ブログ記事260件
提供された内容は、全体として『続日本紀』を中心とした一次史料と現代研究にほぼ沿った正確なまとめです。ただし、758年の大規模解放は孝謙天皇在位時(天平宝字2年以前の孝謙期)であり、称徳天皇期(764年重祚後)の解放は仏教関連の散発的なものに限られる点が適切に区別されています。以下に、一次史料(主に『続日本紀』)と現代研究に基づく検証結果をまとめます。1.史料で確認できる主な解放記録天平宝字2年(758年)以前の孝謙天皇期:大規模な官奴婢解放が記録されており、解放された者は「今良(ごんろう)
主張の検証結果「天皇だけが奴婢から解放させてきた」という主張は、歴史的事実として確認できません。日本史における奴婢(古代律令制下の最下級賤民)制度は存在しましたが、天皇が単独でこれを解放した事例はなく、むしろ複数の天皇や時代にわたる部分的な解放、仏教政策、社会変化による制度崩壊が主な要因です。奴婢制度の概要成立:大宝律令(701年)で正式化。中国の律令制を参考に導入。身分:五色の賤(陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢)のうち、公奴婢(朝廷所有)と私奴婢(私人所有)が最下層。特徴:奴婢は所有物
眉のごと雲居に見ゆる阿波の山懸けて漕ぐ舟泊り知らずも=船王・万葉集=現代語訳は…眉のように雲居はるかに横たわる阿波(あわ)の山その山を目指して漕いで行く舟はさて今夜どこに泊まることやら…みたいな感じだそうです♪神代文字のカタカムナの世界では『あわ』は女性性の象徴対して『さぬき』が男性性の象徴そんなカタカムナの目線で解釈するなら…眉を美しく整えて妖艶に横たわる絶世の美女を追い求めて…僕の船は今宵はいったいどんな女性と共に
由義神社(八尾市八尾木北)の謎について由義神社(大阪府八尾市八尾木北)社号由義神社読みゆぎ通称旧呼称牛頭天王等鎮座地大阪府八尾市八尾木北5丁目旧国郡河内国若江郡八尾木村御祭神素盞鳴命、少彦名命社格例祭夏祭:7月20日/秋祭:10月20jun-yu-roku.com由義神社の由来由来を読むと確かに式内河内五社の一社とありますが、延喜式神名帳に式内社としては記載されていません。とにかく、式内社の賀茂神社の裏鬼門にあたることから、極
先生のお能の会が終わり金剛能楽堂の並びにある和気清麻呂を祀る護王神社へ行きました足腰の神様と言われる由縁は陰謀で歩けなくなった和気清麻呂をどこからともなく現れた猪が助けたので足腰の助けの神と手水も猪かわいい猪も水に浮かんでます拝殿はお正月の準備来年の干支の馬の絵です本殿に手を合わせました和気清麻呂は「道鏡を皇位に」という宇佐八幡宮の神託を再確認に行きそれは間違いだとわかり称徳天皇に伝えました(天の日つぎは帝の氏が継ぐ)それが為に配流されてしまいますが称徳
☆稱徳天皇高野陵(佐紀高塚古墳)大和国添下郡奈良市山陵町字御陵前(P無し、近隣停め置き不可)第48代称徳天皇の治定墓。成務天皇陵(佐紀石塚山古墳)と日葉酢媛命陵(佐紀陵山古墳)との三基の巨大古墳が寄り添うようにくっつき築かれています。4世紀末~5世紀前半にかけて巨大古墳が築造された「佐紀古墳群」の西群に属します。全長127mの前方後円墳。三段築成。不連続な周濠が確認されているとのこと。かつて埴輪が出土したとも言われます。副葬品が出土していないため築造時期の比定は困難。5世
第四十七代淳仁天皇は奈良時代の天皇です。御父、舎人親王の第七子、御母は当麻山背(たいまのやましろ)。また御祖父は天武天皇です。5年前は日本書紀編纂1300年の記念すべき年でしたが、舎人親王は日本書記の編集の総裁をしていた皇子です。『すめらぎのお話・・・皇帝と廃帝と日本書紀と枕草子と馬』天武天皇の第六皇子に舎人親王という皇子がいらっしゃいました。その御尊母は天智天皇の皇女の新田部皇女(にいたべのおうじょ)でしたから母方も天皇の血筋の皇子でし…ameblo.jp『『日本書紀』編纂13
涼しくなったら…と思いつつ秋の彼岸から行きそびれていた墓参りに東大阪へ行き懐かしい俊徳道駅前のラーメン屋さんでランチ◆中華蕎麦福はら煮干ベースのスープにすすり易いツルツルの麺玉ねぎのみじん切りがアクセントになっていて煮卵やチャーシューも味が染みていて美味しくつけ麺なども人気でいつも行列しています俊徳道駅からは布施駅経由で近鉄奈良線に乗り生駒山を抜け奈良へ寄り道ターミナル駅である大和西大寺駅で下車日本一ポイント(分岐器)
🏛和氣清麻呂公像(皇居外苑)奈良時代の政治家・和氣清麻呂公は、宇佐八幡大神のご神託により、僧・道鏡の「皇位簒奪」の野望から天皇の位を守った忠臣として知られています。一度は島流しに遭い命を狙われながらも、八幡大神のご加護によって奇跡的に守られ、後に名誉を回復。平安京遷都や治水工事にも尽力し、日本の国づくりに大きな功績を残しました。皇居外苑には、国の安泰を守った「忠義の象徴」として、楠木正成公と並んで清麻呂公の銅像が建てられています。皇居散策の際は、ぜひこの英雄たちの像を訪ねてみてください
武烈天皇は実在しません、って話をします。誰だそれ、とか言わないで。古代の古代にいた、日本史上最悪最凶の君主ですよ。実在しないんですけどね。中国では、ある王朝の歴史はつねに新しい次の王朝によって編纂されます。このとき、前王朝の最後の皇帝は、王朝を滅ぼした責任を一身に背負わされ、あることないこと悪口雑言を書かれるのは宿命です。最後の皇帝が「天命を失っていた」からこそ、その王朝を滅ぼす大義名分があるのですから。これは、日本においても同じです。「王朝最後の天皇」は、きわめて「徳のない」人物に
皇紀2685年令和7年乙巳神無月十四日(火)京都市北区の整体院BODYPITKYOTOは、毎週火曜日を定休日としています。明日はその貴重な休日を活かし、岡山県和氣町に鎮座する和氣神社へ清掃奉仕に上がります。和氣神社の清掃奉仕は今年4回中4回目(通算8回目)の奉仕となります。◆和氣清麻呂公―日本を護った忠臣時は奈良時代末期、神護景雲三年(769)。女帝・称徳天皇(孝謙天皇)の寵愛を受け、政治に深く介入していた僧・弓削道鏡は、ついに皇位をも狙うようになります。ある日、「道鏡
以下、景戒『日本霊異記』(『新編日本古典文学全集10』、中田祝夫:校注、小学館、1995年)から引用です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー災[さい]と善[ぜん]との表相[へうさう]先[ま]づ現[あらは]れて、而[しか]る後に其[そ]の災と善との答[こたへ]を被[かがふ]りし縁第三十八p.351〜355夫[そ]れ善と悪との表相の現れむとする時には、彼[そ]の善厲[ぜんれい]の表相に、先[ま]づ兼[か]ねて物の形を作[な]し、天の下の国を周り行きて、歌咏[2文字:
おはようございます。今日は、769年道鏡の皇位への野望を宇佐八幡の神託で退けた和氣清麻呂が、稱徳天皇の怒りを買い大隅国へ配流された日です。宇佐八幡宮これは、宇佐八幡宮神託事件と呼ばれる事件の中での出来事です。大分県宇佐市、アルファベットで書くとUSAと話題になった宇佐市です。女性天皇称徳天皇(孝徳天皇)や弓削の道鏡、和気清麻呂をご存知でしょうか。称徳天皇(孝徳天皇)出典Wikipedia【宇佐八幡宮神託事件】奈良時代、道鏡が皇位を狙うも阻止された事件です。○宇佐八幡宮宇佐市に
🧘♂️【史上最強の坊さん?】道鏡、太政大臣禅師になる!765年(天平神護元年)、奈良の政界に衝撃ニュース。僧侶の道鏡(どうきょう)が――なんと太政大臣禅師に就任!え、坊さんが最高権力者?しかも仏教界のトップも同時に?現代でいえば「総理大臣+宗教界トップ」を兼ねるようなもの。まさに前代未聞でした。🏛太政大臣禅師って何?太政大臣:律令制の頂点、朝廷No.1ポジション禅師:仏教界で修行指導者に与えられる超エリート称号👉この2つをドッキングしたのが「太政大臣禅師」。道鏡は政治と宗
⚔️【奈良のドロドロ政界バトル】恵美押勝の乱ってなに?歴史の教科書だと「藤原仲麻呂が孝謙上皇・道鏡に敗れた事件」と3行で終わり。でも実際は、制度・宗教・人間関係が絡みまくった大型ドラマでした!🚀1.仲麻呂、政界トップへ大出世!主役:藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)藤原不比等の孫、叔母は光明皇太后という超VIP。光明皇太后の後押しで大出世。757年「橘奈良麻呂の乱」を鎮圧→政界No.1に。大炊王を淳仁天皇として即位させ、自分は太師(たいし)=最高官職。👉この頃は「仲
八月四日です。月曜日です。宝亀元年(七七〇)の今日、孝謙天皇(称徳天皇)が崩御されました。第四六代目ならびに第四十八代目の天皇です。数少ない女性天皇の一人ですね。養老二年(七一八)、聖武天皇の第一皇女として生誕。母は、光明皇后です。天平十年(七三八)、女性として初めて皇太子となりました。天平勝宝元年(七四九)七月、聖武天皇の譲位によって、即位しました。天平宝字二年(七五八)に淳仁天皇へ譲位。この頃から、道鏡を寵愛するようになります。天平宝字八年(七六四)、恵美押勝の乱が起きます。
奈良時代のビッグネーム聖武天皇は天武天皇の曾孫にあたり、その娘が称徳天皇(女帝)という関係になります。その女帝が後継者のいないまま没し、このとき、天武の孫にあたる皇子2人を差し置き、称徳の遺命を受けて群臣が父の白壁王を後継指名したことによって、まず即位への道の最初の扉が開きました。白壁は天智天皇の血筋ですから、それまでの「天武朝」から皇統が「天智」朝へかわることになりますが、白壁が後継指名された最大の理由は、皇位候補者の中で最高齢の62歳だったことでしょう。当時はいわゆ
弓削道鏡・・・奈良時代の法相宗の僧。河内国弓削氏の出身とされるが、天智天皇の皇子である志基皇子の第六子説、物部守屋の遠い血筋とする説がある。義淵に学び、青年期には葛城山で厳しい修行を行なった。天平宝字6年(762年)に孝謙上皇の病気平癒を祈り、完治させ、以後その寵を得た。天平宝字8年(764年)大臣禅師、天平神護元年(765年)太政大臣禅師、天平神護2年(766年)法王の位にのぼり、政治・宗教の両面に権力を振るった。藤原氏のの抵抗をうけ、宝亀元年(770年)称徳天皇(孝謙
弓削道鏡ゆうたら悪僧として後世ではまあ人間好き勝手にその時代生きとらん知らんから着色して言えも書きも出来ますがで画かれた人相の人物である挿絵画を見てなんやたいして悪て顔しとらんやん怖わかない近所のおっさんと同じやでと思いました河内のおっさんやから僧やけれども口が悪かったんやないやろか思いました里中満智子持統天皇物語の次の女帝の手記孝謙天皇(称徳天皇)に出てきますね平城京の福都とされた西京と呼ばれた由義宮は孝謙天皇(称徳天皇)が亡くなり道鏡は下野薬師別当として流され龍輿寺に道
七月九日です。七月の一桁日も今日で終わりです。早い。早い。早い。時間というものが最初は自分と同じ徒歩だったはずが、いつの間にか在来線に乗り始めているんですよね。それに無理矢理付いて行っている状態。いつかは特急になって、新幹線になって、飛行機になるのかなあ。怖いなあ。今日も三つのお題を。・藤原百川。・濃姫。・森鴎外。【藤原百川。】宝亀十年(七七九)のこの日、藤原百川が死去しました。奈良時代後期の政治家です。藤原式家宇合の八男坊として天平四年(七三二)に誕生(長屋王の変の三年後)。
今日の朝ランは帰りに近くの天皇陵へロードバイクに乗っていた頃はいろいろ天皇陵を走ったが🚴🏻♂️ラン特に夏場はコ一スが固定してしまいなかなか他の所には走って行けないもちろん炎天下の日中に走ることも可能だが熱中症が怖いので朝ランが一番平城宮跡から近い所にあるのが称徳天皇陵称徳天皇とは女帝聖武天皇と光明皇后の娘で西大寺を建立したと言われている東大寺に比べると参拝客も少ない西大寺だが創建時には薬師寺の3倍もの大寺院であったことは多分あまり知られていないつまり東大寺に
どもはまるとんです✨️今日は、奈良時代を揺るがせた超インパクト僧侶「道鏡」について語ってみたいと思います。「僧侶なのに出世しまくり?」「天皇になりかけたってホント!?」……歴史好きにはたまらない、あの道鏡です。道鏡ってどんな人?道鏡(どうきょう)は、奈良時代の僧侶。俗姓は弓削(ゆげ)氏で、出自はそんなに高くありません。ところが彼、ある日突然、大出世を遂げます。なんと、女帝・称徳天皇の絶大な寵愛を受けて、僧侶なのに政治の中枢に食い込み、ついには「天皇になりかけた」という、歴史に
「平城宮跡歴史公園」は、奈良時代を今に感じる特別な場所です。公園内には、色々な施設がオープンしていますが、「平城宮いざない館」は、時空を超えて奈良時代に誘われるガイダンス施設でもあります。「展示室1」では、「平城宮歴史公園の見どころ」がガイドされています。その全体像と注目ポイント、四季を彩る豊かな自然、整備中の復元工事情報などが良くわかります。「ロビー幅」にも注目です。ロビー幅は、「坪内道路(奈良時代の整備された道路)」と位置や幅を揃えた「遺構表示」になっています。
前回記事「下野薬師寺(その4)道鏡①」の続きです。称徳天皇(孝謙天皇)チンコが並外れてデカくて絶倫だったとか、臣下でありながら天皇の座を乗っ取ろうとした大悪人であるとか、散々な悪評を与えられている道鏡ですが、こうした悪評が見られるのは、道鏡の死から50年後に成立した日本霊異記など後世の書物においてであり、実のところ、道鏡の存命中あるいは死後間もなく著された書物にはそれほど批判的な内容は記されていません。確かに、我が国の正式な歴史書である「続日本紀」では、道鏡について「権力を欲しい
宿泊費が安い日を選んで関西旅行。1日目は、奈良県西大寺に宿をとりました。私は、10歳まで、旦那は大学時代に近鉄奈良線の沿線に住んでいたので、何気に空気が懐かしい。大和西大寺といえば、安倍元首相暗殺の地。現場周辺は花壇になり、5キロ離れた霊園に慰霊碑ができました。作るべきは安倍氏を偲ぶ施設ではなく、要人殺害という大事件を記憶する場所ではないでしょうか。思い出したくないというか、変な聖地になるのは嫌だ、という人もいるでしょうけど、では原爆ドームを残しているのはなぜか、と問いたい。どなたが供えたの
だから、🟡私には『ソレ』を、🟣自分たち3人と会う前に、【先】に書いてて貰いたかった。と、頼まれた【約束】をしてたので、、、⭕️書く📝迄はまだ会え無かった。。。そして、『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」。諱は阿倍で、これは阿倍氏に養育されたためであった。史上6人目の女性天皇で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年-
🟣孝謙天皇(こうけん)が、重祚して称徳天皇(しょうとく)。【元号】が、⭕️孝謙天皇の時は、●天平勝宝●天平宝字⭕️称徳天皇の時は、●天平宝字●天平神護●神護景雲時代/【奈良時代】で、🟣先代聖武天皇(第45代)淳仁天皇(第47代)🟣次代淳仁天皇(第47代)光仁天皇(第49代)誕生/718年崩御/770年8月28日(平城宮西宮寝殿)斉明天皇(皇極天皇)が崩御した日が、661年8月24日109年後と4日後に崩御。そして、⭕️陵所/【高野陵】。だか
こんばんは今回は、“歴史人物列伝”として、奈良時代最後の女帝である、孝謙天皇(こうけんてんのう)について、書いていきます孝謙・称徳天皇肖像画(ネットよりお借りしました)○生誕から即位まで718(養老2)年、皇太子時代の聖武天皇と光明子(後の光明皇后)の娘として誕生。阿倍氏に養育されたことから、阿倍内親王(あべないしんのう)と呼ばれました。周辺の天皇系図(ネットよりお借りしました)727(神亀4)年、天皇と皇后の間に男子が誕生し、周囲の期待も大きく、
「3歴代ノ天皇(その48)」今日は、豊臣家みなさん、おはようございます今日は皐月、5月前半の大切な日です58=コパさんの日(笑)少しオシャレして環境開運学の実践ですサッソウと皐月、五月環境は人を幸せにします(笑)楽しく國史を学び家族のためご自身のためにお役に立てれば幸いですコメントお待ちしています!5月8日は豊臣家が大坂夏の陣で滅びました秀吉は徳川家との姻戚を模索し逆に家康は難癖をつけて豊臣家を追い込んだのです歴代ノ天皇(
和気神社の由緒によると「第11代垂仁天皇の皇子、鐸石別命の曾孫である弟彦王は、神功皇后に反逆した忍熊王(おしくまおう)を和気関に滅ぼした功により、藤原県を与えられ土着した。その弟彦王を祖先とする和気氏は備前・美作両国に栄え、その12代後裔が和気清麻呂公・和気広虫姫である。命の曾孫・弟彦王が、備前・美作に土着し、和気氏は代々この地を治めた。その後裔が、清麻呂公・広虫姫である。古くは和気氏一族の氏神として遠祖、鐸石別命が祀られ、和気神と称せられていた。天正19年(1591)に数町川下にあった社殿