ブログ記事329件
2日目スタート、清洲城。こちらは昭和平成の復元。家康の清洲越しで取り壊され、当時の設計は全く分からないから、守山城を参考に復元したらしい。受注は竹中工務店。かつて信長の普請奉行で家臣だったのが、竹中初代の藤兵衛だった。是非やらせて欲しいと手を挙げたんです、不思議な縁ですよね、と多分ボランティアの男性が教えてくれた。こちらは発掘・移設された本物石垣。地盤が悪く、枕木などで補強した。公園内に建つ信長像。清洲城内の展示。朝日遺跡はこの後行く。信長の時代も、城とは言え城郭は無く、館だったとの
天正伊賀の乱-信長を本気にさせた伊賀衆の意地(中公新書2645)Amazon(アマゾン)山に囲まれた小さな盆地の伊賀国は、古くから交通の要衝でした。室町時代は足利氏の庶流の仁木(につき)氏が守護を務めていましたが力は弱く、土着の国衆がそれぞれの領地を支配して分立していました。伊賀国として国衆たちが一致団結して行動していた訳ではなく、周辺の伊勢北畠氏や近江六角氏など有力大名の影響を受け、それぞれの国衆が実利で動いていました。伊賀といえば忍者ですが、当初は傭兵のような形で周
晴れてよかったですね~城下町小幡さくら祭りの武者行列を観てきました。ちょっと残念なことは桜が咲いていなかったこと・・・ゲストはNHK大河ドラマ【どうする家康】で織田信雄役の浜野謙太さん近すぎて馬まで撮れなかった・・・浜野謙太さんはミュージシャンハマケ~ンと呼んだらこっちを向いてくれました楽しくてを振っていて写真撮ってなかった~この後、お祭り広場で聖徳の樽酒を頂いたら・・・ぐったり昼間のお酒は効きますね~
羽柴秀吉邸跡の向かいには、前田利家邸跡があります。この虎口、他ではちょっと見られない。いや、あるかも知れないけど、私の知識にはないです。石段の方からでは分からなかった。武井夕庵邸跡の石垣。修復とかしていない、残ったまんまなのかな。織田信忠邸跡。今は木々で遮られているけど、発掘などが進むと今よりもっと家臣や親族の邸宅跡が出て来るようです。石段の高さが緩やかに。森蘭丸邸跡。織田信澄邸跡。黒金門跡、石垣もより重厚さを増します!この先本丸ですからね。途中に供養塔。織田信雄四
国指定名勝楽山園へ行ってきました。江戸時代初期に織田氏によって造られた小畑藩邸の庭園。楽山園の由来は論語「知者ハ水ヲ楽シミ、仁者ハ山ヲ楽シム」の故事から中門から石垣で小さな桝形が築かれ、その先も土塁が立ち塞がります。拾九間長屋(長屋内にビデオやジオラマがあります)時代背景や雄川からの用水で町造などビデオを見て理解。信雄の書状(小牧長久手戦に関連)などが展示。土塁と空堀藩主の屋敷などが建ち並んでいた内郭池泉回遊式の借景庭園で、「戦国武将庭園」から「大名庭園
ふたたび、こんばんは。1日ぶりですね。まだ夜は寒い名古屋です。さて、伊勢路の旅の続きです。田丸城!石垣が段々でかっこいいです!天守閣跡ここも綺麗な算木積み!織田信雄は、この前のどうする家康でも後半少しカッコよくなってましたが、ダメ殿のイメージが徐々に変わってきてて、今は良い殿だったとの評価が高くなってますね。さて、田丸城を後に次に向かったのは、松阪!!!松阪と言えば、松阪牛!ではなく笑、松坂城です!松坂城の坂は松阪のこざとへんではなく土へんです。大阪城も、正確に
1615年(元和元年)大和宇陀3万石に加え小幡2万石が織田信雄(信長次男)の領地となり、信雄は大和宇陀に居住し、信雄4男信良が小幡に入りました。石高は低いものの、信長の子孫として国主格の待遇をされていました。信雄は小幡に居住はしなかったのですが、初代藩主になります。手前の芝生の所に1871年(明治4年)の火事まで崇福寺がありました。宝暦か明治のいずれかの火災に遭う前は崇福寺から回廊でつながって建屋があったようですが、火事により焼失。それからは露天にあったのですが、令和になって建屋を
※こちらの記事は、令和2年8月12日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第25弾として、「天正伊賀の乱」について、ビジネス的視点で見直したいと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。第1回今山の合戦第2回耳川の合戦第3回沖田畷の合戦第4回小豆坂の合戦第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第7回稲葉山城の合戦第8回金ヶ崎城の合戦第9回姉川の合戦第10回二俣城の合戦第1
※こちらの記事は、令和3年1月27日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第38弾として、「小牧長久手(こまき・ながくて)の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】第1回今山の合戦第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第8回金ヶ崎城の合戦第10回二俣城の合戦第11回一言坂の合戦第12回三方ヶ原の合戦
前回、紫式部の流れから思いもよらない人が出てくると書いたのだけど、さて❓誰でしょう❓実は南北朝時代に南朝の後醍醐天皇に仕えて活躍した、北畠親房がその人紫式部の子孫である藤原範子と土御門通親の間には3人の男子がいて、北畠親房は、その3人の中の中院通方の末裔になる中院通方という方、源頼朝の同母姉妹の坊門姫を妻としていて、2人の間に生まれた通成の流れからは北朝の光厳天皇に繋がるそして、別の妻、源雅頼の娘との間に生まれた北畠雅家のひ孫が親房更にその子孫の木造家の娘が織田信長の息子の信雄に嫁ぎ
どう逃げた家康生涯最大の危機は奈良が救った?通説に異論(毎日新聞)-Yahoo!ニュースNHK大河ドラマ「どうする家康」(2023年1~12月放送)で描かれた戦国武将、徳川家康(1542~1616年)。その天下人が生涯最大のピンチを脱した際の逃亡ルートについて、在野の研究者が通説に異news.yahoo.co.jp本能寺の変後、徳川家康は堺から三河までどう逃げたか?通説では堺→京都→近江日野→伊賀→伊勢→三河だったかな??「知恩院で切腹する」なんて言ったか言わなかった
羽柴秀吉は、中国大返しによって、明智光秀に勝利し、主君の織田信長の仇を討った。織田信長には、嫡男の信忠の他に、次男の信雄及び、三男の信孝を始め、信秀、長次等の十一人の息子がいたと言われる。しかし、羽柴秀吉は、織田信忠の息子、織田信長の嫡孫、三歳の三法師を、織田家の家督相続者とした。その後、羽柴秀吉は、自身と対立する、織田信長の三男、織田信孝を殺害し、柴田勝家に勝利したことで、織田家の天下を完全に奪ったのである。織田信長の次男の織田信雄は、徳川家康と同盟し、小牧長久手の戦いで、豊
「どうする家康」中央の金色の扇ですね。ここを目掛けて突進する大坂方。初期においては「厭離穢土欣求浄土」の纏と併用していたようですが、後に「金扇の馬標」のみになっていったようです。「大坂夏の陣」においてはこの金扇の馬標に突進して行ったのに対して、「小牧・長久手の戦い」の資料を読んでいるとこの金扇が立てられた時に不利とみて退却したと言われている堀秀政の「桧ヶ根本陣跡」を見つけました。堀(久太郎)秀政堀秀政は、美濃斉藤道三の家臣である堀秀重の長男として天文22年(1553
天海㉕天海が退席しようとすると、思い出したように家康が言った。「そうだ、今度、勘右衛門にも知行を与えることになった。確か、上総の国で…5千石であったか。」と正信に尋ねた。「あっ、いや、もう少し少なかったかと…。」と困惑した顔で正信は言った。(…ということは3千石くらいかな。)と天海は内心思った。「有難きことにございます。5年ぶりの所領でございますので、勘右衛門の喜びもひとしおでございましょう。」と天海は、ほほ笑んだ。「うむ、江戸にも屋敷を与えるゆえ、今度
織田信雄もそういえばプリンス🤴織田信長の次男織田信雄も和睦派平和🕊️主義で上手に生きていた感じこのあほたわけは、織田信雄に言っていたともいえる私だったらそうあの、小牧長久手の戦いは勝ったのに悔しかったな織田信雄が勝手に和睦したせい今川氏真もhappyプリンス🤴
天海⑲家康は三男・長丸(秀忠)を人質として上洛させるが、秀吉はすぐに送り返した。「私は全面的に従います。」(家康)「大丈夫、信頼していますよ。」(秀吉)という無言の会話であり、阿吽の呼吸である。家康は、領内の駐留・通過を許可し、街道の整備・諸城の使用許可・舟橋の構築を行ったのである。2月に入ると各大名が出陣を始めた。2月10日、毛利水軍が安芸国厳島から出立、20日に播磨国兵庫に着いた。一方、志摩には九鬼水軍、来島水軍、脇坂安治、加藤嘉明、長曾我部元親らが集結し、水軍
この人が米子のおばちゃんの先祖かあ〜!へへへへへへ家ついて行ってイイですか?でさっき出たフェミニスト酒焼けレディ将来有望な立憲支持者になるんでしょうねえ!テレ東スタッフもチャラ男のようだったし、テレ東も終わりだね。さいなら
はじめは嫌だったのだけども織田信長の次男織田信雄(のぶかつ)織田を助けて!!🆘🆘🆘!!って徳川家康さんを頼りにしてくれました不安で不安で織田信雄オロオロ😫していましたしっかりせい!織田信長の息子じゃろ!大丈夫じゃ!!総大将だぞ!🐥はい。好きな場面になりました徳川家康さんは小牧長久手の戦い🪖で勝利🏆🏅しました徳川四天王が有名になりました嬉しいじゃん!嬉しいじゃん♡♪⤴️総大将織田信雄happyの舞そんなに喜んでくれてありがとう勝ったの
わ〜ぼ〜くぅ〜⤴️織田信雄が来るみたい徳川家康さん!助けて🆘!って来たよねしっかりせい!はい。🐥結構好きな場面笑っちゃうやつ小牧長久手の戦い🪖は織田信雄に頼まれて勝った勝ったら素直にhappyの舞出ちゃうやつだがしかし、総大将の織田信雄が徳川家康さんに無許可で勝手に和睦無になるやつ織田信雄憎めなくて、なんで?豊臣秀吉に上洛をしたくなかった徳川家康さん大地震のあとに徳川家康さんのところまで説得しに来てくれましたなぜか明るく言われると
※国宝犬山城天守…他にも何枚か撮りました!素晴らしい!さすが国宝です!!!犬山城に行きました!1️⃣100名城No.43犬山城には、今回初めて行きました。他にも写真を何枚か撮りましたが、天守を見て、とても感動しました😃①犬山城天守犬山城天守は、現存12天守の中では最も古い遺構で、小振りながら信州松本城と並ぶ「織豊期」天守の典型と言えます😄天守は、江戸時代の城主成瀬正成による改修の際、一部白漆喰が施されていますが、創建当時は二階
「小牧山城跡」をめぐります。小牧山城が築かれたのは、永禄6年(1562)のこと。桶狭間の戦いで今川義元を破り、三河の松平元康と同盟を結び、後顧の憂いがなくなった織田信長は、ひたすら美濃を見据えることとなり、清須城から小牧山に本拠を移すのです。永禄10年(1566)美濃攻略は達成され、本拠地を岐阜城に移します。それにより小牧山城は廃城となり、わずか4年間の命運でした。㊟余湖くんのHPより。時は流れ、廃城となって17年後の天正1
「歴史探偵」の10月18日放送回では織田信長の次男の織田信雄(のぶかつ1558~1630)が取り上げられた。羽柴秀吉に実権を乗っ取られ、晩年になってやっと小大名になれた2代目は、どの辺りまで実権を持っていたのか。信長亡き後の賤ヶ岳の合戦や小牧・長久手の戦いは、秀吉と柴田勝家や徳川家康が戦闘していたように描かれるが、織田家を本当に仕えているのは誰かを巡る戦いでもあった。出席させてもらえなかった清洲会議で、織田信雄は甥の三法師(秀信)を後見する重責を与えられ、柴田に推されていた弟の織田信
◎どうするプロローグ❏静岡県静岡市へ、NHK大河ドラマ『どうする家康』大河ドラマ館と徳川家康の関連の企画展を観に出掛けた。この時期に静岡へ出掛けたのは理由があって、まず大河ドラマ『どうする家康』の放送が関ヶ原の戦いのシーンを終えて徳川家康が駿河国駿府城に戻ってくる時期に移り、今年の『どうする家康』大河ドラマ館3館(愛知県岡崎市・静岡県浜松市・静岡県静岡市)の静岡の大河ドラマ館を観に行きたくなったこと、そして大河ドラマ館へ行くなら、昨年オープンしながら定員入場のための予約制
今日のウォーキングは、群馬県甘楽郡甘楽町の小幡地区です。織田信長の息子、織田信雄ゆかりの城下町です。陣屋があった場所は、楽山園として整備されています。ここは、小幡藩の藩邸あとです。入口付近は、石垣、土塁が整備されています。そして、さらに奥へ行くと、庭園へと続きます。ウォーキングは、小幡城下町→楽山園→雄川沿い遊歩道と散策します。川沿いは歩いていて気持ちがいいですね。NHK大河ドラマどうする家康では、小牧長久手の戦いで織田信雄が登場しますが、小田原の役のあと、国替
”沙羅沙羅越え”風野真知雄著KADOKAWA筆者の作品は初読みだが良かった。本作は真面目一方な佐々成政が主役の話。小牧・長久手の戦いで、肝心の織田信雄が徳川家康と協議することなく秀吉と和議を結んでしまう。当てが外れた秀吉嫌いの佐々成政は、家康を説得しようと雪深い立山を越えて、浜松まで行く。世に言う「さらさら越え」を実行に移す。無謀極まりない道程の果てに、成政は何を思ったのか?結局最後は秀吉に頭を下げざるを得なくなるが・・・
暑い夏が過ぎて、色々としていたら「あっ」という間に10月が終わってしまいました。体もなかなか追いつかない感じです。もう11月です。11月3日は「正倉院展2023」に行ってきます。その前に写真だけでも安土城についてを完結したいと思います結構この石も大きくって周りの石も大きいから平面で見ちゃうと普通かな?なんて思うけれど、この山の上に持ってきたのですね。まだまだ先にもたくさん会えうけれど…階段を上がって突き当たると右は崖で左に曲がるとまた突き当たり、右折すると黒金門跡
当店前ハナミズキ通りにて、小牧市民まつりパレードが行われました。織田・徳川軍ピエロ小牧は、秋晴れ☀️🍂お祭り日和でした♪【オンラインショップ】宝飾工房K'sCRAFTYahoo!店(BASE店お支払方法:クレジットカード)https://kscraftjewel.thebase.in/オリジナルジュエリー・ルース(裸石)など、展示・販売オリジナル・オーダーメイド・ブライダル・リフォーム・修理~ジュエリーの加工に関するご相談はお気軽
#歴史探偵次回は「織田信雄」信長亡き後、織田家を率いた織田信雄を徹底調査🔎実は、戦国のさまざまな重要場面で驚きの活躍をしていました!#どうする家康織田信雄役の浜野謙太さん登場!歴史探偵「本当はスゴい!織田信雄」18日(水)夜10時[総合]信長亡き後の織田家を率いた織田信雄を徹底調査!父の覇業を引き継ぎ、天下分け目の決戦では家康の危機を救った驚きの手腕が明らかに!大河で信雄役の浜野謙太さんも登場。←予告動画信長亡き後の織田家を率いた織田信雄を徹底調
先日英検新検定級の投稿を致しましたが、今度はHSK(中国語の検定試験)の上位級(7-9級、級数が多いいほど上位)新設のニュースが。11/12初回(10/20締め切り)で受験料は何と37,400円(税込)!!!果たしてそれだけのメリットは有るのでしょうか?さて今回は、徳川家康は将軍足利義昭に嫌われていた?(大河ドラマ考375家康1)|Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義(ameblo.jp)以来の大河ドラマ考になります。2023年10月1日本放送のNHK大河ドラマ「ど
9月8日、長篠・設楽原からバスで移動。山の上にポツンと見えてきました。小牧山城ポツンと建っている天守は模擬天守の歴史館。戦国時代当時に天守はありませんでした。山の南側のふもとに到着小牧・長久手の戦いで、徳川家康軍の本陣となった場所です。大きな土塁を登る土塁の裏側に隠れた空堀が見えてきました。深い空堀。山の北側や北東側に陣取る豊臣秀吉軍に見つからないように、徳川軍はここを通って抜け出しました。榊原康政が空堀の一部を改造して抜け道を造ったそうで。