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令和5年8月13日(日)13時~16時、有岡城跡にあるアイホール(伊丹市立演劇ホール)にて、伊丹市伝統文化体験フェス~荒木村重から学ぶ~こども能楽発表会・新作能「村重」鑑賞会を開催いたしました。128名の参加で会場内はほぼ満席。〈有岡mami〉の司会、村重子孫〈ごう〉さんの開会挨拶からスタート。第1部は能楽師さんによる能のミニレクチャーと楽器の紹介そして、こども能楽発表会。夏休み親子能楽教室に参加された小学生3人と保護者の方が小鼓演奏と「春日龍神」最後の一場面を見事に演じてくれました。
明智秀満㊷「多聞院日記」『天正9年(1581年)8月、去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也』光秀の妹の「ツマキ」殿とは、正室・妻木煕子の妹と思われる。妻木煕子とは東美濃の妻木城主・妻木広忠の娘であり、伝承ではよく似た妹がいたという。広忠は光秀の義父にあたり、光秀が織田家に仕えた前後に広忠も織田家に従ったようだ。その際に、妹を人質として出仕させたのであろう。「ウイキペディア」(要旨)『・天正5年(15
絵本豊臣勲功記(えほんとよとみくんこうき)(Ehontoyotomikunkouki)国書データベースkokusho.nijl.ac.jp
城:4(丹波一国と摂津の一部)武将:16兵力:約9300●1553年10月伊丹城を落とした後、しばらく三好軍の襲来が散発的に続きましたが、1か月で落ち着きました。…伊丹と言えば。伊丹は学習塾(全国展開してる超有名学習塾)のアルバイトで週3くらいで通ってた時期がありました。私が辞めた後、その伊丹校の塾長が塾の金を私的に利用したか何だかでクビになって、そのあとすぐ近くに自分の経営する学習塾を立ち上げたってところまでは風のうわさで聞きましたが、あの後どう
8月13日伊丹市アイホールで開催された「こども能発表会」は満席、盛況のうちに閉幕。こども達の頑張りに感動しました。そのあとはプロの能楽師による能の上演、新作「村重能」が発表されるなど熱い舞台となりました。始まりの挨拶で紹介しました、村重の一子孫の移動について、配布資料をアップしましたので、ご覧ください。また、ご質問や情報提供がありましたらご遠慮なくご連絡ください。有岡城の戦いは、荒木摂津守村重が織田信長に謀反し、1578年(天正6)7月から1579年(天正7)10月まで籠城して戦い、その
村重さんが判明したので、吟味開始。先ずはその村重さん。生命最多敵1体物ダメ2.50最大装填味方一人毎攻+50%(最大+300%)攻撃後最大装填味方装填全消費……なんだ、これは?たまげたなぁ……。いや、凄いね。+300%だよ、バフとは別に。非常に強力なボスアタッカーと言えよう。アクセス解析によると当ブログは閲覧者の95%近くが成人男性……つまり、元男の子。だから小学生男子感覚で記すけどさぁ……良いよなぁ、こういうの!味方の力を集約して放つ究極の一撃。ヒーローもので中盤頃
既に終わってしまった展示ですが、村重研究会の会員に関係する話がありましたので、記事投稿いたします。テーマ展豊臣大坂城史大阪城天守閣3・4階展示室会期2023年3月18日(土)~5月7日(日)出品点数114点(「出品目録」のとおり)この多数の展示の中に、目録番号11刀銘備州長船友久1口【京都・荒木家蔵】が出展されていました。この刀は、当会会員の先祖の甲府荒木家に伝わっていた刀であり、曽祖父の兄の曾孫の荒木氏が所持していた刀でした。甲府荒木家系図には先祖である「荒木
「逢坂の関跡」(滋賀県大津市)を訪問荒木村重の「逢坂の関」訪問時の状況は、以下のとおりです。元亀四(1573)年2月13日、足利義昭が織田信長を見限り、三好三人衆・本願寺などの信長包囲網に加わりました。(当連載(No.7)「高槻城跡」参照)追い込まれた信長は、義昭に和睦を望み、人質を差し出しましたが、義昭が信長に人質を返還し、和睦を許さないことを示しました。そこで、義昭を討伐するため、信長は岐阜を出発し、京都に向かいました。同年3月29日、村重は細川藤孝と共に、信長を山城(現在の京都
期間:2023/08/01〜08/16天井:100倍率:3倍初回:半額射)池田輝政:姫路宰相武)荒木村重:血気の数寄者武)後藤又兵衛:震電の虎牙覇)北条氏邦:北条堤の恩徳星3武)本山茂宗:心眼・参武)朝倉景健:心眼・参©コーエーテクモゲームス
―イメージには気をつけて―人気がある歴上の人物に「織田信長」がいますね。でも、世間のイメージは「経済感覚・行動力」と、よい面も見られますが、「残虐・非情」というイメージも見られます。わたしたちも、そうですが決して一面で生きているわけではありません。まあ、人気が大きい分賛否もわかれるのでしょうか。しかし、歴史好きのわたしからは「信長」の性格に、世間のイメージ先行が見られます。例えば、彼がそれほど非道とは見られない点に、・荒木村重の件でも、
2日目草津を出てから、まずは大阪下車スタバでコーヒーを買い込み、電車に乗り込む通勤時間帯なので、駅はごった返していて…うんざりぃ~~~(早朝に出たことに後悔)伊丹駅下車、目の前有岡城南北朝時代、摂津国人の伊丹氏によって建築され、文明4年(1472年)に改築されるまでの伊丹城が日本最古の天守台を持つ平城となった。しかし天正2年11月15日、荒木村重によって攻め落とされ、のちに伊丹氏の伊丹城を大改修し、有岡城に改称した。荒木村重は後に謀反を起こし、有岡城は織田信長に攻められて落城し
2023年7月27日--------------------------------------------自分の身の安泰は願わない。そうありたいですね。2022年7月27日--------------------------------------------潔い最後。義の武将。荒木村重ここに在りですね。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)1,894〜3,410円
朝の京都は安産祈願へ~市バスで移動します。ホテルで乗り場案内をもらったらとっても便利~岡崎神社にやって来た。うさぎ神社とも呼ばれる安産の神様。狛犬の代わりが多産のうさぎです。来年お孫4号が生まれるそうですからお参りしました~凄いね。ご神体のお腹をさするそうですよ。お札を買って帰ります~京都市内を回るのに🚌は便利です。西院にて、この後、京都駅でショッピングをしてJRで大津へ~山科駅。大津に到着
明智秀満⑮「信長公記」『古しへの綾羅錦繡よりも、今の経帷ありがたし。世にありし時は、きくも忌々しき経帷に、戒名さづかり、頼もしく思はれ候。千年、万年と契りし婦妻・親子・兄弟の間の中をも去離、思はずも、都にて諸人に恥をさらす事、此の上は、更に荒木をもうらみず、先世の因果、浅ましきとばかりにて、たし、歌あまた読み置き候。きゆる身はおしむべきにも無き物を母のおもひぞさはりたはなるたし残しをくそのみどり子の心こそおもひやられてかなしかりけりたし木
明智秀満⑭「信長公記」『十二月十三日、辰の刻に、百二十二人、尼崎ちかき七松と云う所にて、張付けに懸けらるべく、相定め、各引き出さし候。さすが歴々の上臈達、衣装美々しき出立、叶はぬ道をさとり、うつくしき女房達、並び居たるを、さもあらけなき武士どもが、請け取り、その母親にいだかせて、引き上げ引き上げ張付けに懸け、鉄砲を以て、ひしひしと打ち殺し、鑓・長刀を以て差し殺し、害せられ、百廿二人の女房、一度に悲しみ叫声、天にも響ばかりにて、見る人、目もくれ心も消えて、かんるい押さへ難
明智秀満⑬「信長公記」『此の由、聞こしめし及ばれ、不便におぼしめされ候と雖も、侫人懲らしめのため、人質御成敗の様子、山崎にて、条々仰せ出される。荒木一類の者どもをば、都にて仰せ付けらるべきの由候で、』信長は安土城に重臣、側近らを集めた。「摂津はまだしも久左衛門までもが逃げたか。荒木一族には真面な武士は、いないようだな。」と信長は、呆れたような顔で、光秀に言った。これには光秀も返す言葉もない。村重には自らの命と引換えにしてでも、妻子を救う手立てを期待していた
~能楽についてのミニ講座と小鼓・仕舞体験をしてみませんか~日時:令和5年(2023年)7月21日(金曜日)7月25日(火曜日)8月1日(火曜日)各回とも、13時30分から15時00分まで場所:本泉寺(伊丹市伊丹2丁目3-38)※自転車は本堂東側に停めてください。会場内に駐車場はありません。周辺駐車場をご利用ください。対象:小・中学生と保護者(低学年は保護者同伴でお願いいたします)参加費:無料定員:各回20名(申し込み多数の場合は抽選。抽選の場合のみご連絡いたします。)申し込み方法
夏休み親子教室に参加してくれた小・中学生による能楽発表会&能楽師の方々による新作能「村重」ぜひご鑑賞ください!日時:2023年8月13日(日)13:00~16:00■参加費:無料■定員:100名(申込多数の場合は抽選。抽選の場合のみご連絡致します)●主催:有岡小学校区まちづくり協議会共催:荒木村重研究会株式会社伝楽舎伊丹市新作能「村重」-あらすじ-切腹を間近に控えた千利休が愛用の茶器を手にしているところに不思議男が現れ、一服のお茶を所望。
明智秀満⑫「信長公記」『荒木返歌思きやあまのかけ橋ふみならしなにはの花も夢ならんとは』さて、この返歌は色々と解釈が分かれるようだ。私は素直に「二人で天のかけ橋を渡ろうと思って、ここに来たのに、浪花の花も夢になってしまうとは思わなかった。」と理解したい。つまり、包囲された有岡城を尼崎から救援に行くつもりであった、というのだろう。ところが内通者がして、その策を織田方に知られてしまい、反攻策は夢のように消えたのである。しかしながら、村重が本気で尼崎
明智秀満⑪「信長公記」『十一月十九日、荒木久左衛門、其の外、歴々の者ども、妻子を人質として伊丹に残し置き、あまが崎へ罷り越し、荒木に異見申し、尼崎・はなくま進上仕り、其の上、各々の妻子助け申すべきの御請け申し究め、何れも尼崎へ越し申すなり。此の時、久左衛門一首。いくたびも毛利を憑みにありをかやけふ思ひたつあまのはごろもと読みをき候。』本丸のみとなった有岡城に籠っていた城代・荒木久左衛門は、光秀を介して信長から「村重が尼崎城と花隈城を明け渡すならば、家
明智秀満⑩「信長公記」『十月廿四日、維任日向守、丹波・丹後両国一篇に申し付け、安土へ御礼まいり。其の時、志々良百端進上候ヘキ十月晦日、備前宇喜多和泉、御赦免に付きて、名代として、宇喜多与太郎、摂州古屋野まで罷り上がり、中将信忠卿へ御礼、羽柴筑前秀吉御取次なり。』宇喜多氏の赦免の願いは、信長の怒りを買い、一度は播磨に追い返された秀吉であったが、漸く信長の許しを得たようである。直家の養子・宇喜多基家が名代として、摂津の陣にいる信忠のもとにお礼に訪れている。宇喜多
JR伊丹駅前に残される有岡城跡に行ってきました。大河ドラマ「軍師官兵衛」の時以来約10年ぶり。伊丹市はお酒と空港のイメージがあります。江戸時代は郷町で城下町ではありませんでしたが、南北朝時代から戦国時代にかけては伊丹城(改名して有岡城)がありました。有名なのは城主荒木村重が織田信長に反旗を翻した有岡城の戦い。黒田官兵衛が幽閉されたという逸話があります。駅前にわずかな公園があり、石垣、土塁、礎石、井戸等が残されます。有岡城は平城で、駅前の主核と周辺の街を取り囲む総構えで
うっちーこと宇都宮芳綱です1-8鯖の本城主でつづらから天戦の片鱗をゲットし、それで天神くじが引けるようになりました2日前に引いた時は官兵衛さんが降臨しましたが、今度は何が出たかというとグフッ!><まあ官兵衛さんをゲットしたので贅沢は言いませんこれで本城主でも半額くじを全部引いたので、今後はくじは溜めますねブログ更新のモチベアップのためポチッとお願いします♪にほんブログ村戦国IXA(イクサ)ランキ
明智秀満⑨「信長公記」『九月十二日、岐阜中将信忠、伊丹表の御人数半分召し列れられ、尼崎へ相働きなされ、七松と云う所に、近々と取出二ケ所仰せ付けらる。塩河伯耆、高山右近、一与に定番として置かる。中川瀬兵衛、福富平左衛門、山岡対馬、一組に仰せ付けられ、古屋野へ御人数打ち帰らる。』有岡城は、とても大きな城で城内には砦が作られていたという。織田勢は長期戦を覚悟し、周囲に砦を作り、二重三重に堀を打ち、柵を設け、幾重にも包囲していた。村重は毛利氏や本願寺の援軍を待ち続けた
こちらの記事はどうする家康で来週本能寺の変があると言う事で2019年8月に記入したブログを再録しました。落合芳幾1833-1904歌川国芳門下で役者絵や美人画をよくした。明治以降は東京日日新聞の挿絵や東京絵入新聞のを創刊し錦絵新聞ブームを作った。落合芳幾作太平記之内本應寺大合戦之図(1861文久1年)江戸時代には規制がきびしく徳川家に関する絵は禁止されていました。この絵も誰が見ても織田信長の本能寺の変ですが「織田信長」→「太田平春永」にわざと変換して規制をかわし
明智秀満⑧「信長公記」『荒木伊丹、城・妻子捨て忍び出づるの事九月二日の夜、五、六人召し列れ、伊丹を忍び出で、尼崎へ移り候。九月四日、羽柴筑前秀吉、播州より安土へ罷り越さる。備前の宇喜田御赦免の筋目申し合わせ候間、御朱印なされ候の様にと、言上のところに、御諚をも伺い申されず、示し合わすの段、曲事の旨、仰せ出され、即ち、播州へ追い還され候なり。』村重が何故、謀叛を起こしたかには議論があるようだ。信長自身、心当たりがなかったからである。何せ、摂津国の石高は2
明智秀満⑦「岡山市史」『直家は備前の人なり。其先は児島高徳より出づ、高徳長子高秀即ち宇喜多の祖なりと云う。祖父能家、浦上村宗に仕えて功あり村宗の子、宗景之を忌み人をして之を殺さしむ。直家時に六歳なり乳母に従って走る、年十八宗景に仕え愛さらる。加冠して三郎右衛門と称し邑三百貫を受く人となり奸智に富みよく志を得、遂に謀計を以て封内の諸家を殪す。永禄四年畔いて其主宗景を圍む宗景讃岐に走る、遠藤河内を遣わして三村家親を暗殺し、後藤美作を鴆殺して美作を取る天正元年大に岡山に城く
三宅弥平次(88)「信長公記」『然して、高槻城主高山右近、だいうす門徒に候。信長公御案を廻らされ、伴天連を召し寄せらる。此の時、高山御忠節仕り候に、才覚いたすべく、さ候はば、伴天連門家何方に建立候へども、苦しからず。若し御請け申さず候はば、宗門を御断絶なさるべき趣、仰せ出だされ、則ち、伴天連御請け申す。』第二次木津川口の戦いで勝利を収めた信長は、いよいよ有岡城攻めを決意した。天正6年(1578年)11月9日、山崎に5万の兵力を集めると、10日には茨木城を包囲し
三宅弥平次(87)「信長公記」『此の上は是非に及ばざる由にて、安土御山に、神戸三七、稲葉伊予、不破河内、丸毛兵庫をかせられ、十一月三日、御馬を出だされ、二条御新造御成り。にて爰にても、維任日向守、羽柴筑前、宮内卿法印を以て、色々御扱いを懸けられ候へども、御請け申さず候。』天正6年(1578年)11月3日、光秀は二条御所の信長に、突然呼び出された。大急ぎで広間に入ると、そこには既に秀吉がいた。秀吉は光秀を見ると神妙に平伏するので、光秀も慌てて挨拶をした。「急