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※天王山夢ほたる公園案内板…山崎古戦場跡は京都縦貫道造成工事、近年の学校建設、宅地開発、田畑化などにより、陣跡などは消滅、痕跡を窺い知ることは出来ません現在は、推定激戦地付近の京都縦貫道高架下に「天王山夢ほたる公園」が造られ、市民の憩いの場となっています山崎古戦場1️⃣山崎古戦場には、今回初めて行きました。山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。行ったと
【問題】≪難問≫賤ヶ岳の戦いで、羽柴秀吉が本陣を置いたとされるのは次のうちどこか?【選択肢】木之本地蔵院竹生島丹生神社尾上浜【正解】木之本地蔵院【解説】賤ヶ岳の戦いにおいて、秀吉は木之本地蔵院(浄信寺、滋賀県長浜市)に本陣を置いたという。この時の戦火で寺は焼失したが、慶長6年(1601)豊臣秀頼の命により再建された。
NHKの大河ドラマを初めて面白いと思ったのが『国盗り物語』1973年、私が20歳の時分の作品だもちろん司馬遼太郎の原作も読んだが原作よりドラマのインパクトが大きかった平幹二朗が演ずる斎藤道三が油売りをしているシーンを未だに覚えている(ドラマの冒頭だった)信長(高橋英樹)に取り入る羽柴秀吉(火野正平)と明智光秀(近藤正臣)の確執にドキドキした火野正平の剽軽な秀吉が大好きだったし端正で真面目な近藤正臣は明智光秀そのものだった近藤正臣は「柔道一直線」でピアノを足の指で弾いていた
この写真は令和6年2/28現在の状況です。ぼく昔から“戦”が嫌いで、“戦国”にも興味なく、ずっと関連の映画やドラマも見なかったんです。最近は好きな時間に視聴できるNHK+で大河ドラマを拝見するよぅになり、信長の安土城に一度行ってみたいと思ってました。午前中は曇りだけど雨は降らなさそぅなので、急に思いついて、近江八幡の隣り駅/JR安土駅下車。↑セミナリヨ跡(伝承地)より。安土駅周辺はかなり寂れた感じでコンビニもなく、街中も住宅はあるものの天下一の城があったとは思えない閑散とした雰囲気です。
※こちらの記事は、平成31年2月11日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「合戦における戦術について」シリーズの第7弾ということで「箕輪(みのわ)城の合戦」について書きます。『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の羽村滋氏の記事を参考にしています。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名をのせています。参考第1弾勝弦峠の合戦第2弾戸石城の合戦第3弾長森原の合戦第4弾三分一原の合戦第5弾栃尾城の合戦第6弾川中島の合戦まず
天王山制覇天下取ったどー。#山崎城#天王山城#天王山宝寺城#城#城跡#山崎の戦い#山崎#京都#明智光秀#羽柴秀吉#日本100名城#続日本100名城
こんにちは3月に入りましたが、厳しい寒さが続いていますね花粉や寒暖差もあり体調を崩しやすい時期ですので皆様くれぐれもご自愛ください本日も2月の歴史館お土産ランキングを発表します【武将印・花押印編】です!🥇武将印家康🥈武将印信長🥉花押印信長2月は徳川家康の武将印が1位になりました2位、3位には織田信長の武将印・花押印がランクインしていますねさすが信長様です今回ランクインした商品以外にも、徳川家康の花押印、羽柴秀吉の武将印・花押印があります
滋賀県の観光スポットのお話🏯滋賀県長浜市にある、JR🚋の長浜駅🚉長浜駅🚉の目の前にある銅像。秀吉公と石田三成公出逢いの像豊臣秀吉と若き石田三成の像です鷹狩の途中に観音寺に立ち寄った秀吉に少年の石田三成が気が利くお茶の出し方をし、秀吉に大変気に入られたという、三献の茶を現した銅像。石田三成は滋賀県出身の人物ですが、豊臣秀吉は愛知県出身なんですが、この長浜に長浜城🏯を築いた人物で、二人とも長浜にゆかりがあります❗長浜駅🚉東口から出ると黒壁スクエア等の観光スポットがありますが、西口か
歴史ヒストリアで、羽柴秀吉との出会いを紹介してた。佐吉という名前で大原観音寺に仕えていた石田三成にお茶をお願いした逸話が本当なら、三成は相手の気持ちを汲み取れる優れた人物という事になる。それが、朝鮮出兵からほうほうの体で撤退してきた加藤清正や福島らと修復不可能な断絶が生まれたのはなぜ?人の気持ちを汲み取ると言っても、上司に対してだけか?同僚、部下を見下すなら、完全にヒラメだ。でも、石田三成の佐和山の統治は領民思いの「善政」とされており、領民から慕われていた。石田三成
※こちらの記事は、令和2年11月15日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第34弾として、「備中高松(びっちゅう・たかまつ)城の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事】第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第12回三方ヶ原の合戦第14回叡山焼き討ち第18回長篠の合戦第21回高遠城の合戦第22回江古
おはようございます③国立劇場第227回文楽公演日本青年館ホール第二部戻駕色相方感想です常磐津の名曲を義太夫にうつした作品国立劇場主催の東京公演では初上演なのだそうです春爛漫🌸かむろは当然かわいいのだけどうしろで両手で頬杖ついてる男二人がまたかわいく思えました★羽子板〜♪⬆国立劇場Xより駕をかくこの男たち実は秀吉と五右衛門ですライバルを並べたり共演させたりこの気持ちや発想好きです詞章読み込めてなくて💦ちょっとふわっと聴いててのほほ〜んとしてました😆えへ楽しい
※こちらの記事は、令和3年1月27日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第38弾として、「小牧長久手(こまき・ながくて)の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】第1回今山の合戦第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第8回金ヶ崎城の合戦第10回二俣城の合戦第11回一言坂の合戦第12回三方ヶ原の合戦
/秀吉に武将ら当惑?書状写し発見-Yahoo!ニュース//秀吉の自己顕示欲くっきりお手柄アピールに信長側近から返事(毎日新聞)-Yahoo!ニュース/前後一覧/令和6年2月/
昨晩、前々から靴や冬物衣料品の調達に行こうと思っていた「三田プレミアムアウトレット」へ翌日(2/8)に行こうと思い立ち、折角三田まで行くなら近辺の山城に立ち寄ろうと思い、ネットで行き先の山城を色々と検索した結果「淡河(おうご)城」(兵庫県神戸市北区淡河)に決め、縄張図をネットで抽出し予習をしました。家を9時に出て、「中国道」を西宮北インターまで乗り、そこから一般道を走りました。地図では「淡河道の駅」近辺となっていましたのでその駐車場に止めると、真ん前の段丘上に「淡河城址」と大きな看板が見え
2024.1.5.羽柴秀吉の、中国攻めの時、毛利は「備中七城」と呼ばれる七つの城の防衛線を張りましたその中でも、中心の城となったのが、清水宗治が守る備中高松城毛利軍が援軍として来た時は、既に水攻めが行われ城は水の中でした。ずっと気になりながらも、身近過ぎて後回しにしていた鷹ノ巣城跡へやっと、時間をつくって行ってきました(いつも、よく見る景色)主力を率いた小早川隆景軍(約20000)高松城から離れた江田山に陣を置きました江田山は、日差山と尾根が繋がり大軍を配置できますその先に、
明智光秀の本能寺の変までの心情を描いています。下巻は、四国征伐から始まります。土佐から起こった長宗我部元親が、四国制覇を達成します。織田信長と同盟した長宗我部は四国は切り取り次第のお墨付きをもらいます。元親は四国制覇を成し遂げましたが、信長からは約束は保反古にされ、本領土佐のみ安堵、他は没収と言われ、抗戦を決意します。この長宗我部との交渉を担当していたのが、明智光秀でした。長宗我部を滅ぼすのなら我が手で。明智光秀はそう考えます。北陸司令官柴田勝家や毛利氏担当司令官羽柴秀吉が織田家中
『楼蘭』は井上靖さんの歴史短編小説集で十二話を収録しています📕🎵井上靖さんが生涯に渡って取り組んだいわゆる西域ものの『楼蘭』や『洪水』等の作品が中心の短編集です🏜️🇨🇳『楼蘭』の中で一番好きな作品が明智光秀が主人公の『幽鬼』です🤗ストーリーは明智光秀は西上の途中で本能寺を襲撃する事に迷いが生じます🤔その光秀の前に、光秀にしか見えない自らが滅ぼした波多野一族の兵士達が現れます…😵❗しかし気付けば京へと続く道でした⚔️光秀はそこで初めて近臣達に織田信長を討つ事を告げます🔫💥そして本能寺を襲い信長
2月2日その11181年(養和元年1月17日)-後白河法皇平清盛の死去に伴い院政を再開する。1580年(天正8年1月17日)-三木合戦(三木の干殺し)が終結。羽柴秀吉が三木城を陥落させる1954年-日本航空が日本で戦後初の国際航空路・東京-ホノルル-サンフランシスコ線を開設。1971年-湿地の保護に関するラムサール条約が制定される。忌日1580年(天正8年1月17日)-別所長治。播磨国の戦国大名。記念日2021年は節分。世界湿地の日ラムサール条約調印を記念
【感動の映画『首』を観ました】映画『首』公式サイト大ヒット上映中!衝撃に備えよ。構想30年、北野武監督が放つ前代未聞の“本能寺の変“。出演:ビートたけし、西島秀俊、加瀬亮、中村獅童、浅野忠信、大森南朋movies.kadokawa.co.jpこんにちは、真右エ門窯の支配人の馬場泰嘉です。先日、北野武監督の最新作『首』を観てきました。本能寺の変を題材にした歴史劇ですが、北野監督らしい斬新な視点とユーモアが満載で、驚きと笑いと感動の連続でした。特に、羽柴秀吉役のビートたけしと明智光秀役の西
船着き場から山上に上がる石段の道。昔は「西路」と呼ばれていたようです。天正三年(一五七五)五月一八日付けで、四人衆の快雄(第一座、?~一五八三)・円運(第二座、?~一五七六)・行意(第三座、?一五七九)快済(第四座、?~一五七五)は、竹生島寺領の掟を定めました。北近江の支配者となった羽柴秀吉が三千石とも言われた竹生島寺領を大幅に縮小し、三百石にしたことへの対応策であると考えられます。この掟の内容を整理すると以下の通りになります。①目録を作成したので、それに随って田地を支配すること。
こんにちは本日も12月小牧山城お土産ランキングをご紹介していきたいと思います本日は【武将印・花押印編】です🥇武将印徳川家康🥈武将印織田信長🥉花押印織田信長12月は徳川家康の武将印が1位になりました2位、3位には織田信長の武将印・花押印がランクインしていますさすが信長様もお強い、、、今回ランクインした商品以外にも、徳川家康の花押印、羽柴秀吉の武将印・花押印があります書道アーティスト池谷公智氏の作品で、どれもとてもかっこいいです⊡■
昭和に再建された長浜城◆蓮華会頭人の差定まず、竹生島最大の祭礼行事「蓮華会(れんげえ)」の頭人(祭の主役)の差定(選定)ついて概略を説明します。蓮華会の頭人は、浅井郡(現、長浜市の一部。旧、東浅井郡、西浅井郡域)に居住する人の中から、予め、人格者を数名選んでおいて、毎年十二月の吉日に弁才天の宝前において籤を取り決定します。年が明けて正月一日より七日までの間、本地である観音の宝前において修正会を勤行し、頭人へ「差シ定ムル」牛王を加持します。八日には先頭(過去に頭人になった実績がある家の人
昨年の11月29日から大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを始めました。途中約1ケ月の中断をしてしまい2024年に突入してしまいましたが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。<「家康」等の出来事>「高天神城」を落とした「家康」に対して、「武田勝頼」はどんどん凋落していきました。1582年1月には信濃の有力豪族「木曽義昌」が「織田方」へ
縄張奉行だった羽柴秀吉は「蛇石」と言う約10m、重さ約112トンもあった巨石を引き上げていたのですが途中で綱が切れて150人余りが挽き潰されたと記録に残っているようですそしてその石を再び引き上げて安土山山頂まで運んだはずなのですがその石を現在まで見つかっていません。そんなに大きな石ならば直ぐに見つける事が出来ると思うけれどなぁ〜⁉️
黒鉄門から二の丸までの道は石垣で前方が見えないようにしていたり何度も屈曲させた狭い道を通らせていて大手道では、あんなに無防備だったのに城内ではやはり戦いを想定した城の造りとなっていましたね。二の丸の左側には1583年、羽柴秀吉が織田信長公の為に建立した本廟があり刀や烏帽子などの遺品が埋葬されていると言われています。
土塁や石垣を食い違いにする事によって敵が城内を直接見ることができず直線的に侵入できないよう防御機能を加えた出入り口(虎口こぐち)なあった黒鉄門の先が城内と考えられます。本能寺の変の時、蒲生賢秀が留守居役として在城していました。蒲生賢秀・氏郷親子は本拠地の日野城に信長の妻子達を移動させました。その後、明智軍が安土城を占拠します。しかし光秀が羽柴秀吉に敗れると直ぐに天主・本丸が焼失しました。焼失した理由はたくさんありますがどれも確たる証拠がありません、その後、安土城は信長
信長は天皇の行幸を計画していたらしく通常、城の出入り口は1箇所だけですが西枡形虎口以外の正面には平安京の内裏と同じように三門にしたようです。石垣で用いた石塁は東西約110mありましたが江戸時代以降、水田に使用されて石塁の大半が消失した為築城時の高さは不明です。残っている礎石も僅かの為、大手門がどの場所で規模や構造もわかっていません。当時、大手道を歩く人達に思いを馳せ両側にあったとされる前田利家や羽柴秀吉の館跡を見ながら登ります。
今週は被災地能登周辺は寒くなるようで。スキー場とか夏場の渇水を考えたら、全く雪が降らないのも問題がありますが、今年の能登地方の場合は厳しい状況ですので、あまりドカ雪にならないことを祈ります。ということで、暖かそうな旅行記というかお散歩記録。三重県亀山市で開催された「さわやかウォーキング」に参加しました。2023年6月4日撮影。この時は「花しょうぶまつり」が開催されており、コースもそれに合わせたものとなっておりましたが、まず撮ったのは、あじさい^^;こういう背景で撮るのはなかなか
2024年1月15日--------------------------------------------歴史を学べば、出会いも学べるかもしれませんね。恋の出会いは歴史では解決不可能かもですけど。2023年1月15日--------------------------------------------半兵衛、秀吉との出会い。歴史を変えていく瞬間でもあったのですね。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)1,894〜3,410円
(リマスター版)造山古墳3(岡山市北区)2019年3月20日渡り廊下のような長い前方部の崩落現場を過ぎると緩やかな斜面に差し掛かり、数本の巨木が待ち構えます。高度差10ⅿ余りの後円部へ登り詰めると径200ⅿ余あろうかとみえる平坦部が拡がります。古墳全体は三段築成で、表面には葺石がふかれ、各段には円筒埴輪も立て並べられていたようです。残念ながら墳丘上には一切の痕跡は見当たらず、ほのぼのとしたピクニック広場のようなそっけなさを覚えます。墳頂には隆起斜道(後円部に登道)や掘割墓道