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思えば7年ぶりの藤の寺ですその間にまごちゃんの腹帯をもらいに3度訪れました末娘も嫁いで行きました2017・5今日も藤の話題ですいつもなら藤が最盛期のはずちょうど連日の雨も上がって今日は晴天これは行かないと勿体無いと出かけて行きました山門前の坂道の藤は満開です関西花の寺、第二十四番子安地蔵寺こちらは紀州徳川家代々の安産祈願のお寺として有名です社務所を抜けてすぐの藤棚は朝の光で幻想的ですお庭を周回出来るのですが花の寺だけあってクリスマスローズ、紫陽花、菖蒲立派
高野山奥の院の御朱印久しぶりで奥の院に参拝父母や祖父母が分骨で眠っています。参道には多くの大名家とともに和歌山の江戸時代前半の徳川歴代当主の墓も並びます。関ヶ原の戦いの後、まず浅野家が和歌山城入場。大手を岡口門から一の橋門に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備。1600年頃から和歌山城下町の整備がすすんだと言われています。弊社印章店創業の現和歌山市元寺町も浅野時代の寺町でした。元和5年(1619)、徳川家康の十男・頼宣公が入国し、御三家紀州藩
先日、久しぶりに東京都千代田区紀尾井町へ行きました。紀尾井町といえば、高層ビルの立ち並ぶオフィス街のイメージが強いエリアですが、江戸時代は、甲州街道が通過していて江戸城防衛の要所だったことから徳川御三家の筆頭格である紀伊和歌山藩徳川家の上屋敷、尾張名古屋藩徳川家の中屋敷、そして近江彦根藩井伊家の中屋敷が置かれていました。「紀尾井町」は、紀州徳川家から「紀」、尾張徳川家から「尾」、そして井伊家から「井」をとって名付けられたそうです。初めて町名の由来を知ったときは、心がときめ
今日は大阪住之江に用事があり、その後、せっかく南海沿線に来たので和歌山まで足を伸ばしました。南海電車の特急サザンは、自由席なら普通乗車券だけで乗れるので、安くて早くて、ちょっとした旅行気分が味わえて和歌山がとっても近く感じました。(難波から和歌山市駅まで970円、59分)昔から時代劇をテレビでよく見ていて、特に暴れん坊将軍、吉宗評判記の吉宗のお城を見たかったんです。徳川御三家の一つ、紀州徳川家です。南海和歌山市駅から歩いて15分ほどでお城の内堀に到着。西の丸跡から入ってすぐに鶴の溪という、
タルトの後は山登り、いえ、城のぼり。史跡和歌山城天正13年(1585)羽柴秀吉が弟の秀長に命じて岡山(虎伏山)の峰に築城させたのがはじまり。豊臣ー桑山ー浅井幸長と城主がかわり、元和5年(1619)徳川家康の十男頼宜が入城し、紀州御三家が成立。嘉永3年(1850)に再建された2代目天守閣は、昭和になり国宝に指定されたが空襲で焼失。現在の天守閣は昭和33年(1958)に再建された3代目。リーフレットより抜粋お城の北側から入りました。裏にあたるところだった…西
今年初めて聴く、牛田智大さんのピアノ♪和歌山へ行ってきました。南葵音楽文庫寄託記念公演華麗なるラフマニノフ&《新世界より》プログラム***ネイラー:序曲「徳川頼貞」ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番Op.18ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」2024年1月24日和歌山県民文化会館大ホールソリスト牛田智大指揮原田慶太楼管弦楽読売日本交響楽団*****和歌山といえば、パンダ・みかん・梅・海鮮・ラーメン
尾張徳川家の祖となった徳川義直徳川義直は1600年(慶長5年)徳川家康の9男として誕生。母は側室「於亀の方」です。徳川家康が天下人となって初めての子どもであり徳川家康の寵愛を受けたと言われています。徳川義直は1606年(慶長11年)に元服。翌年1607年(慶長12年)に死去した松平忠吉の死去に伴い尾張国清洲に移封して清洲藩主となります。その後、1616年(元和2年)に徳川家康が亡くなると名古屋城に入国。17歳という若さで尾張藩の初代藩主となり尾張徳川家を率いる立場となっ
キーノ和歌山でランチや甘いものを食べ、和歌山港線に乗って和歌山港駅周辺を楽しみました。『勘八屋の丼ランチ&玉林園のパフェ~和歌山港駅&フェリーターミナル(23.11.19)』南海加太線のめでたいでんしゃに乗ったり、加太駅周辺を楽しみました。『めでたいでんしゃ「なな」&キシモト商店のあげぱん(12.11.19)』南海・泉北1日周遊き…ameblo.jp和歌山市駅に戻り、歩いて和歌山城へ向かいました。和歌山城に行ったのは2年振り4度目。イチョウが黄葉してきれいお馴染みの、暴れん
◇伝統芸能情報館◇国立劇場も国立演芸場も閉場する。駅でポスターを見て立ち寄った。静かな館内、受付スタッフがとても親切。黒子が案内する方へ。伝統芸能の歴史を物語る貴重な品々。九条家伝来の楽びわ。紀州徳川家伝来の篳篥。初代鶴澤清七使用した調子笛・鳳鳴。民俗芸能スケッチ帳。可愛らしいイラスト。人形浄瑠璃で使用された文七、傾城、清玄。奥にも展示が続く。七・八代目市川中車着用した衣装。衣装や飾り、小道具。見台。二代目桐竹紋十郎使用した舞台下駄。かんざし。鶴笄飾り一対。
和歌山市役所の眼の前に「紀州徳川家」の和歌山城あります!市役所に行きがてら去年の春以来の城址めぐりも良い運動になると歩いて行ってみました!う〜ん、結構ありましたね😬途中ににも始めて伺えました!も、お初でした😬フンボルトペンギンも居たんですね〜🤩この気温じゃ「和歌山城址温泉🥵」市役所に寄って眼の前が何とも贅沢な景色です😀天守は下から眺めてまた歩いて帰りました!
今日も朝から晴れの1日となった。気温が上がって暑い日に…湿度も高くて厳しい暑さが続いてるな(ーー;)これは8月11日の話。今年のお盆休みは電車を乗り継ぎ…赤坂見附へ…東京に住んでる僕でも都会だなと感じる場所。軽く20階以上の高さのビルが沢山あった😳そんなビルだらけな街を歩いていくと看板が…到着した場所は赤坂不動尊威徳寺(いとくじ)。赤坂不動尊は伝教大師(最澄)が唐より帰国の途中、暴風雨で船が沈みそうになり海に沈めて祈願した御自作の不動明王が、天安2年(858年)越後出雲崎の漁師が拾
粉河寺樣参詣のお話の続きです。粉河寺様は本来大門という赤い大きな門が入口ですが、私達は大門横の駐車場から直接境内へと向かったので門を潜りませんでした。素晴らしい金剛力士像があったようなのに大門をよく見なくて惜しい事をしました。駐車場から参道を歩くと2つ前のブログでご紹介した童男堂がありました。桜の古木が大変見事な枝ぶりでした。いたるところに桜の木がありますから春はたいそう素晴らしい眺めでしょうね。また、童男堂の横には童男大士が出現したという出現池があ
今回は、以前に池上本門寺参拝寺に墓参りした時のものです。初回は、徳川家康の側室お万の方養珠院です。お万の方とは徳川家康の側室。正木頼忠の娘であるが、蔭山氏広の養女となったため蔭山殿ともいう。頼宣(紀伊藩祖)頼房(水戸藩祖)を儲ける。家康没後落飾して養珠院と号した。日蓮宗に帰依。池上本門寺に墓石がある。
念願の迎賓館赤坂離宮へ行って来ました!和風別館の予約をしてから一ヶ月待ちました〜ワクワク🤩✨✨迎賓館赤坂離宮|内閣府迎賓館赤坂離宮公式ウェブサイト。国賓等の接遇の様子、国宝迎賓館赤坂離宮の建物や調度品のご紹介のほか、一般公開(見学・参観)の情報や見どころについてご紹介しています。また、一定の要件の下、有償で施設を貸し出す特別開館についてもご案内しています。www.geihinkan.go.jp港区元赤坂2-1-1四ツ谷駅赤坂口より徒歩7分見えた!感動〜🤩国宝の正門は、工事
大阪府泉南市を訪れた続きです泉南市信達牧野にある熊野街道信達宿梶本家を、出発します熊野街道を、さらに歩いていきましょう北方向に、ほぼまっすぐですやがて、見えてきた交差点の右側に注目してみましょう常夜燈が3基ありました右側は、文政13年(1830)中央は、寛政2年(1790)左側は、文化12年(1815)いずも、伊勢参りの深い信仰と参拝者の道中安全を祈願して建立されたようですさらに歩いていくと左側に、古い建物が見えてきました
昨年植えたバラが咲きました🌹✨✨こんにちはヒマラヤ登山に行って👟👟帰って来ました……✈ってくらい疲れ果てた3月から4月でした(-ω-;)毎日が体育の時間にプール🏊で泳いだ後の5時限目みたいな眠気に襲われております。ちょっとの合間があったら寝落ちしてるお前はアイドルか!ってくらい。やはりコロナ禍の2年間で体力が落ちてるのと、主人がコロナに罹った時、私は熱が出なかったので濃厚接触者扱いのみだったけど感染してたのかしら。。その後3回インフルエンザみたいな症状の風邪を引きました
ちょっと息抜き…仕事の合間にお茶でもいかが?そんなこんなのお茶タイム珈琲もエエケドたまたまはぷんつーBychanceこんなん、あった。なので、緑茶がよろしゅうゴザイマス。和歌山では昔から愛されてきたこのお饅頭。そのお姿は…『本』の焼き印が押されたおまんじゅう。その名を、本ノ字まんじゅう…と申します。口にするとふっと麹の香りが漂う…。素朴なそのお味は
春分の日に、迎賓館赤坂離宮へ。2度目の訪問でしたが、前回和館は改修中だったので、今回はその和館と前庭で味わうアフタヌーンティ初体験です。そのアフタヌーンティー、前回訪問時にはありませんでした。SNSでその存在を知ったのはつい最近のこと。和館とアフタヌーンティーは予約制。後者は空いていれば、予約なしでもOKです。和館の予約時間の関係で、受付を済ませてまずは前庭に直行しました。アフタヌーンティーの開始時間11時まで、前庭を見物して時間をつぶします。持て余すかな、と思いき
こちらは、港区赤坂にある赤坂不動尊(あかさかふどうそん)です。ご縁を頂いている方々より、お品をお預かりさせて頂いたことはあるのですが、伺ったことはありません。一度、伺ってみたいお寺です。※素敵な御写真をお送りくださり有難うございました。心より感謝申し上げます。
先週のお出かけ旦那の日本100名城スタンプラリーのお付き合いです。大寒波が来てるというのに和歌山城🏯へ駐車場は市営です。城壁の中にあります石段や坂を登っていざ天守閣の中へわんこ🐶はリュックなどに入ってお顔が出なければ一緒に入れますいざ入城今回は母も一緒です。ここは桜もあって春は綺麗だろうなぁ♡ここから入ります。靴のままで大丈夫🏯天守閣は後から復興されたものなので鉄筋です。なので普通の階段で手すりあるあります✨✨中は博物館でさすが紀州徳川家のお城です。葵の御紋入の展示物が
今年の記事は今年のうちにアップ!ということで、未掲載分旅路のラストスパート。大坂お城フェス前日のラスト紀州攻路。東静岡駅から大坂/梅田行の夜行バス発が23:38。仕事終わりで家に帰ると、東静岡駅まで道のりが困難。6kmを歩こうとは思わないし、タクシー予約も出来ず…そこでネットカフェで休息を。フリードリンクは有難い。この時は真夏。翌日の紀州攻路は一日中、歩き回ることになり。とにかくシャワーを浴びたかったのです。晩飯は吉野家。翌日のパンや飲料も仕込んで準備完了。
鳩森八幡神社から南へと続く坂を下って行くとふと、鳥居に出くわす鳥居の脇には「江戸名所榎稲荷」という小さな碑と「江戸名所お萬榎榎稲荷」の碑ここでは、榎稲荷神社境内は小山になっていて、その上にも鳥居が見えます階段を上ると石仏や洞窟のような場所に祠がありました小さな神社ですが手入れは行き届いているようです土地柄か、喫茶スワローズコップが供えてありました榎稲荷神社の創建の年代は不明かつて近くの坂の途中には、霊木として信仰され祀られていた榎の巨木があり
『和歌山市立博物館』のHPから「寛永19年(1642)に表千家4代・江岑宗左が紀州徳川家に出仕し、以後江戸時代を通じて、表千家は紀州徳川家に仕え続けました。また紀州徳川家の歴代藩主は、表千家の茶道を保護し、繋がりを深めます。特に10代藩主・徳川治宝は、幼くして家元を継承した表千家10代・吸江斎に真台子点前を返伝授するなど、表千家の茶道を厚く庇護しました。本展覧会では、江岑宗左の時代、徳川治宝の時代を中心に、表千家と和歌山との関係を、紀州藩主や藩士との交流などを通じて紹介します。」
そして、旅の最後に紀州藩の菩提寺の長保寺へ。大門(国宝)。仁王像は運慶の長男湛慶の作とのこと。この旅三度目の長い石段。多宝塔(国宝)(ちなみに、私は五重塔・三重塔・多宝塔巡りもしているのですが、これで全国に6基ある国宝の多宝塔で見ていないのは、泉佐野市の慈眼寺の多宝塔のみとなる。)本堂(国宝)。「本堂・塔・大門と三つそろって国宝の寺は、法隆寺と長保寺だけです。」とパンフレットにあり!寺の裏山が紀州徳川家の廟所となっている。将軍になった五代藩主吉宗(八代将軍吉宗)と十
旦入は、紀州徳川家に仕え、和歌山城西の丸で「偕楽園窯」開設に尽力し、「御庭焼」を造った。10代藩主徳川治宝(はるとみ)公から「樂」字を拝領して、それを印にした。この印が「拝領印」と言われていることは前回書いた。私の持っている黒楽茶碗の箱の蓋の記載は、珍しくて出色である。茶碗の箱の蓋表には、「黒茶碗」の書付があり、大きな二つの印が押されている。この右上の印判は、徳川の「葵の印」である。左下の印判は、潰れてはいるが「偕楽園」と読めるので窯の印らしい。蓋裏の記
8月最後のお休みに和歌山城へ行ってきました1週間前にフェリーで徳島に渡りましたがその際、和歌山港に着く前にお城が見えたので次は、和歌山城へと思ったわけです建物の殆どは戦争で焼失したので昭和に再建されたものではありますがさすがは紀州徳川家のお城なのでその規模は大変に立派なものです築城時から拡張や改修を繰り返しているので時代の違う石垣が見られるのも面白いところです↑この違い分かりますかね(笑)
和歌山県の観光スポットのお話🏯和歌山にいった際に立ち寄った観光スポット、和歌山城🏯和歌山城は、和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)に天守閣が立つ和歌山市のシンボル天守閣は復元された物です。その昔、天守閣は和歌山弁で「おてんしゅ」や「おてんす」と呼ばれてきたそうです。豊臣秀吉の弟・豊臣秀長により、1585年(天正13年)に築城されました。その後、江戸時代に入り、徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立しました。1
将軍吉宗•家茂はここから汚え東京に来たんですね。気の毒になぁ。
5月中旬頃、和歌山城を見に行ってきた。和歌山城は、和歌山県和歌山市一番丁にある城。徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である。城跡は国の史跡に指定されている。「御橋廊下(おはしろうか)」は、殿様と御付きの人、奥女中が、二の丸と西の丸を行き来するためにかけられた徳川期の橋である。そのため外から見えないように壁と屋根が設けられ、部屋のような造りになっている。斜めにかかる廊下橋としては全国的にめずらしい。平成18年3月に復元されたもの。ワーグマン350F6
日暮らし日記2022年5月15日(日)紀州徳川家和歌祭四百年式年大祭(11)渡御行列薙刀振(なぎなたふり)武者(むしゃ)甲兵(こうへい)母衣(ほろ)唐人(とうじん)御船歌唐船(とうふね)渡御行列の最後ですチョッピリ寂しくなりました四百年式年記念すべき祭りを見せて頂きありがとうございました。夕方のテレビで和歌祭が報道されていました。長いお付き合いありがとうございました。