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1月3日の出来事1521年ローマ教皇レオ10世が回勅『デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム』でマルティン・ルターの破門を通告。1777年アメリカ独立戦争:プリンストンの戦い行われる。ニュージャージーのプリンストン近くで、大陸軍とグレートブリテン王国(イギリス)との間に行われた戦闘。大陸軍の勝利。1818年金星が木星面を通過する。惑星同士の通過・掩蔽(えんぺい)は、これを最後に2065年11月22日までの247年間の長い空白期間に突入
テ「9大国主の国譲り(その9)」今日は、王政復古の大号令みなさん、おはようございます本日もお越しいただきありがとうございます‼家庭教育の向上とご自身の向上のためともに学びましょう12月9日は王政復興の大号令将軍から天皇中心の政治体制に戻ると宣言されました大国主の国譲り(その9)出雲の国譲りをまとめると「うしはく」から「しらす」へ「国つ神」から「天つ神」へになったというものです建御雷神(タケミカヅチノカミ)は大国主神に「汝
はい、幕末にハマってます。大政奉還は新しい政府に徳川も名を連ねる戦略的返還。上田藩の兵学者・赤松小三郎の考えを模した、坂本龍馬の船中八策。それが土佐藩の思想となり、建白され、大政奉還となった。その思想とは、天下の大政を議定するのは朝廷。そして、憲法をつくり、議会を設立する。さらに天下有名の人材を広く招致し、雄材の諸侯が選定する。ような思想。これを将軍・徳川慶喜が受け入れ、大政奉還。徳川慶喜も禁裏守衛総督をやってたので、朝廷と良好な関係と見ていたと思います。しかしこのままで
山口県熊毛郡田布施町(たぶせちょう)大字麻郷(おごう)に鎮座します高松八幡宮相棒の引っ越し先から、「道の駅上関海峡」にランチに行こうってことで、車を走らせていたら、、、え。え!!えーーーーー!?(゚Д゚)た、高松八幡宮、ここじゃん、あるじゃん、こんなとこにあるとは、、、一度、参拝したんですけど、このあたりの土地勘が、私はまだなくて(;^_^Aまさかの、遭遇サプライスでしたそのうち、相棒と参拝したいなぁって、思ってたんです。だってね、パワースポットなんです
天皇陛下の万歳を祝し奉ります。皇后陛下の万歳を祝し奉ります。皆さま、地久節おめでとうございます!今日は畏くも皇后陛下のお誕生日です。老子の「天長地久」による語で、畏くも天皇陛下のお誕生日である天長節に対する名称です。◇皇后陛下は、御名を雅子(まさこ)と申しあげ、昭和38年(皇紀2623・西暦1963)12月9日、御誕生あそばされました。御年29歳で、皇太子妃におなりになり、御年55歳で皇后におなりになりました。皇后陛下は、たいそうお情け深く、国民をよくお慈しみになり
今日の午前中は、お彼岸の墓参りに。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、一昨日の夕方に低気圧が通り抜けた後は、一気に空気が入れ替わったみたいだ。一昨日も昨日も、夜は掛け布団を蹴散らすこともなく寝ていた。明らかに朝夕の気温が低下した。今日の昼間も、気温こそ30℃を超えていただろうけど、空気が軽く感じられた。だから今日、我が家のお墓がある、知恩院の上になる菩提寺まで出掛けたが、歩いているときはさすがに暑いけれど、それでも汗の乾いていく速度が早いという気がした。ところでお寺は、
徳川慶喜は大政奉還したものの、政権を返す気もなく、のうのうと政治のトップに君臨していました。これに業を煮やしたのは薩摩藩であり、大久保利通でした。大久保利通はけして勝てない戦はやらないという超リアリストでしたが、徳川慶喜に日本を任していたら、日本は滅ぶという危機意識を持っていました。これに賛同したのは中級公家の岩倉具視でした。徳川慶喜の圧が増すなか、1867年12月9日、小御所会議を行います。この会議の警護は勅命により、会津桑名に代わり、5藩(薩摩・土佐・安芸・尾張・越前)の兵が警備していまし
雨は降り止まず。で、再開。『清涼殿』。「平安時代中期(10世紀頃)から、天皇の日常のお住まいとして定着した御殿であり、政事・祭事などの重要な儀式もここで行われた。」(パンフレット)清少納言の『枕草子』を読むと、生き生きとした暮らし、そのなかの人間関係が描かれて。もちろん、そこには、清少納言の『意図』があり。そして、『滝口』。御溝水の落ちるところなので、『滝口』と呼ばれ。しかし、近づけません。ここを拠点として、警備をおこなっていたのが、『滝口の武士』。『清涼殿』を見終えて。『
※BGMでも聴きながらお読み下さい。片想い浜田省吾幕末の「王政復古の大号令」という具体的な出来事は存在しません。ただし、幕末の時代においては、日本の政治体制に関する大きな変革が起こりました。幕末の時代は、江戸幕府が力を失い、外圧や内部の不満などによって日本の政治情勢が混乱していました。この時期、幕府に対する不満や西洋文化の導入を
徳川慶喜徳川慶喜-Wikipediaja.m.wikipedia.org将軍就任を断固拒否した徳川慶喜の驚愕の本音将軍就任を断固拒否した「徳川慶喜」の驚愕の本音慶応2(1866)年6月7日、幕府艦隊が長州領内に砲撃を行い、第二次長州征伐が始まる。だが、第一次長州征伐のようにうまくはいかなかった。戦闘は芸州口、石州口、周防大島口、小倉口の4カ所で繰り広げられたが、幕…toyokeizai.netNHK大河ドラマ『徳川慶喜』では本木雅弘が、同じく『西郷どん』では松田翔太が演じた。在
こーんにーちはー✋😁圧倒的これじゃない感🤣🤣そうよねーこんにち"わ"と書くくらいですからねー🙄改めまして、こんにちは、まめ子です突然ですが、中学受験勉強で登場する単語の中で、好きな単語ってありますか問題に出てくると、自然とテンション上がっちゃう単語①そんなもんね〜よっケッ→シュン②あるあるあるあるあるあるあるあるっ→パアーありがとうございますまめ子の口に出すとテンション上がる単語は、墾田永年私財法!!王政復古
天皇陛下の万歳を祝し奉ります。皇后陛下の万歳を祝し奉ります。皆さま、地久節おめでとうございます!今日は畏くも皇后陛下のお誕生日です。老子の「天長地久」による語で、畏くも天皇陛下のお誕生日である天長節に対する名称です。明治の聖代になりますと、御代の初め頃から宮中では儀式が行われていましたが、やがて明治20年代に、地久節を奉祝すべきとの世論が高まり、女学校では学業を休んで奉祝式を催すようになります。法制上における国民の祝日ではありませんでしたが、昭和の聖代に至るまで女の子や女性にとっ
「王政復古の大号令」政治決着では慶喜を排除できずみなさん、おはようございます週末です今日は笑ってハタラク!さあ、今日「12月9日」の國史を学びましょう「王政復古の大号令」慶応3年(1867年)天皇が再び政権の座に就く将軍から天皇中心の政治体制に戻ると宣言されました1867年10月の大政奉還の後も徳川家は力を持ち続けていました徳川慶喜は豊かな知識と教養を備え政治力と外交力を持っていたからです王政復古の大号令では江戸幕府の廃止摂政、
情報というものは怖い。長州を滅ぼし、次に薩摩を倒し、諸大名をひれ伏させて、封建制度を廃止する幕府がそういう意図を抱いているということを、薩摩人が知ったのである。彼らはパリ万博(1867年)でフランスにいた。そこで、モンブラン伯爵というフランス人からこのことを聞いたのだ。欧米列強は、攘夷戦争やパリ万博を通して、徳川家も薩摩も長州も諸大名のひとつであり、天皇を中心とすれば同格であることに気づいていた。外交は単純なものではない。フランスは、公使・ロッシュが幕府と関係を深める一方で、モンブ
(^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆...1月3日(月)#赤口(丙辰)旧暦12/1月齢0.4#新月年始から3日目に当たり、年末まであと362日(閏年では363日)です。..朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない朝はありませんし、朝が来ない夜はない💦睡眠は明日を迎える為の☀️未来へのスタートです🏃♂💦でお馴染みのRascalでございます😅..遂に10連休も残すところが、タッタノ1日しかありません😅💦
令和の御代の維新とは何か!明日八月十五日、靖國神社に祀られる英霊に参拝するにあたり、心に浮かんだことを記しておきたい。明治維新は、徳川慶喜の「大政奉還」(慶応三年十月十四日)を受けた「王政復古の大号令」(慶応三年十二月九日)が出発点である。この大号令は、黒船来航からの十五年間を「癸丑(嘉永六年)以来未曾有之國難」と位置づけ、「王政復古」が「国威挽回之御基」であるからこれから「神武創業之始二原キ(もとづき)」「各々・・・盡忠報國之誠ヲ以テ奉公致スベク候事」としている。ま
今回は「坂本龍馬」、「中岡慎太郎」、「小松帯刀」、「山内豊重」、「後藤象二郎」、「薩長同盟(連合)」、「船中八策」、「王政復古の大号令」、「大政奉還」についてです。坂本龍馬(1835~67)は、土佐の郷士出身です。1864年、長崎に結社である亀山社中(のちの海援隊)を組織、いろは丸などを活用して海運・貿易事業を展開しました。1866年に薩長同盟(連合)を斡旋、翌年には「船中八策」を起草しました。大政奉還と公議政体をとなえて活躍しましたが、中岡慎太郎とともに京
「青天を衝け」第23話を見ました。スイスにいる徳川昭武一行に外国奉行の栗本鋤雲が加わった。1867年5月、信州・上田藩士で洋式兵学者の赤松小三郎が新政体論を福井前藩主:松平春嶽に建白する。天幕合体、諸藩一和、代議政治、人材教育、人民平等、貨幣制度改革、軍制改革、富国強兵、人馬及び鳥獣殖育について7か条にまとめられた。徳川慶喜にも天幕一和を説いた。1867年5月、徳川慶喜が兵庫港開港の勅許を獲得する。1867年6月、土佐藩:後藤象二郎、坂本龍馬が夕顔丸で長崎を出航、その
大政奉還は徳川幕府のほうが出してきた手で、王政復興の大号令は薩長のほうが出してきた手だから。そりゃ最初から全然違うわけですが。「結果は『幕府解散』という同じことを、解散する側が言ったのか、させる側が言ったのかの差だけで、内容は同じでしょ」ってお思いなら、これは全然違うんです。最期の将軍は、「もう参りました、許してください、命ばかりはお助けください」って泣きながら大政奉還した、みたいなイメージでいるのなら、それは大間違いです。徳川慶喜は、徳川政権が生き残るためのウルトラCで「大政奉還」したん
今日の何があった日は、王政復古の大号令が発せられた日です1868年のことでした王政復古の大号令を発した明治天皇日本における王政復古(おうせいふっこ)は、明治維新により武家政治を廃し君主政体に復した政治転換を指す語で、明治天皇より「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府廃止、同時に摂政・関白等の廃止と三職の設置、諸事神武創業のはじめに基づき、至当の公議をつくすことが宣言され、新政府が成立しました
『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していくその間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズです。幕府は、「第二次長州征伐」で長州を攻めるべく、各藩連合の「幕府軍」を編成して四か所で「長州軍」と対峙します。しかし、各所いずれも長州軍に攻められたり、劣勢となって自ら自分のお城に火をつけて退去、更には総大将でもあった将軍「家茂」が「大坂城」で逝去したことによって、長州から撤
天皇陛下の万歳を祝し奉ります。皇后陛下の万歳を祝し奉ります。皆さま、地久節おめでとうございます!今日は皇后陛下のお誕生日です。老子の「天長地久」による語で、天皇陛下のお誕生日である天長節に対する名称です。明治の聖代になりますと、御代の初め頃から宮中では儀式が行われていましたが、明治20年代に、地久節を奉祝すべきとの世論が高まり、女学校では学業を休んで奉祝式を催すようになります。法制上における国民の祝日ではありませんでしたが、昭和の聖代に至るまで女の子や女性にとって地久節は大切な祝日と
慶応3年10月13日、当時、京にいた(上洛していた)各藩の重臣を二条城に集めて、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が「政権を朝廷に返還する」と伝えました。そしてその翌日、14日に朝廷に「大政奉還上表」を提出し、15日に朝廷から勅許(許し)が出ました。慶応3年10月14日のことで、西暦1867年11月9日、今から、153年前の今日、「大政奉還」がありました。歴史好きには想いがつのる日です。私も、歴史の転換点を感じる朝です。<二条城>(撮影:2015.09.22)
こんにちは、tenです。アメブロ投稿、251日目です。それでは、今日は、何の日?12月9日は、最後の将軍・徳川慶喜が王政復古の大号令をかけたのが、慶応3年12月9日(1868年1月3日)。大阪商船が運航した戦前の日本人が誇る豪華客船「あるぜんちな丸」が、進水したのが昭和13年の今日。小説家・夏目漱石の忌日「漱石忌」も今日です。『あるぜんちな丸進水』三菱長崎造船所で造られた、「あるぜんちな丸」(1万2755トン/大阪商船・商船三井客船)は、昭和13年12月9日進水。
「王政復古の大号令」は、「山口県熊毛郡田布施」で発せられたと先のブログでお伝えしました。1.明治維新の真実明治維新は、結果朝鮮人「大室寅吉」を天皇として即位させることで、日本は「朝鮮人」に「皇位」を汚されることをしたわけですが、明治維新に関わるほとんどの人は、全く朝鮮人を皇位につけることになるとは考えていなかったと思います。いわゆる「七卿落ち」をした公卿の筆頭である「三条実美」も最初に「大室寅吉」を見て、「南朝の後裔」として説明されたようです。「大室家」は「南朝の後裔」と伝わる家だっ
今年の夏の旅行は広島へ行ってきました。まだ行った事のない「宮島」へ行くことを目的にして、計画を立てたのですが、旅行の前々日だったかに、一つ気付きをいただきました。1.旅行の真の目的今、徳之島のダビデ王を通して、神様のお導きを受けている身として、今回の旅行も大切な意味があると考え、事前に探求していました。事前に行き先を調べている中で、ふと気付きました。「山口県熊毛郡田布施町が以外と近い所にある」と。「田布施町」を訪れるようにとの神の御心と思い、事前に色々と調べてみました。2.「
前回からの続きです渡り廊下の下を抜けると、建物が左手に見えますこれは次に行く小御所ここを抜けると宜陽殿の横に出るんですそして小御所に入る門紫宸殿を見学しない人は、こちらから行ってもいいように言われてました小御所に通じる門を抜けると右手は庭園となってます♪見える橋は欅橋左手が小御所です解説こちらで明治維新のときに、小御所会議が行われたまさにその場所でした展示してあったのは帽額というもの小御所の横は御学問所なのですが、その間にある空間(広場)は蹴鞠の庭ということでした解説
1867年王政復古の大号令王政復古だけじゃ、嫌~むなしいですわ~嫌~=18むな=67写真に生まれ変わったフランソワーズさんのお母様を、あみ子・あみ姉は自分のお母さんだと思い込んでいます。蚊のフランソワーズさんと姉妹で母の奪い合いです。
2019.9.14最下段にYouTube動画を追加京都御苑北西角の児童公園に咲く枝垂れ桜↑京都御苑乾御門から入り、小雨の中を御所清所門へと歩く数日前の昼下がり、所用の帰路に京都御所を参観しました。小雨が降っていた影響か、日曜日なのに人影も少なかったですね。あんなに静かな時間を過ごせたことは意外でした。(砂利道を歩く自分の足音が一番大きな音)子供の頃から京都に来る機会は多かったのですが、御所に入るのは初めての経験です。参観者入口・清所門の係員に尋ねると、3年前から