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全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)299頁仏子よ、たとえば大火は、あらゆる世界において火事をおこし、草木を焼き尽さぬと云うことはない。然しながら、その火も、草木・都市・村落のない処に行くときには、おのずと消滅する。諸大士よ、どう思う?そのとき、あらゆる世間の火はことごとく消滅してしまうだろうか?答えていう、「いな」と。如来・応供・等正覚もまた此のごとく、あらゆる世界において仏事をなし、あるいは一仏国土を教化しおわって、あまねく涅槃を示現したもう。諸大士よ、何(
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)298〜299頁仏子よ、たとえば日があらわれて世に照りわたり、円満明浄なること法界とひとしく、あらゆる世界の浄水を盛った器のなかに、その影を宿さぬと云うことはないけれども、日は「自分はあまねく一切の浄水にうつる」とは思わない。仏子よ、そのとき、もし水を盛った器が破れたならば、日は影をそのなかに宿さぬだろう。諸大士よ、どう思ふ?影を宿さないのは、日の咎(とが)であろうか?答えていう「いな、水器が破れたために日が映(うつ)らぬのである」
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)298頁仏子よ、如来はただ衆生を歓ばしめんがために世に出現したまい、衆生を哀慕せしめんがために涅槃を示現したもう。が実には如来に出世もなく、また涅槃もない。なぜなら如来は法界のごとく常住であるから。如来はただ衆生を教化せんがために、涅槃を示現したもうのである。(旧字体、旧仮名遣いは改めました)
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)297〜298頁宝王如来性起品(四)仏子よ、菩薩大士はどんなふうに如来・応供・等正覚の大般涅槃を知見すべきかと云うに、仏子がたよ、菩薩大士にして如来・応供・等正覚の大般涅槃を知見しようと思うならば、まさに次のごとく知るがよい。如来の大般涅槃は、真如の般涅槃のごとく、実際のごとく、法界のごとく、虚空のごとく、実性のごとく、離欲の際のごとく、無相の際のごとく、我性の際のごとく、あらゆる法性の際のごとく、真実際の般涅槃のごとくである。なぜ
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)295〜296頁そのとき普賢菩薩が重ねてこの義を明そうとして、つぎの偈文を説かれました。『如来の転法輸は、三世に至らぬところなく、転じてしかも転ぜず、これを求むるも不可得である。たとえばもろもろの文字は、説くとも説きつくせない。十力の転法輪もまた此のごとく無尽である。たとえば文章は、ことごとく一切の数に入り、入ってしかも入るところがない。如来の法輪もまた此のごとく、あまねく一切の音に入り、入ってしかも入るところなく、よく衆生をし
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)294〜295頁また次に仏子よ、この菩薩大士は如来・応供・等正覚の転法輪を出生するところを知見する。如来の転法輪を出生するところとは何であるか?如来は一切衆生の心のはたらきに等しい音声をもって、一切衆生のために法輪を転じたもう。なぜなら、仏子よ、如来・応供・等正覚に究竟無礙無畏と名づける三昧がある。如来はこの三昧に入って法輪を転じたもう。すなわち如来はこの三昧に入って、一切衆生に等しい音を出生したまい、一一の音声のうちに更に一切衆生
『この国のかたち-二』-司馬遼太郎●華厳について-⑤華厳経は世界像を提示した。しかし多分に哲学的説明にとどまり、宗教に必要な行を説かなかったから、行を説く大日如来が出現したともいえる。ただし真言密教に関する諸経典では華厳的な論理が多用されているから、華厳が密教的に発展もしくは変質した一形態ととれなくはない。さらにのちには、新しい絶対者としての阿弥陀如来が出現するのである。この出現は4世紀ごろかと思われるが、場所はインドではなくシルクロードのどこかであったはずである。最初は、大日如来
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)294頁仏子よ、たとえば文字や言葉は無量無数劫において説くとも、説きつくすことが出来ない。如来・応供・等正覚の転法輪もまた此のごとく、あらゆる文字、あらゆる言葉をもって説くとも、説き尽すことができない。仏子よ、如来の法輪はことごとく一切の言語文字に入って、しかも住するところがない。たとえば文章はことごとく一切の文字・一切の事柄・一切の言語・一切の算数・一切の世間・一切の出世間に入って、しかも住するところがない。如来の音声もまた此の
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)293〜294頁仏子よ、菩薩大士はどんなふうに如来・応供・等正覚の転法輪を知見するかと云うに、仏子よ、この菩薩大士は、如来は心の自在力をもって起すことなく、転ずることなくして、而も法輪を転じたもうと知見する、一切の法はつねに起ることがないと知るから。三転をもって断ずべきを断じて法輪を転じたもうと知見する、一切の法は辺見を離れていると知るから。欲の際と非際とを離れて法輪を転じたもうと知見する、一切法の虚空の際に入るから。言説をはな
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)291〜293頁そのとき普賢菩薩が重ねてこの義を明そうとして、つぎの偈文を説かれました。『菩提は二法でなく、二辺をはなれ、一切の悪をのぞき、平等に諸法をさとる。一切の法は、皆ことごとく虚空のごとく、我でもなく無我でもないと知って、等しく一切の法をさとる。たとえばもろもろの大海は、一切衆生のたぐいの色像をことごとく印現する。それゆえに一切印と名づける。かくのごとく十方世界のうちの一切衆生のたぐいは、無上の菩提の海に、法として現ぜ
『この国のかたち-二』-司馬遼太郎●華厳について-④ところが、華厳によると毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)という真理(悟りのすがた)からみれば、仏や菩薩が毘盧遮那仏の悟りのあらわれであるだけでなく、迷いもまた毘盧遮那仏の悟りのあらわれであるとされる。人間どころか、草や石、あるいは餓鬼や地獄まで法(毘盧遮那仏)に包摂され、一つの存在がすべての存在を含み、また一現象が他の現象とかかわりつつ、無碍(むげ)に円融してゆくというのである。となると、一切の衆生(しゅじょう)は当然のありかたとして仏にな
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)290〜291頁仏子よ、如来・応供・等正覚は、正覚を成就しおわって、善覚と名づける三昧に入りたまい、すでに三昧に入って、一切衆生の身と等しい数の菩提の身をえたもう。一の三昧におけるごとく、あらゆる三昧、あらゆる法門においてもまた同様である。仏子よ、菩薩大士は如来・応供・等正覚の菩提の身をかく知見する。また次に仏子よ、菩薩大士は一の毛孔において、ことごとく一切衆生に等しい如来の身を知る。一の毛孔におけるごとく一切の毛孔、あらゆる法界
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)289〜290頁仏子よ、たとえば世界が成立し、あるいは敗滅しても、虚空界はつねに不増不滅である。なぜなら虚空は生滅を離れているから。如来・応供・等正覚の菩提また此のごとく、正覚の成就と未成就とがあっても、つねに不増不減である。なぜなら、それは一性であり無性であって、もろもろの性を離れているから。仏子よ、たとえば玆(ここ)に一人の人が世にあらわれ、よく恒河の沙に等しい心を化作するとする。しかしてその一一の心は、能くことごとく恒河の沙
華厳経🪷現代語訳朗読1/2釈迦如来第一の教えyoutu.be華厳経🪷現代語訳朗読2/2釈迦如来第一の教えyoutu.be
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)289頁仏子よ、如来はその御身のうちに、ことごとく一切衆生の菩提心をおこし、菩薩の行を修め、等正覚を成就することを見たもう。ないし、一切衆生の寂滅涅槃することを見たもうこともまた同様である。皆ことごとく一性でしかも無性であるから。無相・無尽・無生・無滅であるから。我も我性でないから。衆生も衆生の性でないから。覚(さとり)も覚(さと)るところがないから。法界も無自性であるから。虚空界も無自性であるから。かように等しく一切の無性をさとり、
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)288〜289頁仏子よ、一切諸仏の菩提は、いかなる文字をもっても記すことができず、いかなる言葉をもっても説くことができず、どんな者をもっても譬(たとえ)とすることができない。ただ所応にしたがって、如来は彼等のために分別し演説したもうのみ。仏子よ、如来・応供・等正覚は、菩提を成就したもうとき、ほとけの方便に住して、一切衆生の量に等しい身をえ、一切法の量に等しい身をえ、一切の国土の量に等しい身をえ、一切の三世の量に等しい身をえ、一切の
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)287〜288頁『仏子よ、菩薩大士はどんなふうに如来・応供・等正覚の菩提を知見するかと云うに、仏子よ、この菩薩大士は如来の菩提を下のごとく知見する。すなわちそれは一切の義において観察する所なく、法において平等であって、疑惑する所なく、二なく相なく、行なく止なく、無量・無際で、二辺をはなれて中道に住し、あらゆる言語・文字を超絶し、一切衆生の心念の所行と、根性と、欲行と、煩悩と習気とを知る。一言でいえば、一念のうちにことごとく三世のあらゆる
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)286〜287頁そのとき普賢菩薩が重ねてこの義を明そうとして、つぎの偈文を説かれました。『たとえば真如は尽くることなく、生もなく、滅もなく、また方処もなく、これを、求めても見ることが出来ない。如来もまた此のごとく、境界は量ることが出来ず、三世をはなれて、その性ことごとく如実である。たとえばもろもろの法界は、界でもなく、非界でもなく、有でもなく、無でもなく、有量でもなく、また無量でもない。功徳の所有者もまた此のごとく、その所行は量
『この国のかたち-二』-司馬遼太郎●華厳について-③大乗仏教では、釈迦は仏陀という真理そのものになる以前、一階級下の菩薩の呼称でよばれていたという。菩薩とは仏智を得るべく努めてほぼ完成に近い段階の人ということだが、大乗仏教以後、菩薩は観念化し、人を救うための存在もしくは機能そのものになった。本来の仏教は解脱が目的であって、救済の思想はなかった。救済の宗教であるキリスト教では、いきなり神がわれわれを救ってくださる。しかし釈迦の仏教にあってはみずから悟って真理に合一させねばならない。仏が人間を
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)284〜286頁『仏子よ、菩薩大士はどんなうに如来・応供・等正覚の行を知見するかと云うに、この菩薩大士は如来の無礙の行を知見する。如実の行はすなわち如来の行である。真如は過去に滅せず、未来に至らず、現在に起らない。如来の行もまた此のごとく、滅せず、至らず、起らない。仏子よ、たとえば法界は無量であり無縛である。なぜなら、法界は無身であるから。如来の行もまた此のごとく、無量であり無縛である。なぜなら、如来の行は無身であるから。仏子よ、た
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)282〜284頁そのとき普賢菩薩が重ねてこの義を明そうとして、つぎの偈文を説かれました。『離垢清浄の境界は、無量であって称ることができない。殊勝の願力のゆえに、一切ことごとく無量である。たとえば心の境界は無量無辺である。かくのごとく一切もろもろの十力の境界もまた無量無辺である。たとえば大龍王が、本(もと)のところを離れないで、心の願力をもってのゆえに、降らすその雨に限量はない。雨水は従来するところもなく、また趣向するところもない
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)282頁仏子よ、海水はかように深広無量であるけれども、これを如来の無量の智海に比すれば、その百分の一にもおよばず、ないし喩とすることが出来ない。ただ応化する所にしたがって、喩(たと)えとするに過ぎない。仏子よ、菩薩大士は如来の智海の深広であり無量であることを知見する、初発心からないし菩薩の無量の行を断たないから。道品の宝の無量であることを知見する、三宝を断たないから。無量の衆生の歓喜を知見する、あらゆる声聞・学・無学・および縁覚を
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)279〜282頁仏子よ、また十の光明龍王がおって、悉(ことごと)くまえの河水のそれにいや増す水を、大海のうちに雨ふらす。また百の光明龍王が、悉くまえの其(そ)れにいや増す水を、大海のうちに雨ふらす。また大荘厳龍王が、悉くまえの其れにいや増す水を、大海のうちに雨ふらす。また摩那斯龍王が、悉くまえの其れにいや増す水を、大海のうちに雨ふらす。また大雷龍王が、悉くまえの其れにいや増す水を、大海のうちに雨ふらす。また難陀跋難陀龍王が、悉
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)279頁仏子よ、この閻浮提(えんぶだい)のうちから二千五百の河水が流れでて、ことごとく大海にそそぎ入る。西拘耶尼(せいくやに)のうちから五千の河水が流れでて、ことごとく大海に入る。東弗婆提(とうほつばだい)のうちから八千四百の河水が流れでて、ことごとく大海に入る。北鬱軍越(ほくうつたんおつ)のうちから一万の河水が流れでて、ことごとく大海に入る。仏子よ、この四天下のうちから、かように二万五千九百の河水が流れでて、それがことごとく大海にそ
奈良参りの最終回です。東大寺大仏殿に朝8時の開門後、二番目で入場しました。年に数回この扉が開いてお顔が見えるのですね。中央の瓦の紋は花弁は16枚の菊の花です。大仏殿の建物は聖武天皇の時代から平安時代の末期と室町時代の末期に2度焼失しまして、現在の建物は江戸時代に建造された物です。盧舎那仏様に久しぶりにお目にかかりまして、子供の頃から大仏様と言ったら、東大寺だと思っていたので、感動しました。華厳経で宇宙の真理を体現しておるのだそうです。二度の建物の消失によりまして、盧舎那仏様も
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)278〜279頁仏子よ、たとえば大龍王は心のままに雨を降らすけれども、雨は龍王の内から出るのでもなく、又その外から出るのでもない。如来の境界もまた此のごとく、心のおもう所にしたがって、念々のうちに無量不可思議の智慧を生みだすけれども、そのもろもろの智慧はことごとく従来する処がない。仏子よ、あらゆる大海の水は、みな龍王の心願から生ずるのである。如来の智慧の海もまた此のごとく、ことごとく大願のちからから生ずる。仏子よ、如来の智海は
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)278頁仏子よ、菩薩大士はどんなふうに如来・応供・等正覚の境界を知見するかというに、この菩薩大士は無量・無辺・無礙の智慧を成就して、一切衆生はすなわち如来の境界であり、一切の世間・一切の国・一切の法・一切衆生の行・不壊の如実の境界・無礙の法界の境界・真如の無際の境界・無量の虚空の境界・非境界の境界はすなわち如来の境界であると知る。仏子よ、一切衆生は無量であるから如来の境界も無量である。一切世間は無量であるから如来の境界も無量である。な
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)276〜277頁たとえば劫の尽くるとき、猛烈な大火災がおこる。人がそのうちに乾草を投げ入れるとして、乾草は焼け尽くされないとしても、無量無辺のほとけの浄らかな智慧は、能(よ)くことごとく分別して、三世の衆生のたぐいを知り、また一切の劫と、一切の諸仏の国とを知ろしめすごとく、如来は無量の法をことごとく了知したもう。たとえば劫の尽くるとき、壊散と名づける風災があって、能くもろもろの大地・金剛囲山・および須弥山をやぶる。ときに国の外に障散壊
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)275〜276頁かの雪山のいただきに、無尽根と名づける大薬王樹がある。この薬王樹の生長の因縁にしたがって、ことごとく閻浮提の一切もろもろの樹木が生長する。その樹が根を生ずるときに、あらゆる樹木の根が生ずる。茎・枝・葉・花・実もまた同様である。清浄甚深の智もまた此のごとく、如来性のうちより生ずる。如来の智慧によって、修行の智慧が出生する。あらゆる菩薩の行と、量りなきもろもろの功徳とは、如来の智慧の樹王——平等の心地から生ずる。(旧
『この国のかたち-二』-司馬遼太郎●華厳について-②華厳経は大乗仏教で、釈迦以後の成立なのである。この思想は、紀元1世紀ごろから4世紀ごろにかけて次第につくられて中国に入り、多少の中国哲学が加味されて一大全集になった。そういう事情はともかく、この経典に盛られた思想こそ、のちの日本的思考法や思想の先祖の一つになったというのが、この稿の主題である。解脱はすばらしい。しかしただの人間にそれを望むべくもないとあれば、いっそ解脱した人を拝むことにすればどうか、ということが大乗仏教の出発だった。釈迦に