ブログ記事689件
天海(162)「内府ちかひの条々」「一、五奉行、五年寄どもが連判で誓ったのに年寄二人(三成、長政)を追放した事。一、五奉行のうち前田利長が潔白を証明するために誓紙まで出したのに、景勝征伐の為人質まで出させた事。一、景勝に何の咎もないのに誓紙を違えて、置目に反して、征伐しようとしていること。一、知行を自分の独断で行って、忠節もない者に宛がっている事。一、太閤様が定めた伏見城の留守居を追い出して徳川軍を入れた事。一、十人(奉行と年寄)しか誓紙
天海(163)「慶長五年七月七日、徳川家康、陸奥会津出陣ノ期日ヲ定メ、軍令ヲ下ス。八日、徳川家康、榊原康政ヲ先鋒トシ、陸奥会津ニ出陣セシム。九日、徳川家康、尾張ノ福島正則ノ出陣ヲ褒ス。十四日、毛利輝元ノ摂津木津亭ノ留守益田元祥等、吉川広家ト議シ、徳川家康ニ輝元ノ石田三成等ノ挙兵ニ關輿セザルヲ告ゲントス、明日、輝元、大坂ニ著スルニ依リテ止ム。」(「史料綜覧」)家康は会津征伐を進める一方で、他の武将がなかなか東下してこないことに不審を覚えた。その時、広家か
先日(2018年6月18日)大阪北部を震源とする地震で、死傷者だけでなく、文化財も多数被害を受けているというニュースを見ました。その中には、京都・奈良の文化財も含まれているとのこと。人々の日常の暮らしを取り戻すのが第一ですが、街や文化財の復旧も早くなればと祈念します。【明智光秀(谷性寺・ききょうの里)】明智光秀さん像と言えば、叡山坂本のザンネン石像が有名ですが、こちらの騎馬像は相当カッコイイです。光秀さんの首塚がある谷性寺さん近くの「ききょうの里」にあります。谷性寺さんで
昨日の起床直後、髪が広がっている私を見て彼が「俺の記憶にあるお前は、よくそうやって髪が膨らんでいたんだよなぁ。すごく可愛いかったんだ。昔は小さい時から育てて可愛がってたからその印象が強いんだろうな。」と呟きました。うろ覚えなのですが、昔テレビで武田鉄矢さんが「子供が反抗期で憎らしくても、小さい時の可愛かった時の印象が残っている。その可愛かった時の貯金で反抗期も乗り越えられる。」と仰っていていたのを思い出しました。私や過去世での明智玉(細川ガラシャ)らが彼に愛されているのは、彼の
さて、昨日『【信長の野望20XX噺】戦塵の花香1』先日、武将評は1/2以降と申したな……なので本日でも問題無いな。さて、本年一発目の武将評であるが、三が日からそんなに頑張りたくないので数が多いのて2回に分ける…ameblo.jpの続きである。本日の最初は忠興さん。生命最多敵1体術ダメ2.90自身生命50%未満時3.625生命力50%以下の時の数値は、生命サーチという範囲に於いては星4……いや、星5を含めても頭ひとつ抜けている。まさに、1番活きの良い化物絶対殺すマンである。ただ
明智秀満(79)「当代記」『十一日、信長甲府を立、元巣に着給、此間山路の茂りを伐佛間々に、家康より、物主を被置、奥平九八郎信昌御迎に出けるに、信長殊外の御懇中々申も愚也、先年於長篠甲信随分之者依討果、此度早速相治之由曰、甚御快気也。十二日、駿州大宮へ着給、路次中富士山見物し玉ふ。於此所、家康へ吉光脇差、一文字刀、馬三疋被進、十三日江尻に着給、翌日駿河府中、今川の代々の舊跡心閑に有一見、藤枝田中城に御泊、さて、遠州掛川御泊、家康より天龍川舟橋かけ給。一日先立て上給、十七
懺悔第2弾です。細川ガラシャが過去世にいるというアタオカな話になりますが、数年かけて色々調べた上で否定するのが困難に感じられるようになったのでブログで謝罪の気持ちを込めてお伝えしようと思います。細川忠興公の名誉と亡くなった家臣らの供養の為にも一読していただけると幸いです。おそらく見えない世界の影響も受少なくなってきたので、書こうにも過去世の色々な影響が怖くて書けなかった事件を。物騒な話になりますがご容赦ください🙇🏻♂️💦細川忠興・ガラシャ夫妻と言えば・ガラシャが庇った料理人を嫉妬か
私がかつて訪城した約25城の「模擬天守」を順次お届けしています。前回のブログでも記載しましたが、今や市町村のシンボルで市民権を得た状態で聳えている等という理由で、「模擬天守」を採りあげました。そして「模擬天守」について以下の分類があることも簡単に纏めました。①お城に「天守」があったものの、現在城域外のかなり違う場所に「天守」が建てられている場合②お城に「天守」があったことが絵図や写真があるが、その絵図や写真とは全く違った形状の「天守」が建てられている場合③お城に「天守」があったも
こんにちは、スタルペスです。先日、実家の大分県中津市に帰省した折に時間ができたので以前から行きたかった「中津市歴史博物館」に伺いました。2年前に従来の中津市歴史民俗資料館の収蔵品を引き継ぎつつ新たなコンセプトで建設されたのが中津市歴史博物館です。歴史豊かな地「中津市」に博物館の設立は市民にとっては待ちに待ったものだったと思います。現在は、熊本市に住んでいる私にとっても郷里での博物館創設はとてもうれしい限りです。人口が10万人未満の町が博物館をもつのも大変だとおもいますが、ぜひ充実した
徳川家康の重臣、本多佐渡守正信が、秀吉恩顧の七将を懐柔するために茶席を開いたという噺がございます。その武将とは細川忠興、加藤清正、池田輝政、浅野幸長、黒田長政、加藤嘉明、福島正則という、錚々たる顔ぶれ。いずれも猛将ですが、細川忠興以外は茶の作法など全く知りません。すぐに身に着けられるものでもありませんから、作法を知る細川を正客として、皆は順々に隣の人を真似ることとしました。亭主である佐渡守の邸宅を訪れ、一行は茶室へと向かいます。皆の手本たらんと細川が先頭を歩くのですが、細川には戦の古傷があ