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ご訪問ありがとうございます。雄略天皇、今回以降は外国関連の記事が増えていきます。夏四月、百濟の加須利君カスリノキシ蓋鹵コウロ王であるは、人伝に池津媛が焼き殺されたことを聞いて、適稽女郎チャッケイエハシトである相談して「昔、女性を献上して采女としたが既に無禮なことを行い、我が國の名を貶めた。今より以後は、女性を献上するのはやめよう。」と言った。そして其の弟である軍君コニキシ崑支コニキであるに「そなたが日本に行って、天皇に仕えよ。」と言った。軍君は「王の命に違うことはありません。願わく
【再掲】ソソノさん好きです♥️歴史書に残る、鉄の女ソソノ。ソソノは卒本扶余(チョルボンプヨ)で最も強力な土着勢力、桂婁(ケロ)部の部族長で、大富豪のヨンタバル(延陀勃)の娘として生まれた。成長したソソノは、卒本地域の有力な土着勢力である北扶余のヘブル(解夫婁)王の側室の孫、ウテ(優台)と結婚し、ピリュ(沸流)とオンジョ(温祚)の二人の息子をもうけた。ところが、夫ウテが死亡し、未亡人となる。(歴史書な中の
ご訪問ありがとうございます。今回は倭王武の上表文を通して、当時の東アジアの状況下で、倭国が何を目指し歩んでいたのかを見ていこうと思います。478年、武王は前年に遣使を行った兄の興の跡を受けて、宋に遣使をします。兄の急死を受けての事でした。倭国は邪馬台国の頃から、朝鮮半島の最南部に支配圏を広げていました。ですから高句麗が百済を一時的にせよ、滅ぼしたことは、そういった支配圏の安全保障もありますし、中国大陸への通交も遮断される恐れが十分にあったのです。興の遣使も15年ぶりに行われたというの
ご訪問ありがとうございます。第1次任那復興会議がなんだか盛り上がらないまま、終わった百済の聖明王ですが、その後の動きを見る前に当時の任那を確認します。目次任那日本府の動き聖明王の任那諸国への苦言任那日本府への苦言大和朝廷の動向任那日本府の動き秋七月に、百済は安羅日本府=任那日本府と新羅が謀り事を通じていると聞き!Σ( ̄□ ̄;)、前部奈率ゼンホウナソチ(百済の官職)鼻利莫古ビリマクコ・奈率ナソチ宣文センモン・中部奈率チュウホウナソチ木刕眯淳モクラマイジュン・紀臣キノオミ奈
ソソノ(召西奴)は実在した?史実とドラマの違いとは?ソソノ(召西奴)は実在した?史実とドラマの違いとは?召西奴(ソソノ)は本当に実在したのか?『三国史記』異伝にだけ名が残る王母を手がかりに、温祚の出自二説と百済・高句麗の扶余系系譜を整理しつつ、ドラマ『朱蒙』『近肖古王』で膨らませられたソソノ像との違いを分かりやすく解説します。korea.sseikatsu.net朱蒙朱蒙「朱蒙」の記事一覧です。korea.sseikatsu.net高句麗高句麗「高句麗」の記事一覧です。ko