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お風呂の神様いままでに紹介した、開運法に関する記事の中で、トイレの神様や、台所の神様を紹介してきましたが、ふと、思ったことが1つ。お風呂に関する神様、存在するのだろうか?ということで、色々調べてみたら、お風呂の神様、見つけました。・跋陀婆羅菩薩(ばったばらぼさつ)※イラストはイメージです。・首楞厳経(しゅりょうごんきょう)というお経の中で、登場する菩薩。入浴中に、「自己と水は一如なり。」と
私が大学生であった頃だから約20年前のことであるが、ある大学教授が陽明学に関する講演をしたことがあり、それを聞いたことがある。本筋のテーマからやや逸れる話として仏教について言及されていたが、その人はとんでもない間違いを平気で話していた。曰く、念仏を唱える他力の浄土教は大乗仏教であり、自力で悟ろうとする禅宗は小乗仏教である、と。歴史や宗教、思想、哲学と言ったことに知識がない素人ならば、漠然としたイメージとして誤解していても仕方なさそうに思うが、曲がりなりにも大学教授である人が、自分の専門分野
「曹溪宗総本山高麗寺」は京都府と奈良県と滋賀県の県境に位置する京都府相楽郡南山城村童仙房の山間部に5万坪の境内を有する禅宗寺院です。宗教法人の認可を得て、1975年に曹溪宗禅僧釋泰然禅師により開山創立されました。精神的、宗教的な文化の向上をはかり、世界平和と文化交流の広場にするために宗教活動を続けています。◆白衣観音像◆古い時代から白い服を着ていた白衣民族の精神と思想を表わしている高さ10mの観音像(石仏)は「ごくらく橋」を渡ると皆様の訪問を優しい微笑みでお迎えしてくださいま
護摩焚きは生きている人への「供養」らしい2回くらい参加したけどなんか知らないけどスッキリこれ「供養」されていたからかhttps://ameblo.jp/shirakawa-aoi/entry-12948796744.html『密教と禅宗の「供養力」の違い』おはようございます出雲大社の系列の神社の巫女を経まして。教派神道の神職の資格を習得した占い師、白川葵です本日も、お忙しいところ、ご訪問ありがとうございま…ameblo.jp
ここ数日、ブログはアップされているがフェイスブックに反映されていないという。なぜだか理由は判らない。森女の撮影。いずれ一休がらみで撮る予定だが、まずはタウン誌用に。これで予定していた制作を終えて、あとは引っ越しの準備をする予定である。幸いにも新たな人物を作るだけの粘土はない。しかしいくらなんでも、それでは窒息してしまう。そこで、仕上げを残してほぼ完成している白隠慧鶴の頭部に限り、手をつけて良いことにし、精度を上げておきたい。本来詳細な頂相が残さらていない人物は手掛けないことにしていたが、白隠だ
皆さん、おはようございます。今日もお忙しい中、ブログにお越しいただきましてありがとうございます。鎌倉三十三観音霊場の第6番は錦屛山瑞泉寺です。神奈川県鎌倉市二階堂にある臨済宗円覚寺派寺院です。御本尊は禅宗と言う事もあり釈迦如来さま、札所御本尊は千手観音さまになります。臨済宗円覚寺派瑞泉寺【鎌倉】瑞泉寺は鎌倉公方(鎌倉府の長)の菩提寺(ぼだいじ)として、鎌倉五山に次ぐ関東十刹(かんとうじゅっさつ)に列せられた格式のある寺院です。www.kamakura-zuisenji.or.jp
「抽象性」で魅せる龍安寺の石庭金澤成保洛北・衣笠山の麓に、龍安寺を訪れた。その広大な境内に佇む蓮池「鏡容池」の「池泉回遊式庭園」も見ものであるが、龍安寺といえば何より方丈庭園である「石庭」を眺め、誰しもその特異な空間に象徴される意味を考えて時を過ごすことになるだろう。ここで、なぜ人は「石庭」に惹きつけられるのか、その魅力はなんなのかについて考えてみたい。龍安寺は、禅苑の名刹の一つで、臨済宗妙心寺の境外塔頭である。宝徳2年(1450)、室町幕府の「管領」細川勝元が、義天玄承禅
「良く聞け」と、繰り返し繰り返し聞くのだ、聞くのを重ねていくうちにこれが段々染みこんで、転ずると言いましょうか、染みこんで行って回心に至るのだと。どっかのときに特殊な、そういう一種の恍惚状態で入ったということを書いておられるね。けど普通それを言われないのだ、それを言うと邪魔になるからだ。そうすると皆んなそういう状態にならなければならないと思ってしまったのでは間違いを生じやすいから。二通りあるというのは確かに事実でしょう。
禅宗の高僧:両手を打てば拍手の音が出る。では、片手ではどんな音が出るかな?弟子:そんなの簡単ですよ。聞かせて差し上げましょうか?禅宗の高僧:どれ、聞かせてみよ。〈バチン!〉禅宗の高僧:痛い!いきなりビンタするやつがあるか!
子ども:あのお兄ちゃんがおなかすかせてね、ご飯だけでいいからおむすびくださいって言うからね、僕、かわいそうだから、おむすびに塩をかけて食べさせてあげたの。禅宗の高僧:お前は、なんと無慈悲なことをしたんじゃ。米だけ握って渡せばよいものを、そやつは一度塩むすびの美味さを知ってしまったら、もう塩のかからぬ握り飯では満足できなくなったであろう。かわいそうに。子ども:おじさん、なんで人の嫌がることばかり言うの?
チベットの袈裟は檜皮色の赤い袈裟です下衣は筒状に縫い合わされたスカートです台湾のラマは偉い方でこの下衣に田相が付いていました日本へ戒律を伝えた鑑真和尚も檜皮色のような赤い袈裟衣を伝えたのです曼荼羅の仏もお釈迦さまも観想(イメージ)では赤い袈裟を着すと伝わります高野山の法印さまは弘法大師のご名代だと言われますが「お衣」は法印権大僧都の官位の色衣だそうですお坊さまの袈裟は目に触れてどれもありがたいものなのです禅宗ではただ袈裟を懸けて座るだけで瞑想が
禅とは、言葉の向こうにある沈黙を生きることである。ところが近年、AIが禅を「解説」する場面が増えてきた。ChatGPTのような人工知能は、無数の禅僧の語録や解説書を学び、整然とした説明を返す。だがそこには致命的な欠陥がある。それは、オリジナリティの欠如――つまり「誰がそれを語っているのか」という主体の不在である。AIが語る禅とは、過去の禅語録の“平均値”であり、悟りを得た僧の声でもなければ、苦悩の果ての沈黙でもない。もし、ある高僧が気まぐれに書き残した曖昧な一文があれば、AIはそれを
私としては行き当たりばったりのつもりでいるのだが、俯瞰で眺めてみると、どうもシナリオが予め書かれている臭い。それは後からそう思うのではあるけれど。百科事典の別巻日本の美術の頂相彫刻のリアルさに幼い私は畳に腹ばいになってよく魅入っていた。西洋彫刻にはそのような思いで魅入ることはなかった。そう考えると、作った立体像から陰影を排除し、陰影の呪縛から解き放ち、以後それまでの実在者制作から寒山拾得など説話上の人物に転向を決めていたのに前言を翻すことになったのは、建長寺の開山、蘭渓道隆の頂相に打たれてしま
教学用語解説禅天魔「禅天魔」とは四箇の格言の一つで、「禅宗は仏法を破壊する天魔の所為」であることをいいます。禅宗の教義の主なものに「教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏」があります。「教外別伝・不立文字」とは、『大梵天王問仏決疑経』なる経典に、「吾に正法眼蔵涅槃の妙心、実相無相の微妙の法門あり、教外に別に伝う、文字を立てず。摩訶迦葉に付嘱す」とあることから、釈尊の真意は教の外にあり、それは経文・文字によらずに、特に摩訶迦葉に付嘱されたのであると述べ
清洲から名古屋へ移転した廃寺東輪寺が再興され元禄2年(1689年)に改宗、その翌年に寺名も改められた曹洞宗正法山高顕寺。山門(摩利支眞天の石柱標が目をひきます)摩利支天堂本堂ご本尊:観世音菩薩瓦には三つ葉葵紋が
10月初め、神奈川の鶴見にある曹洞宗の大本山、總持寺へ友人と行った。曹洞宗とは、鎌倉時代に道元禅師が中国から伝えた仏教の一派で、座禅を修行の中心とし、日常生活すべてを修行と捉える宗派曹洞宗には、大本山が2つあり、もう1つは福井県の永平寺。永平寺は1244(寛元2)年に道元が、總持寺は1321(元亨元)年に瑩山が開山。總持寺はもとは石川県の輪島市にあり、1898(明治31)年に焼失し、1911(明治44)年に現在地に移転。境内にある禅カフェ、茶房おかげやでラン
禅宗のお坊さんは、みな円を書いているそうです。禅宗のお坊さん達が描く円は、筆にためらいがないため、とても綺麗な円をいつも描くことができます。何事にも深層に達すると、絵や字だけでなく、その表情や言葉使い、ふとした仕草など、表現するものすべてが見事になるのです。やはり修行の賜物なんですね。私達が常に意識することは、何事も狭く考えず、寛容な精神で生きること。そして、どんなことでも人生の妙味だと知り、味わい深く生きることなのかもしれません。根を据えて柳の糸は風次第まずし
以心伝心読み方:いしんでんしん言葉や文字などを使うことなく、心と心で互いの、、、⇒続きはこちら
ダルマさんと月をテーマに10月6日は中秋の名月「十五夜」月の出は、日毎に平均50分ずつ遅くなるそうです月の出を今か今かと待つ?言葉「十六夜月(いざよいづき)」10/7「立待月(たちまちづき)」10/8「居待月(いまちづき)」10/9寝待月(ねまちづき)、更待月(ふけまちづき)…🌓🌒昔は、夜の暗闇に月の明かりはさぞ美しかったかと…10月5日は「禅宗」の開祖達摩大師(5〜6世紀)菩提達磨、ダルマさんの「達摩忌」「一華五葉の茶会」床の間花は鉄線と竜胆掛物は
こんにちは。いつも頑張っているあなたへ、少しだけ心に立ち止まる時間をお届けします。誰かの言動を見て、「それは違うんじゃないかな?」と心の中で、あるいは実際に口に出して批判してしまった経験はありませんか?「正しさ」を大切に思うからこそ、つい、人の間違いが気になってしまう…。それは、とても誠実な心の働きだと思います。でも、その批判する心が、実は自分自身を映し出す鏡だとしたら…?今日は、そんな心の不思議を解き明かす、ある禅のお話をご紹介させてください。ある晴れた日のこ
要は、如浄禅師一人が「正師」であって、他は「正師」でないという事の「意味」が重要である!違いは、どこにあるのか?だから、道元が「本当の仏教」が何かを知らないで、それを知りたくて求めて、中国に渡ったのではない。そうであったならば、当時、著名だった禅師が沢山いた。如浄禅師は、中国禅宗史では、完全に埋没して、忘れられた存在である。つまり、中国禅宗史では、何の影響も与えなかった人物である。如浄禅師は、古い仏教「中国天台宗」の思想であった。中国禅のモットーである「
◯2025年4月2日から6日に掛けて、『鎌倉五山旅』と題して、鎌倉五山に参詣して来た。その『鎌倉五山旅』を終えるに当たって、最後に、『鎌倉五山旅:鎌倉五山』と『鎌倉五山旅:江の島信仰』を書いて、まとめておきたい。◯当古代文化研究所では、中国五山に、全て、参詣済みである。・テーマ「世界上最美麗華貴之城:杭州」:ブログ『径山寺参拝』・テーマ「白居易の愛した佛都・杭州」:ブログ『霊隠寺参詣』・テーマ「寧波漫歩」:ブログ『天童寺~山門・萬工池・照壁~』・テーマ「白居
ヒプノセラピストの風湖です。あなたは普段、笑顔で元気に挨拶をしていますか?そもそも「挨拶」という言葉は、禅宗から生まれた言葉で、「一挨一拶」という言葉に由来します。これは、師匠が「元気か」と尋ね、弟子が即答することで、弟子の悟りの深さや心の成長を試す行為でした。そこから転じて、心を開いて相手の心に近づき、お互いの理解を深める行為全般をさす言葉になったのです。この大宇宙の根本は「気」であり、人も宇宙も「気」から成っています。大宇宙に満ちている「気」が、私達の身体に注がれ満ち
一昨日は友人Jさんと一日鎌倉歩き一番の目的は10月末で閉店する「なると屋+典座」さんなると屋+典座(てんぞ)「てんぞ」とは禅宗のお寺で精進料理をつくる役職名だそうです。なると屋さんは鎌倉小町通りの寿ビル2階にあっていつも開店前から階段に行列している落ち着いた和の雰囲気の店です。私は森ワークの際に必ず予約してここ10年ほど本当によく利用させていただきました。北鎌倉から大仏ハイキングコース経由で鎌倉到着→なると屋さん横浜から天園ハイキングコース経由で鎌倉到着
下記の商品は本日入荷したホンの一部です。大阪駅前第3ビル地下2階・永井古書店店頭でも購入できますがインターネット通販サイト「日本の古本屋」でのご注文が確実です。http://www.kosho.or.jp/「日本の古本屋」で当店の商品がヒットしない場合は売約済みか売り切れです。『賀茂真淵の業績と門流』(井上豊)昭和41年、風間書房刊*蔵書印あり売価4,500円『士族授産史の研究』(安藤精一)昭和63年、清文堂出版刊売価4,000円『田
•南宋時代(13世紀)の作品を見てきた。国宝-絵画|六祖挟担図[五島美術館/東京]六祖とは宗派の6番目の祖や、6人の祖を「六祖」というが、禅宗では6番目の祖である「慧能(えのう、恵能とも)」のことを指す。慧能(638〜713)は中国唐時代の僧で、諡号は大鑑禅師だが曹渓大師や六祖大師とも呼ばれる。幼い頃に父を亡くし市場...wanderkokuho.com六祖挟担図偃谿黄聞賛|公益財団法人五島美術館www.gotoh-museum.or.jp・誰が描いたか?落款はあるが、経歴
フィラメントのように輝き始める清浄に反応するプラスのものが吸い寄せられてくるからね運と言えばそうだが清浄を追求するそこは、Nothingホールであり今さら運が必要という訳でもない腹いっぱいなのだ無で満たされているからねそうしてどんどん輝きを増していく禅宗の修行僧が日常的に行う作務がこれにあたる人生は繁ればいいってもんじゃない繁れば繁ったで清浄から遠退く⭐︎潔癖症は強迫観念と非寛容の心の病気他者にもそれを求めるのは未熟と傲慢でしか
【図説】日本呪術全書著豊嶋泰國図書館で見かけたので借りてみました3cm程の厚さでビッシリ書いてある本です密教系の呪術修験道系の呪術陰陽道系の呪術神道・古神道系の呪術などなど、書いてあるのですが内容も難しく、ギョエーというような内容もありボリュームもありパラパラと見て大文字をみて把握する程度で読み切れませんでした本の中身を掲載してよいものがあったので、こんな感じですこの本の中の修験道系の呪術の中
阿闍梨【閑話】浄土真宗は難しい?⑤これからの伝統仏教教団に求められるもの浄土真宗は、親鸞の「悪人正機説」に象徴されるように、自力での悟りを諦め、阿弥陀如来の他力による救済を説く点が特徴。この教えは、努力や成果を重視する現代社会において、完璧を求めすぎず、ありのままの自分を受け入れる心のあり方を提示する力を持っている。また、在家信仰を基本としてきた歴史から、地域コミュニティとの結びつきが強く、「みんなのお寺」としての役割を担ってきた一面がある。孤立化する社会における心の拠り所、核家族化
禅宗というと、坐禅をする宗派というイメージがあると思います。そこでする修行、所謂、禅修行はとりわけ厳しい印象を受けるのではないでしょうか。私は、高校の修学旅行の時、禅寺で禅修行の体験をしたことがあります。禅修行とはどういうものか。目をつぶって、じっと坐って、微動だにしない。少しでも動くと棒で叩かれる。怒鳴られる。実際、その時は、お坊さんの怒鳴り声が炸裂。緊張感が漂っていました。たかだか修学旅行の体験で、この緊