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〈2023.1.9「模擬患者はもう不要?(1)」〉の続きです。「医療面接の演習はAIのほうが上手くできそう」と言う人たちが出てきました。模擬患者(という口うるさいかもしれないシロウト)とつきあう手間が省けるという“誘惑”にも心惹かれるものがあるのかもしれません。そのように考える人は、医療の場のコミュニケーション/医療面接を「言葉のやりとり」だと考えているのではないでしょうか。言葉のやりとりだけに限定すれば、AIのほうが生身の医者より敬語も正しく使えそうですし、言い落しや言い間違
いきものがかりの歌は「笑顔」という題でした。それでというわけでもありませんが、〈2022.9.30「患者さんの笑顔に」〉を再掲させていただきます(一部加筆)。----------------------------------------------------------------------------------------------患者さん(家族を含みます)の「楽しいこと」「うれしいこと」(それは、ささやかなものかもしれない)を一緒に楽しませてもらうということを大切に
前回引用した山田悠史さんの言葉は、シシリー・ソンダースさん(1918-2005:近代ホスピスの母)の言葉に通じています。「あなたはあなたであるから大切なのです。あなたは、あなたの人生の最後の瞬間まで大切な人です。そして、あなたが平穏に最後を迎える手助けだけでなく、あなたが最後まで生きられるように、私たちは私たちにできること全てをします。」(〈2025.3.30「あなたのACPは「生きる希望の灯を灯しているか」?(4)」〉にも書きました。)あなたがどのような選
「緩和ケア」「ターミナル・ケア」は、その患者さんと出会ったその日から始まります。そもそも「緩和ケア」でないケアなどあるのでしょうか。ある日、突然「緩和ケア」「ターミナル・ケア」が始まる(方向転換する)わけではありません。患者さんと初めて会って「はじめまして、医師の○○です。よろしくお願いします」と挨拶したときから、「その日」のあとまでの対応のすべてが「緩和ケア」「ターミナル・ケア」です。その日の来ることが予測される病気の人・周囲の人との初対面の時から、どこかで「その日」「その日の後
村岡晋一『対話の哲学ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』講談社選書メチエ2008「われわれは他人の「苦しみ」を説明しようとする一切の試みをやめなければならない。ところが、説明の可能性が放棄されたときにはじめて、人間と人間の真の関係、つまり他人の「苦しみ」に「共苦=同情する」という関係が生まれてくる。」石川良子『「ひきこもり」から考える〈聴く〉から始める支援論』ちくま新書2021「本人を誘い出すために共感や受容を利用するようなことは、あってはなりません。」「共感が自分の目を曇ら
中島義道『うるさい日本の私』洋泉社1996「他人の気持ちが「わかったつもりになる」ことをやめ、他人を徹底的に自分とは「異質な者」として見る態度を養うことが必要であろう。他人は自分にとって「異質な者」であると自覚すればこそ、自分も他人から見たら想像を絶する「異質な者」かもしれないという自覚が生ずる。こうして、相互に「異質」であるからこそ、そこにお互いには安易に介入することのできない領域を承認しあい、尊重しあう態度が開ける。」奥村隆『他者といる技法コミュニケーションの社会学』日本評論社1
アラン『幸福論』岩波文庫1998「医者は、患者に「どうですか、おからだの具合は?」と決まり文句を投ずる。でも、患者の答えなどもう聴いてはいない。」「親切の中には人生を暗くするものもある。それはふつう憐みと呼ばれているもので、悲しみ以外の何ものでもない。」「われわれは・・・・生について説教するべきであって、死についてではない。希望をひろめるべきであって、不安ではない。人類の真の宝であるよろこびを、ともにはぐくんで行かねばならない。」「ものごとは何でも、始めにどんな態度をとるかによって決まっ
こんばんわ✨气を念じ、光を見つめ人が自分の人生の目的に気づき輝くお手伝いをする医学气光師であり国際中医師そして国際中医薬膳師の依田侑香里です💖今日もご气元さんでお過ごしでいたか11月も残すところ後5日ですね〜月に2回を目指して始めたインスタLIVEですが今月は中国への臨床研修お伊勢詣りそして私自身のトラウマを払拭するものとなった初のミュージカル出演とメルマガに書きたいことはいっぱいあった
その人が相手の人にどの程度共感しているかを測る「共感スケール」はずいぶん前から用いられてきています(例えば、菊池章夫『思いやりを科学する向社会的行動の心理とスキル』川島書店1988)。アメリカで開発された医療者用の「共感(エンパシー)スケール」を、片岡仁美さんが紹介しています(「共感と医療について(エンパシースケールを中心に)」日内会誌101:2103~2107,2012)。片岡さん(当時岡山大学/現在京都大学)はとても誠実な方で(2017年に岡山大学に講演で招いてくださったので面識も
・きちんとあいさつができること、感謝の言葉がきちんといえること、丁寧にお詫びができること。・ベッドサイドをまめに訪れ、傍でその人の話を聴くこと(長居することが良いとは限らない)。・相手の気持ちを気遣いながら、わかりやすい言葉で丁寧に話すこと。・患者さんに丁寧に「触れる」こと。添える手の丁寧さ、見つめる目の温かさ。・患者さんの辛さに目を凝らそうとすること。・どんな時も敬意を保ち続けること。こうした、親しい人なら「あたりまえ」のことをきちんとすることが、とりもなおさず共感的態度です。
ある病院での指導医養成講習会で、医師に求められる基本的臨床能力として「共感」を挙げる人が多かったということは〈2025.11.9「アウトカム基盤型教育と指導医養成講習会(8)最近の講習会で」〉に書きました。書いた人たちは「自分は共感できているけれど」と思っていたのでしょうか。「なかなか共感できないな」と自分に歯痒い思いをしてきたのでしょうか。「もっと共感的に接すればよいのに」と他の医師/研修医に苛立ったことがあるのでしょうか。いずれにしても、このような言葉をたくさんの中堅の医師が書
最近の指導医養成講習会では、以前武蔵野赤十字病院の研修医であった人や学生実習に来てくれた人が受講生として参加していて、再会を懐かしむことが増えてきました1)。「学生時代に病院見学でお話を聞きました」と言ってくださる方もおられるのですが、さすがにその時の記憶はほとんどないので、少しドギマギしたりもしています。以前の武蔵野赤十字病院の講習会では、「学生の時の見学で、先生が外来で『自宅にお客様を迎えるように接している』と言っていたことが一番印象に残っていて、自分もそうするように今も心がけてい
1994年、私の所属した小児科学教室が発行した教室50年誌に、私を含めて多数の同窓生が寄稿しました。(勝手に医局を飛び出した私なのですが、医局から“排除”されませんでした。そのあたりのことは〈2023.7.2「武蔵野赤十字病院に勤める(1/2)」〉に書きました。)そこに、後輩のI先生が次のように書いてくれました。「入局の年に指導していただいた先生方には皆さんにお世話になりましたが、日下先生には多くの面で影響を受けました。先生が強調されていたのは、看護婦さんや他の医療従事者は医者
〈2023.1.21「患者さんの笑顔に結ぶ医学教育」〉にも書いたことですが、医学教育の本当のoutcomeは手近な目の届くところにあるものではないと思います。とりあえずコンピテンシー(到達目標)ができることを目標とするとしても、それが卒業時点、研修終了時点で出来ていれば「教育は終わり」ではありません。たしかに「型を身につけられる」ようになることまでが教育機関でできることではあります。型を守り、型を突き抜け、自分の新しい型を作り出していく「守破離」、そこから持続した生き方を模索していく
伝え聞いたところ、医学教育学会総会の演題では指導医養成講習会での「カリキュラム・プラニング」は「もう不要だ」という意見が出てきているそうです。そうすると講習会は講義と指導技法の伝達になってしまいそうです。ガイドラインでカリキュラムが具体的に呈示されたからということなのでしようか。でも、ガイドラインをいくら読んでも(方略、評価の用語の用い方自体が適切でないということは措いておいても)、カリキュラム・プラニングを支える「理論/思想」が見えるわけではありません。「理論/思想」が見
講習会での経験が、参加者した医師のこれからの人生にどのように生きてくるのかは、私には見えない遠い未来です。その未来に向かって、カリキュラム・プラニング(テーマについて「目標」「方略」「評価」の内容を定めていく)の意味についてお話しをしました。臨床指導医ガイドラインが詳しく記載されているため、目標の設定はそこに与えられている9つの大テーマから選ぶ形になってしまいました(どこの講習会でもそのようになっているようです)。けれども、目標の設定で大切なのは「○○○のために△△△を修得する
10月に、ある病院の指導医養成講習会のお手伝いをしました。最初のグループワークで「社会が求める医師の基本的臨床能力」についてKJ法でまとめてもらい、終わりの方のグループワークでは「2年間でどのような医師を育てたいか」についてやはりKJ法でまとめてもらいました。一部の参加者が気づいたように、これはほとんど同じ内容です。でも、前者は社会=ふつうに暮らす人が求める医療であり、後者は、自分たちはどんな医療を提供しようと思うのかという「決意表明」です。「育てる」ためには自分がロールモデルにな
行動目標としてSBOが漠然としていることは珍しくありませんが、私の見る限りアウトカムとして書かれている「到達目標」はもっと漠然としています。これまでの講習会では、SBOの内容を「具体的に/わかりやすく/簡潔に」表記するようにと説明することがとても多かった気がします。プロセスと結果は不即不離のものですが、OBEの説明では故意に(?)無視されているような気がしました。「卒業時には何を学んできたのかではなく何ができるのかを明確に示し,それを確実に達成できるカリキュラムを構築していくア
実際のところ、従来のSBO作成にあたっては「・・・・できる(する)」というような言葉で「終わる」ようにと説明してきましたので、outcome(コンピテンシー)を表現しています。本質的には変わりがないのです。それなのに、欧米からの「目新しい」言葉に出会うとそれまでのものが全く誤っていたかのように「投げ捨てる」のは日本人の常でしょうか。従来のものでは「目標とした能力が修得されているのか,知識や技術に関する評価は出来ても態度や実践レベルでの評価ができない等の課題が顕在化している」と言うのは、
アウトカム基盤型教育OBEについて、熊本大学医学部HPには次のように書かれています。「近年、世界的にも医学教育において、「成果基盤型医学教育(OutcomeBasedEducation,OBE)」の考え方への転換が進んでいます。成果基盤型医学教育とは、「医学科卒業生が身に付けておくべき能力(教育成果)を明確にし、カリキュラムをその能力獲得のために構築すること」とされ、教育プロセスよりも到達する教育成果を重視し、医学教育の質の担保が求められるようになりました。」医学教育モデル
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━絶対合格2025年11/3みんなの社労士合格塾https://www.sr-rouki.com/━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━皆さん、こんにちは。みんなの社労士合格塾です。テーマ:研修医は、労働者に該当するかどうか【過去問1問1答ワンポイント解説労働基準法】問題H29-5E医科大学附属病院に勤務する研修医が、医師の資質の向上を図ることを目的とする臨床研修のプログラムに従い、
医者はどれほど患者や他の医療者に「ケア」されているかということに気づいているでしょうか1)。「医者も患者のケアに携わる一員である」と自覚するとしても、「ケアしてあげる」と考えてしまうようだとかえってケアからは遠ざかります。このケアはジョアン・トロントが言う「もっとも一般的な意味において、ケアは人類的な活動であり、わたしたちがこの世界で、できるかぎり善く生きるために、この世界を維持し、継続させ、そして修復するためになす、すべての活動」というような意味のケアではありません。「面倒を
到達目標に「3診療技能と患者ケア」とありますが、診療技能と患者ケアとをひとまとめにして良いのでしょうか。“到達目標/資質・能力(アウトカム)”作成にあたって、それが多くなりすぎてはまずいけれど“ケア”という言葉は入れたい。ガイドラインをまとめた人たちは相当頭を悩ませて、この表現に辿り着いたのだろうと推察しています。でも、この表現ではどうしてもケアが取ってつけたような感じです。ケアには清拭や排泄介助のような身体的ケアが含まれることは確かですが、この表現ではケアをそのように限定し
コミュニケーションは「能力」とされていて良いのでしょうか。2022年の研修指導ガイドラインでは、9つの臨床研修の到達目標/資質・能力が挙げられており、そのそれぞれに期待される具体的な目標(アウトカム)が書かれています1)。1.医学・医療における倫理性2.医学知識と問題対応能力3.診療技能と患者ケア4.コミュニケーション能力5.チーム医療の実践6.医療の質と安全の管理7.社会における医療の実践8.科学的探求9.生涯にわたって共に学ぶ姿勢※作成に
医学教育で、アウトカム基盤型教育(Outcomebasededucation/以下OBEと記載します)ということが言われ出してから20年近くになります。例によって新しい言葉の好きな人たちが飛びつきました(欧米で言われていることには追従しなければという強迫感もあります)。日本医療・病院管理学会HP(重点用語事典2019)には次のように書いてあります。アウトカム基盤型教育とは,最終的に到達すべき目標・ゴール(アウトカム)を明示し,学習者がその目標・ゴールに向かって主体的に学ぶこ
小児がんを経験した高校生が「再発への不安」を訴えるたびに、担当医が「大丈夫だから。僕が言うんだから大丈夫」としか言ってくれないことが不満だったという話を聞きました。でも、これが「最低のコミュニケーションだ」と言い切れないと思うのは、私が医者だからでしょうか。もちろん、もう少しだけ彼女の思いを聴いたら、彼女の気持ちは違うものになるでしょう。「どうしてそう思うの」と尋ねたら何かを言ってくれるでしょう。「心配になるよね」と「共感的」な言葉を待っていたのかもしれません。でも、そんなにう
マランには『熱のない人間治癒せざるものの治療のために』(法政大学出版会2016)という本もあります。「治癒をもたらそうとする野心の背後には、健康状態の最適化を目指す高性能の医療という考え方がある。・・・・その理想は、暗黙の内に、人間存在の改良という理想でもある。「健常な生」についての量的であると同時に規範的なアプローチは、そこから派生的に生まれる多くの途を開いていく。・・・・治癒させるということは、修正し、修繕し、繕い直し、定義し直し、改善することを意味する・治癒にともなう暗黙の問いは
「病いは病む人を他の人から切り離す。病む人は皆、自分の苦痛が他に並ぶもののないものだと頑なに信じ込んでいる。誰も本当に理解することはできないのだと。」「私は落下する石のようだ。」「私は自分を自分の手に取り戻すだろう。でも、一体どんな手に。」「彼女は何を言っていいのかわからない。いつも同じ表現を繰り返している、その反復が論理をもたない言葉に論理を与えるかのように。」「私たちは片言しか話せない言葉でコミュニケーションしなければならない二人の外国人のようだ。私は医者の言ったことをく
「病む人に対しては、誰もが、その体の状態を、最も秘められた隅々にいたるまで、尋ねる権利があると思っている。丸裸にされてしまわないように、人は嘘をつく。」彼女は別の著書『熱のない人間治癒せざる者の治療のために』(法政大学出版局2016)で次のように書いています。「良い患者とは、医学の教科書に現れるような、清潔で、協調的で、医者に本当のことを話し、その指示に完璧にしたがう患者である。言い換えれば、そんな患者は存在しないのだ。・・・・患者たちはどうしても嘘をつかざるをえない1)。医療は
「苦痛の閃光は私がはっきりとそれを認識するよりも前に私をとらえる。言葉はそのひらめきに対してどうしようもなく遅れてしまう。」「言葉の持つ穏やかに整えられた秩序、構造は、突然跳ね上がり吹き上がる身体、密かな拷問に対して、もう何の役にも立たない。」「病いは、自己愛的な傷を開く。けれど、なんといってもそれは、人を怖がらせ、遠ざける。人をうんざりさせ、不安にさせ、距離を穿つ。」「私は複数の言語を話し、それだけの数のやり方で生活について考える。どの言葉を使うのかは、話し相手によっ