ブログ記事14,194件
特養の中では、夫婦で入っているのは、この時は、父と母だけだったようです。父が入る前にはいたそうなんですが、いろいろな配慮は、ありました。でも、父と母の喧嘩には、なだめるのが職員さんたちも大変だったようです。しかし、喧嘩するほど仲がいいといいますが、喧嘩した後はそんなことはすっかり忘れている父と母。職員さんたちが、このホームのなかで喧嘩ができるということは普通はないのでいいですねと何回か言われました。特養は、要介護3以上という壁があり、これがネックになることが多いようです。父は、ぎ
母の誕生日なので、薔薇の花束とスイーツを持って父と母のところへ。普通の固形ケーキは食べられないのでプリンを。83歳おめでとう✨もう叶わないことだけど、若い頃の真面目だけどぶっとんでいた母に会いたいな。友達親子みたいな関係だったから。今は穏やかに過ごしてもらうしかないのね。••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••淵澤由樹(ふちざわゆき)アナウンサー・ナレーター・映画監督アナウンス講師・俳優・ドラマ内ニュース監修桐生高校放送部講師・桐生ふる
同じ特養に入れた父と母。本当に良かったことでした。母が亡くなるまで一緒に特養で暮らせたことは、本当に良かったことでした。しかし、父は、母が特養に入ってきたことで母の部屋でずっと暮らせることがうれしかったようです。でも、片づけは、父が亡くなるまで続きました。だから、危ないこともたくさん。割れた陶器がカバンの中に入っていたこともあったのですが、一番怖かったのは、ガラスの破片。母の部屋に飾ってあった額。父が手が届かないところに飾ってあったのですが、それを外した父。どうやってその額
おはようございますご訪問、いつもいいね👍等ありがとうございますちらほら出てくる写真あまり記憶にない写真が出てきたりしてとても貴重に感じる父と母とそして私の息子ちゃんどこかにおでかけもっともっとその瞬間、瞬間をいっぱい写真にとっておくべきだったな後悔後悔父母も元気なまま突然悪くなりあっという間に風のようにいなくなった感じ人生が終わり振り返る時初めて人生にとって何が一番大切なことなのか気づかせてくれるものだと思いますね私の心に胸に愛を引き継いでいます
特養の父の部屋は、本当にものがなかったんです。ものを出しておくとそれをしまう。その繰り返しだったんです。だから、どこにしまうかというとカバンの中。初めのうちは、帰る支度をしている父。入所当初は、ホテルに泊まっていくという話で特養に入ったので自分は、自宅にすぐに戻れると思っている父。なんでも片付ける父は、本当に困りました。なんでもカバンに入れるので石鹸に始まり、ティッシュボックスもカバンに入れ、また、買ったお菓子までカバンに。だから、いろいろなものが混ざり、食べ物もお財布も眼鏡
ネットたまたま見て女が前に出ると男がつぶれる。マジか、わけなぇよな。と思うから。前にでるだけの価値ある人でなければ皆がその人の言うことを聞くわけがない。実情を知る人はあの○〇だったら鶴の一声だという。皆面倒を見てもらったり飯くえないときもそうだし住むところも与えた。(今思えば子ども食堂の先駆者だと思う、子供じゃないけど。)どんな世界でも偉くなる人の裏方の存在なしには回らない。トップに立つにはその存在ありきなのは確かですけどね。因みに当方の父は靴下1つ自分ではかな
こういう展開になるのは想定内だった。おばあちゃんが本当はずっとこの家で過ごしたいこともお母さん(嫁)のせいにしたい気持ちも自分の娘(おばあちゃんの娘)ならこうなのにと思っていることも話される前からわかっていた。知らない人が聞いたら、そうなの??おばあちゃん凄く可哀想!となる言い回しをするのはおばあちゃんの通常営業である。プラスおばあちゃんは自分の娘たちをとにかく可愛がっていた。〇〇(娘)からこれを貰った〇〇(娘)がこうしてくれた〇〇(娘)が、〇〇(娘)が
この入院の時、手術となり、数時間後に手術が終わりました。それで母が目を覚ますまでに数時間かかるということで朝、何もしないで着の身着のままで家を出てきたので一度、家に帰りたいと病院側に言ったのですが、それもダメで一緒にいてほしいといわれ、その日は、結局病院に夕方までいました。家に帰るともう、夕方で。朝7時過ぎに家を出て、その後、ずっと病院。その日は仕事も入っていたのですが、そこにも電話したりと。時間的に何をしたというわけではなかったのですが、なんだか、忙しく、いろいろな手続きに追われまし
母一人の生活から、私たち家族との同居。少しは前から考えてきましたが、突然、やってきた同居。どうしようもなくなっての同居でした。まあ、これも長い間ではなかったのですが。しかし、この時は、参りました。認知症の母との同居。この時、みんなに言われたことがありました。「よかったね。」母のことを心配していた人たちは、これが一番と思ったようです。でも、家族にとっては今までになかったこと。家に泊まりに来ることはあっても一日中、ずっと一緒ということはなかったからです。母は、特に気にもせずだ
『【はじまりの家庭菜園】大根と小松菜』先週の土日に家の庭の草刈りを父と母、そして親戚のおばちゃんに手伝ってもらい、家庭菜園ができる環境に…家の庭の草だけで、ゴミ袋35袋分庭の草本当に手伝っていただ…ameblo.jp種を植えて約1週間…ついに芽がでました!見つけれますか??(笑)私の母にこの写真を見したら『ウォーリーより探せより、難しい』と言われました(爆笑)ココです↓寒い時期に植えたから大丈夫かと心配でしたが…育ってくれました!!小松菜さんありがとう!!!!!!以上
んは!皆様おはようございます。夜前よりかは寝れるようになりました。ちょっと癖がついた感じ。ただ、昨日は暑すぎてなかなか寝付けなかったけどね。。😅とにかく今日の予定は夕方から母の誕生日会で今からは母と父とお買い物。。父が仕事お休みなのでお家にいるので車でお買い物です。皆様も素敵な一日をね!^^
自分で一所懸命食べるな〜ちゃん♡やはり父と母と同じサウスポーかな〜?サウスポーかなと思うことが早くからありましたが、一時はいやいや右手かな?と。でもこの食べ方をみているとサウスポーですね~♡ということはちい一家と食事すると私だけ仲間外れ?😱ダーリン、いいな(笑)
パールonInstagram:"11/19(火)④先に載せてましたがたつみやでおうどんを食べて振り返ったらToYouCafeさんでクリスマスコンサートのチラシを掲示してくれていたのでソフトクリームを食べて🍦じゃあ帰ろうかと思ったら、竜王戦で棋士に提供された和菓子販売中です⭐︎と看板が目に入りそうだったと思い、私はパンケーキにソフトクリームを食べたので父と母に買って帰ってでも気になるとほんの一口お味見しました🌹バラの上生菓子、佐々木八段が連投?したんですよね。…0lik
父と母が亡くなり、父と母の書類上の手続きも終わり、父と母の住んでいた自宅の整理も終わってきたので、ここで自身も新たな場所に引越しをする事で準備に入り、まずは、第一弾の引越し作業が終わりました。先日、レンタカーでワンボックスの車を借りれ、自身の持っている映画のソフトや身の回りの品物、仕事の書類などをひとりで行いました。はー、とため息が出る程、疲れました・・・・・第二弾は、引っ越し業者に頼むつもりですが、しかし、やっぱり引越しって大変だね・・・俺的には、あまり慣れていないと言うか、引越しって
◎祈りイエス様、YouVersionアプリを使って、3分のデボーションをしていきます。あなたの御声を聞かせてください。あなたとの交わりが豊かなものとなりますように。アーメン。◎聖書『あなたの父と母とを敬え。」これは、「十戒」の中で対人関係について言われた第一の戒めで、その後に約束があります。つまり、「父母を敬うなら、あなたは幸せになり、長生きする」(出エジプト20・12)という約束です。』エペソ人への手紙6:2-3リビングバイブル◎祈りイエス様、
家庭内別居(戸で仕切っているだけ)と言いながら、なんやかんやで現在まで同じ屋根の下で生活しているワイ父とワイ母なんですが、この間ワイが帰った日が偶然にも結婚記念日(33周年)だったようで、ケーキ🍰買うくらいの気持ちはあるみたいなので、これからもなんやかんやで生活していくのではなかろうか、と思い思われどんどこしょ♬だと思いました次第であります候。来年の一般参賀はまた母娘で並ぶ予定です。追伸ワイらが知らんところでワイ父がワイ母に世にも奇妙な❤️メール✉️を送っていたのを目撃したので、そ
今は、スマホの時代になりましたね。ガラケーは、ほとんど見かけなくなりました。しかし、これも大変だと思う人もたくさんいるのではと思います。私の友達でさえ、スマホの画面に出ているアプリは、押すことはできるのですが、それからが、操作ができない人もたくさん。そして、私が電話をかけても出てくれない方もいるんです。また、電話はかかってくるのですが、折り返し電話をしてもやはり、電話に出てくれず、自分がかけるときだけしか操作ができない方が。だから、メールなんてもってのほかという方もいて。それで
パールonInstagram:"10/31(木)③宮沢和史さんの写真展を観て、ワーズカフェ(wordscafe.さんでカツカレーを食べたけど、南森町に来たら外せないものへと向かいました。中村屋さんのコロッケ✨程よいくらいの列に並んで購入。その場で食べるの2個、持ち帰り父と母の分2個。いつも観ているごぶごぶステッカー増えましたね✨甘くて美味しいです💕断食DAYじゃなかったら夜ご飯の分もかってたかもですね笑お出かけするところがあ…0likes,0com
どうすれば、漫画を描けるのだろうか…。(もう恋はどうでもいいような←ようなね。気がしてきました)なんか描きたいのね。でも、なんかベッドに接着剤、はっついているんじゃないか、と思うぐらい、ベッドから、出れないの!わかってる…わかってます。父と母が、いい顔しないからですよ…。なんか伝わるよくわかんないこの悪意…。「あはは〜私描いてる漫画ってさ、絶対、◯◯だって言われるよね!!」←わたし。それをさ、いちいちほんとに考えないでほしいのね。まあ、ブログは、まあまあだけど、漫画って、自己表
父のオススメお豆腐屋さんのランチ。父と母と私の3人で食事なんて何年?いや何十年ぶり?ですよ。父は、道があればどこまでも歩いて散策する!ということで、数回入ったことがあるというオススメのお店でした。私は、カニクリームコロッケ定食。衣がちょっとかわっていました。カニみそつけて頂きます。軽いものが良いといっていたのにしっかり天ぷら定食の母。父は揚げ出し豆腐ランチ。熱々でとても美味しく、次来たらこれを食べたい!と思っています親子水入らずの時間はあっという間。両親の家に戻り、両親の
奥四万湖✨四万ブルー✨綺麗✨✨紅葉も綺麗で✨✨お天気だけど、雪降って❄️めちゃくちゃ寒かった❄️四万の甌穴郡✨✨四万温泉って、のんびり癒されますよね✨✨帰り道、気になったきのこ茶屋でランチ🎶久しぶりに厚焼きたまご買ってたまご9個分の厚焼きたまご✨✨父と母と3人でのんびり癒されました✨✨レッスンお休み頂き、ありがとうございました🙏✨
今月、父が喜寿を迎えましたそして、父と母の結婚50年金婚式のお祝いでした。きっと山あり谷ありの結婚生活だったと思いますが、なんだかんだ、一緒にいてくれて、私は幸せですありがとう(↑喜寿のときは紫のちゃんちゃんこらしい)
まいたけの父と母は19歳の時に職場恋愛で付き合い始め、21歳で結婚している。イメージとしては、、、父が小林稔侍さん、母が藤圭子さんに似てるって言われていた。38歳で私が産まれ、そこから真面目に仕事をし始めたと母が言っていたのを覚えている。父は所謂、亭主関白ってやつで仕事しかしない。母は文句を言うことはあっても、結局は献身的に父を支えていたと思う。父は私が物心着いた時には既に糖尿病を患っており、自分でインスリンの注射をしていたが、それ以外は至って普通。食べ物も制限している様子はなかった。
徐々にと書いていますが、本当に周りの人にわからない徐々にだったんだと思います。同じことの繰り返し、しかし、私たちも考えてみれば同じ話をすることがあります。わかって話しているからよいのだと思いますが、父の場合は、思い出したように何度も同じ話をするんです。認知症の最初のころは、同じ話が繰り返すとありますが、前に来た時もそんな話をしていたよ。とよく言ったものです。母の場合は、同じ話をするんですが、その同じ話が徐々に変わっていったんです。話が加わるというとのか、元の話とは、少しずつ話が変わ
母の最期は、特養の中でのことでした。父は、隣の部屋にいましたが、母のところに入り込み、ちょっと目を離すと母のところに行っていた父。でも、母が老衰となり、調子が悪いということがわからない父となっていました。だから、職員さんたちは、母を休ませたいために父を離す。しかし、記憶の短い父は、そんなことは覚えていられない。あっという間に母のところへ。困った父だったんです。そして、母も亡くなる日も食べ物は、食べられなくなっていたのですが、水分だけ取っていたのでトイレには、職員さんが付いていき
セブンイレブンで乃木坂のキャンペーンをしてたので、揚げ物買ってみました家族分「ななチキ」3つ買いました。プラスサンドイッチ買いました。父と母はおにぎり。ななチキ開けたところおいしかった。父と母の評判も良かった。キャンペーン応募用のシリアルナンバー2口もらったのでかっきーのネックストラップに応募しました。当たるといいなまた買いたいです
父と母とお疲れ様会♨️いい湯でした💓高岡市陽だまりの湯
ルージュ・ロワイヤルphotobyしゃけくまハイビスカスphotobyしゃけくま引き出しの中を整理していたら、未使用のテレフォンカードが20枚ほど見つかった。その存在すら忘れていたけれど、一枚一枚なんとなく見覚えがある。これは亡くなった父と母が元気だったころ、旅行に行ったときに買ってきてくれたもの、これは娘が旅行に行ったときに買ってきてくれたもの、これは夫と旅行に行ったときに記念に買ったもの、次々に思い出が浮かんでくる。テレカは売れるらしいけれど、思い出を売るよう
父は、自分の記憶が短くなっていることに初期のうちはわかっていたようです。いつも行く内科の先生には、あとでわかったのですが、相談をしていたようで薬も出してもらっていたということがわかりました。このことを知ったのは、私が病院へ一緒に行くようになってから少し経ってからのことでした。ただ、母には、その話をしていなかったようで父が記憶が短くなってきたことを気が付いていなかった母でした。だから、最後まで母は、父が認知症だということを認めず。母自身が認知症になってからは、自覚がない認知症でした。
会社の名前が出てきますが過去随分前のことなのでスルーしてくださいませ私は部長として相談しながら決済をしていたのではあったが全部自分の責任と考えていたから潔く退社した。そのような事件の少し前になるが36年四月双子の美しい子供がᏦ子Ꭲ子が生まれ喜びの方も倍になったような時も家内の実家にえらい世話になったものである私が生まれた当時父は会社を退職してたのということでしばらく母の実家へ居候生活だったようですその後仕事を転々としながらも最後には部長や支店長取締役部長な