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全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)318〜319頁普賢の心をおこすとは何でしょうか?普賢の願行の法とは何でしょうか?大悲とは何でしょうか?菩提心をおこす因縁とは何でしょうか?善知識にたいして恭敬の心をおこすとは何でしょうか?清浄とは何でしょうか?波羅蜜とは何でしょうか?随順して覚知するとは何でしょうか?決定の智慧とは何でしょうか?力とは何でしょうか?平等とは何でしょうか?仏の法句とは何でしょうか?説法とは何でしょうか?受持とは何でしょうか?弁
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)317〜318頁そのとき普賢菩薩が仏華厳と名づける三昧にはいられました。かの三昧にはいられたとき、十方一切の世界を六種十八相に震動して、あらゆる世界に隈(くま)なく聞える微妙の音声を立てられた。しかして菩薩は安詳として三昧から出られました。そのとき普慧菩薩が、もろもろの菩薩が雲のように集まられたことを知り、(もろもろの菩薩が)普賢菩薩に問われるよう、『仏子よ、もろもろの菩薩大士の依果とは何でしょうか?奇特の想(おもい)とは何でし
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)317頁かような百万億那由他の不可説の仏国の微塵に等しい菩薩大士は、皆ことごとく普賢の行願を具足し、仏の出世したもう場合には、ことごとく其のみもとに赴いて転法輪を請い、皆よく諸仏の正法を受持して、あらゆる仏の種姓を断えざらしめ、能(よ)くことごとく一切諸仏の次第の授記をさとり、もろもろの世界にしたがい等正覚を成就して清浄の法輪を転じ、無仏の世界に身を現じて、仏となって世にあらわれ、汚れたものを悉(ことごと)く清浄となることをえしめ、あ
2024年4月2日、雲一つない晴れ渡った空、空気はひんやりとして、身も心も引きしまる朝、例年より遅咲きの桜は、ちょうど色づきほころび始めて、全世界に祝福され、『心整体(しんせいたい)』~体が整い心が調う~がオープンしました。これまで十数年、江戸川区篠崎「読書のすすめ」さんで、水曜・土曜に整体を開かせていただいて来ました。整体師の仕事を18年、その後半12年勤めた葛飾区新小岩のリラクゼーションのお店が、再開発で立ち退きになり、3月末をもって閉店。これを機に独立開業へ。また、心深くから
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)315〜317頁その菩薩がたは皆ことごとく各十方から来集せられたのであって、一生ののちに無上のさとりを成就せられる方々であります。彼等はいずれもあらゆる菩薩の方便・智慧をまどかに成就し、たくみな方便をもつ衆生を調伏して、ことごとく菩薩の正法に安住せしめ、あらゆる世界を分別し了知し、明達せる解脱の境界を観察し、すでにあらゆる虚妄をのぞき、一切の妙行を欠けめなく成就し、よく衆生を摂取して深く無量のたくみな方便に入り、よく一切衆生の果報
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)315頁離世間品(一)そのとき世尊は、摩訶提国の寂滅道場の普光法堂におわして、蓮華蔵のたからの獅子座に坐(ざ)し、等正覚を成就したまい、不二の念、無相の念を念じ、ほとけの所住に住して、あらゆる仏と等しく、無礙の地にいたり、不退の法をえ、無礙の境界をもって不思議に住し、三世を遠離し、一切の世界にあまねくその身を現じ、一切の法を知り、一切の妙行を欠けめなく成就し、とこしなえに疑惑をのぞき、無虚妄の身をもって、能くあらゆる菩薩に無量の智慧を
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)313〜314頁そのとき普賢菩薩がほとけの神力を承(う)けて、一切もろもろの菩薩のむれを観察し、重ねて如来性起の正法を明したいとおもい、如来の量なき功徳を説きたいとおもい、如来の正法の沮壊すべからざることを明したいとおもい、一切菩薩の無量の智慧の法明を出生したいとおもい、一切の具足せる仏法を説きたいとおもい、あらゆる群生のたぐいの心を観察したいとおもい、時を失うことなく所応にしたがって教化したいとおもい、あらゆる無量無辺の菩薩の正法を分
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)312〜313頁そのとき、十方おのおの十不可説百千億那由他の仏国の微塵に等しい世界のほかを過ぎたところに、それぞれ十不可説百千億那由他の仏国の微塵に等しい菩薩がおられ、それがこの土に来詣して、あらゆる法界に充満し、菩薩の大妙の荘厳を示現し、大光明の網を放ち、あらゆる世界を震動し、あらゆる魔族の宮殿を粉摧し、あらゆる悪道の諸難をのぞき、あらゆる如来の功徳をかがやかし、あらゆる如来の正法を讃歎し、あまねく無量無辺の供養の雲雨を降らし、量なき
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)311〜312頁そのとき、十方それぞれ八十不可説の百千億那由他の仏国の微塵数に等しい世界を過ぎたところに、おなじく普賢と号する如来、――おのおの八十不可説の百千億那由他の世界の微塵数に等しい如来がおわし、それが悉(ことごと)くその身を現じ、あるいは近く面前にあらわれ、すでに現じて異口同音に告げたまうよう、『善いかな、善いかな、仏子よ、よく仏の神力を承け、深法にしたがい、思議すべからざる如来性起の正法を解説されたことである。仏子よ、我々
このブログ(英語:blog)に御訪問頂き、誠にありがとうございます。リンクを貼はらせて頂いております。紫色のブログ・タイトルをクリック(英語:click)(もしくはタップ[英語:tap])して頂きますと、過去のブログ記事に移行します。(^O^)さて、去る7年前の5月1日(月)の「『お蔭かげ』ということ(両親の食事)」のブログの中段やや上に、「(前略)ヘルパー(日本語:家政婦)に因ちなませて頂きますと、去る3月21日(火)の『肉親の来訪(ヘルパーの症状・両親の食事)』のブ
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)310〜311頁そのとき、十方の不可説不可説の百千億那由他の佛国の微塵に等しい世界が六種に震動して、東に湧いて西に没し、西に湧いて東に没し、南に湧いて北に没し、北に湧いて南に没し、隅に湧いて中に没し、中に湧いて隅に没し、および十八相に震動しました。いわゆる動・徧動・等徧動・起・徧起・等徧起・覚・徧覚・等徧覚・震・徧震・等徧震・吼・徧吼え・等徧吼であります。そのとき又、ほとけの神力のゆえに、法の自然のはたらきのゆえに、もろもろの華雲、諸
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)309〜310頁そのとき普賢菩薩が重ねてこの義を明そうとして、つぎの偈文を説かれました。『もし如来を見聞して、恭敬し、供養しまつるならば、その種(う)うるところの善根は、無量不可称なるべく、あらゆる有為のうちに、窮(きわ)め尽すことができず、もろもろの煩悩を寂滅し、苦をはなれて涅槃をうるだろう。たとえば人あって、金剛の小片を飲むならば、金剛は究竟して消化せられず、下って金剛際にいたる。かくのごとく、十力のみもとにおいて、見聞し、供
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)308〜309頁仏子よ、菩薩大士がこの経を聞くならば、まさに平等の意行、無量のこころをおこし、あらゆる虚妄の想をはなれ、直心を究竟し、面のあたり一切の如来を正念し、平等に修習して浄きこと虚空のごとく、あらゆる菩薩の行業を分別し観察して法界と等しく、一切智をまどかに成就し、あらゆる世間の垢濁をはなれ、清浄の心をおこして、一切の十方世界に充満し、深くあらゆる菩薩の法門に入り、平等に三世の諸仏を観察し、善根・功徳・智慧を具足し、深くこれらの
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)308頁仏子よ、もし菩薩大士にしてこの経を聞くことをえて、帰向し、受持し、信順するならば、知るべし、彼等は真実の仏子であって、如来の家から生れ、あらゆる如来の境界にしたがい、あらゆる菩薩の正法を具足し、一切種智の境界に安住し、あらゆる世間の法を遠離し、如来の行ずるところを出生し長養し、一切の菩薩の諸法の彼岸にいたり、如来の自在において心に疑うところなく、究竟して無師の地に安住し、ふかく一切の如来の境界に入るだろう。(旧字体、旧仮名遣
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)307〜308頁仏子よ、それゆえにこの経を聞く菩薩大士は、歓喜し、恭敬し、頂戴し、受持すべきである。なぜなら、菩薩大士にしてこの経を信楽し、すこしく方便を行ずるならば、かならず決定して無上菩提をうるであろうから。仏子よ、菩薩大士が無量億那由他劫に六波羅蜜をおさめ、道品の善根を修習するとしても、未だこの経を聞かず、聞くといえども信じ、受持し、随順しないならば、それは仮の菩薩であって真の菩薩とは云われない。なぜなら、如来の種姓(すじょ
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)306〜307頁仏子よ、このような経典は、ただ不可思議のおしえを修むる菩薩大士、一向専心に菩提を求むるもののためにのみ、分別し解脱されるのであって、余の人々のためにせられない。なぜなら、この経はただ菩薩を除いて、他の一切衆生の手にはいらないから。仏子よ、たとえば転輪聖王の有する七宝の如きものである。この宝に因るがゆえに、転輪聖王となることが出来る。ただ王の第一夫人の生むところの太子で、聖王の相を具足し成就せる者のほかに、世に一人として
仏教は難しすぎて…般若心経がわからないのはきちんとした解説書を順序立てて勉強しないからであり仏教が難しすぎると言うのはいきなり予備知識もなく哲学的なことを持ち出すからです華厳経には善財童子(文殊菩薩)が55の善知識に教えを乞うて旅する話があります東海道五十三次はこの話を元に宿場町が作られたそうですジャータカやアヴァダーナはいろいろなお話が満載されているし絵巻物にされている仏教の教えは源氏物語どころではない分量もレパートリーもはるかに膨大です菩薩
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)306頁そのとき、もろもろの菩薩大士が普賢菩薩に申さるるよう、『仏子よ、この経をば何(なん)と呼び、また、いかにして奉持すべきでしょうか?』『仏子よ、この経をば一切諸仏微密法蔵経と名づける。それは一切世界の思議しえざるところ、如来の印したまふところであって、大智の光明、如来の種姓を開きしめして一切の菩薩の功徳を長養し、世のなにものにも壊られず、あらゆる如来の境界にしたがい、一切衆生を皆ことごとく清浄ならしめ、ほとけの究竟の法を分別し
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)305〜306頁仏子よ、如来のみもとにおいて見聞し、供養し、恭敬して種(う)うるところの善根は、説くことができず、喩(たと)えることができない。なぜなら、如来は不可思議であって、思慮分別の及ぶところでないから。仏はただ所応にしたがって喩を設けたもうのみ。仏子よ、菩薩大士は如来のみもとにおいて見聞し、恭敬し、供養して、種(う)うるところのもろもろの善根をかく知見する。』(旧字体、旧仮名遣いは改めました)
華厳本経論1「華厳経の構成」(吉田叡禮)1.序説2.華厳経の四訳ついて3.経題について4.華厳経の構成ついて<レジメ>http://kannonzenji.ehoh.net/kyozai_r2021/R04_resume.pdf・添付資料http://kannonzenji.ehoh.net/kyozai_r2021/R04_attachment.pd...youtu.be華厳本経論2「華厳経の特徴」(吉田叡禮)<関連動画リンク>●華厳経と華厳思想https://youtu.be/
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)304〜305頁仏子よ、たとえば雪山に善現と名づける大薬王樹がある。もし人あってその樹を見るならば、眼清浄となるをうべく、もし聞くならば、耳清浄となるをうべく、もし香(か)を聞(か)ぐならば、鼻清浄となるをうべく、もし味を甞めるならば、舌清浄となるをうべく、もしその土を取るならば、無量の病をことごとく除いて、快楽安穏をうるだろう。如来・応供・等正覚の無上の薬王もまた此のごとく、つねに一切もろもろの方便の行をもって衆生を利益し
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)304頁仏子よ、たとえば須弥山に等しいほどに積まれた乾草に、もし入が芥子ほどの火を点ずるならば、火はその乾草を焼き尽くさずには置かぬだろう。なぜなら、火性はことごとく能く焼くから。仏子よ、如来のみもとにおいて種える少しの善根もまた此のごとく、悉くよく一切の煩悩を焼きつくして余すことなく、涅槃を究竟するだろう。なぜなら、如来のみもとにおいて種えるもろもろの善根の性は究竟するから。(旧字体、旧仮名遣いは改めました)
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)303〜304頁仏子よ、たとえば人あって如何に少分の金剛を食するとしても、金剛は決して消化せられることなく、かならず体外に押し出されて、金剛輪際にいたってそこに止住する。なぜなら、金剛は消化さるべきものでないから。此のごとく仏子よ、如来のみもとにおいて如何に少分の善根を種えるとしても、それは必ずあらゆる有為の煩悩をやぶり、ないし如来の涅槃を究竟してそこに止住する。なぜなら如来のみもとにおいて種えたもろもろの善根は消尽することが出来
こちらに華厳経の現代語訳本があります。内容が素晴らしいというのは確かである(らしい)のですが、私にとって仏典を読むことは中々の苦行です。そんなことを言えば「仏教者が仏典理解を苦行と考えるとは何事か!!」などと叱られるでしょう。しかし、仏典というのは、文字に起こされたものである以上、やはり「慣れ」や「読解力」あるいは「センス」などが必要となります。あらかじめ、仏説が説かれた背景やあらすじを踏まえた上で読めば、頭への入り方は全然変わってきますし、そして何度も読めば、読む度に新規の情報が少なくな
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)303頁仏子よ、菩薩大士はどんなふうに如来・応供・等正覚のみもとにおいて、ほとけを見聞し、恭敬し、種ゆるところの善根を知見するかと云うに、この菩薩大士は如来のみもとにおいて、ほとけを見聞し、恭敬し、種(う)ゆるところの善根を下のごとく知見する。それは皆ことごとく虚しきことなく、功徳無尽に、一切の貪愛をはなれて、解脱を究竟し、果報虚しからずして、諸願を満足し、あらゆる有為法のうちにおいて、窮(きわ)まり尽くることなく、しかもよく無為の智
🌸無尽縁起(むじんのえんぎ)の世界観⛳謎の多い宗祖・良弁☆『華厳経』にもとづいて成立した華厳宗*中国唐代の僧・杜順が開宗し、法蔵が大成した☆日本人の僧・良弁が『華厳経』の奥義を究めて*日本における華厳宗の宗祖となった*良弁は天皇の信頼を得た☆良弁は不思議な宗祖といえる*良弁、生後間もなく金鷲にさらわれ*東大寺に運んでこられたとの伝説がある⛳華厳思想を体現した毘慮遮那仏☆華厳宗は、『華厳経』が根本経典*大乗仏教の有名経典『法華経』は「法」を説く
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)301〜303頁そのとき普賢菩薩が重ねてこの義を明そうとして、つぎの偈文を説かれました。『たとえば円満明浄の日は、一切の法界に等しく、影を一切の水にうつす。ただもろもろの破れた器は例外である。最勝もまた此のごとく、あまねく一切の世に現われたもう。ただ信心のない衆生は、ほとけ涅槃に入りたもうと思う。たとえばあらゆるものを焚焼する猛盛の火、草木、人家のない処(ところ)にゆけば、おのずから消滅する。最勝もまた此のごとく、法界に充満して
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)301〜302頁また次に仏子よ、この菩薩大士は如来の涅槃を下(しも)のごとく知見する。それは無量無辺であって、法界を究竟して障礙するところなく、不生不滅であって浄(きよ)きこと虚空のごとく、実際に安住し、その所応にしたがってこれを示現し、本願に支持せられて、一切の衆生・一切の仏国・一切の諸法を棄(す)てたまわぬ。』と。(旧字体わ旧仮名遣いは改めました)
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)300〜301頁また次に仏子よ、如来は般涅槃を示現したもうとき、まず不動三昧に入りたまい、すでに三昧に入って、一一のおん身からそれぞれ無量億千那由他の大光明を放ちたもう。その一一の光明にそれぞれ無量阿僧祇の妙宝の蓮華が花咲き、一一の蓮華にそれぞれ不可説不可説の妙宝の花蘂がそなわり、一一の華蘂にそれぞれ宝の獅子座があって、一一の座上にそれぞれ如来がおわして結跏趺坐したもう。そのとき示現したもうもろもろの如来のおん身は、ことごとく一切衆生
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)299〜300頁また次に仏子よ、たとえば幻術にくわしい大幻術師があって、その術に安住し、三千大千世界のあらゆる都市・村落・王都において、あまねく幻の身をあらわし、幻の身をたもって命を終らしめないとする。その幻術師が都市・村落・王都のいずこにも、事の終るにしたがって、幻の身を棄てるとする。諸大士よ、何(ど)うおもう?彼は三千大千世界における幻の身をことごとく捨てたのであろうか?答えていう、「いな」と。如来・応供・等正覚もまた此の