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「どんなに年寄りになっていたとしても、人はその直前まで、到来しつつあるものが死であるということを受け容れることができないのではないかと思うのです。それなのに最近は、「終活(人生会議)をせよ」と、若くて元気な人々が老人たちに迫るようになっています。・・・・人生とは、その本質において中断であり、あるいは不発なのではないでしょうか」(船木亨『死の病と生の哲学』ちくま新書2020/著者は大腸がんで闘病中の哲学者)(この言葉は〈2022.5.12「明日枯れる花にも水をあげる」〉〈2024.12.1「尊厳
これの続き⬇️『◉初恋…そして39』これの続き⬇️『◉初恋…そして38』これの続き⬇️『◉初恋…そして37』これの続き⬇️『◉初恋…そして36』これの続き⬇️『◉初恋…そして35…ameblo.jp画面には『杉山博史』の文字が。美由紀は震える指でスマホをタップし、耳に当てる。「も、もしもし……」『美由紀ちゃん?』杉山の声が聞こえる。「は、はい。美由紀です」美由紀の心臓の鼓動が早くなる。『今、電話大丈夫?』「はい、大丈夫です」『特に用事があっ
Sharedprocessmakingなどと横文字で語っても、漢字熟語で語っても、どこか馴染みません(私だけ?)。「患者さんの人生と同じ時空を共に生き、一緒に悩み、考える」ということだと私は思っていますが、それを「一言で言う」のは確かに難しい。Decisionは、ある一定の期間、時空をともにし、それぞれのLifeが深まっていくProcessの積み重ねの先にしかありえないと思います1)。けれども、そのことは同時に「誘導」になる危険が増えることでもあります。付き合いが良いもの
「欲望形成関与」にしても、漢字熟語で言葉をまとめようとすると、それはそれで隔靴搔痒の感じがしないでしょうか。漢字も外来語だからでしょう。以下は、〈2025.10.3「SharedDecisionMakingはSharedProcessMakingでは?」〉の再掲・加筆です。SharedDecisionmaking(共同意思決定)という言葉があります。次のように解説している文章に出会いました。「確実性が低い選択をするとき、その不確実性を共有するのがShared
「共同意思決定」(SharedDecisionMaking/SDM)という言葉が出てきました。またまた横文字です。外国語が入るまで、こんなことを考えたことが無かったのでしょうか。これまで日本では行われてこなかったのでしょうか。日本はそんなに遅れているのでしょうか(こういう流れに反発する私は「国粋主義者」なのかもしれません)。(このことについては〈2022.4.13「アドバンス・ケア・プラニング(ACP)」〉〈2023.2.4「外国に範をとる?」〉〈2023.9.8「コミュニケーション
コミュニケーションは、言葉・態度のやりとり、情報の提供などを通して、お互いが少しずつ信頼を育むためのものです。信頼は、相手のいうことに虚心に耳を傾け、丁寧な分かりやすい説明を根気よく積み重ねていくことなしには生まれません。雑談を通しての信頼は、その先に生まれるものです。だからインフォームド・コンセントは、結論のことではなく、病気について話し合っていく「過程」のことです。それなのに「結論」ばかりが注目されます。「ICを取る」などと言うのは論外です。(「ICを取る」という言葉を聞くたび
患者さんが自分の症状についた診断を受け入れ治療方針を選んでいくとき、患者さんは「医師」というよりその「人間」を選んでいるはずです。医者は患者さんから選ばれる立場です(そのこと自体を不愉快に思う人もいます)。「こんな医師なら」という期待が、そこにはあります。現実には医師への「過剰な期待」、目の前の医師への「過大評価」があると思いますが(それが生れるのは必然です)、それにしても私たちはその期待に応えようとしているでしょうか。期待に応えられる医師であろうとしているでしょうか。「こんな
インフォームド・コンセントとは「納得と合意」だと考えるように私はなりましたけれど、はじめのうちは、まだ「患者さんの気持ちを聴くこと。そしてわかりやすい言葉で、時間をかけて、丁寧に説明した上で話し合って、患者さんに納得してもらう」というところに留まっていました(今でも、講演ではその部分の比重が大きくなっています)。でも、医者になろうと決めた時から、私がずっと考えてきたことは患者さんと医者との関係です。「医療の仕事は、患者さんの「このように生きたいという思い」を支えるもののはずだ。患者
1280)扶養家族/年収福岡市民病院の医師給与は、経験や職種により異なるが、救急科正規職員の経験6年目で月給1,065,000円程度、臨床研修医(1年次)は月額約325,405円(+賞与)が目安。たくさん勉強して、医師免許取得までカネもかかる。私には子育て経験がないが、年収1000万円以上なら、子供2人は育てられそうである。サラリーマン時代、団地住まいの部下が愚痴をこぼす。経済的にキツイらしい。聞くのが辛かった。2026/04/25撮影ーーーーーーーーーーーーー
医者になった時から、私は、医者(自分を含む)の言葉が患者さんに届いていないことがずっと気になっていました。あんな難しい言葉を、あんな「雑な」言い方をして、短い時間で(逆に「拷問」のような難しい話を長々とする医者もいました)、あんな上からの雰囲気で、患者さんが気を遣って身を低くしていることを無視して、・・・・。それなのに、一度説明したらあとは「医者の言う通りして」という雰囲気が溢れて。優しい説明、スマートな説明をする医者にも、その雰囲気は同じようにありました。だから医者になっ
「病い」の対極にあるのは、「健康」ではなく「日常性」だと、私は思っています(40年ちかく前に気づきました)。この日常性は、「もとの生活にもどる」ということではなく、「病む」という新たな事態をふまえて「(もとの生活よりは不安定なものにならざるをえませんが、それなりに)落ち着いた/納得できる」生活に辿り着くということ。それをアイデンティティの再構築と言うこともできると思います(エリクソンの言うアイデンティティとは少し違います)。それは、自分が納得できる「自分についての物語」を、自分で
患者さんは、病いのために心が千々に乱れる中で、分かりにくい医学の説明にとり囲まれます。インターネット、SNS、AI、身内/友人の医療者、・・・、情報源が溢れる時代であるだけに、混沌は大きくなります。そんな中で「早く,早く」と結論が迫られることも少なくありません(相手に余裕を与えずに対応を迫る「特殊詐欺」の手口とどこか似かよっているような?)。混乱した思いの中で「決断」を迫られた末の言葉であっても、それが「自分の選択だ」と言われれば逃げ出しにくくなります。人生を選ぶと言っても
このウルトラマンのハンコキャップ。実は、私が後期研修医として4〜5年目の頃、中津済生会病院で使っていたものです。日々の診療の中で、カルテや書類に何度も押してきたハンコ。ふとした時に目に入るこのウルトラマンに、少しだけ気持ちを支えてもらっていた気がします。先日、臨床研修プログラム修了のサインをする機会があり、久しぶりにこのハンコを使いました。あの頃と同じように、同じ手で、同じハンコを押す。20年以上の時間が流れているのに、不思議と一瞬で当時に戻るような感覚です。医師として
患者さんの「自己決定権(の尊重)」という言葉は、もう「あたりまえ」のことになっているようです。「自分のことは自分で決められる」ということが大切なのは確かです。でも、自己決定権という言葉は自己責任論でもあります。「自分が決めた」「自分の意思だ」と言えば「それを尊重する」と言ってはもらえます。けれども、その自己決定からもう逃げ出せなくなります。「あなたが決めたことですよね」と。患者さんの言葉が、言質にされかねません。混乱し迷い、その状態が続いているままま「意を決して」発した言葉
当院では、中医学臨床を深く学びたい学生・鍼灸師の研修を受け入れています。臨床で成長したい方、現場で使える弁証論治を身につけたい方を歓迎しています。これまでにも多くの研修生が学び、それぞれの治療院・現場で活躍する鍼灸師として巣立っていきました。研修では•臨床見学•脈診・舌診を含む弁証論治の実践•症例検討・フィードバックなど、現場で必要とされる“生きた中医学”を学べます。患者様の個人情報とプライバシー保護は最優先としており、安心して通院いた
「貧困を抱える親子は「助けてほしい」と訴えて目の前に現れることは少ない。むしろ困難を抱えた親子は、医療者など支援する側に陰性感情を抱かせやすい。和田は「イラっとしたとき」、すなわち患者に対して陰性感情や違和感を抱いたときこそ、患者が何らかの困難を抱えており、その背景に貧困を考慮すべきだと述べている」。「親子の困難はその困難事態だけでなく、「その困難を誰にも話せない」という孤立の影響が大きい。必ずしも医師がすべてを解決する必要はなく、「こんなことでも否定されずに話してよい」「一緒に考えてもら
「「私は、バカと話したくないから医学部に行きました」。以前取材した、ある現役医学部生の方から放たれた一言でした。彼の言う「バカ」とは「論理的思考力がなく、知識量も乏しく、知的好奇心もない上に、その場限りの感情に振り回されて生きる人・・・」。(布施川天馬日刊SPA!2025.12.14)ちょっと出来過ぎた話のような気もしますし、もし本当にそのように言ったとしても「露悪的な」人だったり、綺麗な言葉を言いたくない衒いからのものだった可能性もある1)と思いますが、そうした保留をしたうえで、
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医者は、患者さんとの会話でも「暮らし」からかけ離れた「堅苦しい/難しい」言葉で話していることが多い。病気の説明だけでなく、しばしば雑談でもそうです。患者さんの暮らしとかけ離れた言葉での会話は、どこかで空転しているはずです。そして、患者さんは医者のことを「面倒くさい人種」と思いながら、半ばあきらめて付き合ってくれているのだと思います。「安楽死」の定義、実施の条件などを詳細に規定することは事態の解決に役立つかもしれません。けれども、その「緻密さ」は、同時に、患者さんへのケアとは隔たるこ
「(自分は)医者でなくて良かった」と、参加した看護師の一人が休憩時間に言っていました。ディスカッションの場で、医者たちは「この言葉の定義がはっきりしないから、どう話し合って良いのかわからない」というところで話しはじめ、「この言葉とあの言葉は同じことを言っている」「いや微妙に違う」などと言い出す。そこにはマン(ドクター?)スプレイニングもありそうです。「あんな面倒くさい人種じゃなくて良かった」ということのようでした。医学に限らず、学問とは「面倒臭い」言葉の羅列です。私が学生だった
講習会の休憩時間に、このブログを読んでくれている武蔵野の研修医がいるということを参加者の医師(武蔵野の研修修了者)が教えてくれました。先日の研修医同総会で、入職時の研修医オリエンテーションの際に、「チーム医療とは患者さん本人と医療者とが輪になって「患者さんのいのち」の問題に向かい合い対処していくことだ」という私の説明が印象に残っていると言ってくれた12年前の研修医がいました。(〈2023.3.15「夢を交わらせたい」〉〈2025.2.10「チーム医療(1)」〉〈2025.2.11「チーム医
コロナや病院新築など諸々が重なったために7年もの間開催されていなかった武蔵野赤十字病院の臨床研修指導医講習会が、先日やっと開催されました(それまでは毎年開催していました)。「カリキュラム・プラニング」(えらんだ研修テーマについて「目標」「方略」「評価」を選んでいく)が講習会の中心なのですが、厚労省のガイドラインが具体的に提示されてからは、どこの講習会でもそれを自分たちで一から考えることは少し「軽視」されるようになってしまいました。企画者にとっても、せっかくガイドラインがあるので
な、直美・・・。ではない、「ちょくび」。臨床研修を終えてそのまま美容外科へ直行するお医者さんのことです。昨今増えたそうな。わたしは一昨年レーザーによるシミ取りを、保険診療メインの普通の皮膚・形成外科で(自費で)行いました。異状時スムーズに対応していただけると思ったからです。都合のいい解釈とは思いますが、「とる」まではヨシ。注射や糸など「入れる」は加工とみなし、わたしは手を出しません。華道も、ワイヤーなど用いる草月流より、池坊が好きです(´
ヤフーニュースに寄せられたコメントを読んでいると、ほんとうに「善意」「同情」から言っているのだろうと感じるものも少なくありません。でも、コメントの言葉は、現に今を生きている誰か(ALSの人、障害者・障害児、終末期にある人)の人生を「否定」しています(気づいていないのでしょうか、気づかないふりをしているのでしょうか)。ガイドラインが善意から作られているとしても、このような、現に生きている人を「踏みにじる」ような言説で支持されて良いのでしょうか。短い文章のためもあるでしょうが、
救急や集中治療などの関連4学会が、2014年11月に策定され終末期医療に関する指針を改訂した「生命維持治療の終了/差し控えに関するガイドライン」(案)を作成しました(先日までパブリック・コメントを受け付けていました)。ある医師の言葉です。「今回の改訂は、「終末期かどうか判断して治療を終了する」という発想から、「どのようなプロセスを経て生命維持治療の終了を判断するか」へ軸足を移した点に大きな意義があります。救急・集中治療の現場では、回復が見込めないまま装置依存が続く症例に日々向き合っ
柏﨑郁子さんの言葉。「医療の目的を「生存」以外に求めることは、存在論的に明らかに矛盾しており、不合理である。また、「健康」概念を拡大し、「人生の目標」といった論争のある「規範」を医療の目的の中に含めることは「傲慢」とも言えるし、まさに「ほとんど達成不可能なゴール」を目指すことになるかもしれない。」「患者が「残酷」「無情」「無慈悲」と見做されるような状態であると「感情」のレベルで共感するよう
〈2024.11.20尊厳死と社会保険料給付抑制(4/16)「延命は望みません」?〉の再掲です(一部加筆)。医療行為はすべて「延命」のための行為なのですから、殊更に「延命」という時には「無駄な」「無益な」「意味のない」「ただの」というような言葉がくっつきます。「延命治療」と言われるものの範囲は曖昧ですし、恣意的に広げられてしまう可能性が小さくありません。「無駄だ」「無益だ」という言葉(QOLという言葉もそうですが)には、そのようなことを「他人」が評価して良いのでしょうか。できるこ
前回の〈2023.4.20「集団自決を勧められました」〉再掲の続きです(一部加筆)。「人間として知るべきことは、生き残ることと殺さないこと以外にはありえない。人間は、そのことさえ知っていれば足りる。ところで、〈老人〉は、生き残ることの善さと殺すことの罪をすでに知っている。そして〈若者〉もおぼろげにそれを弁えている。だから〈老人〉や〈若者〉にとって、それ以上知るに値すること、それ以上に為すべきことは何もないのである。」(小泉義之『兵士デカルト-闘いから祈りへ』勁草書房1995)
〈2023.4.20「集団自決を勧められました」〉に加筆したものです。「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と言った若い「経済学者」が居ます。「老害」政治家を念頭に置いた比喩的な表現1)だと弁護する人もいますが、それならばそう言うべきです。現実には、このような言葉が「弱い(金も力もない)」高齢者が優先的に廃棄されていくことの促進剤になります。後期高齢者の私など、真っ先に勧められているのだと思いました(私自身、老害の要素は十分に抱えていると思っていますし)
看護教員の柏﨑郁子さんは、ヘルガ・クーゼの「安楽死擁護論」を何度か批判しています。「健康概念の過剰な拡張は、医療化の進展を招く。ここでいう医療化とは、「悩み」に医療が応答し、全人的領域まで医療の対象を広げることである。たとえば、終末期患者の「意思決定支援」では、制度に準じたプロセスが医療の差し控えや中止を正当化し、患者と家族、多職種の「連携」や「話し合い」のファシリテートが看護師の専門性と見做されることがある。それは患者の「悩み」に応えるための自律的な看護ともいえるが、実際には