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〇昨日、ブログ『西安鐘楼』では、安定門から兴庆宫公园へ行くのに、公交バス45路を利用したと書いた。しかし、本当は公交バス43路であることが判った。それはバスを降りたところが兴庆公园北门だったからである。公交バス45路はここを通らない。〇兴庆公园北门のバス停で下車したまでは良かったが、此処がどこか、位置関係がよく判らない。バスを降りた人が皆東へ向かっているので、たぶん、その方向だろうと後を付いて行った。〇ここの町の雰囲気は、どうも門前町のようだった。皆が東へ行き、その後、道を横切って南へと進ん
〇2024年8月24日、西安郊外の華清池を訪れ、驪山にも登って来た。もっとも、驪山にはケーブルカーがあるので、あっという間に登ることができる。それにケーブルカーからの眺望がまた凄かった。〇驪山について、中国の検索エンジン、百度百科は次のように案内している。骊山,因景色翠秀,美如锦绣,故又名“绣岭”。每当夕阳西下,骊山辉映在金色的晚霞之中,景色格外绮丽,有“骊山晚照”之美誉。骊山是华清宫景区的重要组成部分,山上文物胜迹众多、自然景观秀丽,遍布着烽火台、老母殿、老君殿、晚
〇2024年8月24日、西安郊外の華清池を訪れ、驪山にも登って来た。もっとも、驪山にはケーブルカーがあるので、あっという間に登ることができる。それにケーブルカーからの眺望がまた凄かった。〇何しろ、今まで居た華清池が眼下に見える。華清宮がどんなに大きな宮殿であるかを一目で見ることができた。さすが中国皇帝の離宮である規模が違う。華清池の凄さは、ここが温泉であることである。西安郊外の一等地であることは間違いない。〇秦の始皇帝がわざわざこの地を選んで御陵を造営したのも頷ける話である。秦国の代々の御陵
あなたは「傾国の美女」という言葉を聞いたことがありますか?それは、美しさゆえに国を傾けてしまう女性を指す言葉です。そして、この言葉が生まれた背景には、中国・唐王朝の一大悲劇が存在します。それが玄宗皇帝と楊貴妃の物語です。楊貴妃は、その美貌と才能で玄宗皇帝を虜にしました。もともと彼女は玄宗の息子・寿王の妃でしたが、その美しさに心奪われた玄宗は、彼女を自らの寵姫とすることを決めたのです。この愛の代償は、唐王朝全体を揺るがすほどのものでした。玄宗は、楊貴妃とともに贅沢な日々を送り
夫:今日は、六年前僕たちの祝言の際に玄宗皇帝と楊貴妃の歌を披露してくださった、元同僚と久々の会食でした。妻:私が昔お土産に戴いた剪紙の穆桂英のお姿によく似ていますが、彼女の持ち役は武旦ではなく青衣だそうです。
〇2024年8月24日、午後、華清池を訪問した。華清池は、また、歌枕でもある。しかし、スペースが十分で無いから、多くを案内できない。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』、『杜牧:過華清宮絕句三首』、『崔魯:華清宮』、『杜甫:驪山』、『呉融:華清宮四首・其二』、『張祜:華清宮四首』、『張祜:集霊台二首』、『王建:楊柳宮前』、『王建:秋夜對雨寄石瓮寺二秀才』、『盧綸:華清宮』、『楊玉環:贈張雲容舞』、『林寛:華清宮』、『李賀:過華清宮廟』、『杜牧:華清宮』と案内して来た。〇まだまだ華清宮の作品は存在
〇2024年8月24日、午後、華清池を訪問した。華清池は、また、歌枕でもある。しかし、スペースが十分で無いから、多くを案内できない。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』、『杜牧:過華清宮絕句三首』、『崔魯:華清宮』、『杜甫:驪山』、『呉融:華清宮四首・其二』、『張祜:華清宮四首』、『張祜:集霊台二首』、『王建:楊柳宮前』、『王建:秋夜對雨寄石瓮寺二秀才』、『盧綸:華清宮』、『楊玉環:贈張雲容舞』、『林寛:華清宮』、『李賀:過華清宮廟』と案内して来た。〇今回、案内するのは、杜牧の「華清宮」詩になる
〇2024年8月24日、午後、華清池を訪問した。華清池は、また、歌枕でもある。しかし、スペースが十分で無いから、多くを案内できない。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』、『杜牧:過華清宮絕句三首』、『崔魯:華清宮』、『杜甫:驪山』、『呉融:華清宮四首・其二』、『張祜:華清宮四首』、『張祜:集霊台二首』、『王建:楊柳宮前』、『王建:秋夜對雨寄石瓮寺二秀才』、『盧綸:華清宮』、『楊玉環:贈張雲容舞』、『林寛:華清宮」と案内して来た。〇まだまだ華清宮に関する詩作は多い。ただ、幾らなんでも、そろそろ終わ
〇2024年8月24日、午後、華清池を訪問した。華清池は、また、歌枕でもある。しかし、スペースが十分で無いから、多くを案内できない。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』、『杜牧:過華清宮絕句三首』、『崔魯:華清宮』、『杜甫:驪山』、『呉融:華清宮四首・其二』、『張祜:華清宮四首』、『張祜:集霊台二首』、『王建:楊柳宮前』、『王建:秋夜對雨寄石瓮寺二秀才』、『盧綸:華清宮』、『楊玉環:贈張雲容舞』と案内して来た。○楊貴妃の作品まで案内したのだから、もうこれで十分と言う気もするが、華清宮に関する詩作
〇2024年8月24日、午後、華清池を訪問した。華清池は、また、歌枕でもある。しかし、スペースが十分で無いから、多くを案内できない。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』、『杜牧:過華清宮絕句三首』、『崔魯:華清宮』、『杜甫:驪山』、『呉融:華清宮四首・其二』、『張祜:華清宮四首』、『張祜:集霊台二首』、『王建:楊柳宮前』、『王建:秋夜對雨寄石瓮寺二秀才』、『盧綸:華清宮』と案内して来た。〇今回案内するのは、楊玉環『贈張雲容舞』詩になる。楊玉環とは、もちろん、楊貴妃のことである。つまり、楊貴妃自ら
〇2024年8月24日、午後、華清池を訪問した。華清池は、また、歌枕でもある。しかし、スペースが十分で無いから、多くを案内できない。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』、『杜牧:過華清宮絕句三首』、『崔魯:華清宮』、『杜甫:驪山』、『呉融:華清宮四首・其二』、『張祜:華清宮四首』、『張祜:集霊台二首』、『王建:楊柳宮前』、『王建:秋夜對雨寄石瓮寺二秀才』と案内して来た。〇今回案内するのは、盧綸の『華清宮』詩になる。盧綸の『華清宮』詩は、其一其二の連作となっている。【原文】華清
〇2024年8月24日、午後、華清池を訪問した。華清池は、また、歌枕でもある。しかし、スペースが十分で無いから、多くを案内できない。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』、『杜牧:過華清宮絕句三首』、『崔魯:華清宮』、『杜甫:驪山』、『呉融:華清宮四首・其二』、『張祜:華清宮四首』、『張祜:集霊台二首』と案内して来た。〇今回案内するのは、王建の『楊柳宮前』詩になる。【原文】楊柳宮前王建楊柳宮前忽地春在先驚動探春人曉來唯欠驪山雨
〇2024年8月24日、午後、華清池を訪問した。華清池は、また、歌枕でもある。しかし、スペースが十分で無いから、多くを案内できない。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』、『杜牧:過華清宮絕句三首』、『崔魯:華清宮』、『杜甫:驪山』、『呉融:華清宮四首・其二』、『張祜:華清宮四首』と案内して来た。〇今回は、張祜の『華清宮四首』に引き続き、同じ張祜の『集霊台二首』を案内したい。【原文】集霊台二首張祜日光斜照集霊台紅樹花迎曉露開昨夜
〇2024年8月24日、午後、華清池を訪問した。華清池は、また、歌枕でもある。しかし、スペースが十分で無いから、多くを案内できない。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』、『杜牧:過華清宮絕句三首』、『崔魯:華清宮』、『杜甫:驪山』、『呉融:華清宮四首・其二』と案内して来た。〇今回、案内するのは『張祜:華清宮四首』になる。『張祜:華清宮四首』は連作であるからして、本当は、その全てを読まないと、正確にはその詩意は伝わらない。ただ、スペースとエネルギーの関係で、ここでは冒頭の一首のみを訳すこととする。
〇2024年8月24日、午後、華清池を訪問した。華清池は、また、歌枕でもある。しかし、スペースが十分で無いから、多くを案内できない。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』、『杜牧:過華清宮絕句三首』、『崔魯:華清宮』、『杜甫:驪山』と案内して来た。〇呉融には「華清宮二首」、「華清宮四首」の作品群がある。いずれもが名作ばかりである。華清宮二首四郊飛雪暗雲端,唯此宮中落旋干。緑樹碧檐相掩映,無人知道外辺寒。長生秘殿倚青蒼,擬敵金庭不死郷。無奈逝川東去急,秦陵松栢満残陽。
前回のあらすじ秋の夜長に悲しみに暮れる帝。別れて何年も経ったのに、亡き人の魂は夢にも現れてくれない。死者の魂とつながることができるという臨邛の道士に、貴妃の魂を探させた。上は碧天の彼方まで、下は黄泉の国までくまなく求めるも、魂は見えない。原文漢文忽hū聞wén海hǎi上shàng有yǒu仙xiān山shān山shān在zài虚xū無wú縹piāo緲miǎo間jiān楼lóu閣gé玲líng瓏lóng五w
前回のあらすじ後宮にいる三千人分の寵愛を一身に受け、贅沢の限りを尽くす。帝のひいきは楊家一門にまでおよび、姉妹兄弟みな列せられ、光彩の一門が誕生した。世間の人々は言う、男子を生むよりも、女子を生んで宮廷に入れるべきだと。驪宮で遊び呆けていたところに、反乱の狼煙が上がる。帝は貴妃を連れて西南へ逃げ行く。原文漢文翠cuì華huá揺yáo揺yáo行xíng復fù止zhǐ西xī出chū都dū門mén百bǎi余yú里lǐ六liù軍
〇2024年8月22日に、咸陽の茂陵を訪れた。茂陵は漢の武帝の墓である。茂陵を訪れて、漢の武帝の話をしないわけにはいかない。日本のウイキペディアフリー百科事典が案内する漢の武帝は、次の通り。武帝(漢)武帝(ぶてい)は、前漢の第7代皇帝。匈奴討伐などで前漢の最大版図を築いた。景帝の九男。紀元前141年の景帝の崩御とともに16歳で即位した。即位当初は文帝の皇后であった竇太后が実権を握っていたが、竇太后が死ぬと武帝は自ら親政を始める。文帝・景帝の時代のいわゆる文景の治によって国庫に
姫路パルナソスマンドリンオーケストラ第34回定期演奏会、姫路アクリエ中ホール。長恨歌による組曲『芙蓉花伝』唐朝の玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋物語をマンドリンオーケストラが壮大に表現。私は曲の始まりと中盤にナレーションでお手伝いをさせて頂きました作曲者の方も会場に聴きに来ておられました。オーケストラの素晴らしい演奏に、私も舞台上で聴き入っておりました。曲が終わった途端ブラボーの大きな声と大きな拍手で会場は包まれました。さらに映画音楽、マンドリンオリジナル曲、昭和歌謡と様々に楽しめた
〇2024年8月22日に、陝西省咸陽市馬嵬街道の楊貴妃墓を訪れた。その帰りに、『马嵬驿民俗文化村』と茂陵を訪れた。については、前に次のブログを書ている。・テーマ「西安漫歩」:ブログ『马嵬驿民俗文化村』马嵬驿民俗文化村|古代文化研究所〇したがって、今回は、茂陵の話になる。茂陵は前漢、武帝劉徹の墓になる。インターネット検索すると、次のページがヒットした。茂陵茂陵は漢王朝時代の武帝劉徹(紀元前156年一紀元前87年)の陵墓です。陝西省の咸陽と興平の間の五陵原に位置して
〇2024年8月22日に、陝西省咸陽市馬嵬街道の楊貴妃墓を訪れた。馬嵬驛は中国の歌枕の一つではないか。そう思って、馬嵬驛を訪れたわけである。〇馬嵬驛を舞台にした詩作は多い。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』から『長恨歌:馬嵬驛』、『張祜:馬嵬坡』、『温庭筠:馬嵬驛』、『李商隠:馬嵬二首・其一』、『李商隠:馬嵬二首・其二』、『高駢:馬嵬驛』、『鄭畋:馬嵬坡』、『羅隠:馬嵬坡』、『羅隠:帝幸蜀』、『黄滔:馬嵬三首』、『黄滔:明皇迴駕經馬嵬賦』と続けている。〇つまり、ここまで、すでに12個ものブロ
〇2024年8月22日に、陝西省咸陽市馬嵬街道の楊貴妃墓を訪れた。馬嵬驛は中国の歌枕の一つではないか。そう思って、馬嵬驛を訪れたわけである。〇馬嵬驛を舞台にした詩作は多い。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』から『長恨歌:馬嵬驛』、『張祜:馬嵬坡』、『温庭筠:馬嵬驛』、『李商隠:馬嵬二首・其一』、『李商隠:馬嵬二首・其二』、『高駢:馬嵬驛』、『鄭畋:馬嵬坡』、『羅隠:馬嵬坡』、『羅隠:帝幸蜀』、『黄滔:馬嵬三首』と続けている。〇このままこの話を何時までも続けるわけにもいかない。しかし、当古代文
〇2024年8月22日に、陝西省咸陽市馬嵬街道の楊貴妃墓を訪れた。馬嵬驛は中国の歌枕の一つではないか。そう思って、馬嵬驛を訪れたわけである。〇馬嵬驛を舞台にした詩作は多い。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』から『長恨歌:馬嵬驛』、『張祜:馬嵬坡』、『温庭筠:馬嵬驛』、『李商隠:馬嵬二首・其一』、『李商隠:馬嵬二首・其二』、『高駢:馬嵬驛』、『鄭畋:馬嵬坡』、『羅隠:馬嵬坡』、『羅隠:帝幸蜀』と続けている。〇このまま続けて行くと切りが無い。しかし、折角、訪れたのであるから、書いておくべきことは
〇2024年8月22日に、陝西省咸陽市馬嵬街道の楊貴妃墓を訪れた。馬嵬驛は中国の歌枕の一つではないか。そう思って、馬嵬驛を訪れたわけである。〇馬嵬驛を舞台にした詩作は多い。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』から『長恨歌:馬嵬驛』、『張祜:馬嵬坡』、『温庭筠:馬嵬驛』、『李商隠:馬嵬二首・其一』、『李商隠:馬嵬二首・其二』、『高駢:馬嵬驛』と続けている。今回は、『鄭畋:馬嵬坡』となる。〇作品は、次の通り。【原文】馬嵬坡鄭畋玄宗回馬楊妃死
〇2024年8月22日に、陝西省咸陽市馬嵬街道の楊貴妃墓を訪れた。馬嵬驛は中国の歌枕の一つではないか。そう思って、馬嵬驛を訪れたわけである。〇前回、白居易の「長恨歌」を案内した。白居易の「長恨歌」は、七言120句、全840字にも及ぶ壮大な叙事詩である。したがって、詳しい話をすることも出来なかった。〇それで、今回は『長恨歌:馬嵬驛』と題して、白居易の「長恨歌」が描く馬嵬驛の様子を見てみたい。白居易の「長恨歌」では、楊貴妃が亡くなった馬嵬驛を二回に分けて表現している。その前半が次の10句である。
〇2024年8月22日に、中国陝西省咸陽市馬嵬街道の楊貴妃墓へお参りした。2019年11月に、咸陽の乾陵や昭陵などを見学した。その際に、楊貴妃墓や茂陵も訪れるつもりだったが、時間が無くて、断念せざるを得なかった。それで、今回、やって来たわけである。〇楊貴妃は日本でも有名だが、その死の話はそれ程、知られていない。中国では「马嵬驿兵变」とか「马嵬兵变」として、知られる。马嵬驿兵变公元755年,安史之乱爆发。次年7月15日,唐玄宗逃至马嵬驿(今陕西兴平市西北二十三里)。随行将士处死宰
「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」夢枕獏先生原作、松本幸四郎先生主演(というのかな)の新作歌舞伎。これ観たかったんですよ、初演のときみられなかったから。あ、再演してるじゃん!とこないだ通りがかりに、気づきまして。千穐楽に、一幕見席でみてきました。四階席、何年ぶり(何十年ぶり?)だろうか、感無量。外国人のお客さんが、多いね。日本観光の途中で一幕だけカブキに触れるのは、素敵だよね。空海のキャラが、良かったなあ、大望があり、未知の才能があり、飄々として、結構行き当たりばったりに、異国の闇に突
昨日で終わりました歌舞伎座『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』ですが、私のお役、幻の玄宗皇帝は短い場面でしたが千穐楽まで緊張感が伴い気の抜けないお役でした。また染五郎さんと1対1でお芝居をさせて頂けたのも大変光栄でした。染五郎さんと初めてご一緒させて頂いた舞台は2016年8月の納涼歌舞伎『東海道中膝栗毛お伊勢参りなのにラスベガス』でしたでしょうか?幸四郎(当時染五郎)さんの弥次郎兵衛、猿之助さんの喜多八、現染五郎さんはまだ松本金太郎のお名前で信夫の若君伊月凡太郎でした。供侍の伍代政
今日は歌舞伎座『秀山祭九月大歌舞伎』の千穐楽でした。「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」の幻の玄宗皇帝役無事に勤め上げることができました。ご観劇賜りましたお客様、誠にありがとうございました。最近はひと月ずつ無事に勤め上げるとホッとするようになりました。途中で休演を余儀なくされることが多々ありましたから・・・。さあ、1週間ほどお休みがありましてちょっとのんびりできますが博多座に行くまでに東京で『ヤマトタケル』のお稽古が少しあります。来月の『ヤマトタケル』に向かいましてまた体調を整えて参り
今月の歌舞伎座『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』の中で空海(幸四郎さん)と阿倍仲麻呂(染五郎さん)が会話する場面が出て参ります。史実での生存は阿倍仲麻呂が奈良時代(698~770)空海が平安時代初期(774~835)の人ですから実際に二人が出会うことはありません阿倍仲麻呂は717年に唐に渡り、そのまま再び日本に帰ることなく、亡くなっております。空海が唐に居りましたのは(ちょうどこの舞台になっているのは)804年~806年幻の場面は、安禄山の乱と云う事ですから、756年。