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〈Cー3腹水を抜く〉「ご主人のこの症状は、肝硬変の末期で、いつ、肝不全が起こっても、不思議ではありません。明日の朝、ベッドで亡くなっているかもしれません」緊迫した口調でした。「私がドナーになりますから、肝移植をしていただけないでしょうか」この言葉は、悩んだ末でも、覚悟を決めたわけでもなく、ごく自然に、口から出た言葉でした。「いつ死んでもおかしくない」と、現状の危うさを指摘してくれた、若い熱血漢医師のお陰で、急きょ、夫の治療は、大転換を迎え
〈Cー2腹水を抜く〉腹水に含まれている、「体にとって大切な成分」も、急激に失われ、夫は、みるみるうちに、やせ衰えていきました。さて、仕事続行が困難になり、退任した夫には、経済的なバックアップも、必要になり、「都心近くに引っ越し、皆で一緒に暮らして、生計を一つにしよう」ということになりました。三月、引っ越しと同時に、夫は、三回目の入院をしました。それから一週間が経過したころ、大きな異変が、起こりました。夫の全身が、震えだすようになったのです
夕方、主治医から自宅に電話ありました。👨⚕️「転院したいんですか?あれですかね?もしかしてこの間何かありましたかね?」🐷「体重増えて怒られることは自業自得です。でも私もどうにかしなくちゃとはいつも思っています。」👨⚕️「そうですよね。とても努力されてるのでわかりますよ!」🐷「でも先生は、私がめまいで耳鼻科行っても治らないことで悩んでいて、それを話したのに先生は腎臓とは関係ないですよ!!ってキツい言い方で突っぱねましたよね?私がイレウスで他の病院に入院した時、先生は、もし何かあったらう
〈Cー1腹水を抜く〉年が明けた、平成26年1月、腹水除去を、願い出ました。「腹水は、抜いても、数日ですぐまた戻るからね」と言って、勧めなかった主治医でしたが、夫が、「こんなに苦しい状態では、会社に出向くこともできない」と訴えて、了承を得ました。初日は、5,5リットルほどの腹水が抜け、妊婦のようなお腹が、ペッタンコになって、ろっ骨が、浮き出るほどでした。一年ぶりの、「腹水の無いお腹」の出現に、私たちは驚くとともに、大喜びしました。帰宅して
移植コーディネーターさんに、転院できるのか電話で問い合わせしましたまさかの不在で、こうゆうことは主治医から直接電話してもらいます😀と、電話に出た看護師さん🐷「あ💦全然急いでないので、折り返しは何時でもいいです≧(´▽`)≦アハハハ💦💦💦」仕事中に電話しちゃったもんだから、折り返しの電話がいつ来るか、もうドキドキ(◎-◎;)!!結局今日来ませんでした明日かかってくんのかな?(((((´°ω°`*))))))カタカタ先生にとっては、火に油を注ぐってとこかしら
〈Bー7初めての入院〉一回目の入院から、二か月後、今度は、もっとひどい状態での、入院となりました。前回の入院時に、処方された利尿剤は、もう、効き目がなくなり、大きく膨張したお腹への、次の策として、アルブミン投与という、治療が行われました。けれども、腹水は、前回のようには抜けず、大きなお腹のまま、二回目の退院となりました。腹水が、溜まるので、足は、くぼみがなくなり、まるで、ゾウのよう。お腹は、カエルのよう。外見から、それと分かるほど、夫
毎年、この時期の病院は好きだな☺️
昨日の主治医の強い言い方、あからさまな嫌な態度。病院帰りにやけ食いしちまった≧(´▽`)≦アハハハあまり眠れず、今朝もめちゃくちゃ早起きして、お弁当まで作れちゃったよ🤣体重のことより、めまいのことを話して、私に言われても困りますって言われたことがめちゃくちゃショックだったな💦何か変わったことがあったらすぐ言ってくださいって言ったのは主治医なのに…もう全てが冷めた。病院変えようかな…。
〈Bー6初めての入院〉ペッタンコになったお腹が、再び、ふくれるようになったのは、退院してから、二週間後。「また、お腹が出てきた」という夫の言葉は、ショックでした。口にするものは、チョコレートやジュースくらいで、エネルギー的にも、立ち上がれるわけがありません。それでも、ふらふらと起き上がって、車を運転して、会社に行き、必要最低限の仕事や指示をして、自宅に戻り、ひたすら横になるという生活を、約一か月、続けました。何度も、「病院に行こう」と、
前回の移植外来受診から6週間経ちました診察室に入ってドクターに「体調はどうですか?変わりありますか?」と…。🐷「あります‼️」👨🏻⚕️「あるんですか⁉️」🐷「体重が爆上がりしました‼️」👨🏻⚕️「…。(一瞬で顔付き変わる)」👨🏻⚕️「そんなに増えたんですか?前回から2kgですね😤」🐷「先月からスポーツジムに通ってるんです‼️」👨🏻⚕️「筋肉が増えたってことですか!?」🐷「体脂肪率はかなり落ちて筋肉量が相当増えましたね!」👨🏻⚕️「ジムで何やってるんですか?」🐷「歩
〈Bー5初めての入院〉当時、16歳で、県外の寮で生活していた、息子の言葉は、利尿剤が効いて、お腹が、ペッタンコになった夫を、見ていた私たちには、「なんとまあ、大げさな」と、感じる内容でした。ですが、病状を一番、的確に把握し、非代償性肝硬変に、至ってしまった、父親の病状は、不可逆的で、起死回生の一手は、生体肝移植しかない、と、分析できていた息子が、一番冷静な、家族だったようです。夫の初めての入院は、10日間で退院、という結果になり、また、元の
〈Bー4初めての入院〉▼次男から、入院中の夫に届いたメッセージ病状を聞いたよ。重度の肝硬変らしいね。父は、仕事とも病気とも、青二才の自分には理解できないほど、つらい目に遭いながら、奮闘しているのに、苦労もしないで、タダ飯を食っている自分が、情けない…病状が、厳しくなったならば、いつでも自分が、肝移植のドナーになるからね。父には、長生きして欲しいし、おいしいものも、もっと食べて欲しいから、肝移植は、そのうち絶対に受けてもらうよ。早死
実兄の嫁、私の義姉が良くない病で数年闘病中です。先月、通院日に検査データが悪く、そのまま入院となってしまいました。そして先日、実兄は主治医から呼ばれ、終末期であることを宣告されてしまいました。実兄が生体腎移植に反対したことを機に、義姉とも音信不通になっていた私です。緩和病院へ転院するように主治医から言われたらしいですが、本人の希望で自宅療養になりました。退院を前に義姉に会いに行こうと決心しました。なぜなら義姉は私が勤める病院に入院しているんです。そして昨日、仕事帰りに会ってきました
〈Bー3初めての入院〉結果は、非代償性肝硬変(もう治ることのない肝硬変)との診断で、即入院。このころ夫は、まだバリバリ、仕事をしていましたから、病室に、パソコンを持ち込んで、半分、病人半分、仕事人状態でした。初めて投与された、利尿剤は、とてもよく効いて、一日ごとに、体重が500グラムずつ減り、それとともに、膨張していたお腹がへこんできて、「退院する日も近いね」と、二人で、喜び合っていました。日々、良くなっていく夫を、見舞うのは、うれしく、
〈Bー2初めての入院〉全身に赤いボツボツが出現して以降、夫は暇さえあれば、ゴロゴロと横になるようになりました。昼食の休憩時間には、会社から自宅に戻り、昼食もろくに食べずに、ひたすらゴロンと横になり、また仕事に戻る、という日々。そんな状態でも、夫は頑なに、精密検査を拒み続けました。「悪いと分かっているから、病状告知が怖い」「入院、治療となれば、会社が立ち行かなくなる」という心理が、病院行きを妨げていました。黄疸とともに、夫のお腹が少しずつ、
〈Bー1初めての入院〉夫の初めての入院は、平成25年9月。このころ、夫は、北関東の酒類販売会社の経営者として、休みなく働き続ける日々を、送っていました。そんな夫の体のあちこちに、入院の一年ほど前から、赤い大小さまざまな斑点が、出てくるようになり、皮膚科を受診しました。その日、私は夫とともに、皮膚科の待合室にいました。ふと、横に座っている夫の顔を見て、「あれっ、白目が黄色くなってる」と、驚いた声を出しました。夫は日ごろから、「目が黄色くなってい
〈Aー4はじめに〉それでも、退院後は、日々の外出歩行訓練で、体力をつけ、肝移植から、1年4カ月後、今度は、生体腎移植を受け、人工透析からの離脱を果たしました。その生体腎移植から一年後、夫の社会復帰が、可能になり、再就職活動を開始。58歳という年齢でしたが、それまでのキャリアが評価され、フルタイムで、勤務することになりました。新たな仕事人生がスタートしてから、三年が過ぎた現在、元気に出勤する夫のスーツ姿を見て、「一級の身体障害者手帳」所持者だと、気
〈Aー3はじめに〉早いもので、夫が55歳の時に、「肝硬変非代償期」と診断され、入院してから、6年が過ぎました。その後、肝硬変の恐ろしさと闘いながら、ぎりぎりのタイミングで、生体肝移植に漕ぎつけ、15時間半に及ぶ手術が、成功しました。けれども、肝移植の成功を喜んだのも束の間、夫は、病院内での細菌感染から、敗血症を起こし、再び「生死五分五分」の、危険な状況下に、戻ってしまいました。急激な腎機能低下(急性腎不全)により、人工透析が必要となり、シャ
〈Aー2はじめに〉医療関係者からの、紋切り型の、極めて少ない情報の中で、「死ぬしかないのかな。諦めるしかないのかな。医者には逆らえないのかな」と、気弱になることもありました。もっと、当事者からの情報があったなら、遠回りせずに、早く命を救うことが、出来たでしょうし、当事者にしか分からない、不安や恐怖も、解消できたことでしょう。その悲痛な体験から、「私たちが、当事者として、生体臓器移植の語り部になろう」と、決断し、平成28年末に、『ダブル移植の語り部
〈Aー1はじめに〉「ダブル移植の語り部」、このタイトルを見て、「どういうこと?」と思われる方が、ほとんどでしょう。「ダブル移植」には、二重の意味があります。一つは、臓器移植を受ける、レシピエントと呼ばれる人が、異なる二つの臓器の移植を、受けているということ。もう一つは、臓器の提供者、ドナーが、異なる二つの臓器を、提供しているということです。実は、私たち夫婦は、ダブル移植のレシピエントとドナーです。夫は、肝臓と腎臓の生体移植、二つの臓器の移植
「ああ、これこそが、失ってみて初めて健康の有り難さが分かるっていうことなんだなあ」…そう、しみじみと感じました。私が、2度のドナー体験で得た、最大の収穫だったのかもしれません。10年前(2014年)の私は、とにかく必死でした。その必死さは、「なんとしてでも、夫の命を救いたい!」という、執念にも似ていたので、断られても断られても、諦めずに、食い下がり続けました。そんな10年前の、なりふり構わなかった自分を、今はなんだか、「いじらしい」と感じています。明
ドナー(臓器提供者)という存在は、本当に不思議な立ち位置のままで、手術を受け、入院生活を送ることになります。身体的には、メスが入り、臓器を切り取られたり、摘出される訳ですから、当然、痛みはありますし、カテーテルやドレーンといった、さまざまな管も挿入され、まさに「病人」そのものです。ですが、元々ドナーは健康体なので、時間の経過とともに、健康を取り戻すことは、半ば、保証されています。その上、手術後の身体の痛みはあるけれども、それと引き換えに、大切な家
…とゆう夢を見ました。朝起きて夢で良かったとホッとしました。私のeGFRが25.9なので、最近、透析に戻ってしまうんじゃないか…って、そればかり考えているから、透析施行する夢を見てしまった。なんとか両親が健在なうちは、透析に戻りたくないですね
大地震後、初めて、断水が解消した家庭の映像で、特に印象に残っているのは、おばあさんが、水道の蛇口に向かって、手を合わせて、お礼を言っていた姿です。…もともと、信心深い方なのでしょうが、水の有り難さ、それも、蛇口をひねればいつでも水が出てくる有難さが、身に染みた末の、「水道の蛇口への礼拝」だったのでしょう。蛇口に向かって手を合わせる、おばあさんの謙虚な姿を見て、ハッと気付かされることが、ありました。~失ってみて初めてその有り難さが分かる~その最たるものが
それからもうひとつ…読者の方々に私たちのリアルな体験を、知って頂きたい、という思いと同時に、私たち当事者にとっても、2014年4月に行われた、生体肝移植手術から、丸10年という節目を迎える現在、今一度、激動の2014~2015を、振り返りたいという、熱い思いがあります。現在、私たちは2人とも、健康で幸せな生活を、送ることが出来ています。それは、とにもかくにも、夫の体内の移植肝臓と移植腎臓が、順調に機能してくれているからなのですが、ともすれば、それを忘れてし
削っても削っても、減らない様子を見かねた、野村さんが、「ご本人だと、思い出や文章に、愛着があって、なかなか削れないでしょうから、私がお手伝いしましょう」と、申し出て下さいました。そのおかげで、なんとか2020年3月に、究極のダイジェスト版として、まとめ上がり、「命の贈りものPart3」という、タイトルで、出版にこぎ着けることが、出来ました。(ちなみに、野村さんは、愛媛新聞社勤務だったので、文章校正には強い方で助かりました)そして今、ブログ開設時から、7年
…こんな経緯で、2016年12月に始めた、「ダブル移植の語り部」ブログ。本編は、2年3か月にも及び、(というとカッコよく聞こえますが、実際は、単にダラダラ書いただけ…)最後は、すっかり元気になり、会社勤めも難なくこなせるようになった、夫とともに、高知県に〈だるま夕日〉を見に行く、という最終章『だるま夕日』で、幕を閉じました。その後も、続編として、「どなドナDONOR」と銘打った、地味なブログを、書き続けていたところ、えひめ移植者の会会長の、野村さんから
20日㈬から久しぶりに来た頭位眩暈症😵💫良くなったり悪くなったりを繰り返してましたが、今朝は目眩酷くて起きられませんでした꜀(꜆×ࡇ×)꜆今日は吐き気も伴って、薬袋をガサコソ☠💊あった!!!ドンペリドン(吐き気止め)そしてメリスロン(めまいの薬)1時間近く経った頃、効いてきたかも🥹今度は急に来た空腹www家にあった物で作ったパスタいんげんとベーコンの塩昆布パスタ減塩の塩とブラックペッパーだけで味付け🧂我ながら美味しかったなさ!!!!!!!今日はスポーツジムもショッ
(昨日の続き…)(3)移植した肝臓は、その後、敗血症を乗り越え、機能するようになったものの、敗血症によって、突然、急性腎不全になった夫の、2つの腎臓は、その後回復することはなく、腎機能がダメになってしまった夫は、人工透析生活を、余儀なくされるようになりました。↓(4)「夫を何とか人工透析生活から離脱させてあげたい」という、私の思いや学びや行動が、実を結び、肝臓に続いて、2度目の臓器移植手術である、「生体腎移植手術」を、受けることが出来ました。
20年くらい前までよく行っていたラーメン屋さん🍜社長が急逝し、誰も当時の味を再現できず、惜しまれながらも閉店したラーメン屋さん🍜見っけた!!もう3年くらい前から出店してたっぽい今日だけは塩分も気にせず食べさせてくだされ!!キタ━(゚∀゚)━!素晴らしい👏再現できてる😭これよ、これ!!あ〜美味しかった🤤追伸...スープはほぼ残しました😭