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天海(163)「慶長五年七月七日、徳川家康、陸奥会津出陣ノ期日ヲ定メ、軍令ヲ下ス。八日、徳川家康、榊原康政ヲ先鋒トシ、陸奥会津ニ出陣セシム。九日、徳川家康、尾張ノ福島正則ノ出陣ヲ褒ス。十四日、毛利輝元ノ摂津木津亭ノ留守益田元祥等、吉川広家ト議シ、徳川家康ニ輝元ノ石田三成等ノ挙兵ニ關輿セザルヲ告ゲントス、明日、輝元、大坂ニ著スルニ依リテ止ム。」(「史料綜覧」)家康は会津征伐を進める一方で、他の武将がなかなか東下してこないことに不審を覚えた。その時、広家か
徳川家康の重臣、本多佐渡守正信が、秀吉恩顧の七将を懐柔するために茶席を開いたという噺がございます。その武将とは細川忠興、加藤清正、池田輝政、浅野幸長、黒田長政、加藤嘉明、福島正則という、錚々たる顔ぶれ。いずれも猛将ですが、細川忠興以外は茶の作法など全く知りません。すぐに身に着けられるものでもありませんから、作法を知る細川を正客として、皆は順々に隣の人を真似ることとしました。亭主である佐渡守の邸宅を訪れ、一行は茶室へと向かいます。皆の手本たらんと細川が先頭を歩くのですが、細川には戦の古傷があ
天海(162)「内府ちかひの条々」「一、五奉行、五年寄どもが連判で誓ったのに年寄二人(三成、長政)を追放した事。一、五奉行のうち前田利長が潔白を証明するために誓紙まで出したのに、景勝征伐の為人質まで出させた事。一、景勝に何の咎もないのに誓紙を違えて、置目に反して、征伐しようとしていること。一、知行を自分の独断で行って、忠節もない者に宛がっている事。一、太閤様が定めた伏見城の留守居を追い出して徳川軍を入れた事。一、十人(奉行と年寄)しか誓紙
天海(161)「慶長五年七月是ヨリ先、石田三成、東下セル諸大名ノ妻子ヲ大坂城中ニ収メ、人質トセントス、丹後宮津ノ長岡忠興ノ室明智氏、之ヲ拒ムニ依リ、是日、之ヲ圍ム、明智氏、自殺ス。」(「史料綜覧」)ガラシャの遺言が幾つか残っている。「子共の事は我為に子なれハ、忠興君の為にも子也、改め伝におよハす、三宅藤兵衛へ事を頼候也、此上いわれさる事なから、藤を御上へ御直し不被成様に。」(「綿考輯禄」)まず、我が子については忠興にとっても我が子なので、改めて伝える
天海(160)細川忠興は早くから将来を嘱望された武将であった。信長の勧めで15歳のとき、同年齢の明智珠子と結婚したのである。二人の婚礼はまさに美男美女の雛人形のようであったという。忠興は戦国武将としての功名を立てる一方で、利休の高弟としても有名で、まさに文武両道を極めた人物と言ってよかった。しかし一方で、「茶道四祖伝書」では「天下一、気が短い人物」と評されるなど、気性の激しい人物でもあったのだ。本能寺の変が起きて珠子が「謀叛人の娘」になると、忠興は「離縁」し
ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…ameblo.jp※全国の「
天海(152)「慶長五年五月三日、徳川家康、陸奥会津ノ上杉景勝ノ老臣直江兼続ノ答書ヲ見テ怒リ、諸大名ニ出征ノ令ヲ下ス、徳川家康、下野ノ士伊王野資信ノ、陸奥会津ノ形勢ヲ報ゼシニ答ヘ、守備ヲ厳ニセシム。」(「史料綜覧」)直江状に目を通すと、家康は激怒し、直ちに景勝の征伐を決意した。ただし、ここまでは家康の想定通りである。景勝は前田家のように、戦わずに屈することはないであろうと考えていた。家康の頭の中には、秀吉が行った「四国征伐」や「九州征伐」の光景が浮かんでいたので
さてさて…………………【勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)跡】京都府長岡京市勝龍寺13−1天正10年(1582年)、「本能寺の変」後、明智光秀と羽柴秀吉が決戦に臨んだ天下分け目の「山崎・勝龍寺城の合戦」では、この一帯が戦場となった戦局は短時間で決し、敗れた光秀は【勝龍寺城】へ逃げ込み、最期の夜を過ごした………………。【北門跡】光秀は【勝龍寺城】に帰城するも、敵である羽柴秀吉軍の追撃を受けた光秀は城を放棄し、再起を図るべく【勝龍寺城】の【北門】から脱出し、本来の拠点である近江国【坂本城
昨日の起床直後、髪が広がっている私を見て彼が「俺の記憶にあるお前は、よくそうやって髪が膨らんでいたんだよなぁ。すごく可愛いかったんだ。昔は小さい時から育てて可愛がってたからその印象が強いんだろうな。」と呟きました。うろ覚えなのですが、昔テレビで武田鉄矢さんが「子供が反抗期で憎らしくても、小さい時の可愛かった時の印象が残っている。その可愛かった時の貯金で反抗期も乗り越えられる。」と仰っていていたのを思い出しました。私や過去世での明智玉(細川ガラシャ)らが彼に愛されているのは、彼の
さてさて………………【勝龍寺(しょうりゅうじ)】を出発し、ココロは次の目的地に到着した…………………「乙訓景観十景」にも選ばれている場所。【勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)跡】京都府長岡京市勝龍寺13−1その城の特徴は…………………■「山崎の戦い」に敗れた明智光秀が"最後の夜"を過ごした場所■明智光秀の娘・玉(ガラシャ)が幸せな新婚生活を過ごした場所【勝龍寺城】は、南北朝時代から江戸時代初期にかけての日本の城。城名は付近の同名古刹【勝龍寺】に由来する。【安土城】に先行する「瓦・
【声荒げる】細川ガラシャの子孫、”辞世の句”を引用した静岡・川勝知事に激怒https://t.co/0frRMrtzGo細川ガラシャの子孫の細川隆三氏は、「これは(細川家)みんな怒ってる。ガラシャだってそう。あの世できっとビックリしてると思いますよ。失礼千万です」と憤りを隠さなかった。—ライブドアニュース(@livedoornews)April14,2024川勝平太静岡県知事が、我がご先祖さま細川ガラシャの辞世の句を引用したそうだが、無礼千万である。この方の散り時のどこが美
天海(143)「そこで忠興公は『5人の側室を持つ。』と言い出し、珠子様に辛く接するようになったという。珠子様は離婚をしようとしたのだが、基督教では離婚を堅く禁じていたそうだ。忠興公は、選りによってお倫様の侍女であったお藤という娘を側室にしたというのだ。」「あの、お藤か。」と天海は驚いた。お藤は本能寺の変の後、倫子のもとを離れ、細川家に仕えていたのだ。姉の侍女だった女に手を出すとは、当てつけなのであろう。「それだけではない。身寄りのなくなった次右衛門の娘・小也を珠
天海(142)こうして家康は、前田家を屈服させ、故利家の正室・芳春院を人質に取った。さらに細川忠興の長男・忠隆の妻が利長の姉であったため、三男・忠利を人質として江戸に送ったのである。浅野長政も武蔵国に蟄居した上で、三男・長重を人質に出した。家康は秀吉の遺言で伏見在城を命じられていたにもかかわらず、高台院を京都新城(太閤御所)に移し、自ら大坂城西ノ丸に入ったのである。家康はその後、忠興に豊後国杵築6万石を加増し、城代として松井康之を置いた。康之とは本能寺の変の際、
伊達政宗は縁戚の福島相馬氏にちょうだいと九曜紋を頂いたそうでコレクターなのかたくさんお持ちのなかの九曜紋ですが多分そのための縁戚なんやろね子孫繁栄子孫繁栄仲の良かった細川忠興に所望したという説もあるのですが福島相馬氏は千葉家でもあるのですからそうすることで九曜を全国にばらまき千葉家家臣団をも妙見信仰ともに作りあげていったんでしょうね
「散りぬべき時知りてこそ世の中の花は花なれ人は人なれ」細川ガラシャの辞世の句と言われています。川勝静岡県知事が、辞任の心境を聞かれて、この句を引き合いに出したらしいです。細川ガラシャは、明智光秀の娘で、細川忠興の奥さん。本名は「珠(たま)」だったけど、キリスト教に入って、ガラシャという名前に。因みに、1992年に、小沢一郎に担がれて総理大臣になった細川護熙は、細川忠興の子孫です。その時に小沢一郎が放った有名なセリフが、「神輿は軽くてパーが良い」「パー」とは
※勝龍寺城公園主郭跡内にある細川忠興・ガラシャ銅像…勝龍寺城は明智玉(ガラシャ)が輿入れした「細川ガラシャゆかりの地」です毎年11月には「細川ガラシャまつり」が開催され、武者行列、ガラシャ輿入れ行列が練り歩き、多くのひとでにぎわいます山崎古戦場7️⃣勝龍寺城②山崎古戦場には、今回初めて行きました。山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。行ったときは「
※勝龍寺城模擬天守風資料館、模擬塀、模擬隅櫓、南水堀…かつて、勝龍寺城には天守(殿主、守)が存在し、南西隅に巨大な三重の望楼型の櫓(殿主)が建っていました水堀は、かつては東西南北にありましたが、市街地化により、消滅、現在は南、東水堀が残っています水堀幅は、現在でも10m以上あり、昭和初期ごろまでは倍以上あったようです城址は、平成4年(1992)に「勝龍寺城公園」として整備され、模擬建物が建てられ、市民の憩いの場となっています山崎古戦場6️⃣勝龍寺城①
--------------------------------------------2024年バッファが必要ですよね。余裕がない人生は辛すぎる。--------------------------------------------2023年「それがトップのゆとりというものでございます。四角いものにぴっしりと四角い蓋をして、中の物を窒息させてはなりません」なるほど、確かにそうかもしれません。もしくは、どんなルールを作っても隙はあるということですか。人がつくるルールで
期間:2024/03/26天井:100倍率:3倍初回:半額戦)明智光秀:神智明晰射)妻木煕子:月さびの佳妻戦)細川忠興:畿北の驍将薬)細川ガラシャ:丹後の女王星3戦)松井康之:心眼・参薬)明智光慶:心眼・参星2武)遠山景任:技巧家戦)明智光安:疑心暗鬼©コーエーテクモゲームス
行きたいーー!!昔から花札や百人一首のような、限られたスペースや文字数に色々な情景を書き込んだ物が大好きなのでいつもブログも楽しみにしています。自分の中では写真の無かった昔、こういった物で行った事のない世界への想像を膨らませたり、昔行った場所に思いを馳せたりした名残かなと思っているのですが。やっぱり実物見たい!許可が出るよう祈ってくださいそういえば細川忠興公が金泊を貼った扇型の百人一首を妻の明智玉(細川ガラシャ)に送ったとされています。https://x.com/eiseibunko
うっちーこと宇都宮芳綱ですまたまた更新が滞ってました最近このシリーズしかアップしてない色々と合成もあってるので、落ち着いたらそちらもアップしたいですねそれでは、最近引いたくじの結果ですが、前回の合戦中に1-8鯖の本城主で、天上くじを引きましたグッジョブ♪('-^*)/欲しい天ではなかったですが、天上くじから天なら贅沢は言えませんね次は終戦後に影城主で、天上くじと天神くじを引きました
顔を上げろ。下を見ても地獄しか見えん。上を見ればお天道様が見える。お前はどっちに行きたいのか。地獄に行きたくなければ上を見ろ。先日彼(過去世は細川忠興)に言われた言葉です。普段話していても、やはり前世や過去世の経験に由来するのかなという言葉があるので備忘録も兼ねて時々載せていきたいと思います。細川忠興公の生涯戦績は74戦70勝無敗4分。強い人には強い理由があります。
部活の送迎丁度、車内で舞台刀剣乱舞『綺伝いくさ世の徒花』のエンディングが流れてる時弟『細川ハシャ』母「何?」弟『これ、細川ガラシャのヤツじゃん』母「そうだけど」弟『細川ハシャってあったから』?会社の名前かなぁ?弟『ハに教科書のカ』!!!!!母「歯科!!」弟『そうだった(〃ω〃)』きっと歯医者が浮かんでハシャ
号外!日本史スクープ砲千利休は切腹していない?千利休が切腹したという年の翌年に、豊臣秀吉が母に宛てた手紙に、利休の茶を飲みご飯を食べた旨が書かれていたという。それは千利休が切腹したはずの翌年のことで、あり得ないらしいです。どうやら千利休に師事していた細川忠興が関係しているらしく、その彼のおかげで余生を九州で過ごしたのではないか、と言われています。真偽の程は分かりませんが、ロマンを感じる話だと思いました。↓押してくれたら嬉しいです↓にほんブログ村
「誕生日に熊本城おもてなし武将隊会いに行こう!…モノチカと悩んだけど〜(っω<。)クゥ!な旅」【其の壱】でござりまする❀.*・゚前回から2ヶ月しか経ってないけど誕生日に熊本城おもてなし武将隊に会いたい!:(,,ŏŏ,,):ガマンデキナイ…モノチカもあるけど(・ὢ・)いや!一度は誕生日に熊本城おもてなし武将隊に会いに行きたい(っ;ω;)っと言うことで会ってきました(^O^)熊本城おもてなし武将隊の皆様に(⑉˙ᗜ˙⑉)今回も私のブログなので(*´ω`*)ゞエヘッ
そして光秀最後の城。勝龍寺城。#勝龍寺城#城#城跡#山崎の戦い#長岡京市#京都#明智光秀#細川忠興#細川ガラシャ夫人#日本100名城#続日本100名城
2024年--------------------------------------------歩が大事。金にばけますからね。
この1ヶ月ミッドウェイの戦いに関連してちょっと凹んでましたが、沖縄に癒されて復活✨前回の秀吉の件に関連して書ききれなかった事をいくつか追記で。前回のブログを書いていた時はすっかり忘れていたのですが、過去世で豊臣秀吉に会った記憶が妄想ではないと思った理由の一つが、秀吉に謁見する際に見上げた黒い大阪城でした。大阪城と言えば白壁に緑の屋根の、現在ある形の大阪城しか知らなかったのですが、過去世で明智玉(細川ガラシャ)であったと思われる「私」が憎らしく思いながら見上げていたのは黒くて今の大阪城より
東軍の陣跡続き関ヶ原古戦場巡りの続きです。引き続き東軍陣跡を巡ります。前回の黒田長政陣跡から細川忠興の陣跡に移動します細川忠興陣跡へ🚙細川忠興は、細川藤孝(幽斎)の長男。妻は細川ガラシャ、明智光秀の三女の明智玉ですね。「麒麟がくる」では芦田愛菜さんがガラシャの役をされていました。細川忠興は望月歩さんがされていましたが、あまり覚えてないなぁ因みに実父の細川藤孝(幽斎)はこの人明智光秀の盟友で、「麒麟がくる」では眞島秀和さんが幽斎の役をされていました。話は
「我慢できないから熊本城おもてなし武将隊に会いに行こう!…母巻き込み型の旅…^^;」【其の参】でござりまする(,,ᴗ̫ᴗ,,)ꕤ*.゚さて今回は22日城彩苑のブログでござりまする⸜(๑’ᵕ’๑)⸝お付き合いできる方はお付き合いくだされ(,,˃ᵕ˂,,)この日はとても寒かったので途中…少しだけど雪が降った💦熊本なのに!!まず【イチゴ豆乳】ラテのホットを飲む(*´ノ旦`*)ズズーそして母に手袋を貸す'`ィ(灬´ω`)つ…というか天気予報で寒いといってたので…(˘•