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長年のブロ友さんから、先日秋田の地酒「福小町」の「号外編」、並びに広島の海苔専門店「三國屋」の海苔を送って頂きました。この福小町を送って頂くと、私はよく大坂の陣同窓会を開催します。豊臣家譜代の青年武将木村重成の子孫が興した木村酒造の福小町号外編に、大阪五人衆と呼ばれた明石掃部の子孫が移り住んだ秋田県比内地方の比内地鶏、同じく大阪五人衆真田信繫の子孫と伝わる私での酒席です。さて、今回は広島の三國屋の海苔があります。どう組み立てるか。大阪の陣
基町から西に移動して大竹の亀居公園で花見。福島正則が築城した亀居城跡が公園として整備されています。初めて来たんだけど、想像の10倍立派な城跡です。築城後すぐに廃城になったそうですが、凄い遺構が残っています。史料が少ないのか、県の史跡にもなってないようだけど、研究が進むことを期待します。途中雨に降られてこんな格好に(笑)。次は晴れた日に攻略したいなぁ。亀居城跡、超おススメです!
1958年(昭和33年)に再建された広島城天守閣が市の調査でコンクリートの劣化や設備の老朽化により震度6~7程度の地震で倒壊・崩壊する可能性が高いと診断された事により先日の3月22日日曜日をもって閉城になった。今後広島市では広島城天守を江戸末期から明治初期の姿に木造復元する事が検討されており天守と2つの小天守を含む天守群すべてを木造で復元する場合工期は約9年で工事費は最大で約194億円と見込まれているそうだ。歴史的、学術的、文化的に優れた広島城天守閣を被爆80年の節目に
豊臣兄弟今回の大河は豊臣兄弟尾張ですね〜!生まれ育った地が出てくるので嬉しいです。私は蜂須賀小六推し!!蓮華寺ここの近くで生まれ育ちました。因みに織田信長生誕の地(かも?)と言われている勝幡城も近くです。福島正則の生誕地も近くですね。勝幡駅には信長の「一番若い姿」の銅像があります。ばぶちゃんの信長太閤山常泉寺と妙行寺仲良く並んでます。中村公園に豊臣ミュージアムができたとか。帰省したら是非、行きたいものです。蜂須賀辺りの城趾はほぼ、制覇しました。それこそ、今は田ん
慶長の役と嫡男の死「母里太兵衛と黒田家①黒田24騎と黒田8虎」「母里太兵衛と黒田家②播磨国姫路の時代」「母里太兵衛と黒田家③秀吉の時代」「母里太兵衛と黒田家④文禄の役」「母里太兵衛と黒田家⑤黒田節の成立」の続きです。■名槍・日本号「日本号」は皇室所有物(御物)であり、正親町天皇(おおぎまちてんのう1517~1593)から室町幕府15代将軍・足利義明に下賜された。足利義明から織田信長、豊臣秀吉に渡り、そして、小田原城攻め(1590年)の武功に対して秀
2026年1月11日と昨日2026年3月7日に、かねてより訪問したかった愛知県西部。織田信長公、豊臣秀吉公にゆかりあるスポットを散策して来ました!まずは、2026年1月11日から…名鉄津島線で、津島駅に向かい、「津島湊跡」の「天王川公園」に!かつて、ここには、川湊があったとのことで、東海道もあって、交通の要衝でしたので、織田信長公も、ここ津島湊を押さえていたとか…津島湊から上がる税によって、経済的にも豊かだったんですね~お次は、「津島神社」を参拝。創建は、欽
日本一の槍を飲み取る「母里太兵衛と黒田家①黒田24騎と黒田8虎」「母里太兵衛と黒田家②播磨国姫路の時代」「母里太兵衛と黒田家③秀吉の時代」「母里太兵衛と黒田家④文禄の役」の続きです。明国・李氏朝鮮と休戦中の慶長元年(1596年)正月、黒田長政は秀吉が築いた京都伏見城下の黒田屋敷にいた。黒田長政伏見城は秀吉が晩年を過ごすために築いた城だ。現在、本丸があった場所は明治天皇の御陵「伏見桃山陵」となっている。秀吉は伏見城を囲むように各大名に屋敷を営ませ、妻子
岐阜関ケ原古戦場記念館(岐阜県関ケ原町)において新収蔵品展示「豊臣家ゆかりの武将-福島正則-」が開催されます。日程:2026年3月17日(火)~5月10日(日)時間:9:30~17:00場所:岐阜関ケ原古戦場記念館(岐阜県関ケ原町)料金:HPを確認してください福島正則書状など展示されるようです。詳しくはこちらで3/17(火)〜5/10(日)新収蔵品展示「豊臣家ゆかりの武将−福島正則−」を開催します-岐阜関ケ原古戦場記念館当館では、関ケ原の戦いに関わる資料を収集・保管し
さて、この本を元に。個人的な想像を交えながら。シン・関ヶ原(講談社現代新書)Amazon(アマゾン)慶長5年(1600)7月19日、徳川家康の家臣、永井直勝が、増田長盛の書状を受け取る。この書状には、石田三成、大谷吉継の不審な動きが記されている。この書状を見た徳川家康は、恐らく、石田三成、大谷吉継の二人が、自分に叛旗を翻したと考えたのでしょう。徳川家康は、この書状を写し取り、会津征伐のために宇都宮に集まっている諸将に、送るように指示する。7月20日、徳川家康
福島正則は関ヶ原の合戦で東軍の先鋒として活躍しましたが、五十九歳で信濃へ改易となり、高山村に屋敷を構えました。領内では新田開発や築堤を進め、民から厚い信望を集めましたが、六十四歳で生涯を閉じます。葬儀の日、突然の雷鳴と暴風雨の中、暗雲から巨大な鬼が現れ、正則の棺から片腕だけを奪い北へ飛び去ったと伝えられています。遺体は荼毘に付され、岩松院の住職は残された腕を丁寧に葬り、その傍らに杉を植えました。やがてその杉は、雲に届くほどの大木へと成長したといわれています。
続・広島城本朝図鑑網目岡岷山筆松樹日月図山県二承筆岩山に紅葉図広島城下絵屏風(複製)学問所や寺子屋で用いられた教科書等左の掛け軸は「江上吟」頼聿庵筆左から孟子、春草堂詩鈔唐詩選帖左から算法大全指南車、童訓往来新大成、算改塵劫記扁額「含晩翠書軒」頼聿庵筆書店の看板だそうです。広島の伝統工芸品左から銅蟲火鉢、銅蟲水注、牡丹に蜂菓子器(五代一国作)、伝・江波焼大皿明治期に流行したバルーンバックチェアとホールスタンド三階
今回は初めてのご依頼地『小布施』です北斎ゆかりの地なので凄く楽しみです♪岩松院こちらでは葛飾北斎の天井絵を見る事が出来ます天井絵『八方睨み鳳凰図』は葛飾北斎が88歳から89歳にかけての作品といわれています北斎は83歳を初めとして小布施に4度訪れており4度目の滞在時に約1年をかけて大間天井に鳳凰図を描きました北斎は翌年江戸に戻り90歳で亡くなっています大きさは畳21枚分塗り替えは約180年間の間、一度も行っていないそうですが高価な絵具を使う事で現在でも当時の色彩を残しています北斎
今朝も5時半に起きて、白川公園のラジオ体操会場へ向かった。暖気のせいか、少しモヤがかかったような空だったが、穏やかな日和で寒さを感じない。体操の後に近所を一回りして家に戻ったが、ダウンジャケットを脱ぎたくなるような暖かい朝だった。地下鉄伏見駅で建設中のエレベーター工事が完成していた。昇降口は広小路伏見交差点で、利用者は多く見込まれそう。あま市の美和歴史民族資料館で開催中の〜旧家に秘蔵された仏たち〜「あま市の円空仏」展を見てきた。あま市の個人宅
第三次西国乃旅路二日目。本日の朝飯。岡山はですね…宿泊に立ち寄っただけでしてね…wそのまま一路、広島県まで。福山SAにて藤井フミヤのツアートラックを発見。店内のショーケースにはキン肉マンのマスクが。サンシャイン鳥取砂丘の砂が原材料になっているそうです。素晴らしい拘りだwロビンマスク傷あり(原作版カラー)と傷なし(旧アニメ版カラー)になっている。悪魔将軍表面の光沢はナノダイヤモンド複合メッキで硬度4バージョンだそうです。拘りがすげーぜwハガレンのエド
高校時代同じ硬式テニス部(当時はこういう呼称だった)員だった旧友と、「一度関ヶ原へ行きてぇんだよ」といっていた、関ヶ原へ出陣!「同道は甲斐・岩殿城↓以来だな!」「おうさ」はてさて、まずは関ヶ原前夜、三成が本陣を構えた大垣城へ。残念ながら、ここには関ヶ原前夜の残存史跡はなし。目立つのは近世初代城主戸田氏鉄(うじかね)騎馬像、これは立派。復元の白壁四層四階の天守閣は高さ18㍍。西櫓門と城壁そして乾櫓、いい感じのお城だ。これまた残念ながら、天守最上階から家康が本陣を構えた岡山という
うっちーこと宇都宮芳綱ですそれでは影城主の結果です本城主で新覇の三成さんをゲットしたので、こちらで無尽持ちの武将が引ければと思っていたらん!?こ、こ、これは・・・グッジョブ♪('-^*)/欲しかった昌幸さんが降臨スクショし忘れましたが、福島さんも降臨したので本城主に譲与しますまたくじの結果をアップしますねブログ更新のモチベアップのためポチッとお願いします♪にほんブログ村戦国I
岐阜県不破郡関ケ原町雪が降って来ました!少し積もる予感。雪で、関ケ原は当分お預けと思う圭那です。と言うことで・・・春日神社の境内に福島正則陣跡はあります。福島正則は、秀吉子飼いの大名でありながら関ケ原の戦いでは東軍に参加しました。その最大の理由は、三成に対する憎しみによるものだったといわれています。正則は15日未明に春日神社辺りに着陣し、開戦後、宇喜多隊に襲いかかったとされています。兵力数:福島正則・6000※資料により諸説ありです。福島正則は
こんにちは。TVが選挙報道とオリンピック特番に占領されてきましたので読書時間が増えました。ただ、食後に読書すると寝てしまうので要注意です。なるべく歩いて、今のうちから体力をつけておかねばいけませんね。老後は散策を楽しみたいですから。さて前回からの続きにて。白鳥庭園を出て、すぐ横を流れる堀川沿いを散策してみます。向こうに見える林は白鳥古墳。こちらは白鳥貯木場跡。私が子供の頃、45年以上昔になりますが川面に浮かぶ材木の上に乗って筏を移動させる筏師のオジサンをよく見かけたものです
1月26日(月)兵庫大学エクステンション・カレッジの講座日でした。歴史を物語で聴く古典芸能「講談」!この日の演目は「黒田節の由来」。講師は若手講談師・旭堂南歩さんです。いつ始まるんだろうかと期待をもたせる流暢な話しぶりは会場を笑いの渦に休憩を挟んで演目の「黒田節の由来」が始まり、この演目に興味があった私は身を乗り出して聴き入りました。歴史上、知っていた内容ですが講談で聴くとまた違った感情で聴くことができます。難しいことは考えず、笑いの中で歴史を知
令和8年1月26日(月)詩吟教室を開いていただきました。新しい吟題に挑戦しました。福島正則は江戸初期の槍(やり)の名人で彼の持つ槍は名高い「日本号(にっぽんごう)」というそうです。***以上***
松本清張著、『奥羽の2人』は、伊達政宗と蒲生氏郷です。東北地方の統治にあたり、天下人に渡り合おうとする政宗、それを牽制することはら期待されながら、奥羽に置かれて天下のことから遠のく氏郷。力はありながら、信長に愛されながら、秀吉には疎まれ、東北に追いやられる氏郷。福島正則の話も好きです。福島正則は秀吉とは親戚関係で、豊臣恩顧の大名であり、家康と接点を持つも、とり込めれていきます。時代の趨勢を読めず、本人は豊臣家を思い、そのことが時代に飲まれていることに気づきいていなかった正則を描いています
12月25日、広島城へ。別名は鯉城(りじょう)。鯉は魚のコイのことなので、後に広島東洋カープのチーム名となりました。この再建天守は老朽化のため、2026年3月で閉鎖となります。天守が取り壊されると勘違いしている人も多いが、入場できなくなるだけで、再建計画が決まるまでは外観はそのまま。中の展示物は三の丸に建設予定の展示館に移されます。入城中には広島城の歴史や展示品があります。毛利氏の勢力を拡大させた毛利元就。(もとなり)鎌倉殿の13人に登場した大江
市町村の名前由来名前の由来に興味をもち調べてみると広島市広島県広島市2つの説いくつか有る島のいちばん広い島にお城を作ったから広島大江広元の「広」と福島元長の「島」からとって広島どちらも捨てがたい戦国時代から凄かったこの地毛利元就は少し山奥の郡山城を拠点にしていたが不便なために山陽道が通る現地点に着目元就の死後、輝元により広島城を開城し広島の開拓が行われた関ヶ原の戦いで西軍についた毛利軍は敗れ福島正則が城主となった福島正則は広島城を幕府に無届けリ
日本100名城に行こう中国地方へ遠征です。とはいえ時間の都合で行けたのは3城だけ。それでも大きく100名城達成に向けて前進しています。まずは広島城広島城といえば頭に浮かぶのは毛利ですが・・・。吉田郡山城を居城としていた毛利は1588年広島城の築城を開始、1600年の関ケ原の戦いで萩へ減封。ここで毛利は広島の地を去っていま。。関ケ原後に49万石で入城したのが福島正則。城と城下町を整備していきますが1619年、幕府に無断で石垣を修復したことを理由に改易。福島正
今回は、現在の広島県広島市中区にある広島城をご紹介します。日本100名城の1つ(73番)に選定されていて、松本城や二条城とともに日本三大平城に数えられています。広島城へは、広島駅から広島電鉄で紙屋町東電停または紙屋町西電停まで行くと徒歩15分くらいで、路線バスで合同庁舎前バス停まで、または観光路線バスメイプループで広島城バス停まで乗っていくと、徒歩6~8分程度で行くことができます。広島電鉄広島駅電停。JR広島駅の写真を撮り忘れるという大失態をやらかしていますので、ここでは広島駅の紹介も載
ふ12月23日、羽田空港を出発。広島空港へ着。2泊3日の広島旅。旅行会社のツアーだが、コース内容は行き帰りの航空券とホテル宿泊+朝2食のみ。広島空港からホテルまでの移動のみならず、3日間すべて自由行動。羽田空港で航空券を受け取ったらそこで解散。実質的には「3日間の一人旅」です。2日目にオプションで安芸の宮島ツアーの案内があるが、自分は不参加。山の中の高速を移動して、エアポートリムジンで中筋バスターミナルで途中下車。中筋駅からアストラムライン(ゆりかも
武)直江兼続:勧農治水の才武)柳生宗矩:修身の剣武)井伊直政:栄光の傷痕武)森長可:白衣夜叉の臨武)淀殿:母子密着の結武)虎御前:虎母咆哮武)陶晴賢:西国一の侍大将武)吉川元春:三矢結束・武武)山中鹿之介:月下の鹿鳴武)福島正則:資性剛強※倍率不明の為、判明次第反映©コーエーテクモゲームス
期間:2025/12/26〜01/02天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:武)福島正則:資性剛強※倍率不明の為、判明次第反映戦)加藤清正:肥後の虎射)加藤嘉明:沈着の大器薬)小西行長:緘黙の雄心武)黒田長政:天下取りの将戦)細川忠興:畿北の驍将射)池田輝政:姫路宰相©コーエーテクモゲームス
長電・長野駅から電車で45分くらい、都住駅に到着。無人ローカル駅から、まずはテクテク歩きます。小布施町・岩松院さん。葛飾北斎ゆかりの地。八方睨み鳳凰図、お堂から見上げさせていただきました。北斎が描いた当時から色褪せなてないというのが驚きでした。当時の最高級の顔料を使用していたとの事です。係のかたにご説明を10分程いただいた後、『本堂に寝転んで鳳凰図を見上げてください』と勧められて見ました。迫力がすごかったです。「賤ヶ岳七本槍」福島正則公の墓所小林一茶『やせ蛙負
大僧正天海(143)「(寛永九年正月)廿四日夜亥刻、大御所大漸に及ばせ給ふ。廿五日御遺命には、御葬礼御法会倹約を宗とし、霊牌一の外何も新に製する事あるべからずとなり。」(「大猷院殿御實紀」)寛永9年(1632年)1月24日夜、10時頃に秀忠は息を引き取った。最後に命じたのは「祭礼・法会は倹約せよ、霊牌を一つ作ればよい。他には何も新調するな。」という言葉であった。長らく秀忠は「凡庸な二代目」と評価されていた。テレビドラマでも、関ケ原に遅延し家康に激しく