として登場したことが金太郎伝説の起源とされています🌟藤原道長の随身11世紀の初めに、藤原道長に仕えていた実在
平安の栄華を物語る――法成寺跡を訪ねて京都の町を歩いていると、ふとした場所に古代の記憶が刻まれた石標が立っていることがあります。今日訪ねた「法成寺跡」も、そんな静かな史跡のひとつでした。しかしこの場所には、かつて豪華絢爛を誇った平安貴族の祈りと権勢が凝縮されていたのです。法成寺は、藤原道長(966~1027)が建立した寺院です。摂関政治の絶頂を極めた道長は、晩年には阿弥陀信仰に深く傾倒し、自らの極楽往生を願って法成寺の整備を進めました。中でも象徴的なのが、九体の阿弥陀如来を安置した九体阿弥陀
11月22日(土)別府公民館にて地域学講座を受講しました。講師は播磨学研究所研究員・埴岡真弓氏。演題は、「播磨の陰陽師・蘆屋道満」。芦屋道満は、紫式部と藤原道長と同じ時代に実在した人物で道長を呪った話は有名です。先日、芦屋道満を訪ねて三宅辺りを巡ったばかりだったので講師の話は興味深く漏らさぬよう聴いていました。最初に訪ねた薬塚は、もとは川向うの船場川の東岸にあったそうだ。現在、その辺りは公園になっている。芦屋道満にゆ
宇治の平等院は、10円玉に描かれている【鳳凰堂】がある。藤原道長の息子で、藤原頼道が、1053年に建立。元々は、父親道長の別荘地を頼道が寺にしたらしい。鳳凰堂を観れば分かるが、当時頼道は、かなりの権力者だった事がうかがえる。鳳凰堂は、阿弥陀堂でもうあり、阿弥陀如来が祀られている。極楽浄土の宮殿として建てられた。後ろの阿弥陀如来様何とも言えない美しさ。思わず手を合わせた。中央の大堂は、極楽の中心にある宮殿。左右の翼廊は、広がる浄土の世界。そして後方の尾廊は、全体を包み込む空間。
今朝の最低気温は0,1度、最高気温予想は12度、天気予報は晴れ後曇りです。昨日は18時から組の総会でした。来年度役員の改選、私は来年度班長です。7年前から、町内会費で神社の運営・運営費を賄うのは憲法違反と、動議を挙げているが、四の五の言って、逃げている。貴方の町内会はいかがですか?総会後は慰労会でしたが、遅い時間にダラダラ飲むのは沢山、さっさと帰って、晩酌でした。今日は2024年12月24日にTV録画保存した『源氏物語千年の謎』を視聴しました。予告編動画https://y
牛追物(うしおうもの)🌟牛追物は、鎌倉時代に流行した騎射(きしゃ)の一種で、馬に乗った武士が小牛を追いかけながら蟇目(ひきめ)などの矢で射る武芸です犬追物(いぬおいもの)の原型とも言われ『吾妻鏡』にも源頼朝が行った記録がある追物射(おいものい)の本来の姿で、武士の弓馬の訓練として行われました小牛の走る跡(さぐり)を追いかけ、立ち向かうところを平頸(ひらくび)や平股(また)を狙って射るという内容が伝わっていますが犬追物の流行により次第に廃れていきました
先日、アップした記事です。この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば藤原道長が詠んだ和歌と言われていますね。平清盛や豊臣秀吉も同感でしょうに。『坂の上の雲』の秋山好古は、伊予松山の出身。教員から軍人へ。男は常に身辺を単純明快にしておけ、と『坂の上の雲』では、言っていました。さて、このお二方、持病が同じ。秋山好古の方が重症で、足を切断するまでに至りました両者とも、無類の酒好き。秋山好古
○1次とか、2次とか、最初に言い出したのは誰なのかしら?歴史学で「一次史料」と言うと、ある時代を生きた当時の人による日記や、ある事件に直接的/間接的に関与した当事者の手になるメモ書きなど、とにかく同時代性が高い記録・証言類が当てはまります。その出来事から数十年後くらいに書かれた聞書き集や後世の考察なんかも含めることもありますが、それよりも時代や当事者性が離れると「二次史料」扱いになる。そんなに厳密に分類できるわけでもないだろうけど。例えば平安時代。奈良時代から平安時代の前半にかけて盛
この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば-Wikipediahttps://share.google/HT0O6XbKSGPHxwl9rこの望月の歌を思い出した。傲慢と云う説が一般的だと云う感じだけど、十六夜の月を指しているとすると、栄華の儚さを歌っていると云う説にも納得するとのこと。別説も有り。ちょっと違うかも。藤原道長が詠んだ句。望月の歌とも云う。ふと、口について出たので、調べたところ、そういうことらしい。🎑お月見。次いつあるのかと。🌾茨城県には一杯~🌾が
『【安倍晋三暗殺事件】遺体は犯人を語り、医者は真理を突く』どうりで。嬉しいはずだよなぁ。そりゃあマスクも外すわな。日本赤軍のご近所だった小和田恒。最近出所した日本赤軍のメンバー。銃の作り方もゲリラや活動家が作るような…ameblo.jp山上の公判が始まって再び安倍ちゃん暗殺の日の話がツイッターに大量に溢れているよな。公判を見に行った人が裁判の様子を語ってくれたが、筋違いだよな。そして統一憎しの山上のツイッター完全に創価思考のツイートだったとさwwww池田は自分の血筋を皇室に入れ
【『はじめに』より引用】生まれも育ちも京都で、今もこの街に暮らしているわたしの目には、観光地・京都と一地方都市たる京都の間にはさまざまな離があるように見えてならない。たとえば多くの観光客が「京都らしい」と感じる抹茶スイーツは、舞妓さんは、きらびやかな金閣寺は、京都市民の普段の生活からはいささか隔たりのある存在である。また「京都人はイケズ」「本心が見えない」というありがちな分類は、時に京都の住人へのレッテル貼りともなり、わたし自身、嫌な思いをしたことも数多い。だが京都を訪れる方は時に、「それが
古式競馬⏬️✨️藤原道長インターネットより✨️⏬️⭐️宮中行事としての競馬は未調教の馬を左右に配し直線コースの馬場で2頭走らせるその馬を『乗尻(のりじり)』と呼ばれる騎手が巧みに操って、競争相手を進行妨害したりしがらも先着を競う無事にゴールまで早く走行させた方が勝ちであり落馬は負けとなったこれは馬の速さだけでなく騎手(乗尻)の乗馬技術が問われる趣向を凝らしたものでもあったなお、2番目以後は負方が先行して出発する儲馬(もうけのうま)となり、勝方は一遅(
歴史ばっかりやってないで理科の伴走しなよ、との、みなさまの声が聞こえてきそうですがAkira先生が先だって推薦されていた、「5文字で百人一首」が面白かったので、母もNの歴史頻出和歌で考えてみました。天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にふりし月かも(唐で客死した遣唐使、阿倍仲麻呂:平安時代)望郷止まず再チェックしたら、「5文字で百人一首」にも掲載されておりました。曰はく、「故郷の月だ」だそう。歌の意味とタームに忠実ですね、さすが。この世をば我が世と思ふ望
古式競馬⭐️競馬(くらべうま・きおいうまきそいうま)または駒競(こまくらべ)とも呼ばれる、日本の古式競馬について記述する競馬とは馬を走らせてその馬の走行速度や騎手の乗馬技術・作法を競う競技であり神事としても存在する⏬️✨️藤原道長インターネットより✨️⏬️開催場所⭐️奈良時代は平城宮の南苑(なんえん)、平安時代では武徳殿(馬埒殿(うまきどの)/馬場殿とも言う)で行われた⭐️平安中期にもなると行宮・離宮・公卿の邸宅神社の境内などで臨時の競馬が行われることも
人と馬⏬️✨️藤原道長インターネットより✨️⏬️古式競馬⭐️競馬(古式競馬)のあゆみ⭐️競馬のはじまり⭐️武徳殿の競馬⭐️臨時競馬の広がり神泉苑・左近馬場と右近馬場・後院⭐️寺社での競馬貴族の邸宅⭐️藤原道長・頼通による誘致(下毛野金時)⭐️上皇主導の競馬⭐️鎌倉の競馬と衰退⭐️日本で初めて競馬について記載されたのが『続日本紀』大宝元年(701)5月5日の記事に、『丁丑《五》令群臣五位已上出走馬天皇臨觀焉(群臣も集まり天皇に競馬を献上した)』
写本七章3回目敦道親王は、(女のところへ行こう)と思った。衣服に香を焚きしめている時、侍従の乳母が来た。「どちらにお出かけですか。お忍びの外出について皆が噂しています。あの女は身分が高くありません。お気にかかるなら、呼び出して召人としてお使いください。軽々しく出かけられるのは、とても見っともないことです。あの女のところへは、大勢の男たちが通っています。良くない噂も立つでしょう。大体において右近の尉が悪いのです。亡き為尊親王様も右近の尉が案内したのです。夜出かけられるのは、良
時の図書館が静かに新たな扉を開きます。光の奥にたたずむその人は、凛とした佇まいのまま、優雅な風に身を任せていました。⸻時の図書館・平安時代編中宮定子(ちゅうぐう・ていし)—「栄華のなかで、私が見たのは“儚さ”でした」⸻光の霧が晴れると、そこには、薄紅の几帳の奥で筆を置く女性の姿がありました。中宮・定子。一条天皇の中宮にして、才女・清少納言を女房とし、その宮中に華やかさと教養をもたらした人。藤原道隆の娘。藤原道長との政治的な対立の影に、静かに、そして気高く佇んでいた女
新京極通を三条方面に進むと、誠心院がある。華獄山東北寺誠心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で、以前は「誠心院(じょうしんいん)」の呼び名で親しまれていたが、戦後、先代住職の頃から「せいしんいん」と呼ばれるようになった。関白藤原道長が、娘の上東門院彰子(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために法成寺の中、東北寺に建立したお堂(小御堂)が「誠心院」の起りとされている。初代住職が、和泉式部なのだ。才色兼備として、知られる平安中期を代表する女性歌人で、勅撰集に収められている和歌は、274首にも及んで
平安時代好きブロガーなぎです。2024年11月、京都へ行ってきました。フェリー1泊、京都2泊3日の旅となりました。ゆっくりまったり、旅行でのことをぽつぽつブログに書きたいと思います。・名門大洋フェリーで大阪南港へ旅行1日目・【平安あれこれ】二条宮跡~一条天皇皇后・藤原定子の里邸~・【平安あれこれ】高松殿跡<高松神明神社>~光源氏のモデルのひとり・源高明の邸宅~・【京都】虎屋菓寮にて「亥の子餅」をいただく・【平安あれこれ】枇杷殿跡~紫式部と
憲政史上初の女性総理誕生。それ以前含めると日野富子以来か(^^;その前は北条政子?なんか「従三位❗」と喜ぶ北条政子を彷彿させる内閣総理大臣(^^;天照大御神、卑弥呼、神功皇后、推古天皇、北条政子、日野富子、多くはないがそれなりに日本の女性リーダーはいたりする😅見上愛が「光る君へ」で演じた藤原彰子も位はトップでないが、最高権力者の摂政である父藤原道長に対等に渡り合い「国母」と呼ばれた女性リーダーでした。
写本五章2回目女は敦道親王への返事に、和歌いかでかはまきの戸ぐちをさしながらつらき心のありなしを訳槇の戸口はしまっていたのに、どのようにして私が薄情だとおわかりになったのでしょうか。「変なことを言いますね。『見せたらば』のように、私の心をお見せできたら良いのに」と書いた。敦道親王は今夜も女の許へ行きたかったが、(夜出歩くことを止められているのに、帝(一条天皇)や大殿(藤原道長)、東宮(のちの三条天皇)に外出を知られたら、外聞が悪い)と思い、女に逢うのを控え