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さて、雑誌「歴史街道」から。歴史街道2025年12月号(特集1「真田一族と関ケ原」)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}父、真田昌幸と、その子、信幸、信繁(幸村)について。個人的に、真田昌幸の嫡男は、長男である信幸だと思っていたのですが、この本の記事によると、どうも、違うようですね。沼田城を任された真田信幸は、父、真田昌幸から独立をし、一人の豊臣大名として認めれられていたそうですね。そして、真田昌幸は、自身の上田城を、信繁に譲るつもりだっ
雑誌「歴史街道」の今月号。特集は、「真田一族と関ヶ原」ということで、ようやく、購入。歴史街道2025年12月号(特集1「真田一族と関ケ原」)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}その中から、「第二次上田合戦」について。そもそも、この「上田城」は、徳川氏が築いた城です。天正11年(1583)、当時、徳川氏の配下となっていた真田氏の領土を、越後国の上杉氏が、攻撃をする様相を見せる。それに対抗するために、徳川氏は、「海士淵」という場所に、城
「死なずの真田の兵」の秘密は、真田の兵が身に着ける具足にあった。その具足の秘密を解けと徳川家康に言われたのは、家康に謝罪に来ていた奈良の具足師の岩井与左衛門だった。冒頭から引き込まれ、岩井与左衛門が勘当されて家を出る所からめちゃくちゃ面白かった!後妻が来てから与左衛門はいびられ、それでも腹違いの弟に優しかった。だけど、家康の無理な具足の注文を与左衛門が受けることになり、その甲冑を着て家康がケガをしたと知り、父から勘当されて家を追い出された。斬られる覚悟で家康に謝罪に
↑ここは栃木県佐野駅を降りて徒歩40分くらいの場所。天下分け目の関ヶ原の合戦前に真田家が徳川家と豊臣家に分かれる決断をしたとされる薬師堂です。信幸が徳川方に昌幸と信繁(幸村)が豊臣方に…どちらが勝っても真田家は残りますがどんな気持ちでこの様な決断をしたのでしょうか…今日は手ぶらで行ってしまったので2回早起きをして再度訪れたいと思います
今から書くのは10月12〜14日に夫と長野に旅行した記録のうち、13日の記録の2つ目です。旅行の記録がたまりすぎて書くのがすっかり面倒になっていましたが、書いておかないと全部忘れてしまうので頑張って書きま〜す今回の記事は歴史にご興味のない方は長くてつまらないかもしれません。これは私のただの日記なので、もしもつまらなかったら無理してご覧にならずに回れ右して下さいね初谷温泉をチェックアウトした私達は長野県上田市に行きました夫も私も上田市に行くのは人生初で
みなさま、コメントありがとう。。必ず、必ずお返事いたしますのでしばらくお待ちを…🫠きのうも書いたけどサ、もう私は旅先での食事を諦めた↓これ、きのうの『追記あり☆せっかく松本にいるのにはま寿司(笑)→カード集め…』下のほうに午後からのもの、追記してあるんでよろしければ…ameblo.jpよく(?)考えたら、私、「旅行」してるんじゃなくて「仕事」してるんだし。。それで松本にいるんだったヨ。あぶなー忘れるところだったってことで、味も値段も提供時間もわかってるコチラサ
大東流合気柔術練心館https://daitoryuaiki.web.fc2.com/HMD飛翔塾元和道場https://hishoujyuku.wordpress.com/村松整骨院http://muramatsu-seikotsuin.com/Sundaylifecoffeehttps://www.instagram.com/sunday_life_coffee/拳槙流空手道拳槙会http://kenshinryu-karatedo.wixsit
今日は真田信之の命日だ。「旧暦で」であるから、新暦に直すともう少し後なのだけれど。私の尊敬する大好きな戦国武将のひとり、真田信之。おそらく、弟の信繁の方が好きだと言う人は多いだろう。けれど、私は父である昌幸を支えて上田を守り、父と弟と袂を分つことで真田家を守り、松代をよく治め、領民に慕われる領主であり続けた信之が好きだ。松代藩は取り潰しにもお国替えにも合うことなく、真田家が幕末まで治め続けた。基礎を築いたのは信之だ。賢くて(多分)強くて(多分)優しい(多分)人。上田も松代も何度か
[うに]今日は上田市、上田駅へきたにゃー🎶[くる]キシャーーー!!(^○^)[うに]こちらはお城口😊駅前には真田信繁(幸村)騎馬像[くる]ウッキーーー🎶(≧∀≦)ノ[うに]さあ、、今日はお城口の反対の、温泉口のほうへ…………😊温泉口から構内に入ってすぐのとこにあるのが今日の目的😊『やきとり番長上田駅ナカ店』😊[くる]ピギーーー!!(^○^)上田駅構内の立ち飲み屋さん的やきとり屋さん😊カウンター席のみ。座席はあります😊温泉口方面には来た事なか
烈風を斬れAmazon(アマゾン)高野山で自刃し、その妻妾子女は残らず三条河原で斬殺された関白・豊臣秀次。諸国をまわって歌舞を披露する一座の一人が、秀次の子を身ごもっていた。後に三好孫七郎を名乗り、大坂冬の陣を前に豊臣方へ味方するよう「勧誘」の旅をする物語?真田信繁、長宗我部盛親、明石掃部、毛利勝永へは目的をもって勧誘に赴きますが、後藤又兵衛だけは向こうから現れる。何だこの差は?孫七郎の存在が「はてな」なので、正直なところ今一つ集中できませんでした。また大坂冬の陣
子孫が語る大坂の陣(12)幸村と家康本陣急襲豊臣に殉じた忠臣・毛利勝永の義侠心この記事は平成27年9月1日に産経新聞に掲載された企画「大坂の陣四百年・決戦」(全12回)のアーカイブ配信です。年齢や肩書は当時のまま。www.sankei.com古い記事ですけど、前に岡部元信について書いたので埋もれている武将ネタってことで毛利勝永について。もっともっと評価を高めていい武将です。大坂夏の陣での活躍は目覚ましいものがある。どうしても真田信繁に目が行ってしまうが、毛利勝永の方が活躍していたと
【Kohほぼ日刊】エナジーカウンセラーエナジーコーチKoh煌です。本日も皆様からのリクエストにお応えします。本日のエナジーチャート(気流図)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、大坂夏の陣において徳川家康を追い詰め、死を厭わない決死
大僧正天海(54)家親は、山形で鷹狩りに出かけていて、その帰り道に楯岡邸に寄り、饗応を受けていた。その後体調を崩し、亡くなっていることから、楯岡甲斐に疑惑が向けられたのである。家親が亡くなると13歳の義俊が跡を継いだ。しかし、若年を理由に「義俊は、藩主に相応しくない、義光の四男である山野辺義忠を藩主にすべきだ。」と反対運動が起きてしまう。義俊派はこれに反発し、松根備前守は「義忠が家親を毒殺した。」と幕府に訴え出たのである。幕府は調査に入ったが、「義忠擁立は、
【社宝ー六文銭軍旗】慶長20年(1615年)大坂夏の陣に真田信繁が戦勝を日蔭大明神(現在の志紀長吉神社)に祈願の際神社の馬場にて休息されたこの時に『軍旗』と『刀剣』を奉納された刀剣(千子村正…ではなさそう)は終戦後GHQに没収されましたが奉納された軍旗は当時のままの姿で保存されている一般的に「赤字に白抜き」のイメージがある真田の軍旗ですが実際は「赤字の黒」が当時真田氏が使用していた軍旗としては正しい色使いになるそうです🧐《志紀長吉神社花御朱印》《境内
【好きなごはんのお供は?】今食べているのは真田丸(完全に「名前買い」)軽井沢でバードウォッチングをした帰りにゆきむら夢工房さんで買った品【マンホールカード】長野県上田市『【マンホールカード】長野県上田市』【軽井沢野鳥の森】②キビタキ『【軽井沢野鳥の森】②キビタキ』軽井沢野鳥の森星野エリアを抜けて軽井沢野鳥の森へ昨年は熊鈴つけてちょこっとだけ森の中に入ったけれ…ameblo.jp蓋のデザインは六文銭お味は見た目辛そうだけどやさしいねぎ味噌って感じ食べやすくて
信州旅行の続きです。真田家ゆかりの上田城址へ行きました。徳川家が二度にわたり攻め落とせなかったお城!立派な櫓が見られます。この高い石垣では、戦意喪失してしまいそう徳川二代将軍の秀忠がこの上田城を攻めていて、関ヶ原の戦いに遅参したエピソードは有名!櫓の中は見学ができました。真田家の書もありました。上からは信州の山々が眺められました。東虎口櫓門。その近くに「真田石」があります。上田城を築城した真田昌幸が据えた巨石。嫡男の真田信之が松代へ移封になり、この真田石を運び出そうとした
【中編からの続き】帰りはJR東日本所属のE7系新幹線です。節約して自由席で帰りますしかしながら、電源コンセントもあるし、乗車時間も2時間弱なので快適です。(そりゃグリーン車には勝てません…)上田といえば戦国大名の真田昌幸を思い出します。2回にわたって徳川家に実質勝利を収めたのは流石に戦巧者、【表裏比興の者】の面目躍如ですね。浅間山ですが、雲が多く全容は見えませんでした。大河ドラマの「真田丸」では、半ばギャグシーンのような場面がありました。【真田昌幸】「富士や浅間の山が火でも
沼田にお泊りしたので、翌日はお宿から近い「沼田城址公園」に行ってみました。沼田城は真田家の居城でございます。年表が有ったけど細かくて良く分からないです。今はお城は無いけれどこんな感じのお城が建っていたようですよ。こちらは鐘楼。2代藩主の信吉が鋳造させた城鐘だそうですが、此処に有るのはレプリカで、実物は歴史資料館に展示されてるんだって。お濠の跡かな?石垣も残っていますね。大きな木がたくさん植えられています。大きい木なんでごじゃる。木陰はとっても涼しいん
2017.6.13.今回、大阪に寄ってついでに真田丸跡へ行って来ましたと、言っても遺構が何か残っているわけではないですけどね真田丸とは1614年(慶長19年)大阪冬の陣と呼ばれる大阪城にて徳川勢と豊臣勢の戦いで、真田信繁(幸村)が大阪城の南側惣構えの堀の外に築いた出城の事です『近年、やっと真田丸跡について全容が分かってきました以前は、場所も形もハッキリしてませんでした。形も丸馬出みたいな半円形だとかいろいろ憶測がありましたが!最近、場所も分かり縄張りも、四角形に近かっ
本当は出立前に完結されたかったんだけど余ってしまったものは仕方がない。畿内から東海道と南海道の旅路、最終日にして最終回。ホテルの窓から和歌山城。早朝は雨でしたが、動き出す頃にはほとんど止んでいたのは助かった。『実刻旅記・紀伊国~摂津国』今回も一日遅くなってしまったがリアルタイム?旅行記最終日。本日は和歌山県・大阪府。予定にはなかった紀三井寺だが、時間が合わずに重文の仏像は見られなかった……ameblo.jpそして最終日も予定外から始まる。クソ狭道のため、完全片側通行だ
期間:2025/06/26〜07/04天井:100倍率:3倍初回:半額呪)真田信繁:煌星の閃耀覇)竹林院:祥雲の錦衣射)宇喜多秀家:月星の冠飾薬)豪姫:雲漢の被帛©コーエーテクモゲームス
南光坊天海(198)「社頭参詣申、例年之相違神供不参、予一人洗米備了、於神前各頂戴中々不是非次第也。」(「梵舜日記」)8月18日は秀吉の忌日であった。何一つ行事はなく、片桐貞隆のみが、参詣に来た。12月18日には、妙法院が豊国神社の道を塞いだため、いよいよひっ迫し、勝重に執成してくれるよう頼みに行っている。8月8日、「薬師願望ノ塩断チ也」(「梵舜日記」)梵舜は家康を憎んだ。心の底から憎んだのである。この時、薬師如来に塩断ちの願掛けを行っている
矢沢陣屋(仙石氏館)のすぐ奥にある丘の上に矢沢城がありました。矢沢氏で最も有名なのは矢沢頼綱でしょうか。沼田城代として数多の攻撃から沼田城を守り続け、この粘りがいわゆる沼田問題を長期化・泥沼化させ、名胡桃城事件の遠因になったとすれば、矢沢頼綱も間違いなく日本史の一ページを形作った人物ということになります。この頼綱、矢沢氏に養子に入っていますが真田幸隆の実弟で、つまりは真田昌幸の叔父にあたる人物ということになります。昌幸にとってはまさに頼れるおじさんだったわけですね。頼綱の嫡男が矢沢頼康
南光坊天海(191)「閏六月朔日諸大名両城に参賀す。南光坊天海衆座の中にて、ひとり天台僧の外紫衣をゆるされ、また僧正にのぼる事あるべからずといふ。多聞院、末座より聲を放て、我が宗祖弘法既に紫衣を賜ひ、其上高野、東寺、醍醐の諸僧等、僧正に任ずる者古今其例少からず、何ぞ天台一宗にかぎらんやといふ。天海黙然たり。」(「台徳院殿御實紀」)二条城には、多くの人が参賀のため集まっていた。このような中で、天海は唐突に「天台宗以外は、紫衣や僧正に成ることを禁じればよいのだ。」と
朱山にある大珠院です。妙心寺の境外塔頭。霊雲派。明応2年(1493年)、妙心寺22世・興宗宗松が創建。もとは洛中にあり、大珠寺と号しましたが、1500年代前半に龍安寺境内に移ったと言います。その後、衰退していたのを石川貞清が復興、菩提所としました。石川貞清(?~1624)は美濃出身の戦国武将。出自は不詳。豊臣秀吉に仕え、小田原征討の戦功により尾張犬山城主となりました。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍についたため改易。妙心寺の仲裁で東軍・池田輝政のもとに投降して助命。出家し
南光坊天海(186)「豊前宰相家督之儀、任忠興内存、其方諸職可被申付者也慶長九年八月廿六日家康花押忠興三男内記とのへ」(「家康書状」)関ケ原の戦いの時、細川忠興は嫡子・忠隆と対立し、遂に勘当・廃嫡とした。そこで、江戸城で人質になっていた三男・忠利を後継としたのである。上記は「忠興の希望のとおり」となっているが、実は、幕府の希望であったようだ。そして次男・興秋は忠利の代わりに江戸で人質になることになった。江戸から豊前に戻った忠利と入
南光坊天海(182)毛利家は、大坂冬の陣では徳川方として、輝元自身が参戦している。ところが、船中に病にかかり、秀就らに大坂城攻めを委ねて帰国した。その後も毛利軍は、さほど戦闘に参加しないまま、冬の陣は終了した。夏の陣でも出陣を命じられ、4月21日に秀元が先鋒として出陣し、5月4日に秀就ら主力が出陣した。しかし、毛利軍は、結局大坂城落城には間に合わなかったのである。それどころか、毛利家家臣・内藤元盛が、輝元の命で佐野道可と変名し、豊臣方として大坂城に入っている
心地良い空間でした軽井沢ベーカリーレストラン沢村突然、軽井沢に行こう!と思いたったの軽井沢好きってこともあるけれども、ブロ友さんから、真田一族の歴史番組がありますよって教えていただいて、パッと思いついたというか、思い出したというか、赤バスに乗らなきゃいけないし、最終赤バスの時刻も早い、歩いて下ってもいいけれども、クマに注意区画だしっていろいろ躊躇していましたでも、行ってきました観光会館から赤バスに乗って見晴
南光坊天海(179)「大阪落城の砌、城中より年の程、十六七許の容貌美麗なる女性白綾の鉢巻し、白柄の長刀を杖つきて、重綱公の陣先へ出しけり、重綱公之をつれ帰りたまひて後室とす。」(「老翁聞書」)京都の片倉邸に数名の女性が匿われていた。屋敷の者は「太閤様の御息女か。」等と噂していたが、誰も正体は知らなかった。この時、重綱はここで療養中であったという。「阿梅殿は大坂城落城の際、乱取りにより当家に参られた。よって氏素性は当家では知らぬものとします。」と重綱は