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名古屋大学出版会:中西聡編:「日本経済の歴史」とWikipediaと自分の想像より・・・奈良時代、公地公民で人も土地も天皇のものだったけど、743年墾田永年私財法で開墾したら自分の土地にできる法律が出来た。ま、開墾しても朝廷に税は納めるのだけど。一部、寺社や貴族は不輸租特権が得られ、朝廷に税を納めず、自分で税を回収してたらしい。開墾するのは農民だが、大富豪農民が下級農民を使って耕し、大富豪農民は中央の皇族・貴族に寄進し、荘官として地位を得た。その後、10世紀に荘園整理令で公
荘園ということ、100円書斎Love。旅引付と二枚の絵図が伝えるまち―中世日根荘の風景―フリーペーパーや、パンフレットなんかのなかにも、読むと読みでがあって、しかもしっかりとした内容のものもあり、そんな小冊子とかに出会えるととてもうれしい。これはそういう一冊でした。泉佐野市の山の方の農村にかって日根荘と呼ばれる九条家の荘園があり、ここはよくその雰囲気が残ってますよということらしい。現存する平安時代の絵図が、今の道や地形に合致するという。そして、領主だった九条政基が訪問
2024年【桜特集】第四弾日根荘の歴史的景観を構成する寺社、ため池、水路などの16の国史跡があり、泉佐野市の日根野・土丸・大木地区には今も荘園の姿がそのまま息づいている。以上の3地区は既に一回は訪問済であるが、再度行きたいと思い今回は、国史跡日根荘遺跡日根野・土丸地区に加えて、サクラの名所である大井関公園にも寄るウォーキングに行ってきた。現地出発は「7時45分」だ。さて、先ずは「意賀美神社」に参拝して、一路「大井関公園」の桜を観に行くひたすら歩いて
平安時代に京都・下鴨神社の荘園として栄え、安芸の小京都ともいわれる広島の竹原。江戸時代の製塩や酒造で栄えた豪商のお屋敷や寺のある街並みがあります。散歩して回るのにちょうどよい街の大きさ古いお家の建具をみるのも好き春旅、行きませんか。
院政の開始、というのは「上皇が天皇から権力を奪った」のではありません、「王家(天皇家)が、摂関家(藤原氏)から、政治権力を奪った」ということです。天皇は、形式的には最終決定権を持っていても、実際には大抵は若いか幼いかで、補佐する大人たちが決めてきたことを承認するしかない、というものです。平安時代というのは、その「補佐する大人」が、摂政や関白、つまり母方の祖父や親戚の藤原氏だった時代です。しかし平安末期になって、天皇の父や祖父、つまり上皇が政治権力を奪取する、という、大袈裟に言えば無血クーデ
育親学園として統一される畑野、本梅、青野山々を越えて私の年代の前は中学校が一緒でした亀岡中学校が一番亀岡は古い歴史があるのですが山々を降りてくるのを本梅、畑野と待ち構えていてよく苛めたそうです別院中と南桑中とまた一緒になります昔に戻ってしまった荘園だったところばかりなんですよね公家や寺社のなんとなく別院中とまた一緒になってと思っていましたが犬飼地域やから河とともにあるのさ子どもが可哀想ですね田舎だから歩くのは慣れてるが昔と違うから山々やと防犯面が怖い頑張って越
岡山県北部の津山市から鳥取県に通じる国道179号線を北上すると、奥津町(現鏡野町)に入ったあたりで濃い山影を水面に映す湖が見えてきます。中国山地を流れる吉井川をせき止めた苫田〈とまた〉ダムの貯水湖です。このダムの建設に伴い、岡山県教育委員会では用地に所在する遺跡を調べ上げ、縄文時代~江戸時代の集落跡、古墳、鉄や銅・木炭の生産跡、鎌倉~室町時代の居館や城跡など21か所の遺跡を確認しました。このうち、ダムに水没する場所や湖岸道路が建設される場所の遺跡については、平成7年(1995)から発掘調査を実
院政の時代の上皇とは天皇と上皇はどちらが偉いですか?天皇が生前に譲位して上皇になるわけですが、院政の場合、たとえ天皇という地位から降りたとしても、上皇は権力を手放しません。天皇に代わって上皇が政治を行うため、言ってみれば、天皇よりも上皇のほうがはるかに偉いということになるのです。そこで、院政とは何?「院政」とはどういう意味ですか?天皇てんのうが位くらいをゆずって上皇じょうこうや法皇ほうおうになってからも政治せいじの実権じっけんをにぎり,院庁
一旦4時に目覚め、またすぐ眠れて今朝は8時ちょっち前に起きた。朝食は昨夜スーパーで半額やったさつま芋の天麩羅。デザートは熊本産トマト2個。彩菜→菅原花月→橋爪あみ→小山郁美→林実里→寝占友梨絵→Wakasaと歌をユーチューブで聴いとったが、昼食に出遅れた。昼食に行ったのは東上野「ブラッスリールディック」で、頼んだんは鴨のハンバーグ。ライスが付き、スープとサラダがセルフの食べ放題で1200円也。追加でプリン300円を注文。13時以降入店したらコーヒーが付いた。満足して店を出て、郵便局で金
唐(8)後期律令体制の崩壊何とか乱を収めた唐であったが、そのダメージは非常に大きかった。防衛体制の緩みをつかれて吐蕃に長安を一時期占領されるという事態が起きている。また反乱軍の将を寝返らせるために、節度使の職を持って勧誘した。これが後に河北三鎮と呼ばれ、中央の意向を無視した半...nyabecch.blogspot.com唐(8)-チャイナ史nyabecch.blog47.fc2.com
✨薑御園✨東田神明宮(はじかみみその)奈良時代の中頃から貴族の間の勢力争いが激しくなり⚔⚔また天皇の位につこうとする僧も現われて政治は混乱した⚔⚔地方でも、天平15年(743)に制定された墾田永世私財法などにより、私有地である荘園が増加し班田収授法の実施は苦しくなってきた💦💦地方政治は乱れ有力貴族・寺社・有力農民は重い税から逃れるため、『浮浪』『逃亡』した農民たちを使って私有地の確保拡大に努め、さらに荘園を増加させていった!!この地方では、荘園領主が有力な
世の中は短期間で目まぐるしく変わってゆく。私の親世代は、戦争経験者だ。伯父は兵隊として出征し、外地で亡くなった。彼らの十代は、明治憲法のもとの大日本帝国民であった。それが、いまではSNSや生成AIの時代になっている。戦後78年。時代が大きく変わるときは、時の流れの速さを感じるものだ。◉方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なりはるかいにしえ、平安のころ。新都造営蝦夷征伐政治改革軍事改革土地政策仏教改革781(天応元)年に即位した桓武天皇は、これだけのことを独裁的に推
「公地公民制」アリガトウの反対は何?みなさん、おはようございます北陸の地震で被害にあわれた皆様に心よりお見舞い申し上げます寒さ厳しい時気を付けてお過ごしくださいアリガトウ「1月2日」の國史です「公地公民制」大化2年(646年)全ての土地と人民を管理し税収を確保する仕組みです全ての土地は天皇のものであり全ての土地は民のものとします一君万民です全国民に戸籍が作られ戸籍を元にして口分田(くぶんでん)が人民に与えられる班田収受法(701
下記の商品は本日入荷したホンの一部です。『中世の荘園経営と惣村』(似鳥雄一)2018年、吉川弘文館刊定価11,000円+税売価8,800円+税『中世後期の村落自治形成と権力』(熱田順)2021年、吉川弘文館刊定価11,000円+税売価8,800円+税『足利将軍家の政治秩序と寺院』(高島廉)2022年、吉川弘文館刊定価9,000円+税売価7,000円上記の商品はインターネット古書検索サイト「日本の古本屋」で御注文いただけます。htt
本日、紹介、挑戦していくのは「ライフアフター荘園レベル6の達成」です。結論からお話すると、絶対やった方が良い"良案件"です!ちなみに筆者はクリアするのに6日掛かりました。買い物サポートアプリNo.1!移動・チラシ・レシートでポイントがたまるアプリクラシルリワードは如何でしょうか☺下記の招待コードを使って登録すれば5,000コインがもらえます。【XPDXUV6E】アプリダウンロードはこちら↓https://bit.ly/3kuX7dl1.ライフアフターとは?2.本案件に関
こんばんは(*^▽^*)ノ今日は、実装当初からいじってはいたけど紹介はしてなかった荘園を晒そうと思います。元々こういうハウジングは好きでよくやっていました。(好き=センスあるでは無い事だけご了承ください💦)今回は、一番最初に実装された大邸宅「蒼いたてがみの荘園」のほうを紹介したいと思います。まだ荒削りですので、今後細かい小物等を調整していきます。エクステリア配置図正門入っての風景。やっぱり真ん中に噴水置いちゃうのあるある。
ではいやないですよいずりはと読みますこれも難読文字ですかね出灰というのは乙訓郡灰方・灰谷ともに古来石灰を産し朝廷に納めたことによります灰方庄は善峰川の上流一帯を包含する広範囲の荘園です古くは小畑川上流一帯の大江杣も荘域に入っていたらしく立荘は鎌倉中期以前と推定されています高槻市側からしかアクセス出来ないという超不便な出灰です西京区大原野出灰高槻市に編入して特例で学校は高槻市のほうに通学出来るらしいですがもう高槻市でええやんと思うのですが両岸挟んで高槻と西京区大原野といまだ分か
備前国にも小野庄があり、宇喜多秀家の家臣であった岡豊前守家利の城らしい岡城趾と水分神社(みくまり)と岡神社に小野氏の名残がないか見てきました。今回、北から降りてきたので最初に寄ったのが「水分神社(みくまりじんじゃ)」でした、登り口がわからず農道ような所を入っていくと正解で神社まで辿りつけました。狛犬は立派な角が生えており、小野氏が管理していた名残をみる事が出来ました。天水分大明神はよく分からない、古い神なので、たぶん地神だと思います。なので、狛犬の様子は小野氏が祀っていたと判断
こんにちは舩木です池田市荘園1丁目2号地のお引渡しが完了致しました池田市荘園1丁目はこちらの物件で完売となっておりますありがとうございました
こんにちは!あさひえん放課後デイサービス荘園です最近朝晩が冷え、秋っぽくなってきましたね~といいつつ、今週はまた気温があがる予報が💦体調管理には気をつけてくださいね!今日は【あさひえん荘園の日常】をお届けします。旅行をした際かわいいクッキーを見つけ・・・「みんなに食べてもらいたい絶対かわいい」と買ってきたお土産と、ポーズを決めてくれた子供たちです!ピースがかっこいいちょっとワイルドな表情をしてくれた二人
私のご先祖様が眠る福岡県うきは市に賀茂神社があります。ごく普通の神社に見えますが、物好きの方はWIKIを見てください。私の姓が出てきます(笑)小さな川が流れていますが筑後川へと続きます。賀茂神社のそばに「おらび石」があります。荘園工事の時に現場監督がこの石に上がって号令をかけてたようです。あっ!私のご先祖様の名前が・・・高さは低いように見えますが寝た状態な
日本には、東海林という姓の人がかなりいる。しかし東海林と書いて、「しょうじ」と読むことを、不思議に思った人は、結構いるのではないか?普通、東海林なら、「とうかいばやし」「とうかいりん」と呼んでよさそうなものを・・・。なぜ、しょうじ?かくゆう私も、子供の頃は、とても不思議に思った。東海林という名字は、古代、出羽国最上郡(現在の山形県)で生まれたという。当時は、普通に「とうかいりん」と、読んだらしい。現在でも、山形県に住む東海林さんたちの多くは、
下野薬師寺址栃木県下野市薬師寺1737「廻廊」址とその一部復元(左奥)。中央奥は、「戒壇」跡地の伝承がある六角堂。道鏡の左遷先として知られるが、「本朝三戒壇」の一を備える大寺だった。岩波新書平城京の時代―シリーズ日本古代史〈4〉八世紀の日本は、国家のすみずみにまで統治を及ぼす大宝律令の施行で幕を開けた。つづく平城遷都、記紀の編纂など、唐を手本にした体制が整えられ、奈良の都に天平文化が花開く。ところがそこに襲う疫病の流行、皇位継承をめぐる争い…。
だーん、と張り付けた地図は知る人ぞ知る「伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図」だ。中世の中央と地方の二重勢力支配を説明する、歴史の教科書にも出てくる鎌倉時代の地図。ほぼ現在の湯梨浜町のあたりになる。ざっとしか眺めたことがなかったが、いろいろと自分の中でなるほど、の発見があった。地図の西側にひょろひょろ流れて東郷池から出ている日本海に注ぐ橋津川に合流しているのは昔の天神川(旧名は北條川)である。現在の倉吉市内から真っ直ぐに日本海に流れるのは江戸時代の開削によるもの。当時の流域は湿地のようだ
P028義盛を侍所の別当(べつたう)とし、梶原景時を所司とし給ふ。去ぬる文治二年三月に平家追討の賞として後白河院より征東大将軍の宣を蒙(かうぶ)り、正二位(にゐ)/に転ぜらる。広元申しけるやう「世既に澆薄(げうはく)にして、人また梟悪(けうあく)なり。天下反逆の輩更に以て絶べからず。東国は御住居なれば、静謐すべしといへども、南方西北国に於ては定(さだめ)て奸濫(かんらん)の企(くはだて)を起さん歟、是(これ)を静められん為に、毎度軍勢を催して発向せしめ給はば、民の煩(わづらひ)国の費幾(つひ
越中国司館址富山県高岡市伏木古国府岩波新書平城京の時代―シリーズ日本古代史〈4〉八世紀の日本は、国家のすみずみにまで統治を及ぼす大宝律令の施行で幕を開けた。つづく平城遷都、記紀の編纂など、唐を手本にした体制が整えられ、奈良の都に天平文化が花開く。ところがそこに襲う疫病の流行、皇位継承をめぐる争い…。揺れ動く時代を人々はどう生きたのか。天皇・貴族や人民の動向を、豊富な資料を駆使して描く。www.kinokuniya.co.jp以下、年代は西暦
こんにちは舩木です旭区中宮5丁目7号地のお引渡しが完了致しました旭区中宮5丁目は全10区画残り4件となっておりますありがとうございましたそしてなんと本日はもう一軒池田市荘園1丁目1号地のお引渡しが完了致しました池田市荘園1丁目は全2区画残り1件となっておりますありがとうございました
日根神社大阪府泉佐野市日根野鎌倉時代~戦国時代にあった九条家領・日根野荘の鎮守であり荘民の生活と信仰の中心であった。境内には用水堰「大井関」があり、灌漑開発・管理のかなめでもあった。岩波新書平城京の時代―シリーズ日本古代史〈4〉八世紀の日本は、国家のすみずみにまで統治を及ぼす大宝律令の施行で幕を開けた。つづく平城遷都、記紀の編纂など、唐を手本にした体制が整えられ、奈良の都に天平文化が花開く。ところがそこに襲う疫病の流行、皇位継承をめぐる争い…。揺
明智秀満⑱「福知山市史」『光秀の支配は当然信長の方針に沿うたものであり、その信長も戦国末期、それぞれの地域に政権をうちたてていた群雄と同一の路線を一そう徹底させ、さらに広範囲に広げたものである。つまり楽市・楽座によって城下町の繁栄をもたらし、各地で通行税を徴していた関所を廃し、橋をかけ道路をよくする一方、重層的支配を単純化して耕作権を保証し、城の防衛と領国の発展に必要な人と富とを城下へ集めた。このことは当然物資の流通を盛んにし、一般商人の営利活動を促すものであった。』
「寄進地系荘園」が消える?(1)から読む前回まで、・寄進地系荘園から領域型荘園にシフトした教科書が3社あったこと・改めて『国史大辞典』を見ると「寄進型荘園」という第3の名称があったこと・清水書院との説明と「寄進型」との間には、共通する背景があることということまでお話しました。では、次に実教出版の説明を振り返ってみましょうか。再掲します。中世荘園が成立するおもな契機は寄進と立荘である。寄進を重視した寄進地系荘園の語が広く使われてきたが、寄進よりも立荘の重要性が明らかとな