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昨日はいいお天気で日差しも強く暑いくらいの一日でした。ということで、お花を見におでかけ。でもちょっと遅かったかなぁ。この様子はまたそのうちに~そんな私の今日のブログは11月の三連休の続きです。三連休二日目は私は午後からの合流。この日は阪急嵐山駅で待ち合わせです。駅前の紅葉がきれい。この日はここからバスに乗りますが連休中ということもあってバスがかなり遅れてきました。バスで渡月橋を渡ってバスの中からパチリ。竹林の径につ
先日の日曜日は「NHK文化センター青山教室」の日✨関裕二先生の講座を受講いたしました♪『第1回平安時代の光と闇』〜長岡京遷都の意味〜F氏が独裁を目指した理由中尊寺の仏像はなぜ素晴らしいのか平安時代の出発点とは秦氏と源氏と平氏巨椋池と紫香楽宮の持つ地政学的な意味なぜ平安京に遷都したのかなどなど♪天皇が権力を握った2度のタイミングのお話があったのですが(なぁるほど)と、とても分かりやすかったです。また関先生の視点での、中尊寺の仏像のお話がとても心に響き、今度は展示会ではなく
称徳天皇には神託を偽ってまで道鏡に譲位する動機がありました。というのも、この時代、女帝は一代限りという原則のため、いわば不婚が強制されていたからです。したがって、彼女には一代限りという女帝の宿命への反発があったのではないでしょうか。そして道鏡の皇后として実権を奮い、いわば「称徳朝」を開こうとしたとも考えられます。以上を背景に、宇佐八幡神託事件における清麻呂の役割を再検討していきましょう。清麻呂は姉の広虫の引き立てで出世し、その姉は称徳天皇の信任をえていま
藤原南家とは、不比等長男・武智麻呂(ムチマロ)に始まる藤原氏の一流。南家の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前(フササキ)の邸宅に対し南に位置したことに由来し、逆に房前側を藤原北家と称す。武智麻呂は、長兄として廟堂の首班を務めて右大臣まで昇ったが、天然痘により病没した。臨終の床で正一位左大臣の官位を授けられる。橘諸兄政権では、武智麻呂長男・豊成(トヨナリ)が、順調に昇進を重ね右大臣に任ぜられ、橘諸兄とともに左右の大臣として太政官を主導した。その後、孝謙天皇が即位すると、弟仲麻呂が、
宇佐八幡神託事件のネタ元といえる『続日本紀』は『日本書紀』の続編として、平安遷都を実施した桓武天皇の時代に完成した歴史書です。事件の首謀者とされる称徳天皇は、壬申の乱(古代の内乱)に勝利して事実上の「天武朝」を開いた天武天皇の流れをくんでおり、皇太子を定めず崩御したため、死後、群臣会議によって白壁王が光仁天皇として即位しました。その光仁天皇は天智天皇(天武天皇の兄)の孫にあたり、称徳天皇とは皇統を別にします。そのため、光仁天皇の皇子(桓武天皇)の時代に編纂された『続日本
和気清麻呂は、備前国(岡山県)藤野郡(のち和気郡)の豪族の出身です。天平5年(733)の生まれとされています。姉に和気広虫(法均尼)という人物がいます。彼女が官女として出仕し、称徳天皇に気に入られたことが清麻呂の出生のスタ―トとなりました。天平神護2年(766)、34歳で従五位下の官位を与えられていますから、地方豪族出身としては早い出世といえます。姉の広虫の引き立てがあったのです。そして、3年後の天平景雲3年(769)に「宇佐八幡神託事件」が起き
八尾市弓削あたりには一年だけ日本の首都に匹敵する舞台になったことがある。称徳天皇の時代この地は河内国から河内職に昇格した。大阪外環状線170号を車で走るとアクロスプラザあたりの西側に石碑が現れる。
旧江戸城(皇居)平川門近くの堀端に立つ和気清麻呂像ができたのは戦前の昭和15年(1940)。その年に発刊された国定教科書(尋常小学校用)にはこんな話が掲載されています。奈良時代の話です。『称徳天皇(女帝)の御代に勢力をえた道鏡(僧)にへつらう者が宇佐八幡宮(大分県)のお告げだと偽り、「道鏡を天皇の位につかせれば天下は穏やかになる」と天皇に申し上げた。天皇はこれを聞き、清麻呂を宇佐にお遣わしになって確かめることになった。清麻呂が都を発つ時、道鏡は「自分のために計らえ
(旧)睦月十八日光浴びて水面跳ねゆく影を見て東院庭園二月の終わり雲端平城宮跡の東の張り出し部分にある東院庭園へ。聖武天皇の娘、称徳天皇時代の庭園を2010年に開催された平城京1300年祭を機に復元したもの。
こんにちは今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ今日も前回に引き続き、『孝謙(称徳)天皇』の物語の続きです孝謙上皇が再び天皇の座について(重祚)称徳天皇となると、ますます寵愛していた道鏡を重用して、どんどん太政大臣禅師からついには法王にまで出世させ(かなりやりすぎ位を上げて好きな人を喜ばせたいという女心)、専制政治を行いました。しかし、僧である道鏡に権力を持たせた専制政治に反発する朝廷の家臣達も多く、政情は混乱を極め、大いに不安定なものになりました称徳天皇や道鏡に刃向かう人達には些細
昨日(2/22)愛知県稲沢市にある「尾張大国霊(おわりおおくにたま)神社」で「国府宮はだか祭り」が執り行われました。この祭りを迎えるとこの地方に春を迎えると昔から言われています。ここ、稲沢には古き時代、尾張国府(国衙)があり、もちろん国分寺・国分尼寺もありました。その国府に隣接して鎮座したのが尾張大国霊神社です。近くに国府があったことから、一般に「国府宮」と呼ばれています。この写真は、美濃路歩きの時撮ったものです。拝殿は重文です。「はだか祭り」は、正式には「儺追(なおい
できないことは何もないみなさん、おはようございます雨の所が多いです少し冷静になって考えるできないことは何もない一歩でも進んでみてくださいアリガトウ「2月21日」の國史です「和気清麻呂、没」延暦18年(799年)弓削道鏡と対立します「道鏡を天皇に」宇佐八幡宮の神託を受け称徳天皇は喜びます道鏡の弟・弓削浄人は太宰帥(だざいのそち)九州防衛のトップでした神託の真偽を確かめるため和気清麻呂を派遣します和気清麻呂は天の日嗣は必ず帝の
京都御苑を烏丸方面へ出た正面に。烏丸通りに面してるから幾度と前は通ってますが訪問は初めてなんですよねぇ。平安京をつくった人和気清麻呂宇佐八幡宮神託事件『令和6.1.28.孝謙天皇・称徳天皇陵(奈良市山陵町324)』今年のテーマは藤原氏紫式部も藤原氏大和西大寺駅。安倍さんの襲撃場所奈良ファミリー。秋篠川。見えてきました。再訪です。静かで貸切良い空間です第46代孝謙天皇陵・…ameblo.jp道鏡から天皇家を守ったんですよねぇ境内。日本一のさざれ石。和気清麻呂公警察消防招魂社。
こんにちは今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ今日も前回に引き続き、『孝謙(称徳)天皇』の物語の続きですところが「おごれるものも久しからず」(by平家物語)という言葉のとおり、病にふせっていた光明皇太后が崩御すると、絶対的な後見人を失った藤原仲麻呂は急速に力を失いつつありました。元々仲麻呂の傍若無人な振る舞いに対して苦々しく思っていた人達が多かったからです仲麻呂とも心の距離ができて孤独だった孝謙上皇は唯一の肉親の母親を失ったショックで病床に伏せるようになってしまいましたそしてます
歌姫街道を歩いて平城宮跡へ。第一次大極殿。高御座が見えます南門。南門と奥に大極殿。朱雀門、閉まってる表へ回ります。和太鼓の演奏してました。奈良ちとせ祝ぐ寿ぐまつりタレントの南かおりさん御斎会が始まります御斎会(ごさいえ)とは、古代から中世に渡って宮中で行われていた仏式の正月行事散華称徳天皇の登場です御斎会終了。称徳天皇のお帰りです。出店もあります。前日の山焼きで若草山、黒い次の催しが始まります。次へ行きます。奈良ちとせ祝ぐ寿ぐまつりlit.link(リットリ
今年のテーマは藤原氏紫式部も藤原氏大和西大寺駅。安倍さんの襲撃場所奈良ファミリー。秋篠川。見えてきました。再訪です。静かで貸切良い空間です第46代孝謙天皇陵・第48代称徳天皇陵(重祚)称徳天皇高野陵。阿部内親王(藤原氏出身)。聖武天皇(首皇子)と光明皇后(安宿媛)の娘史上6人目の女性天皇で、天武系からの最後の天皇聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず(基王は早世)、阿部内親王のみであった。聖武天皇と県犬養広刀自との間には安積親王が生まれたが、後ろ盾を持たなかったた
今日は奈良ちとせ祝ぐ寿ぐまつりの初日。まあ今日は仕事なんで、朝通りすがりに、朱雀門の、オープニング儀式。を、女官の団扇を預かって見守る人。久々に見た、蓮花ちゃん。何体かのゆるキャラが来ていたようだが、一番見たかった、山添村野てんまるはいなかったなあ。裏側に回ったら、称徳天皇が、お待ち中。ま、ここまでで、タイムアウト。仕事に向かいましたとさ。
20240127(最近スカッとは晴れないが今日は晴れ気味曇天な土曜日),久々にバイクに跨りリフレッシュ平城京跡の「朱雀門」で開催(1/27・1/28)された、「奈良ちとせ祝ぐ寿ぐまつり」に行ってきました。「ほぐほぐ」祭ッて寒い時季地元の「食」を広げようの「ほぐほぐ」になろうよう~の意味かそれとも、「御斎会」の「みさいえ」とも、南都三会(さんえ)の一つ。また宮中の重要な年中行事の一つ。正月8日から7日間,宮中に僧を招いて大極殿(だいごくでん)などで「金光明(こんこう
ご来訪ありがとうございます😊時の権力者に阿らない…凄いですよね…天皇の望みの御選択を持ってこないとは…流石ですね…https://taishu.jp/articles/-/112174「日本三悪人」道鏡の野望を阻止!天皇に忠義を尽くした和気清麻呂|概要|日刊大衆|トレンド|特集旧江戸城(皇居)平川門近くの堀端に立つ和気清麻呂像が出来たのは戦前の昭和一五年(1940)。その年に発刊された国定教科書(尋常小学校用)には、こんな話が掲載されている。奈良時代の話だ。『称徳
天武天皇の第六皇子に舎人親王という皇子がいらっしゃいました。その御尊母は天智天皇の皇女の新田部皇女(にいたべのおうじょ)でしたから母方も天皇の血筋の皇子でしたが、天武天皇が有力皇子同士助けて争わないことを誓わせた吉野の盟約当時はまだ3歳と幼く加わっていません。第六皇子でしたので皇統からは遠く、しかし天武天皇の諸皇子の中では長命でしたので、長屋王とともに皇親勢力として権勢をふるい、「日本書記」の編集も総裁し養老四年(720年)五月に完成奏上しています。3年前は日本書紀編纂千三百年という
「いろは歌」と「即身成仏」の謎その13称徳天皇は八尾市の出身の僧・道鏡を寵愛し、太政大臣禅師、さらに法王に任じ、天皇に準じた待遇を与えた。要は弓削道鏡は僧侶で総理大臣でもあったと思えばいい。つまり絶大なる権力を誇っていたのである。だからこそ、皇位を狙った者だったとしても処刑にはできず、下野国へ下向させられただけだった。さらに考えれば、弓削道鏡やその一族を処刑すれば、物部氏との戦いになることも予想され、戦乱のない平和な世になっていたのが、再び「壬申の乱(じんしんのらん)」、さらに物部氏
「いろは歌」と「即身成仏」の謎その12「和気清麻呂」(わけのきよまろ)は天平5年(733年)、備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)に生まれた、奈良時代末期から平安初期にかけての貴族である。天平宝字8年(764年)に発生した「藤原仲麻呂の乱」では孝謙上皇側に参加、天平神護元年(765年)正月に乱での功労により勲六等の叙勲を受け、3月には藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓している。この「真人」(まひと)は、天皇から氏族に対して授けられた姓(カバネ)の一つで、天武天皇13年(684年
『まんが日本史』で、天皇になろうとした野心あふれる僧である道鏡の成り上がりから遠流までを描いたものがヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想野心あふれる僧、道鏡の成り上がりから転落まで(『まんが日本史』より、タイトル画面)レビュー今回の主演は、道鏡です。非常にやる気に満ち溢れた感じの人物像です。(『まんが日本史』より、弓削道鏡)助演は、その道鏡を気に入って引き上げていく孝謙上皇、のちに重祚して称徳天皇です。(『まんが日本史』より孝謙上皇=称徳天皇)
第四十七代淳仁天皇は奈良時代の天皇です。御父、舎人親王の第七子、御母は当麻山背(たいまのやましろ)。また御祖父は天武天皇です。3年前は日本書紀編纂1300年の記念すべき年でしたが、舎人親王は日本書記の編集の総裁をしていた皇子です。『すめらぎのお話・・・皇帝と廃帝と日本書紀と枕草子と馬』天武天皇の第六皇子に舎人親王という皇子がいらっしゃいました。その御尊母は天智天皇の皇女の新田部皇女(にいたべのおうじょ)でしたから母方も天皇の血筋の皇子でし…ameblo.jp『「日本書紀」編纂13
今日から11月ですね。あっという間に1年が終わっていく…今日は奈良に行きました。このポスター好きだ。まずは昨年に引き続き正倉院展へ。昨年は色々あってあまり記憶がないので←今年は楽しみにしてました。ちゃんと物販も買えた。目玉の鏡と琵琶のグッズが欲しくてこちらに。お昼を併設のカフェで食べる予定を立てていましたが、時間が合わなかったので外の飲食ブースで色々つまむことに。まずはビール。笑かまぼこ屋さんの揚げ物めっちゃ美味しかった。ぜんざいも久しぶりに食べたなー正倉院展の後は興福
「道鏡」秋は短くなったみなさん、おはようございますやっと高校生は衣替えを始めたようです大人はだらしない格好で出勤しています秋の季節は短くなったのかもしれませんさあ、今日「10月20日」の國史を学びましょう「道鏡、法王になる」天平神護2年(766年)弓削道鏡が法王すなわち天皇と対等の地位になりました天皇は称徳天皇(48代)です道鏡は孝謙天皇(46代、女帝)の病を治し信頼を得ます葛城山で役小角が用いた宿曜秘宝で病を治しました女帝は復活します重祚
奈良時代の百万塔・陀羅尼です。母親が胎内の子供を守るかのように、陀羅尼経(だらにきよう)の経文を内に納め、永い歴史を経て遺されて来た小塔です。それを表すように、木は枯れた味わいを醸し出し、白土は夏の山に残る残雪のような様相を呈しています。また、白土は、時代を感じさせる木肌と美しいコントラストをなし、塔の景色に動的な要素をも加えています。塔には時の流れが刻み込まれ、欠損のひとつひとつが心に刺さるようです。それにより作り出された造形には、強く訴えてくる力があります。歴史の幾多の出来事
2019/02/02配信<第48代称徳天皇>(女帝)孝謙天皇・重祚765年弓削道鏡・太政大臣禅師766年法王・法王宮・法大臣・法参議を設置769年宇佐八幡宮神託事件和気清麻呂・配流
北九州は大陸から外敵が襲来した際に前線となる重要な防衛拠点であり、そうした理由などから、九州北部の宇佐に鎮座する「韓国(からくに)の神」が中央から注目されました。そして、奈良時代の半ばにはその地位を確立させる出来事が起きたのです。それが聖武天皇による東大寺の大仏建立です。『続日本紀』(平安時代初めに編纂された歴史書)によりますと、八幡神は、「我が(大仏建立を)必ず成し遂げてみせよう。そのために(建立に使う)銅を(扱いやすくするために)水と成し、(作業に使う)草や木
*9月3日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは奈良時代です。本日は、天平の黄昏のおはなし。🍞あんみつ「先生、称徳女帝の神護景雲元年(767)十月、道鏡に太政大臣禅師から法王の称号が授けられました。法王宮職が置かれ、道鏡は鸞輿(らんよ=玉座)に着き女帝と同じ衣食です。令制にない官名ではありますけど、事実上皇族の地位と待遇ですね」ぜんざい「実弟の弓削浄人ら一族