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滝川氏城と並ぶようにして桜町中将城が残されています。滝川氏城が織田信雄の傘下にあった滝川雄利のお城ならば、織田(北畠)信雄その人のお城ということになります。桜町中将は織田信雄の通称なんですね。滝川氏城ともども、第二次天正伊賀の乱に際して用いられたお城と伝わります。滝川氏城よりも一回り小さいですが、残された土塁や堀はかなり直線的で、方形の曲輪の南側に出枡形状の付曲輪を設けるプランもよく似ています。織田信雄とその旗本が桜町中将城に入り、主力部隊は大きな滝川氏城に収容したという使い分けなので
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の歴史認識を照らし合わせたくてヒストリーチャンネルで放送されていたので観ました。天下人への道を進む羽柴(豊臣)秀吉と戦った徳川家康(ヒストリーチャンネルの『まんが日本史』より)内容について前回で織田信長が本能寺の変で横死したので、今回からは羽柴秀吉が主人公です。織田信長&木下藤吉郎秀吉という描かれ方と同様に、こちらでは羽柴秀吉&黒田孝高(官兵衛)というコンビで天下を取っていくさまが描かれています。(ヒス
土塁囲みの単郭型のお城がずらっと並ぶ伊賀にあって、主郭の面積が最大なのが滝川氏城なのだそうです。一辺80mくらいなので他の地域のお城と比べた際には決して大きいわけでもないのですが、周辺のお城との比較でいけば確かに大きいです。現地に立つと大きなグラウンドというか、ちょっと小さな野球場というか。ここから一番近い美旗小学校のグラウンドが一辺100mくらいなので、滝川氏城の方がむしろ一回り小さいくらいです。それでもこの地域では最大級。いかに伊賀の各城が小さいかが逆にわかるような気がします。と
栃木県のお寺に織田信長の位牌がある。と言えば大抵まさかと思うだろう。ところが、那須烏山市の天性寺に織田信長の位牌がある。信長の次男の信雄は、北条氏滅亡後、秀吉から三河への転封を命じられたが、拒否して怒りを買い野州烏山に改易となった。元々烏山城主であった那須氏は、小田原に参陣しなかったことから改易となり、その後に信雄が転封されてきた。烏山で信長の法要を行った時寄進した位牌が、天性寺に残っている。信雄はここで出家し、常真と号した。天性寺本堂。天性寺は元々は那須氏の菩提寺。(11月25日当
戦国時代に起きた伊賀の乱を吟味した歴史的資料を基に解説をしている本です。伊賀というと忍者。黒装束で手裏剣を投げるような忍者は後世の創作ですが、諜報活動、敵方の攪乱、そして敵城の乗っ取りなどの忍者の役割を果たした者(この本では忍びの者と呼んでいる)は伊賀や甲賀に多く存在していて、自陣防衛だけでなくほかの大名にやとわれてもしたようです。ただ、この伊賀の乱の主役は忍者ではありません。伊賀は大名がおらず地域の有力者が勢力争いをしていながら外敵に対しては挙国一致で当たるという地域で、第1次伊賀の乱は
⚔️小牧・長久手の戦い(1584年)――家康vs秀吉、天下をかけたド派手バトル!🏯戦いの背景―信長亡き後の天下争い1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、日本の「天下の覇権」は宙に浮きました。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)山崎の戦いで光秀を討ち、翌年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家も破って、一気に“ポスト信長”の最有力候補に浮上!織田信雄(信長の次男)「信長の息子」としての正統性をアピールするも、実力は今ひとつ…。それでも“信長の血”を盾に勢力を誇りました。徳
こんな本(マンガ)をメルカリで買った。菰野生まれの漫画家、服部千里さんの「八重姫伝」だ。八重姫とは、菰野藩初代藩主=土方雄氏(ひじかたかつうじ)の正室。父は織田信長の次男=織田信雄(おだのぶかつ)で織田信長の孫娘になる。もっとも信雄は別名=常信(じょうしん)で豊臣秀吉により領地は没収されていたと言う。雄氏の父=雄久は没落してもなお常信に仕えた。常信からすれば雄久の子に正妻として八重姫を任せるのは、心休まることだったろう。この本によれば、雄氏は京に住む側室に入り浸り、菰野には帰ってこなくなっ
名称:長島城城郭:平城築城年:1245年築城主:藤原道家改修者:伊藤重晴、松平定政主要城主:滝川一益、織田信雄、菅沼氏、久松松平氏、増山氏所在地:桑名市長島町西外面2188指定文化財:市指定史跡市指定文化財現存移築大手門(蓮生寺山門)絵図
大僧正天海(95)【崇源院】「(寛永三年九月)十一日、諸大名二條の城に出仕し、両御所に拝謁し、行幸のことなくはてしを賀し奉る。此日関東より、大御台病危急のよしをつげ奉る。よりて、御危急に御かへりあるべしとて、淀城を発輿し給ひ、まづ二條の城にわたらせたまふ。」(「大猷院殿御實紀」)9月11日、後水尾天皇の「二条城行幸」は成功し、諸大名が賛辞と祝辞のため、次々と二条城に登城し、両御所に拝謁したのである。すると関東から、早馬が到着し、「大御台所(お江)、急病
名称:田丸城城郭:平山城築城年:南北朝時代築城主:北畠親房、北畠顕信主要城主:田丸氏、北畠氏、織田信雄他所在地:度会郡玉城町田丸114-1指定文化財:県指定史跡続日本100名城富士見門縄張図
どうする家康では織田信長の次男織田信雄(のぶかつ)を演じてくださいました♪ありがとう!!!浜野謙太さんえーーー♪!えー日曜日の劇場!19番目のカルテ次↩️は次回は!!信雄(のぶかつ)!?生活習慣病(糖尿病)になってしまった患者さんに向き合うお話しらしいです!!どのように診てくださるのかどうする徳重先生どのようなお話しかな?信雄めっちゃ良かったのよ!!!印象に残った名場面が沢山ありましたから浜野さん!好きになりました❤️
令和7年7月7日に連休があったので、ふと思いたって三重県の2つの続日本100名城に取材してきました。福井県とどちらに行こうか迷ったんですが、去年福井(敦賀城跡、北ノ庄城跡)に行ったので、今回はこちらにしました。あと、南北朝時代に関して、北畠氏に関わる大阪南部の旅をしたので、三重県の北畠氏に関わる史跡に行きたいと思いました。多気北畠氏城館跡は1342年に南朝重臣北畠親房(ちかふさ)の3男である顕能(あきよし)が伊勢国司になり霧山城を作ると、その麓に城館を建てたところです。庭園は第7代国司北
【問題】織田信雄の印判に記されていた文字は、次のうちどれか?【選択肢】安民敷撫威加海内清松意総継府擲賊【正解】威加海内【解説】織田信雄は対立していた弟・信孝を死に追いやった後から、国中に自らの威を示すという意味とされる「威加海内(いかかいだい)」の印判を使用している。
早いもので気がつけば6月の11日!!怒涛の勢いで日々が過ぎていきましたよ。ほんと・・・今日はフロントミッションはお休み。というか全然プレイできてない。ということで本の話。【織田信雄~狂気の父を敬え】を読んでみたのでその感想を・・・世間では織田信雄を凡人との評価をつけていますが・・・偉大な父を持った父を持ったがゆえに苦悩する息子織田信雄。どうすれば父に報いられるのかをひたむきに突き進んでいく姿勢。そこに絡んでくる明智光秀・・・父を超えるにはどうすべきか・・・それ一点で書かれて
時間の大切さを感じた瞬間は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう通勤前の朝の時間でしょうね、「朝の1分は昼間の10分」ですよ…⌚😅「時の記念日」1920年(大正9年)東京天文台(現・国立天文台)が制定…⏲️日付けは日本最古の歴史書「日本書紀」に4月25日(グレゴリオ暦6月10日)に日本で初めて時計装置が使われた記述からです…⌛️「路面電車の日」1995年(平成7年)全国の路面電車を持つ自治体が広島市で開催した「第2回路面電車サミット」で制定されました…🚃
史跡めぐりの記事です。今回は、三重県伊賀市枅川にある丸山城です。織田信長による「天正伊賀の乱」の原因となった城です。丸山城(まるやま)北畠氏の養子となった織田信雄(北畠信雄)は天正6年(1578)、伊賀の領国化を図るために重臣の滝川雄利に命じて丸山城を築かせました。これに反発した伊賀の国人たちによって攻められ、城は落城して一揆軍に占領されました。その後、織田信長による第一次、第二次と二度にわたる「天正伊賀の乱」と呼ばれる鎮圧戦が行われ、伊賀を完全に領国とし、雄利を再び城主としました。
いつもは時候の道具組ですが、マンネリ化してるので、端午の節句にはちょっと絡めましたが、父が息子へ贈る茶としました。うちうちで、行っている勉強会という名の茶道の稽古なので、何でもありの、お遊びです。寄付は、無位真人。地位や名誉のみにこだわるなと。でも、花入には敢えて爵を。本席は、自灯明法燈明。釈迦が弟子に伝えたとおり、自分を信じて拠り所として生きてほしい。香合は、烏帽子。出帛紗には、龍文。棚は常真棚。織田信雄が好んだことから、この名です。織田信雄は、信長の次男ながら、武将とし
史跡めぐりの記事です。今回は、三重県松阪市松ヶ島町にある松ヶ島城です。かっては、七重の壮麗な天守が建っていました。松ヶ島城(まつがしま)永禄10年(1567)の頃、北畠具教は、ここ細首(松ヶ島の旧名ほそくび)に築城しますがが、永禄12年(1569)、織田軍来攻に際して自ら焼き廃城としましたが、天正8年(1580)、北畠具教の養子に入った織田信長の次男、北畠信雄が家督を継ぐと同地に築城して松ヶ島城と改称しました。その後、天正12年(1584)に蒲生氏郷が入城しましたが、松坂城の築城とともに
名称:清州城別名:清須城城郭:平城築城年:1405年築城主:斯波義重改修者:織田信長、織田信雄主要城主:斯波氏、織田氏、豊臣氏、福島氏、尾張徳川家所在地:清須市朝日城屋敷1-1
昨夜は「送迎するので是非」と事で、駅から遠い某旅館を予約しましたが、連絡すると「手が離せない」と言われ、旅館まで30分以上歩く羽目になりました。朝食も「用意ができない」との事で「コンビニ」まで送られ、自己解決でした。酷い目に遭いましたが、思い直して「大久保駅」に戻り出発です。今日も暑いです。進んで行く駅前通り(県道104号)が、大久保地区との「半宿」だった「下虻川地区」となります。下虻川地区も、宿場の雰囲気は残っていません。下虻川地区駅前通りを進み「姉石」がある所で、左の旧
今日のお昼ちょっと前(10時30分頃)でした。『おおののぶかつさん』とスルスルッと思い浮かびましたが思い当たる人名ではありませんでした。そしていつも通りひらがな検索しますと織田信雄-Wikipedia(読み:おだのぶかつ)が先頭に出てきました。この記述の中にて『五徳』でシンクロするとはおもいもよりませんでした。そしてこちらのページも読みました。信長の次男・織田信雄が辿った生涯|長いものに巻かれ続ける、父と真逆の人生【日本史人物伝】|サライ.jp|小学
気分屋の娘が、夜、桜を見に行きたいと言い出しました🌸夜桜を見にでかけますでかけます小幡の町に沿って桜が楽しめますねけっこう同じようなことを考えている人がいますね夜桜、楽しめました
最近メールを出すとき、画像認証を永遠とさせられて、メールが出せなかったので、GoogleクロームをUPDATEしたら解決しました。今日から多気北畠氏城館(続日本100名城)の紹介です。北畠氏はもともと京都の北畠という場所に住んでいた公家です。今回はその歴史です。『神皇正統記』の作者として知られる、北畠親房が1336年に伊勢国田丸城を拠点としたことに始まります。北畠氏は伊勢神宮の存在や、南朝を支持する南伊勢の諸勢力、及び吉野朝廷(南朝)と東国との連絡経路等につ
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ
所在地〒515-3421三重県津市美杉町八知特徴織田信雄が伊賀侵攻のために築いた陣城とされる。県道から害獣柵を開けルートファインディングしながら30分かかった。土塁と堀を巡らせた二つの郭が残るが、風化が進行し自然地形に戻りつつある。感想樹木はまばらで見晴らしは良いのだが、その分風雨に曝されている。「中」と評価できる遺構だが、アクセスが悪過ぎる。
所在地〒518-1428三重県伊賀市中馬野特徴伊勢から侵攻した織田信雄を撃退した山城で、駐車場から登城口まで15分程かかる。入山すると単郭の福岡氏城で、背後の高台に福持氏城がある。
前回からの続き(11月3日のこと)です三条通りを東へ進み、西洞院通りで下り(南下し)ますすると左手に駒札や石碑があったので、立ち寄りました😁住所・京都市中京区西洞院通三条下る柳水町75柳の水このあたりの湧水千利休がお茶に使われた名水(柳の水)駒札の下にも水が出てましたが、これもそうかな!?🤔車庫みたいな所を少し入ってみると、いろいろと解説などがありました駒札風に(*´艸`)織田信雄邸跡・柳水(りゅうすい)【柳木町(りゅうすいちょう)】戦国期から江戸初期の武将で茶人、歌
これまでの話⑨穴山梅雪を暗殺し、伊賀越を敢行した家康は、三河に着くとすぐに「打倒光秀」の軍を起こす。しかし、掛け声ばかりで軍は進めず、武田遺臣を集めると、駿河の穴山領を併呑する。家康は本多信俊を派遣し、甲斐の河尻秀隆に帰国を勧める。これに反発した秀隆が、信俊を殺害したため、家康は武田遺臣を使って一揆を起し、秀隆を敗死させるのであった。その後、徳川、北条、上杉による三つ巴の天正壬午の乱が勃発する。黒駒合戦で北条氏を破った家康は、北条氏の上野国領有を認める代わりに、
かなり以前ですが、NHK-Eテレの番組「知恵泉」で徳川家康公の家臣、石川数正のことをやっていました。感想の続きを書きます。家康公の右腕として活躍する数正。小牧・長久手の戦いの戦後交渉では。この戦い。そもそも家康公が織田信雄の協力要請に応じ、秀吉と相まみれた戦いである。参戦を呼びかけた信雄が秀吉は圧倒的な軍事力を背景にして、「ワシの家来になれ。」その証に徳川の家老の中から人質を送れ。」と強気の要求を突き付けてくる。2人の間を