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朝倉城レポ第6弾です。その5のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その5』朝倉城レポ第5弾です。その4のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その4』朝倉城レポ第4弾です。その3のレポ『21.12.30…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
兵庫県豊岡市日高町岩中字城山但馬・宵田城(よいだじょう)別名:南龍城宵田城は但馬日高盆地の南端、円山川左岸に屹立した標高154m、比高130mに築かれた山城である。永享2年(1430)楽々前城主・垣屋隆国が築いて、二男の垣屋隠岐守国重を城主とした。国重の子、垣屋遠忠は文明18年(1486)播磨国英賀で赤松政則と戦って討死した。天正8年(1580)羽柴秀吉による第二次但馬侵攻では、鶴ヶ峰城主・垣屋光成の弟、垣屋峰信が宵田城に籠もり、宵田表の合戦で一度は勝利したものの、その後敗れて
週末に立て続けでお城巡りして来ました金曜日には埼玉県の寄居まで🚗💨花園神社⛩️の裏山が『花園城跡』先ずはお参りをさせて頂いてから途上スタート落ち葉がかなり積もる道を滑らないように気をつけながら登ります途中にあったのが『ジュンちゃんの展望台』誰のネーミングでしょうww木立の間から寄居の町がよく見えますそして紅葉が綺麗❣️お天気も良かったし山城日和さらにどんどん登っていくと二郭の曲輪に到着本郭との間の竪堀が今でもしっかり残されていて感動しました上は↑ニ郭の曲輪
朝倉城レポ第5弾です。その4のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その4』朝倉城レポ第4弾です。その3のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その3』朝倉城レポ第3弾です。その2のレポ『21.12.30…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
↑↓ヤマップデータ↑今回使用画像の撮影場所城主京極氏の家臣多賀豊後守高忠佐々木氏の家臣沢田民部大輔等が伝わるらしい詳細は不明の様です↓登り始めて尾根にでて直ぐを北先のピーク461m脇↓尾根南側を土塁風に削り残してある↓竪堀?↓北の段曲輪群切岸が見事↓主郭方面へ↓南側土塁は続いてます↓本日は城友のシゲさんと近江の山城めぐりボッチ巡りに慣れ過ぎてシゲさんには足手まといなってないか心配↓
朝倉城レポ第4弾です。その3のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その3』朝倉城レポ第3弾です。その2のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その2』朝倉城レポ第2弾です。その1のレポ『21.12.30…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
かなり早く現場についたので、前々から気になっていた津久井城跡を登ってきました。麓のパークセンターからスタート。時間が気になるので、ルートは険しいルートをチョイス。ルートや遺構、トイレの案内がいくつもあり、よく整備されています。当時の曲輪、堀切等もまだまだしのべます。ハイキングレベルですが足元は山道なのでそれなりの靴を履いた方が安心です。本曲輪から津久井湖を望む。津久井湖側からラクラクコースで進むと曲輪跡も(ほとんどわかりませんが)竪堀はハッキリ
朝倉城レポ第3弾です。その2のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その2』朝倉城レポ第2弾です。その1のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その1』新型コロナの猛威も一旦和らいでいた、2021年の暮れ。再び、…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
朝倉城レポ第2弾です。その1のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その1』新型コロナの猛威も一旦和らいでいた、2021年の暮れ。再び、城に行こうと思い立ちます。しかも、一泊の予定で。ただ、四国島外に出る勇気はまだありません。10月の…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
梶山城(たつの市揖保川町市場小字梶山)明徳年間(1390~1394)、七条家赤松氏に糸を引く治部少輔教弘が築城したという。教弘が近くの伝台山城に移った後、同じく赤松の一族肥塚和泉守頼房の居城となり、子頼清のとき嘉吉の変(1441)にあい、頼清は戦死落城した。応仁の乱後赤松家が再興するや頼清の子肥塚肥後守憲春が再び入城、光憲、祐忠と続いた。祐忠のとき弘治二年(1556)十月八日、楯岩城の広岡五郎に攻撃され祐忠は討死した。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)主郭東上段主郭西下段北東二郭北東
新型コロナの猛威も一旦和らいでいた、2021年の暮れ。再び、城に行こうと思い立ちます。しかも、一泊の予定で。ただ、四国島外に出る勇気はまだありません。10月の松山城、11月の来島城をチョイスしたのも四国内という事が最大の要因でした。で、今回の目的地にしたのは『土佐』です。数年前の話しになりますが、暇さえあれば、土佐の城巡りをしていたものです。何せ我が家から高知市街へは、高速を使って1時間以内に到着するんですよ。しかも、四国内では出色の面白さと秀逸な縄張りがある城が多い事もあって
気候の良い日々が続く11/1(水)、日本一お城の数が多いといわれる「滋賀県」へお城廻りに出かけました。一城目は、「小堤(こづつみ)城山城」(滋賀県野洲市)で前回のブログでは「希望が丘文化公園」側の「城山柿沢登城口」から入山して「直登コース」で城山山頂(小堤城山城郭24)を目指したことをお話ししました。この後、尾根伝いに「岩松城」へ移動したので、その延長で「岩松城」をお届けしようと思いましたが、先に「小堤城山城」を紹介したほうが前編との繋がりができると思いましたので、「小堤城山城」を
いよいよ今回で愛と感動の北海道物語、最終話を迎えました。わけのわからん城に見えないチャシに連れて行かれたのち、友達は凝りもせずに「このお城へいくらよ!」って向かいます。此処で不思議な現象を見てしまいました。看板には矢印で真っ直ぐ書かれているんですよ。友達は何故か右へ曲がる。なんでだ?いつもはナビがくどいほど曲がるように言っても曲がらずに真っ直ぐ行くのに、今回に限って真っ直ぐと☝︎書かれているのに何故曲がる❓立派な銀杏の木の横を通りどんどん山を登っていきます。着いた先は綺麗な
昨日(10/19)の大阪府北摂にある「山城」への登城2城目は「上杉城」(大阪府豊能郡能勢町上杉)です。この城もメジャーではありませんが、少し技巧的な箇所があるとかで楽しみに縄張り図を予習していました。1城目の「片山城」からは国道173号線に戻り、「道の駅能勢の郷」手前を左手にドンドン山の方へ入っていきます。少し道が出張っている所に「上杉稲荷神社」が建っていますが、そこが「上杉城」の最南端となる場所のようです。「上杉城」遠景↓しかし登城口がある場所は、もう少し北上して段々畑の脇
本日(10/19)は、朝からいい天気になるとの予報でしたので、大阪府北摂の「山城」2城へ登城してきました。いよいよ「山城」登城シーズンが到来しますので、足慣らしも兼ねての登城です。昨晩は、ネットで掲載されている「縄張り図」をアウトプットして見るべきポイントを図に印して予習しました。登城のお城は「片山城」(大阪府豊能郡能勢町片山)と「上杉城」(大阪府豊能郡能勢町上杉)のマイナーな2城で、「小塩氏」の居城であったようです。まず、「片山城」(大阪府豊能郡能勢町片山)へ向かってナビを設
三河古宮城の整備活動に参加。作手、思いがけずも4年ぶりの訪問になりました。草刈り部隊を枝拾い部隊の私が撮影(撮ってないで仕事しろ)この監視状況、古宮城はやはり凄い。大手出入口脇の小郭(ふたりは亀山城見ながら想いを語り合っている)そこに知ってる人がいて、その人たちが自分を仲間として許容してくださって、私にとって城は孤高な対象なのだけれど作手は違う。原田先生、ありがとうございました。城に行って温かい気持ちになるって、ますます嵌ってまう。危ないじゃん。
越前攻めの続きです。燧ケ城跡を攻略し昼餉の越前そばとソースカツどんを食いに越前市方面へ北上してると、見覚えある場所を通りかかったんです。というのも、よく城跡を検索してストリートビューで登城口なんか探したりしてるわけでして、今回は攻城予定してなかったが、通りかかってしもたので見逃すわけにはいかぬという事で、急遽攻城いたしました。福井県南越前町鯖波越前・茶臼山城(ちゃうすやまじょう)別名:茶磨山城茶臼山城は『越前国城跡考』では新田義貞を城主とし、杣山(そまやま)城の出城とし
『らんまん』ロスである。浜辺美波てなんとも思わなかったが、このドラマを観てなんとも思うようになった。新羅神社での戦勝祈願を終え、燧ヶ城へ攻め込みます。新羅神社の境内横から攻城開始。植物採集はしません目的は城跡だけなので、その1で言うた通り燧ヶ城(愛宕山)までの往復だけです。0.4km14分だけしんぼうして登ります登山道は整備され適度に歩きやすい。ただあづい~石段が現れこの先右にカーブしてます。カーブに差し掛かる。0.2km3分は主郭までの距
おばあちゃんちを後にして、教えられた通り、赤いトタン屋根の大きな家の近くに車を止め、地元民しか知らない道を進みました。獅子吼城の、最初に見たこの看板の後ろにけもの道が。、安定の山道です。歩き進むうちに、こんな木が。まるで化け物の口!アップでご覧ください。自然の造形はすごいですね。このお城が現役の頃はらこの木はなかったのでしょうけど、数百年の間に大きくなって、この森の守り木になったようです。ちょっと分かりづらいけど、竪堀かな。上の方に石垣が見えます。当時からそのまま残っているも
上月城(佐用郡佐用町上月字荒神山)別名:荒神山上月城『日本城郭全集』によると、「ここにはじめて城を築いたのは正治年間(1199~1201)得平三郎頼景である。その後130年を経て頼景の孫上月次郎景盛がこの城を増改築した」とある。景盛か頼景の孫とすればその間に経過した130年は長すぎるように思われる。『佐用郡誌』によると、景盛は赤松頼範の三男頼景の子とある。高坂好の『赤松氏略系図』によると、頼範の子に頼景・則景があり、弟則景の子に上月次郎景盛が書かれているが、これではなおさら130年の年代が合
天神山城(姫路市書写字西坂本)『赤松家播備作城記』によると「大河内越中守実泰が天文年中(1532~1554)これを守る。ついで魚住八郎左衛門尉治吉がこれを守った。治吉は構(坂本構城)城主魚住範吉之弟也。天正に至ってこれを守る。同六年(1578)落城した」とある。平城坂本とも関係がうかがわれる。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)南五郭南四郭南三郭南三郭の北西土塁南三郭の南土塁南三郭からの東帯曲輪南二郭主郭主郭東帯曲輪主郭東帯曲輪と繋がる北二郭北二郭と繋がる主郭北西帯曲輪
行きたかった鞆の浦は曇り空のために諦めて、福山城から北西へ7キロ少々20分強の移動。広島県福山市山手町備後・山手銀山城(やまてぎんざんじょう)別名:要害山城銀山城は木梨杉原氏の一族の杉原匡信によって築城され、以後山手杉原氏を名乗った。銀山城主3代目の杉原盛重は、毛利氏の傘下の神辺城主である山名理興の家老であり、理興の死後神辺城の城主となった。杉原盛重の死後、家督継いだ杉原元盛に反発する弟・杉原景盛との間で相続争いが起こり、兄の元盛を謀殺するが景盛も毛利に攻められ、山手杉原氏は衰退し
先日のヤフーニュース「暗くなるのでやめた方が良い」と忠告も「関東から来ているので」と入山古城巡り趣味の男性が滑落し遭難…翌朝救助(BSS山陰放送)-Yahoo!ニュース島根県安来市にある城跡の山で城巡りに来ていた男性が遭難し、翌朝救助される事故がありました。news.yahoo.co.jp午後4時からの攻城て、ちょっと無謀やおませんか?わしでもそんなことせんわ!関東であろうがどこから来ようが暗くなったら山中では視界0でっせ。おまけにスマホの充電0て💦ありえへん。住職とお
密かな幸村ファンの私は、この岩櫃城に行く計画を随分前に立てていたこともあったのひとり行動の多い私JR吾妻線群馬原町駅から、徒歩65分か~とフムフムと調べているうちに、注意事項が眼に止まりました悪天候の場合は諦める。季節によっては、クマの出没地。えぇ~ここでビビり、断念一人歩きでクマに会ったら助からないよねでも、今回心友のハマちゃんやノリちゃんのおかげで、昔に断念した岩櫃城訪問が叶いましたなんという偶然神様は、味方して下さ
兵庫県姫路市香寺町恒屋播磨・恒屋城(つねやじょう)別名:高丘城、中島城恒屋城は十五世紀中頃の嘉吉や長禄期あたりに恒屋伊賀守光氏(播磨守護職赤松氏の家臣)(その先代の重氏が初代城主とも)が築城したと考えられる。その後天正期の五代政直の頃に信長さま中国方面軍司令官羽柴秀吉による中国遠征があり、恒屋氏は周辺の諸城と共に毛利方の立場をとり、秀吉方の軍に備えた。同四年(1576)押し寄せる秀吉軍の前に、置塩城主赤松則房が開城し、翌五年には恒屋城は、田野城、矢田部城などと同じく落城していった。
空木城(姫路市林田町上伊勢)『播磨鑑』には「城主喜多野新左衛門忠助、赤松伊豫守義雅の臣代居」とある。『揖保郡地誌』には土人の言として、嘉吉元年(1441)赤松の別将小野七郎右衛門之に居るとあり。『日本城郭全集』には両説をあげて前者を応永年間(1394~1427)のこととしている。両者とも時代を違えて居住していたのであろう。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)西五郭西四郭北西二重竪堀(西)北西二重竪堀(東)西三郭西二郭主郭主郭北帯曲輪主郭の南竪堀主郭南帯曲輪南東竪堀南東三
峰相山(姫路市石倉峰相)別名:峰相山城峰相山鶏足寺の跡でもある山城。西南西十四郭西南西十三郭西南西十二郭東帯曲輪西南西十二郭南西腰曲輪南竪堀西南西十二郭西南西十一郭西南西十郭西上段西南西十郭東下段西南西十郭東下の南西六郭西段南西六郭東段南西七郭西南西九郭南東腰曲輪西南西九郭西南西八郭西下段西南西八郭東上段西南西八郭南下段西南西七郭西南西五郭西四郭西五郭西南西六郭西南西四郭南西帯曲輪と繋がる西南西五郭西南西四郭南西四郭西南西四郭南西帯曲輪西
信長さまの小谷城攻めで朝倉氏が築き、賤ケ岳の戦いで羽柴小一郎が改修(?)した近江・田上山城後編です。現在は❷主郭です。これより❹西郭を攻略し、❸、❺へ侵攻します。賤ケ岳の際、オヤジ権六勢は北方向に展開してるので、北方向を意識した縄張にしたと思う。縄張担当は与右衛門(高虎)・・・ではないよな。この時期はまだ鉄砲隊率いてたくらいかな。おそらく土木作業大好き秀吉が美濃方面へ進出する前に、あれこれ指図して改修したに違いない。というわしの説。尾根を加工した主郭と西郭の連結部。北側に重圧
弥高山城(姫路市砥堀寺山・広峰)『播磨鑑』その他の文献のいずれもが「城主は谷沢甲斐守、衣笠村氏の靡下」とあるのみで詳しくは分からない。衣笠村氏は永正十五年(1518)置塩城主赤松義村が松山城を攻めたときの城主で、その時弥高城(林田町八幡)にいて、共に戦ったのが谷沢甲斐太郎国氏である。城の名も城主の名も相似ているが、両城は別個のものである。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)北西竪堀北東二郭北東三郭南東竪堀北東二郭南下の東三郭東三郭南下の東四郭東四郭南下の南五郭南東竪堀東五郭南
未命名20222(姫路市広峰)兵庫県遺跡DBに記載されているが、詳細不明。南七郭南六郭南六郭の西竪堀南五郭南四郭南三郭東畝状竪堀群南三郭の西竪堀南二郭西畝状竪堀群主郭主郭の南土塁北二郭北二郭の西畝状竪堀群北二郭の南東竪堀北二郭の北東竪堀未命名20222遠望軌跡ログ実地調査を元に作成した概略図姫路市の城