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氏神さんの神社と同じ名前で、しかもこちらの神社の方が古くからあるとの事、最近テレビでも映ってたし、前々から気になってたし、ふと急遽行ってきました。(今日はむちゃくちゃ寒い🥶)住宅地にありひっそりとしてました。スッキリとしたキレイな神社でした。
12月23日土曜日、大阪府は八尾市まで走りました「聖徳太子古戦場」の碑が立ちま。物部氏との戦い八尾市太子堂、近畿道長原ICを降りて奈良方面へ国道25号線沿いにありましたその石碑の後ろにある【聖徳太子と四天王の像】【大聖勝軍寺山門】そして『大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ)』がありました※HPなどは見つからなかったので略縁起など詳しくは➡大聖勝軍寺ウイキペデイアより地元の人は「太子堂(たいしどう)」と呼ぶらしい。地名にもなってます。八尾市出身の職場の同僚の方がこち
さてさて……………【サムハラ神社】を出発したココロは、八尾市にある体育館に家族を迎えに再び戻ってきた…………二人は買い物もするようで、少〜し時間が出来たのでココロが立ち寄ったのは……………【物部守屋墓】大阪府八尾市南太子堂【大聖勝軍寺】付近前回は、コロナ禍の2020年5月28日。約3年ぶりの2回目の訪問となる国道沿いにあるこの場所。青空とのコントラストが美しい【物部守屋墓】【物部守屋(もののべもりや)】古墳時代の大連(有力豪族)。『『墓マイラー』八尾編①〜物部守屋墓
物部尾輿は排仏派、蘇我稲目は崇仏派6世紀半ばに百済から伝わった仏教は欽明天皇の時代に争いの火種となり尾輿と稲目の死後は物部守屋と蘇我馬子に争いが引き継がれます飛鳥時代587年に馬子と厩戸皇子(聖徳太子)が守屋の館を攻めて争いは終わりましたそんな頃の古墳や寺院から出土した発掘品が並びます仏教を信じていた聖徳太子や馬子も武器を持ち戦ったんだね。
この勅許の後、蘇我馬子の病いは治りましたが、敏達天皇は崩御されました。次に即位されたのは聖徳太子の父、用明天皇です。太子は陛下に「長寿はかないません」と予言されました。その予言通りに、即位二年目にして病に倒れられました。陛下が食事されないときは太子も食事をとらず、香炉を持って祈祷され続けました。用明天皇は病床から群臣を集められ言われました。「私は三宝(仏法僧)に帰依いたします。そのことの是非を論じてください」天皇陛下が三宝に帰依されることはこの国が公に三宝に帰依することと同義です。物部守
蘇我馬子大臣は、深く仏教に帰依していましたが、なぜかいつも病気がちでした。原因を占うと「神の祟り」と出ました。そのことは天皇陛下にご報告されました。陛下は、側に控えていた太子に問われました。「我が国の基は国神(くにつかみ)の祭祀にある。大臣は他国神(あだしくにのかみ)を招き、祀った。それ故の祟りであろうと思うが、太子はどう思うか」太子は、「神々は三宝に従うものです。神祇があえて仏とたがえ、祟りをなすなどということはありえません。大臣が仏法を請じたことは、国にとって福でございます。大臣には仏を
昨日、九月十三日午後、昨年から本年初夏まで書き続けてきた新刊書原稿の最終校正である第三校を終え、昨日の午前に、太子町付近から撮影した二上山の映像を添えて全原稿を神田神保町の展転社の相澤行一君に郵送した。十一月三日の「明治節」・「明治の日」が近づく頃、展転社から出版される。新刊書の表題は、「日本民族の叙事詩」となる予定だ。よって、「叙事詩」の風景である「二上山」と「叙事詩」の精神の故郷である明治天皇の御代「明治の日」を記しておきたい。昭和三十八年、今から六十年前の私が中
さぁ、久しぶりの替え歌ですよ。作りかけてて、全然進んでなかったのですが、ちょっとしたキッカケで出来てしまうものです。タイトルでお気づきかと思いますけど、あいみょんですよ。ずっと、マリーゴールドて作ってたんですけど挫折して、あきらめて曲を変更しました。あいみょんの曲って難しいので、詞の言葉置き換えただけだと歌えないんですよ、何度も曲に合わせて歌ってみながら修正しましたけど、かなり手強いです。そんな難しいのなんで選ぶんだってことですけど、サビの部分がバッチリハマったので引き返せなくなった
8月となり終戦特集の番組が多くなりました。NHKアーカイブを見ていたらなんで当時終戦交渉の相手にソ連を選んだのかという番組がありそのなかで、日本の運命を握った「軍人勅諭」そこにはなんと、あの物部の文字がようこそおいでくださいまし💦はるか遠くから来ていただいたことにも感謝です。それは明治15年につくられ、その後の軍事大国を思想面からも支え続け、最後は第二次世界大戦に突入、原
皆さま、こんばんはです^-^⭐️UE(アルティメット・エナジェティクス/究極のエネルギー学)という生命エネルギーを自在にコントロール次元上昇と共に人類が変容していくためのエネルギーワークで『本当の自分を楽しく軽やかに生きていく』をサポートします✨✨UEの魔法使いヒーラー⭐Starseedナナ♡でーす💕💕UE創始者大原彩奨先生ブログ大原彩奨『『統合』の前にクリアリングです❤️』こんにちは❣️⚜️あなたの潜在能力を解放し、本来の輝きを発揮させるプロフェ
ん令和5年7月13日第167回目馬子、物部の堅い守りに手を焼く物部守屋もののべもりや側の迎撃態勢は稲城いなぎを組んで整えていました。それでは不充分として山から丸太を切り出し稲城の外周りに置き敵兵の侵入を防ぐ作戦を取っていました。蘇我軍が守屋の予想を上回る大軍であるのと情報に基づいて初めて立てた陣形でありました。蘇我馬子から見た物部軍の防禦態勢は完璧で、外側から一気に崩すのは容易ではないと見て物部守屋の館を取り囲んで外側から守屋を直接狙う作戦が取られま
令和5年7月11日第165回目蘇我軍、物部一族の本拠地に向かって進軍用明天皇が病に倒れ、なかなか回復の徴候が見えず、朝廷内には絶望感が漂っていました。馬子は幼少の頃から池辺皇子を親しく近い関係で見て来ました。胸の内ではなんとかもう一度元気な姿になってもらいたいとの想いはあっても大臣という立場は次の天皇を決めなければなりません。馬子は当然の如く蘇我系の皇子を次の天皇にと、姉の蘇我小姉の君と欽明天皇の間に生まれた泊瀬部皇子はつせべのみこを推しました。これに
令和5年7月9日第164回目用明帝が仏教を受容用明天皇は朝堂に大臣、大連をはじめとする群臣を集め馬子にした返事と同じ意味の言葉を伝えられました。自ら仏教に帰依すると宣言されました。用明帝は物事を決める時の心構えとして、若い頃から独断専行は良い結果を産まいとの考えを持たれていました。大事な方針、政策、術策ごとなどは衆議によって行われるべきとされていました。自分事であっても天皇であるからにして、大和の国全体に大きな影響を及ぼすことなので、自分は仏教に帰依す
令和5年7月8日蛍の里第162回目馬子必勝への階段馬子は更に戦さに必要不可欠なものは食料であると気付きました。馬子は中国の噺はなしが好きで、その中でも劉邦りゅうほうと項羽こうう二人の英雄が死力を尽くして戦った物語を幾度も読んでいました。馬子は自分は劉邦と似ていて、物部守屋は項羽であると自分で勝手にきめて、劉邦に見習って天下の覇者になろうとしていました。劉邦は項羽と戦って99回負け戦さをしたが、最後に「垓下がいかの戦い」で勝って漢の高祖となりました。高祖劉
令和5年7月7日第161回目本気の馬子決戦の準備馬子には大きな心配事がありました。自分と肩を並べて朝廷内で勢力を持つ、物部守屋は古来からの大豪族であり、軍事部門の最高責任者であるところから、万が一にも武力衝突をすると蘇我軍では、今の状態から勝ち目がないと見ていました。戦時下で指揮をとれる将軍としての人材は乏しく百戦錬磨の物部軍に歯が立たないと考えていました。そこで蘇我系初の天皇として用明天皇が皇位にある内に蘇我軍の戦力を整えておく必要性をヒシヒシと感じて
令和5年7月1日SDGsの花エキナシアの花第155回目蘇我馬子大臣となる馬子は一人で悩んでいました。父の稲目は明朗で快活で働き者、一心に仕事をして行くタイプで、何事かがあると先頭に立って危難に立ち向かっていく、それに引き替え自分は父とは真反対の性格で人にもあまり好かれないように思っていました。父は屈託がなく陽気で楽しそうなのに自分はいろいろな事が気になり、気になり出すと止まりません。父稲目の実の子なのに何故こんなに性格が違うのだろうかと一時は
模活のできないときの閑話休題。基本的にアニメは見ませんが唯一(ストリーミングですが)見ているのがこの「鬼滅の刃」鬼滅の刃は、新進気鋭の北九州在住ママさん作家吾峠呼世晴さんが、綿密に描き揚げた週刊少年『ジャンプ』に掲載された漫画です。本日は、その鬼滅の刃に係る全くの新しい視点歴史的史実から考察をしてみたいと思います。(1)「ヒノカミ神楽」と「日の神神楽」について古代日本では、火を崇(あが)め、奉(たてまつ)り、祀(まつ)りで人々は豊穣、天候回復を祈っていたことはご存じ
さてさて……………【叡福寺】を出発した我々は、次の目的地に向かった…………道を挟んで向かいにある場所昇り、下りはあるが【叡福寺】と向き合うようにその場所はある【西方院(さいほういん)】大阪府南河内郡太子町太子1663『太子町ツアー④〜西方院/三尼公御廟所〜』叡福寺を出た我々は、次の目的地に向かう叡福寺前の道路を挟んだ真向かいに【西方院】はある。この太子町ツアーの数日前、ココロマイカーの中のテレビで「太子町」が取り…ameblo.jp【西方院】も何度も訪れている。ココロの過去ブロ
さてさて……………我々は【一乗寺】を出発し、この日最後の目的地とした場所に到着した…………その場所は……………【鶴林寺(かくりんじ)】兵庫県加古川市加古川町北在家424加古川市街地に位置する。近畿地方に数多くある聖徳太子開祖伝承をもつ寺院のひとつで、「太子建立七大寺」のひとつとも言われるが、創建の詳しい事情は不明であるという平安時代建築の【太子堂】をはじめ、多くの文化財を有し「西の法隆寺」とも称されている播磨地方有数の古寺である。伝承では創建は崇峻天皇2年(589年)にさかのぼり
585年(敏達天皇14年3月1日)の今日は物部守屋が仏教弾圧をした悲劇の日です。この事件をきっかけに丁未の乱が起きることになります。なお、物部守屋は廃仏派ではなかったという説もあります。物部守屋-Wikipediaja.wikipedia.org4月5日-Wikipediaja.wikipedia.orgカット中は美容師さんと話す?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
太秦の由来について一説によりますと、「ウズ」は貴(とうとい)の古語で「マサ」は朝鮮語の「村」を意味するともいわれ、ウズマサは村を率いる貴族、すなわち、秦氏の族長を意味するともいいます。秦氏の族長が住んでいたから地名が太秦になったというわけですが、まだまだ謎は残ります。まず、秦という氏名の由来です。これには、機(はた)織りの集団を率いていた氏族という意味があるとされていますが、朝鮮語で「はた」は「海」を指すともいわれ、諸説あります。次に、秦氏は渡来後、太秦の地でど
☆物部守屋「鏑矢塚」・「弓代塚」■【鏑矢塚】河内国渋川郡大阪府八尾市南太子堂3-1(P無し)■【弓代塚】大阪府八尾市南太子堂3-4(P無し)用明天皇二年(582年)、物部守屋を蘇我馬子軍が討った際の鏑矢と弓がそれぞれ埋められているという史跡。「伝守屋墓」や、守屋の首を洗ったという「守屋池」(首洗池)などの伝承地も近くに存在します。「丁未の乱」と称されるその戦は、紀に以下のように記されます。━━四月、蘇我馬子との対立がいよいよと深まり、身の危険を感じた物部守屋は朝廷を離れ
☆伝物部守屋墓河内国渋川郡大阪府八尾市東太子2-9-9(P無し)蘇我氏との宗教戦争に敗れた物部守屋を葬ったところと伝えられている地。この辺りには「弓矢塚」「弓代塚」「守屋首洗池」「聖徳太子古戦場」「稲城跡」など、生々しい痕跡が半径100m足らずの中に集中しており、また守屋所縁の地も多く存在します。ここで本当に最期を迎えたのであろうかと。物部氏は崇仏派の蘇我氏との争いに敗れたとされています。この宗教戦争は「丁未の乱」と呼ばれ、用明天皇二年(587年)のこと。おおよその経緯は以下の通り
☆「守屋池」(物部守屋首洗池)河内国渋川郡大阪府八尾市太子堂3-3-16(「大聖勝軍寺」前)(P無し)蘇我馬子との宗教戦争に敗れた物部守屋の首を洗ったと伝承される池。この宗教戦争は「丁未の乱」と呼ばれ、用明天皇二年(587年)のこと。おおよその経緯は以下の通り。━━四月、蘇我馬子との対立がいよいよと深まり、身の危険を感じた物部守屋は朝廷を離れ、別業(別荘)である「阿都」へ退き周りを固めた。そして用明天皇が崩御。七月、馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)
天神社(渋川天神社、八尾市渋川町)河内国渋川郡大阪府八尾市渋川町5-7-8(P無し、近隣停め置き不可)(「ジョーシン久宝寺店」のJR線を挟んだ向かい側)■祭神素盞嗚尊菅原道真JR八尾駅と久宝寺駅の間、住宅密集地内、八尾市「渋川町」に鎮座する社。境内は線路沿い。宝永元年(1704年)に「つけかえ」がなされる前の「大和川」西岸沿い。通称は「渋川天神社」、正式社名は「天神社」。線路向こうには式内比定社澁川神社(渋川神社)が鎮座しています。◎当地はかつて物部守屋の別業(別荘)があっ
私が、神社巡りを始めてからしばらくして、物部守屋について知ることになり、物部守屋は悪者なのか?の疑問を訪ねて、色々と調べ始めます。物部守屋は八尾を本拠地にしていた、という話もあり八尾には特別寄せる思いがあったのですが、近い割になかなか来れませんでした。近鉄八尾駅から歩いて程なくして住宅街の一角として突然現れる八尾神社。商店街を進むと現れる八尾天満宮近くのカラオケ店からの声が聞こえて(笑)それはそれで胸をくすぐるものがありました。物部守屋の地で、突然に現れる聖徳太子の生母、穴穂部間人皇
上/百濟王神社左下/西山古墳(天理市)の側の聖徳太子像右下/西山古墳(天理市)*印は記事改定予定(改定作業中につきリンクに飛ばないものも)*印は写真複数枚を差替えまたは追加予定(改定記事は起こしません)3/13【志紀・渋川の物部氏をちょびっと】国分神社宿奈川田神社金山彦神社金山媛神社☆御座峰(龍田大神降臨地)天神社(八尾市渋川町、渋川天神社)澁川神社(八尾市植松町)*☆流水紋銅鐸出土地・跡部遺跡☆伝物部守屋墓*☆物部守屋「鏑矢塚」「弓代塚」*☆「守屋池」(物