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あとがき真田大八を主人公に物語を紡ぐしかし、徳川に知られないために、かえって残っているものがなく、かなり調べましたが、実際のところが、全くわかりませんでしたなぜ、伊達政宗は真田幸村の子供たちを助けたのか(どのような経緯で、助けることになったのか)なぜ、片倉小十郎重綱は、大八を匿いながら、梅を継室にしたのか(梅のことは史実にあり、他の子供らを匿っている、と、疑われるとは、思わはなかったのか)大八は、ほんとうに幸村の忘れ形見なのか八女は(名前は、わからない)なんで亡くなった
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の歴史認識を照らし合わせたくてヒストリーチャンネルで放送されていたので観ました。淀君・秀頼親子を追い詰め、挑発して滅亡させた徳川家康と本多正信(ヒストリーチャンネルの『まんが日本史』より)内容について関ヶ原の勝利した徳川家康が天下人への道を固めるべく進んでいくのがこの41回の内容になります。織田信長&木下藤吉郎(羽柴秀吉)、羽柴秀吉&黒田官兵衛というように、徳川家康&本多正信というタッグで天下取りを進めて
【2025年12月14日】長野県最後の温泉である「別所温泉」。今回も「鉄道むすめ巡り」のデジタルスタンプを獲得するために訪れた「別所温泉」駅ですが、それと同時に温泉むすめ「別所愛染」さんにも会いに来ました。こちらの等身大パネルには今年の5月に一度会ったことがありましたが、『【温泉むすめ巡り】別所愛染(長野・別所温泉)』【2025年5月18日】これまで「鉄道むすめ巡り」や三重塔を観るため、何度も訪れてきた長野県上田市の別所温泉。『【鉄道むすめ巡り2023
伊達騒動が収束すると、辰信は江戸詰めの仕事も増えるようになった。伊達家の江戸屋敷での仕事だ。それは伊達家が、徳川の家臣を伊達屋敷に招いた時のことだ。辰信は主の伊達忠宗から六文銭の裃をつけるよう言い渡された。その日の客人は真田幸道。幸村の兄・信之の孫であり、現真田家当主であった。幸道は居並ぶ伊達家の家臣たちの中に、六文銭の裃を見つけた。幸道が驚いて伊達忠宗を見ると、忠宗はにやりと笑った。そのまま、六文銭を身に着けた若者の前に腰を落とした。「その紋、六文銭
11:43A.M.晴れてはいるが、風が冷たい。鳥居が見えたので、行ってみたら、真田幸村の関係する三光神社だった。参拝していく。
また、蔵王町矢附と曲竹に領地を与えられ、三百六十石を治めることとなった。大八は矢附に屋敷を構え、伊達家を支える家臣団の一人となった。蔵王町は白石城にも近く、姉・梅とも、その夫・重綱とも交流しやすい場所だったので、姉弟は生涯お互いを思いあい、支えあって生き抜くことができた。その嫡男であった辰信(ときのぶ)は、幼名を片倉沖之介(おきのすけ)という。沖之介は、両親はもちろん、主筋の片倉家でも二代目正室・梅の甥ということもあり、大切に育てられた。沖之介が左介を知るのも、まだ幼い子供の頃であ
片倉辰信(ときのぶ)後の話片倉辰信は領地の蔵王町矢附に戻ると、早速自分の領地の見分に出かけた。江戸に長く滞在したので、領地を回るのは久しぶりだった。朝早くから馬に乗り、あちこちと足を運び、やがて青麻(あおそ)山を臨む広々とした田畑の途中で馬を降りた。「よい」供の者を抑えて、足を進ませ眺める。さわさわと草が動いた。「左介か」「は」「仙台の様子は」明日は登城せねばならない。まだ仙台は混乱の中にあるだろう。ーーーー辰信は先般、父・片倉守信を失った。大坂の陣の戦いか
片倉辰信(ときのぶ)後の話片倉辰信は領地の蔵王町矢附に戻ると、早速自分の領地の見分に出かけた。江戸に長く滞在したので、領地を回るのは久しぶりだった。朝早くから馬に乗り、あちこちと足を運び、やがて青麻(あおそ)山を臨む広々とした田畑の途中で馬を降りた。「よい」供の者を抑えて、足を進ませ眺める。さわさわと草が動いた。「左介か」「は」「仙台の様子は」明日は登城せねばならない。まだ仙台は混乱の中にあるだろう。ーーーー辰信は先般、父・片倉守信を失った。大坂の陣の戦
行く、行くといいながらなかなか行かれなかった現役時代にチームを組んでいた同僚の自宅へ行って来ました新築ということで楽しみですそしてチビチビとの再会も楽しみですこの写真は2024年の10月に我が家へ来ていただいたときの写真ですその時はジャムちんともすぐに打ち解けて2人ともこの笑顔で追いかけっこの始まりでした今日はその同僚の自宅にお邪魔しに行ってきます我が家からはキャベツロードから鳥居峠そして菅平入り口を横目に真田幸村の
「5小倉百人一首(その33」今日は、大坂冬の陣みなさんおはようございます今日は新月午前10時43分運気の変わり目ですこれから運気が良くなりますよ(笑)疲れが溜まったなという人は少しスピードを弛めるといいですね止まってしまうより終(しま)い佳(よ)ければ、師走、12月すこし弛める(笑顔で)「小川翔護とハタラク仲間たち(OHN)」ご参加いただいた皆様、ありがとうございました鋭意準備中です、今しばらくお待ちください12月20日は方
戦国時代最後の名将・真田幸村の活躍を巡る旅に出ようと思います。彼の本名は真田信繫で、創作などの影響で幸村という名前の方が有名のようです。大坂の冬の陣で徳川軍に勝利、夏の陣で壮絶な最期を遂げたことで知られています。冬の陣から夏の陣における彼の最期までを巡っていきましょう。それではやっていきましょう。この写真だと、どこにでもありそうな住宅街の道路といった雰囲気ですね。道なりに進むと活気あふれる商店街があります。こちらは空堀通という名前の通りで、その名が示すように空堀があ
思えば大八の元服も士官も、人よりずっと遅かった。あの頃は焦っていた。重綱に何度も待てと言われた。ーーーー梅は、影と、二代目左介(八女桜)と話している。「桜、昔語りをできるのはそなただけじゃ。あの大坂から逃げてきた時、泣いてばかりの大八に、大八の身代わりになると言った桜。重綱様は桜の度胸に感服しておった」「大八は、追ってくる者に気づいて泣いていたのですよ。あれは、父の初代左介が護衛のためについてきていたのです」「大八が気づいていたと。桜、そなたは」「私は初代左介であるこ
たまに歴史の話功績はよくわからないけど初代天皇神武天皇は偉大しかしそこに至るには多くの犠牲がありここに祀られている神武天皇を殺そうとした兄宇迦斯(えうかしえ=兄)も、そのひとり。しかし、弟の弟宇迦斯(おとうかし)は神武天皇派だった。兄が造った罠の事を神武天皇に知らせ兄は結局自分の造った罠で死ぬことになるそうして、神武天皇は守られ地位を築き、初代天皇として崇められている。神武天皇に、負けた人達は化け物や蜘蛛扱いされたらしい大阪にはこんな話がある真田
五女梅片倉小十郎重綱継室片倉小十郎重綱室・梅。真田幸村五女・梅は、妹の幸村九女菖蒲(あやめ)と供に、田村家墓所を訪れていた。菖蒲の嫁ぎ先の墓所に名を刻まぬ墓石を建てて、父・幸村の墓としたのだ。梅も月心院という寺を作り、幸村を弔っていた。姉妹で、父を弔えるのはありがたいことだ。それもこれも、夫・重綱、そして主家の伊達家のおかげだ。「われらこうして生き抜いて、今があるのは片倉、伊達の両家のおかげじゃ。ゆめゆめ忘れてはならぬぞ」「はい、姉上」西村孫之進が、「大八が京の石打ち
【游高のゆったり気ままに破体–HATAI】🌸夢を追い続ける人の背中には、結果以上の“強さ”と“美しさ”が宿る🌸夢をつかんだやつより夢を追っているやつの方が時に力を発揮する―真田幸村Sometimesthosewhochasetheirdreamsshowmorestrengththanthosewhohavealreadycaughtthem.YukimuraSanada🖋️游高書–WrittenbyYukoh💫心がふっと奮い
大阪市天王寺区を訪れた続きです天王寺公園の北東側にある茶臼山古墳この石碑は、「大坂の陣茶臼山史跡碑」大坂の陣400年記念モニュメントとして平成26年(2014)に設置されました公園の北側に通り抜けていきましょう横切る道路を左に進んで西方向に歩いています前方に見えてきたのはお寺のようですお寺の手前を、左に曲がり北方向に歩いていきましょうやがて緩やかな下り坂となって、前方に、車が行き来する道路が横切る信号交差点が見えてきまし
「大八、すまぬことをした。重綱様がそなたの気持ちも聞かずに」梅が所用と称して城を抜け出し、大八の屋敷に来たのは、それから何日か後だった。「結局、重綱様がそなたに贈った女たちは、そのまま帰してしまったそうだな」「はい。お心遣いに答えられず、申し訳ありませんでした」頭を下げた大八の後ろから、障子の戸が開いて、お鈴が入ってきた。そして梅にお茶を差し出した。「そなた、名は何という」「鈴と申します」「姉上、お鈴はここに来て、そろそろ十年になります。何もかもわかって世話をしてくれる
大阪市天王寺区を訪れた続きです天王寺公園の北側にある「茶臼山古墳」遊歩道が整備されていて公園の一部となっています茶臼山といえば、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川家康が、本陣を構えた場所慶長20年(1615)の大坂夏の陣では真田幸村が、本陣を構えた場所としてとても有名です後円部と推定される墳丘の上にあがってきました茶臼山の山頂とされている場所です石碑がありました真田家六文銭の家紋が付いています反対側には、
2ヶ月前から始めたフラワーアレンジの教室💐美的センス皆無の私が四苦八苦して今月はクリスマスのアレンジメントをばっ🎄💪それっぽくなったので自己満足12月8日は我が上田市の「花火を楽しむ会」に行って来ました!県営上田球場で行われました駐車場確保の為に早く会場に行って屋台で食料を買い込みキャンピングカーで暗くなるのを待ちます夜は寒いので「これでもかっ!」と言う位の防寒をして球場に入りましたよ〜‼️太鼓の音と「皆の者!出陣じゃ〜❗️」のかけ声と共に始まった花火🎆上田真田幸村の象徴、真っ赤
「重綱様、梅姉上。お元気でなによりでございます」久しぶりの白石城。父のように慕う重綱も、母代わりの梅も、いつも会えるわけではない。だからこそ、たまの登城は心がはずむ。「大八、久しいのう。姉はいつも大八を思うておったぞ」梅は満面の笑みを浮かべている。「大八、元気そうじゃの。そろそろ元服をせねばいかんが、いかんせん。士官がかなわぬではどうにもならん。大坂の陣からやっと十五年じゃ。時間をくれないか」重綱の問いに大きくうなずき、返事をする大八。「ありがとうございます。重綱様のご厚
「重綱様、梅姉上。お元気でなによりでございます」久しぶりの白石城。父のように慕う重綱も、母代わりの梅も、いつも会えるわけではない。だからこそ、たまの登城は心がはずむ。「大八、久しいのう。姉はいつも大八を思うておったぞ」梅は満面の笑みを浮かべている。「大八、元気そうじゃの。そろそろ元服をせねばいかんが、いかんせん。士官がかなわぬではどうにもならん。大坂の陣からやっと十五年じゃ。時間をくれないか」重綱の問いに大きくうなずき、返事をする大八。「ありがとうございます。重綱様のご厚情、
茶臼山(天王寺公園)|観光スポット・体験|OSAKA-INFO茶臼岳(26M)大阪の陣🔥大坂夏ノ陣で真田幸村が陣を構え徳川方と奮戦した場所です!「茶臼山本陣跡」りくろーおじさんチーズケーキGET!名鉄線で名古屋へ移動です。
片倉守信(真田大八)片倉守信、幼名・片倉粂之助(くめのすけ)。生まれた時の名前を真田大八という。大八はまだ四歳の時に父・幸村が大坂の陣で敗退したため、追われる身となった。梅・蘭・桃・桜の姉四人と、信頼できる父の家臣、我妻佐渡、西村孫之進とこの奥州白石を目指した。しかも、途中で姉たちは伊達の片倉隊に合流したが、大八と桜だけ、佐渡と孫之進との四人の旅となった。昼間は身を潜め夜に佐渡か孫之進に負ぶわれての旅だったが、常に何者かがついてきている気配を感じ、恐ろしくて震え
片倉守信(真田大八)片倉守信、幼名・片倉粂之助(くめのすけ)。生まれた時の名前を真田大八という。大八はまだ四歳の時に父・幸村が大坂の陣で敗退したため、追われる身となった。梅・蘭・桃・桜の姉四人と、信頼できる父の家臣、我妻佐渡、西村孫之進とこの奥州白石を目指した。しかも、途中で姉たちは伊達の片倉隊に合流したが、大八と桜だけ、佐渡と孫之進との四人の旅となった。昼間は身を潜め夜に佐渡か孫之進に負ぶわれての旅だったが、常に何者かがついてきている気配を感じ、恐ろしくて震えて泣