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NHKEテレの番組、【木村多江の、いまさらですが…】で写楽のことをやっていましたね。写楽の誕生までの紙芝居です。(前半省略)田沼時代が終わり、松平定信が力を持つと、田沼時代に乱れた社会秩序を回復させるために定信は過剰な風紀取締りを行います。すると1791年蔦重は出版した洒落本が発売禁止となり、財産の半分が没収されます。このピンチを乗り切るために歌麿に町の美女や人気の遊女の大首絵を
吉原近辺を回ったあと、バスで日暮里駅まで移動しました。以前に「ひみつ堂」というかき氷のお店を教えてもらっていたのでかき氷を食べに行きました。お昼前に到着したのですが、けっこうな行列、しかも若い女性ばかり💦場違い感いっぱいで並びましたよアラフィフのおじさんも…お月見モンブランにマンゴーソースをトッピングして注文、美味しかった♪このあと、新宿まで移動。まずは世田谷区の北烏山に行ったのですが、電車に乗っていてなんとなく既視感がありました。なんだろ?と考えていたら、ちょうど一年前あたりに喜
今日は、不動産の取引あり、M&Aのための経営会議ありで本当に忙殺されてしまった合計6時間にわたるロングランの業務は、さすがに堪えますこれが終わったら、何も考えられず、しばらくはぼーっと過ごして、「裏千家今日庵歴代第八巻又玄斎一燈」をパラパラとめくっていたら、何と一燈が、今大河ドラマで蔦屋重三郎が主人公となっている「べらぼう」の田沼時代の人だということに気が付いてちょっとびっくりイメージじゃあないな・・・もっと堅苦しい、松平定信みたいな精神論の
雑司ヶ谷霊園から勝林寺までの移動中、電車の中から見る外の天気は土砂降り☔️駅から10分ほど歩くことになっていたので恐怖すら感じていました。最寄り駅に到着してホームを歩いていると小降りになりすぐに傘は必要なくなったのです。そして、雨など忘れたかのような感じで移動して勝林寺に到着。16時には少し時間がありましたから、まずは田沼意次公のお墓に向かいました。空には青いところも見えるくらいです。持参した数珠を持ってしっかりと手を合わせました。もちろん、他の田沼家の方は合葬されていますので、意
狩野(栄川院)典信(みちのぶ)の「大黒図」板橋区立美術館大河ドラマ「べらぼう」が面白い。もちろん蔦屋重三郎の活躍もいいんだけど、大好きな田沼意次の描かれ方が凄くいい。僕は日本の長い歴史の中でも、田沼意次時代の日本って凄く良かったんじゃないかななんておもったりする(大災害とか飢饉とかはあったけどね)江戸時代に関して、文化史をみていると面白いんだけど、いわゆる江戸の三大改革と言われる時代には文化が面白くない。寛永、元禄の時代や、文化文政時代が面白いけど、
井伊谷から牧之原市まで移動中も日差しは強く車のエアコンは役に立っていない感じでした。牧之原インターを降りてすぐのところに、農園が運営しているかき氷が食べれる場所があることを見つけましたので、さっそく寄り道しました森木農園さんですメニューも豊富でしたその中からいちごショートケーキを選びました暑すぎて運んでいる途中でも溶けてきましたが、生き返りました😊英気を養ってから、ますば牧之原市史料館へ田沼意次様の像にご挨拶2階の『べらぼう』関連の展示を観に行くと、なんと!なんと‼︎な、なん
蔦屋重三郎の人生において特に明るい時期とも言えるのが田沼時代であり、この後の寛政の改革では幕府と反発することとなる。江戸の町人である蔦重ですら人生が大きく変わってしまうほど歴史的転換期とも言える出来事が田沼意次の失脚である。今稿ではその流れを紹介したい。天明4年(1784)意次の嫡男で若年寄を務めいていた田沼意知が江戸城内で刃傷され亡くなる。すでに66歳という年齢で世代交代も念頭においていた意次にとっては優秀な補佐でもあった意知の死で受けたショックはどれ程のものであっただろうか?しかし政
江戸幕府十代将軍徳川家治は、天明6年(1786)8月25日に亡くなったと言われています。13年前に書いた記事です。家治の死は隠されて、8月(今なら9月になる)と言う暑い日もまだまだある時期でありながら遺体はしばらく放置されて悪臭もあったようです。その上、死が発表されたあとは夜陰に紛れて寛永寺まで運ばれてました。将軍の死としてはあまりにも悲しい最後です。
かなり以前ですが、NHKEテレの番組、【木村多江の、いまさらですが…】で蔦重のことをやっていましたね。今後のドラマに関係しそうなところから感想を書きますね。1786年田沼意次が失脚。耕書堂は大ピンチに陥ります。翌年、松平定信が老中首座に就任。田沼時代の享楽的な雰囲気を引き締めようと質素倹約を標榜する寛政の改革を実施。文武を奨励し、社会秩序を乱すものを規制。そのころ、狂歌本を手がけていた蔦
田沼時代に老中のひとりである水野忠友は興味深い人生を送った人物ですが、あまり注目されていないのも寂しいので登場が増えてきたタイミングで紹介したいと思います。水野氏はもともと尾張国緒川城を中心とした地域を治めていた国衆で、徳川家康の生母である於大の方の兄弟を祖として何家かの譜代大名や旗本の家が繋がっています。そのなかで、於大の方の弟である水野忠重から勝成に繋がる福山藩(維新時は結城藩)が本家となります。水野忠友の家は、勝成の四弟・忠清が上野国小幡藩一万石で立藩したことに始まります。その後、信
本日発売の週刊大衆。歴史偉人「裏素顔」は、江戸時代の幕臣土山宗次郎の特集です。原作/跡部蛮イラスト/萩山明日香次回掲載は8月18日です。歴史偉人「裏素顔」をよろしくお願い致します。
天明5年(1785)正月、耕書堂から発刊された『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』は黄表紙として空前の大ヒットを記録しました。初版発刊後に三度も再版されていて著者である山東京伝も人気作家としての名声を得ることとなるのです。『江戸生艶気樺焼』は本文を山東京伝、挿絵を北尾政演が担当したと記されていますがどちらも山東京伝の名前ですので、京伝が絵も文章も書いた作品となるのです。同じようなことは恋川春町や十返舎一九も行っていますが多彩な才能であったことは間違いありません。物語の内容とし
天明4年(1784)3月24日、江戸城中において田沼意次の嫡男で若年寄の田沼意知が佐野善左衛門に刃傷され4月2日に亡くなる。工藤平助の娘・只野真葛の記録によれば『赤蝦夷風説考』が田沼意次に読まれたのは天明3年であり、直後から蝦夷地についての調査準備が始まるが史料としてあまり表に出てこないため、この頃は意知が土山宗次郎に命じて内密に担当していたのではないかと考えられるが、意知が暗殺されたため意次自身が動かなければならなくなった。意知の死から1か月半が過ぎた5月16日、土山の上司である松本秀持(勘
天明4年(1784)3月24日、江戸城中で佐野善左衛門政言が田沼意知を刃傷4月2日に意知が死去したため、翌日に政言は切腹の沙汰を受け伝馬町揚屋敷において腹を切りました当時の切腹は、腹を切るとは形式だけのもので罪人が三方に乗せた扇に手を伸ばすのと同時に介錯人が首を撥ねました記録によると政言は「刃物」と叫んで実際に腹を切ることを望んだが、介錯人は脇差を乗せた三方を遠めに置き、政言が手を伸ばした瞬間に介錯人が首を落としたのです。享年28歳政言の遺体は浅草の徳本寺に運ばれて4月5日に葬儀が行われ
天明8年(1788)7月24日、田沼意次が相良藩下屋敷で亡くなりました。享年70歳。その死に関しては、14年前に書いているのでリンクを貼っておきます。田沼意次が亡くなった相良藩下屋敷近くの狩野画塾跡地田沼意次の墓
天明4年3月24日、田沼意知が佐野善左衛門に襲われました。記事を書き直そうか?とも思ったのですが、ショックが強すぎで頭が回らず(28話の時はどうするんだ!)14年前に書いた物をリンクしますちなみに、意知が亡くなったのは3月26日や27日ともされていますが、この頃は意知が亡くなった翌日に佐野善左衛門が切腹になったとされていたので4月2日説を採用しています。豊島区勝林寺の田沼一族の墓、意知は上段真ん中あたりの「仁良院殿光嶽元忠大居士」
~古文書から読み解く八潮の実像。激動の江戸後期を現代の視点でひもとく~【歴史講座開催】大河ドラマでも注目の田沼意次―「田沼時代・寛政改革期の八潮」を学ぶ講座が7月27日に開催八潮市立資料館では、令和7年度の資料館講座として「田沼時代・寛政改革期の八潮」をテーマにした歴史講座を、2025年7月27日(日)に開催します。時間は午後1時30分から午後3時30分、会場は八潮市立資料館2階視聴覚講座室です。【歴史講座開催】大河ドラマでも注目の田沼意次―「田沼時代・寛政改革期の八潮」を学ぶ講座
「ニオイで女性に嫌われない方法」臭気判定士・におい刑事(デカ)が教える!ニオイで女性に嫌われない方法impressQuickBooksAmazon(アマゾン)396円(電子書籍限定)の著者、におい刑事(デカ)/臭気判定士(国家資格)の松林です。今日はアメブロの投稿ネタから、これをセレクトしました。「今月買ってよかったもの」です。いろいろある中で今回はこれ。『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』安藤優一郎さん著/PHP新書さん刊行です。言わずと知
蔦屋重三郎は、7歳の時に両親が離婚して蔦屋を営む喜多川家に養子として迎えられました。これは、養子にすることによって給金がいらない働き手ができた程度の意味だったと思います。『べらぼう』でも蔦屋重三郎の「親なし」が何度も語られましたが、今で考えるならば小学1年生で両親が居なくなって働かなくてはいけなくなったような感じです。この様に子どもの頃から苦労した蔦屋重三郎なのですが、耕書堂を日本橋に移してすぐに両親と同居をはじめています。蔦屋重三郎の父は、尾張国から江戸に出てきた「丸山重助」という人物
明和4年(1767)7月1日、田沼意次が側用人になりました。『べらぼう』が始まるときから5年前の話。田沼時代の始まりとも言われている出来事です。15年前に書いたものを貼ります…
蔦屋重三郎の耕書堂が活動拠点(本店)を吉原大門から日本橋通油町に移転したのは天明3年(1783)9月でした。日本橋界隈は、多くの商家が集まる商業地であり通油町の「通」は当時のメインストリートである本町通りに面した場所という意味です。「油町」はこの辺りが以前は油屋が多かったために付いたと言われています。今訪れると狭い裏道でしかありませんが、当時は重要な道であり、江戸時代初期から中期にかけてこの地域に彫師が住むようになりました。その彫師に仕事を依頼すり版元が、利便性を考えて店を開くようになり
秋葉原近くの滝沢馬琴居宅跡から上野移動して、向かうべきは国立博物館ですが、不忍池が文化人たちのいろいろ(ホンマにいろいろ🤣)の場だったこともあるので、ちょっと寄り道紫陽花も良い季節でした絵馬やおみくじが弁天様徳川家康がメガネを使った縁で、めがね之碑なんてものもありました上野東照宮は、前に来た時にお参りしましたので…今回はスルー💦国立博物館に入るとすごい人でした『蔦屋重三郎コンテンツビジネスの風雲児』展は、蔦屋重三郎が出掛けた数々の出版物や浮世歌など天明期の文化を集結させた展示でした
蔦屋重三郎の妻になる人物として『べらぼう』で描かれる人物は、耕書堂が日本橋通油町に移転する前に同地で版元をしていた丸屋小兵衛の娘・ていとされています。では、史実においての蔦屋重三郎の妻はどのような人物であったのか?と言えば何もわかっていません。ただ、蔦屋重三郎の墓碑に蔦重が亡くなるときに妻女を呼んだことが書かれているため、この時に妻が居たことは間違いないのです。この妻女と思われる人物は、本屋の娘であったとも、吉原の遊女(もしくは芸者)であったとも、普通の町娘であったとも言われていて、蔦屋
相良藩上屋敷である田沼意次屋敷跡の場所は神田橋近くにあったとされています現在の経団連ビルがある辺りで、何度か通ったことがあるのですが、『べらぼう』の影響で田沼意次屋敷跡の案内板が設置されたとの情報を得て見に行きましたうろうろ探し回って、ネットを調べても場所どころか、案内板のことも見つからず…やっとビルの裏、首都高「神田橋」入口の脇辺りに案内板発見!説明書にも大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』が記載されていて、ドラマの影響で田沼意次が再評価されたことがうかがえます『べらぼう』で蔦屋
田沼意知に近付きつつある大文字屋の花魁・誰袖実在の人物であり、田沼時代を知る人にとっては忘れてはならない人物のひとりでもあります。蔦屋重三郎が吉原大門に店を構え、日本橋に移ろうとしていた頃に吉原の大文字屋で最上級の「呼出」だったのが誰袖でした。他の遊女同様に細かい生い立ちはわかりませんが、天明2年(1782)には呼出であったことは確認されています。吉原で上位の花魁を務めるためには教養が深かったことも窺えますが、実際に四方赤良と朱楽菅江が天明3年に編纂した『万載狂歌集』には、寄紙入恋(
清い水には魚が住まず、正しさも行き過ぎれば世の暮らしを圧迫する。松平定信のきびしく清廉な政治は庶民には息苦しく、多少腐敗があっても自由で活気がある田沼時代が懐かしがられた。NHK"べらぼう"で描かれる時代は、このど真ん中の人間模様が映しだされてますよね。
工藤平助は、江戸詰の仙台藩医であり、杉田玄白や前野良沢、中川淳庵ら蘭学者とも交流がありました。築地にあった屋敷は当時としては珍しい二階建てだったなどの逸話にも事欠かない人物でもありますが、特筆すべきことは様々な情報からロシアの南下政策を憂いてロシアについて纏めた『赤蝦夷風説考』を書き上げたことです。平助は、長崎でロシアの情報を得て興味を持ち、松前藩士と知り合ったことでこの本を書けたと言われていて、やがて相良藩重臣の三浦庄司から田沼意次に渡り、意次が勘定奉行の松本秀持に対して蝦夷地探索を行わ
/べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(20)寝惚(ぼ)けて候-NHKプラス/5/25(日)午後8:00-午後8:44意次(渡辺謙)は、家治(眞島秀和)が次期将軍に一橋家の豊千代を、御台所には種姫を迎える意向であることを治済(生田斗真)に伝え、将軍後継問題は決着するかに思われたが…/徳川家斉-Wikipedia/安永8年(1779年)に第10代将軍・徳川家治の世嗣・家基の急死後、家治に他に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も子供がいなかったことから、将軍継嗣問題が発生する。家治
大田南畝は御家人であり、戯作者であり狂歌師でありその他さまざまな文化人として知られ「大田蜀山人」との号も知られた人物です。平賀源内に才能を愛されて、19歳の時に寝惚先生という名で『寝惚先生文集』と言う狂歌集を出し評判となります。そして四方赤良の狂歌名で、「四方連」と言う狂歌グループも作るのです。蔦屋重三郎とは、南畝が青本にランク付けをしていた『菊寿草』で朋誠堂喜三二の『見得一炊夢』に最高の評価を付けたことで、蔦重が南畝のところにお礼に行ったことで縁を深く持つようになり、この出会いが田沼時代