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10月は、例大祭や秋祭りが斎行され今年一年を振り返り、お世話になった神様へ感謝の祈りをささげる月となっています奈良石上神宮では、例大祭出雲にもつながり…私が、過去世を過ごした百済伽耶の地七支刀(しちしとう)新しいステージの幕開けに、八方をお清めいただきお力を頂戴して来年の目標をまとめていきたいと、思いますありがとうございます
日本の歴史は、古代から日本列島のみで展開していると思っている人にこそ、この本を読んでいただきたい。古代の日本の歴史に出てくる人物たちの多くが、実は外国に出自を持っている。YouTuberの考え方の学校のヨシさんもそのような考えの人ですが、ヨシさんは中東まで出自を遡り、中国や朝鮮半島はあまり重視しません。昔、原田代表(原田武夫国際戦略情報研究所)から聞いたのは、日本の本当の歴史は今回のタイトルの通りだということ。東アジアの歴史、特に大和朝廷(大和朝廷の時代は東国は別の国だったので、あえて大
銭湯帰りに、小腹が空いて立ち寄ったのが屋台の蕎麦屋や寿司屋であった。決して今時のような高級食品ではなかったのです。移動しながら商う「そば」に代表される「振り売り」形式の屋台と、仮設店舗を組立てて移動せずに商う「すし」に代表される「立ち売り」形式の屋台の二通りがあった。当時は「グルメ」や「食レポ」なんて百済ないものはありませんでした。懐を気にせず気軽に庶民が食べることができるものでした。
ナポレオン軍団が発見したロゼッタストーンは、世界史を塗り変えた。(ヒエログリフの解読)それ程ではないにしろ、満州に渡った日本軍(関東軍)の発見した広開土王碑は、東アジアの歴史を再発見させるものだった。wikipediaより広開土王とは高句麗の君主で、もともと百済を支配下に置いていたが、倭国の進出によって百済が倭国についてしまう。しかし、騎兵を用いて両国を打ち破ったという。その後、隋の侵攻により高句麗は弱体化したが、隋もまた滅んだ。隋に代わって覇権を握ったのは唐だったが、その唐
奈良県から大阪府へと流れる大和川のほとり、「海柘榴市」古代の交通の要衝として栄えた所。1500年前、朝鮮半島の百済が滅亡寸前だったころ。百済の聖明王から欽明天皇へ託された一体の仏像と経巻は対馬・壱岐・玄海・糸島の地を辿り、「海柘榴市」へ。無事、贈られた。仏教受け入れ派の蘇我稲目。対立する廃仏派の物部尾輿.そんな中、蘇我馬子が招いた僧、恵便導師のもと日本初の尼、善信尼が誕生。まだ幼い11歳。彼女に続き、恵善尼と神蔵尼も誕生。馬子はこの3人の尼僧を
6世紀初、生まれも育ちも筑紫国出身の百済シマ王が即位し、筑紫国と取引して半島倭国の領地を取得する倭五王は常に百済への軍事権の承認を宋朝に求めたが、最後まで認められることはなかった。百済は倭の五王より先に宋朝から冊封されたことと朝鮮半島内ではなく遼西にあって高句麗と交戦中の百済は地理的に言っても倭国の軍事権の範囲に含まれないと解釈されたのではないだろうか?百済は、半島の倭国は軍事的にも大した力を持たず、高句麗との交戦には積極的でないことを知っており、中国への朝貢には便宜を図っても
【あらまし】惜別の宴(うたげ)、歌の詠み交わしがあり、最後に双方からの贈り物の交換が行われます。聖は、お護りとして独鈷(とこ)を。僧都は、金剛子の数珠を。これは、聖徳太子が百済から得たもので、唐めいた筥に入れてあり、その筥は透かした袋に入っていて、五葉の松の枝に結びつけてあります。さらに僧都は、紺瑠璃の壺にいろいろな薬を入れて、藤や桜の枝に付けて献上しました。源氏の方からは、聖や法師への布施として、前もって用意した品々を京に取りに遣らせ、そのあたりの山がつにまで相応の品を贈り、最後に
朝鮮半島には長い歴史があるが、多くの日本人は弁韓、辰韓、馬韓そして百済、高句麗、新羅は古代史での知識として知っていても、その後そのほとんどを知らないのではないか。朝鮮半島にも神話時代があり、扶余族の南下から建国があり、三国時代、新羅統一、そして高麗、李氏朝鮮、日韓併合を経て、現在の北朝鮮と大韓民国につながっている。本書では神話から古代朝鮮の高句麗、新羅、百済三国の時代を中心に据えて、その後の歴史を俯瞰している。建国神話は謎の時代でもある。檀君神話の時代から箕氏朝鮮、衛氏朝鮮があり、その後は
『集合無意識』金印「漢委奴国王印」は、西暦57年、中国の光武帝が日本の奴国の王に贈った物だ。呉服は、三國志の呉国から伝わる。三国時代は西暦184年頃から280年頃。呉が西晋に滅ぼされて終わる。魏志倭人伝に、卑弥呼が登場する。239年に中国の「魏」へ使者を送り、「親魏倭王」の称号や金印、銅鏡を貰う。魏国との交流が西晋の陳寿が書いた歴史書、三國志に加えられる。538年に仏教が伝来する。百済の聖明王から、日本の欽明天皇へ仏像や経典が贈られる。蘇我馬子と物部守屋の戦い丁未の乱は、飛鳥時代58
こんにちは~蔚山吊り橋からの海岸秘境~風が強くで揺れる揺れる~スリル満点?でもないけど高所恐怖所の方は、怖いみたいですで、東海に突き出すような形で出ている「大王岩公園」この先に見える大きな岩が「大王岩」と呼ばれる岩・・・新羅の「文武王(新羅30代の王)ムンムワンの王妃が「死後も龍となり国を守る」と言い残し大王岩の下に埋葬されたーという伝説も残っているのだと。新羅代30代王ムンム王(661~681年)というと29代王は、あのキム・チュンチュの息子で
次の目的地は、武寧王陵と王陵苑3,000₩ユネスコ世界遺産百済歴史遺跡地区1号墳から5号墳は、代表的な百済様式とされる石造りの横穴式石室構造。6号墳と武寧王陵は、当時中国で広く流行したレンガ造り(磚室墳)になっている。5号墳6号墳武寧王陵先にこっちを見てから、古墳でしたが、順番が逆になった私たちでした。これは、出口です🫣
🚕に乗って、国立公州博物館にやって来ました。百済の歴史と文化に触れることのできるテーマ博物館。武寧王陵から出土した国宝12点を含め、大田、忠清南道から出土した国宝18点、宝物4点など、学術的価値の高い約4万点もの遺物を収集・保管・展示している。百済第25代の武寧王についての物や、忠清南道地域における旧石器時代から中世および近世までの歴史と文化に触れることができる。無料で見学できます。韓国は、博物館が無料のところが多くて驚きます。博物館前どっしり構えているのは「鎮墓獣」「王陵を護り、魂
蘇我氏が歴史の表舞台で本格的に台頭したのは、秦氏よりも「大分あと(約100年ほどあと)」になります。ただし、一族としての「渡来・発生のルーツ」という点に目を向けると、両者はほぼ同時期(5世紀頃)に日本列島(ヤマト王権)での活動を始めており、時代背景に深い重なりがあります。両氏族の「時期」と「関係性」を比較すると、以下のようになります。1.渡来・登場の時期(5世紀:ほぼ同時期)秦氏(はたうじ):伝承では応神天皇の時代(5世紀初頭〜中頃)に、弓月君(ゆづきのきみ)が多くの民を率いて渡来
たま~に通る道にある立派な看板歴史好きとしてはずっと気になってて、念願叶い行ってきました車で15分ほど、まぁまぁな地元です百済ってあの白村江の戦いの特別史跡調べてみたら、大阪城と姫路城に挟まれて錚々たるメンバーに入ってるやん枚方市にある『特別史跡・百済寺跡』七世紀末に白村江で滅びた百済王一族~末裔、トップクラスのセレブ達が日本に流れてきて朝廷に仕え、1250年前の奈良時代後半に建てた一夜漬けでユーチューブ見ただけの説明日本の技術、文化、仏
公州バスターミナルまで直通かと思っていたら、公山城の手前で停車したので、降りることに世界遺産百済歴史遺跡地区公山城にやって来ました公山城とは?公州市の中心部に位置する公州公山城は、475年から538年まで古代国家・百済が都にしていた公州の城。百済以降も新羅、高麗、朝鮮王朝がここを地域行政の中心地として使っていたため、多くの遺跡が今に伝わっている。さらにここでは公州市街地と錦江(クムガン)を眺望することができる。ロータリーにある武寧王の像が見えました☟天気が良いので、景色もきれい
10月3日~11日、定林寺址・石塔路・官北里遺跡一帯で開催こんにちは😊百済の輝かしい歴史と文化を今に甦らせる「第72回百済文化祭」が、この秋扶余(プヨ)で開催されます🏛️ユネスコ世界遺産を舞台に、公演・行列・体験・夜景まで盛りだくさんの内容が用意されています。📍「第72回百済文化祭」が10月3日(土)~11日(日)の9日間、扶余市街地一帯(定林寺址、石塔路、官北里遺跡)で開催されます🎉🎨今年のテーマは「美しい百済、輝く泗沘(サビ)」。ユネスコ世界遺産を背景に、公演・行列・体
大室古墳群:長野県長野市松代町大室八丁鎧塚古墳:長野県須坂市八町積石塚古墳を取り上げる。きっかけは過日訪れた阿波の天石門別八倉比賣神社だ。この神社は前方後円墳の上に設けられていて、前方部に社殿、後円部に奥宮がある。後円部の奥宮は扁平な阿波片岩で造られた五角形の基壇の上に自然石が積まれ、さらにその上に石祠が載っている。磐境と云われているが他の神社に類例を見ない奇異なもので、一見して対馬の厳原町豆酘にある八丁郭を思わせた。通称「オソロシドコロ」と呼ばれる八丁郭は表と裏の二か所あり、表は天道法師、
(167)てくてく大和路(一)明日香(あすか)万葉の故郷ともいわれる『明日香』、、、かつて明日香には、繁栄の象徴とされる多くの白鳥が飛翔していたと云います。飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去(い)なば君があたりは見えずかもあらむ元明天皇万葉集巻一(78番)(意訳)飛ぶ鳥の明日香の里を後にして去ってしまったら、あなたのいる辺りは見えなくなってしまうだろうか。「飛ぶ鳥の」・・・。その絵画的
崇神天皇と四道将軍の正体:東アジアを股に掛けた「背乗り」の構図🌊「温羅(ウラ)」と「温祚(オンジョ)」:百済・吉備ルートの鉄の絆鉄剣を残した大彦命のクランが、半島系渡来人と極めて濃密に関わっていたように、四道将軍のコードは次なる地、吉備へと連鎖します。岡山(吉備)の鬼とされる「温羅(ウラ)」と、百済の初代王である「温祚(オンジョ)」の繋がりは、単なる名前の響き(音韻)の類似にとどまりません。そこには、考古学的な物証と地理的背景が完全に一致する「鉄のネットワーク」が存在します。🛠️古代
崇神天皇と四道将軍の正体:東アジアを股に掛けた「背乗り」の構図3.【天武クシュ(新羅・セト系)】vs【天智エジプト(百済・ラー系)】の対立軸これまで検証してきた通り、天武天皇の真のルーツは九州(クシュ)王朝にあります。これに対して、天武が作らせた『記紀』の狡猾な印象操作によって、現代にいたるまで「暗い暴君」のような悪印象を植え付けられている天智天皇のルーツこそが、百済(エジプトクラン)と深く結びついた本来の大和の在来王家なのです。『日本書紀』を編纂した勝者(天武・持統・藤原王朝)側は、自
崇神天皇と四道将軍の正体:東アジアを股に掛けた「背乗り」の構図一般的な歴史研究家の中には、日本の皇室には「3つの系統による王朝交代(三王朝交代説)」があったと主張する方々がいます。確かに、天皇家は表向きこそ「万世一系」と標榜していますが、その裏で凄惨な王朝交代劇が繰り返されてきたことは動かぬ事実です。しかし、既存の教科書や研究者が考えている交代劇のフェーズは、本質から大きくズレています。その真のタイムラインと構造の詳細は、以前のブログ『寝返ったホルスの矢「弓削道鏡の宇佐八幡神託事件」』
白村江で戦わされたのは日本原住民平安京になってからも現在の京都は、表面では京は、大陸勢力の四十六坊の寺の多い仏教の都だった。が、それなら藤原氏は何処に実力を蓄えて当時の日本を、武力で支配していたかという謎が今まで隠されているが、誰も解明していない。だがそれは大和の多武峰と思われる。さて、その前に、「日本の歴史家と称する者で、これまでで誰一人として『歴史の解明』を志した者はいない」と、史学の泰斗の久米邦武がみずから〈日本歴史資史料集大成〉の〈日本幅員(列島)の沿革〉の初めに述べている
神様って何神様ってなんだったのこっちが聞きたい全員で技術してスケ一族が地球を襲うから真純から能力を奪ったそうしないと俺が殺されるなどこの脅し神同士でしていること神ってなんだ?生贄を人間でするバカが神でいたこの地球でしかも西暦の2026年になってもまだ生贄してる古代マヤ文明も長かったけど生贄ってそんなに教祖には魅力なのかしらね人殺しなのに神は遊びで人間の命を天秤にかけ体を宇宙人にあたしの
『いやんばか~ん』どこからともなくどこからと聞こえた。どこからの正体は途中でわかるように書いてみます。ちょうど頃合いなのかもということで…4つの生き物武田菱つつじと見た場合似たようなもので皐月がある。左側に月左月に対抗する勢力なのか?さて今回は『いやんばか~ん』これは私が大まかに読み解く朝鮮半島と隋と唐の仮の話登場するのはい韋やん楊ばか~ん馬韓(百済)唐第二皇帝李世民時代の話。日本
またも中国では👇。「習主席が体調不良でBRICS夕食会欠席」…訪米控えまた健康異常説生死の境~~~終えりゃせんぞな。北朝鮮はまたも無謀なミサイル発射~~~。2000年前の高句麗///戦乱に次ぐ戦乱で真相不明。朝鮮半島に実在した「百済と新羅」日本に救済を求めたが、どうやら失敗・・・天智天皇の御代である。今後何が起きるか判らない~~天のみぞ知るだ。
さて、卑弥呼が亡くなって九州が筑紫となった時代その後の4世紀の出来事は大陸の歴史書には登場しません。空白の4世紀とも呼ばれています。わずかな手掛かりは372年に百済か倭国へ贈られた七支刀朝鮮半島北部に残る好太王碑5世紀に倭国の五人の王倭の五王などがありますが大陸の役人が倭国まで来てはいませんので倭国はどこ?って感じです。残る手掛かりは古事記や日本書紀など日本の記紀です。それが神功皇后記に当たります。なんど卑弥呼の時代から5世紀初めまで150年以上の歴史が凝縮さ
5世紀高句麗と百済の勢力争いは高句麗に旗が上がった。倭国は傍観者だった5世紀、中国の東晋・宋に通交した5人の倭王(讃・珍・済・興・武)、いわゆる倭の五王と五王の南朝通交の背景にあった対高句麗・百済政策について妄説を述べたい。5世紀初め、倭国は高句麗と二乃至三度にわたって激戦を交わしたが、広開土王碑文にあるような惨敗は喫していなかった。戦後も倭王は新羅から人質を出させているし、高句麗は忠清北道以南は占拠できていない。一方、遼西にあった百済は高句麗と戦っていたが、430年代から大
羅馬(ローマ)など知らず、唐を狂おしく想像するばかりだった島国、倭国と呼ばれていた日本があった。その倭の黎明から照射される好奇なる独立日本に、大陸における信義との向き合い方を今さら確認したいのは、現況にあって自然なことなのかもしれない。本より午睡の目覚めのような憂国の念も些かあろう。やはり平成の安居にあっても、外の紅蓮の炎を無視できないことは「この国を率直に大事にしたい」という思いと同一線上にある。そして「この国を大事にしたい」という思いは、空間的にも時間的にもこの国、倭なり日本なりに距離を置
□昆支王の謎:日本列島へ「オシリスの種」を運んだ男まだ日本列島(ヤマト)と朝鮮半島(百済)が、純粋なエジプト王統(国津神クラン)として一つの精神世界で完全に一体化していた時代。その最も重要で聖なるDNA(種)を半島から日本列島へと命がけで運んだ男がいました。それこそが、西暦461年に大和へと渡来したと記録される、百済の昆支(こんき)王です。『日本書紀』の雄略天皇5年の条には、一読しただけでは正気の沙汰とは思えない、極めて不気味で奇妙なストーリーが堂々と書き残されています。【記紀が語る武寧王