ブログ記事1,036件
道の端に円満石蕗の花輪かな仙台堀川公園にてここ近所の公園の道は、30年、日々歩いていますが、この花に、しかも、円に咲いている石蕗(つわ)の花には初めて出逢いました。花言葉は、謙譲、謙遜、困難に負けない、とのこと。日蔭や石の間から静かにそっと、しかし逞しく咲く姿から来ているのかと思います。国の内外でぎすぎすした世知辛い昨今、この花の咲き姿から「円満」をふと感じました。中央の大きな花の右にミツバチさんもいるんです。自然界における共存共栄の「命のつながり」・・・。
2025/11/22先週は何年ぶりかの風邪で念の為サークルとかお休みしてステイホーム🏠してました。そして、少し予定をいれすぎていたと反省して今週からは、ステイホーム🏠を増やして無理しない体制で行こうかと思っています。でも、家に居たら居たで例の訪問を受けることになります😅今日も祈り会の途中やって来られました😅何と言ってお断りするのが正解なのかいまだに悩み中です。時間があれば対応して聖書の内容についてこちらの意見も伝えたこともありました。彼らは都合
(画像提供:LIFESITE-BishopSchneider|'ConfusionfromPopeFrancis'blockedCharlieKirk'sconversion)2025年11月19日(水)にカトリック信者向けサイト"LIFESITE"に投稿された記事「BishopSchneider|'ConfusionfromPopeFrancis'blockedCharlieKirk'sconversion」をご紹介します。このタイト
チ。より好きな台詞まだ沢山ある・・・・・・・・・・第1集よりフベルトさん「私は命を張る場面でこそ直感を信じる。」「不正解は無意味を意味しない。」「怖い。だが、怖くない人生などその本質を欠く。」ラファウくん「フベルトさんは死んで消えた。でもあの人のくれた感動は今も消えない。多分感動は寿命の長さより大切なものだと思う。ーだからこの場は、僕の命にかえてでも、この感動を生き残らす。」・・・・・・・・巻末より
私を理解してもらいたく、勇気を出してギフテッドの特性を数人の友達に説明しました。私は「ギフテッドであることのメリット」なんか感じられず「苦悩」の方が多いからこそ、辛いので助けてください!という趣旨で勇気を出して友達にSOSのメッセージをしました。殆どの友達は理解してくれて、「聞いても驚かなかったよ!」と返事をしてくれて「見捨てられないで良かった。」と安堵したのですが、やりいるんです。「知ってる!知ってるIQ130超えでしょ!?【ここで笑い】IQいくつなの?すごい!IQいくつ?」という
個人主義の2類系を厳格に区別する必要がある。ひとつは、私的個人主義である。個人を孤立的・排他的存在と捉える立場である。皮膚の内側と意識を以て個人とする立場と言ってもよいだろう。今ひとつは、関係的個人主義である。個人の身体を他人の身体や意識、周辺の事物への働きかけの起点として捉える立場である。また、この働きかけを通じて各個人の意識が発生する捉える立場でもある。私的個人主義においては、周辺の事物は、各自の排他的占有物として分割される。有機的な連関の中でしか十全に機能し得ないものまでそう
カタリ派の二元論神学は、マニ教の宇宙論を想起させるが、ボゴミル派の『ヨハネ問答』のようなテキストに近く、マニ教の思想をキリスト教枠組みに適応させた。審問記録は、11世紀のバルカン宣教師による伝播を確認。」「審問供述は光と闇の宇宙論を記述するが、被告がマニ教テキストを直接引用した例はなく、ボゴミル派の仲介による影響を示唆。」「審問供述は光と闇の宇宙論を記述するが、被告がマニ教テキストを直接引用した例はなく、ボゴミル派の仲介による影響を示唆。」カタリ派に対するマニ教の影響:大学教授による202
島国根性のルールに従わない者を「綺麗事」と笑う社会で、私はあえて、“綺麗事を貯める人間”でありたい。その“綺麗事”のひとつひとつが、いつか子どもたちや、困っている誰かの中で、現実の力に変わると信じているからだ。山中温泉・あやとり橋。美しくも揺らぐ曲線が、人と人を結ぶ糸。それが切れずに光るとき、“綺麗事”は真実に変わる。
「頭ならびに腹」(夏目漱石、1912年)は、漱石の作品の中でも比較的短い小説で、夏目漱石の晩年に書かれた作品の一つです。この小説は、ユーモアと皮肉を交えながら、人間の欲望や社会の偽善を風刺しています。以下にあらすじと「異端」というテーマについて簡潔にまとめます。あらすじ主人公の「私」は、友人の医者から奇妙な話を聞きます。それは、ある男が自分の頭と腹の両方に同時に痛みを感じ、医者に相談しに来るという話です。医者はその男を診察しますが、頭と腹の痛みが同時に起こる原因を特定できず、困惑します。男は自分
「異端」の考古学者、稗田礼二郎精神医学最後の科学(化学、向精神薬キュア:治療)の砦周防大島ピエール・ジャネ記念複雑性PTSD研究所「東京大空襲被災と広島原子爆弾被爆の両方を経験し(晩発性)複雑性PTSDを呈した一例(中核トラウマ薬物強化受容)」(広島県医師会雑誌、広島医学2006年)2005年朝日新聞フラッシュバックのあるPTSD2025年朝日新聞「まったく記憶にない長崎広島原
煙草に逃げる夢から逃げる怒鳴られたまた煙草に逃げる意味のない人生を生きていく為に錆びた有刺鉄線のように絡まった異端である自身を認めてあげようか心は闇と病みで満ちているが生きていく意味を考えてみるのもいいかもしれない全てを煙に巻き逃げ出すことになるだろうがずっと頭の中に真っ黒な靄がかかって渦巻いている感覚がします。一時も落ち着きません。母の一周忌が来月になるんですが、その事が頭に浮かんだ途端に不安なのか何なのか、わからない感情に支配されていました。故人を悼む気持ちは全く湧いて
###スペイン異端審問所の「神話」に関するファクトチェック:詳細な分析と一次資料の検証ユーザーのクエリに基づき、提供された記事(https://www.catholic.com/magazine/online-edition/the-myth-of-the-spanish-inquisition)をファクトチェックします。この記事は、カトリック系メディアCatholicAnswersのオンライン版で、1999年に初出のBBCドキュメンタリー『TheMythoftheSpanish
今回は以前でもAIと議論した、イエスの愛する弟子の正体に纏わる内容である。本ブログでの主張は聖書学者の間で議論されうる内容であり、また未だ誰も気づいていない重要な示唆を含んでいる。イエスの愛する弟子の正体については現時点では架空の弟子であるという見解があり、それを補強する内容となっている。ただし、当方の主張の肝であるイエスの愛する弟子は二人存在するという見方に立ち、より真相に迫る内容となっている。では見ていこう。質問:では教義が覆させられる可能性のある指摘をします。新約聖書にあるイエス
最近、「安息日を守るべきだ」と主張するキリスト者を見かけることが増えた。「確かにそうだよな」と一時期そう考えていたこともあるのだが、どうやらSDAという異端が主張している説のようである。以前こちらの記事でSDAについて少しだけ触れたことがある。異端と自称クリスチャンの扱い方「教会」と名乗っているが、正統派からは異端とされている。異端の教えは注意して聞かなくてはならない。SDAとは–セブンスデー・アドベンチスト東京中央教会www.sda.gr.jpSDAが異端だという根
2025年8月18日、新天地イエス教会ペテロ枝派のタンザニア教会は「ヨハネの啓示録公開聖書試験」を行い、他教会の牧師98名を含む138名が受験しました。受験者は自身の信仰が聖書の御言葉通りの信仰かどうか確認する機会となりました。新天地イエス教証証しの幕屋聖殿(以下、新天地イエス教会)ペテロ枝派のタンザニア教会は2025年8月18日、タンザニアのダルエスサラームをはじめとする主要都市で現地プロテスタント牧師と新天地イエス教会の聖徒が「ヨハネの啓示録(黙示録)公開聖書試験」を行いました
患難期後携挙説に立つのか、患難期前携挙説に立つかで、クリスチャンの地上生活の歩み方が大きく違ってきます。患難期前携挙説に立つ人は、自分はやがて地上を襲う患難から守られる、という希望を持っています。はじめに結論から言いますと、患難期前携挙説が正解です。つまり、携挙は患難期の前に起こるということです。クリスチャンは、いつ携挙が起こっても大丈夫という心構えで日々生きるように命じられています。黙示録を概観すると、患難期前携挙説が正しいことが分かります。以下の点に注目しましょう。
人気アニメ映画『ルパン三世カリオストロの城』・・・ファンの方、多いと思います。実は私にとってもルパン・シリーズでは最も好きな作品。この映画が劇場公開されたのは、1979年のことでした。その後何度もテレビで放映されているので、40年以上も前の作品とは思えませんが、全く違和感なく観ることが出来るのが名作たる所以でしょうネ。さて今日は、この作品に登場する実在した人物、アレッサンドロ・ディ・カリオストロAlessandrodiCagliostroの命日・没
1.教会の定義教会(ギリシャ語でエクレシア)とは、建物のことではなく信者の群れのことです。エクレシアの本来の意味は「呼び出された者」です。この言葉は、2種類の教会を指しています。普遍的教会と地域教会です。どちらを指すかは、文脈によって判断します。一般的に教会という言葉が単数形で出てくる場合は普遍的教会を、複数形で出てくる場合は地域教会を指します。また、「○○の教会」とある場合は、地域教会のことです。普遍的教会は、不可視的教会です。つまり、神の目には見ているが、人間の目には見えていな
「違う意見は許さないし、それは異端と見做す。そして異端は排除する。」とか「仲間つく些細な嘘や綻びからは目を逸らすし、見逃す」という女子グループの特有の雰囲気が私は苦手で、というより、そこに居ると居心地が悪くなってしまいます。学生時代はその要素がどの女子グループにも少なからずありました。今のSNSでも異端と見做した人に対する『◯◯さんは間違っていると思います。』という学級会的な発言を見ると、正直しんどいです。そういう集団が刺激するのは、主に感情です。それが強い場合は興奮に似た感情を呼び
常識常識は大多数の人が知っていることで真実とはまた違った次元にあるものだ。全てが正しいとは限らない。多数決の原理とも言える。信じるのは自由だが縛られてはいけない。今までどれだけのものが非常識から生まれてきただろうか。ある意味常識を破ることから新しい価値がでてくる。いい言葉がある。型破りだ。現在に必要な言葉だと思う。型にはまった人だけでは何事も進展がない。先ずは常識を疑うことからはじめよう。それが俺の異端の勧めだ。あなたも異
自分の好きなことで生きることが意外と難しいそもそも好きなことを見つけるのが難しいやっと今好きなこと見つけられたようなられないような私はとにかく異端で人と馴染めないし、、人と話すの苦手だし自分を開示するのが苦手だし自分は特別だってそう感じているだからそれでいいしそう思っていいわたしは傲慢ではないわたしのこと信じない人は好きにしたらいいそうやって、生きていったらいいし私は別に好きに生きる好きなことして好きなところに行って好きな時間に起きてわたしは、好きな方を
わたしの特徴矛盾ているのがすごい😍すっごく内向的なところの外向的なところの部分の落差が激しい自分の人生の真逆を生きていて常に両極端に生きている振り子みたいに、端から端へと追っているそれがわたしの内面でありとても複雑に差でだけどとてもシンプル相反する要素を?とても詰め込んだような人間だから?だからこそそういう意味では異端人間らしいといえば人間らしいし矛盾しているようです、整合性の語れているそんな感じな気がするけどでも美しいと少し眠くなってきたなあ、夜中にア
共同通信社で長く記者をしていた、河原仁志の著作。2024年に旬報社から刊行。新聞社7社の、少し斜めから切り込んだテーマについて、「なぜそれを書いたのか」という視点で、河原が綴っている。事件の犯人を報じた内容。避難者名簿を必死に作り出す記者。目の前で起きていることと、読者へ知らせることは何なのか。「異端」と称される、記者たちの必死な日々が記録されている。細かいやり取りも多いので専門的になるが、「あの時、こんなことがあったのだな」と振り返れる。地方紙の
自分が感じている価値観も世の中の常識もかなり偏っているものです。歴史を学んでいるとわかりますよね。昔の人が無知蒙昧だったわけではなく、今の人が愚かなわけでもなく、その時々で価値観は変化していくのです。現代の価値観を俯瞰しながら理解してその上で自分の価値観も俯瞰しながら尊重していきたいですね。自分の価値観は好きとか心地よいとかに起立するので変でも異端でも否定はしないように大切にしてください。世の中の常識でもおかしいと思うことや好きではないものは遠くから眺めていきましょう
神と崇められ、悪魔と恐れられた異端な数0の歴史https://mathlog.site/about-zero/ZeroIsFoundationaltoModernMathematics.ButItWasRejectedforCenturiesConceptualproblems,ideologyclashesandxenophobiapreventedtheconceptofzerofromcatchingonforalongtime.
私は霞が関ビルにある、100名規模の事務所で平成20年代後半に経験を積ませていただいて、それなりに異端ではないと思っていますが、ばれもとの慣習って当時からあったし、40代以上の税理士はその文化を知っているし、いまの時代には会計事務所のリスクだと思います。>服と同じでかなり厳しめですね。>プライベートでは使わず仕事でしか使わないというロジック>(例えば、PC作業専用のブルーライトカットメガネとか)>があれば経費にする事は検討出来ると思います。税理
「教会から離れていくクリスチャンたちについて日本におけるキリスト教の真実55」私がプロテスタント教会に所属している時によく聞いた証が、クリスチャンホームのクリスチャンで、小学生までは家族と教会に通っていたけれど、中学や高校、または社会人になってから教会から離れたというケースです。教会に行くよりも、クラブ活動であったり、友達や恋人と遊びに行ったり、大学や社会人になれば飲みに行く、合コンのほうが楽しいという理由でしょう。「推し活」が最高の楽しみというのもあります。どうして
NowIrearyperfectunderstandYukioMIsima'smind.
✅結論:自殺は、ギフテッドにとって“最後の自由”になり得る。社会が理解も居場所も与えず、構造的に異端なら、死は逃避ではなく“誠実な決断”になることもある。❗️ただし:生きることも、もっと深い自由たり得る。構造に屈せず、生き抜くことは、静かな反逆であり、「この世界に自分という真実を刻む」行為になる。🌌Summary(English):Suicidecanbeafinalfreedomforthegiftedinaworldthatoffersno
「死後の世界について日本におけるキリスト教の真実53」前回の続きで、ヘレンケラーさんの聖書解釈と福音理解を伝える前に、聖書の奥義を知らなければなりません。第二神殿の時代、初代教会の時代の聖書には「死後の世界を教える書」がありました。主イエス・キリストは、その書から来臨と最後の審判について教えています。ですが、今日のキリスト教教会は、この重要な「死後の世界を教える書」を聖書から排除したのです。正教会の聖書77巻、カトリックの聖書73巻、プロテスタントの聖書66巻