ブログ記事13,788件
気持ちが広がる動画ですクリックして頂けましたら聴いて頂けます君の知らぬうちに力はついてwww.youtube.com私の場合は30歳からウソのように伸びましたね何がってそのころは物流の仕事とか家業の農業を休みのときは農業をしてましたから考えはまだまだなかったしわからないことばかりやって自分自身の道徳的な思いだけで両方をやってましたね両方ぐらいならまだ良かったんですがそこへさまざまな問題が割り込んで来るんですね同時に同時期にではないにせよ物流の
蒼いもの夜ふけの家々をのっそりと蒼いものが通りぬけてゆく。雀の子雀の子がまだ見えぬ目でみている雀の巣の真上を蒼いものが通りぬける雀の子が蒼いものをみつめている。鴉が鳩を殺した鴉が鳩をころした黝い鴉が真白な鳩を、ころした朝まだき純白のむくろから深紅の血がにじんだ。雨のことばを聴くように美しい文字の溢れる詩を雨ふりの夜の雨のことばを聴くように私は読み想いえがくあの言葉たちの切々たる調べをほろ
我が家の枝垂れ桜は8〜9分くらい咲いた。この日は多摩市までお墓参り熱海の家からは車で2時間ちょっと見事な枝垂れ桜芝桜が咲いていてきれい父と母に会えたようで嬉しくて涙出た。緑の桜もあった。花が大好きだった父。花に囲まれたお墓で喜んでるだろう。こんな素敵な場所を見つけてくれた兄夫婦に感謝です。懐かしい乞田川甥っ子を誘い昼ごはんへ牛肉が大好きだというのですき焼き定食😊14時に甥っ子と別れ熱海の家に帰る。小田原過ぎて海が見えるとホッとする父と母に会うこと出来て嬉しかった
母は身体障碍者に優しかった、槍ヶ岳登山の燕山荘でアルプス銀座のポスタ―を二つ買ってきたら(知人の長男にあげなさい)と言われたのでそうした。17年後(返してほしい)と父母に言ったら父は(彼はもう持っていない)と言ったので驚いた
認知症とわかった時の記憶時間は、二人とも1時間以上の時でした。父の場合は、記憶時間というよりも変な行動が多くなったことでした。それで、周りの人におかしいねと言われるようになりました。でもね。その時、母は、まったくその言葉を信じようとしませんでした。まあ、亡くなる最後まで父は、認知症だとは、信じていなかったのですが。おかしいとは感じてはいたようですが、認知症イコール痴呆症と信じていた母だったので認知症だとは思わなかったようです。まあ、話しても聞き入れない母でしたが。記憶時間の短くなっ
父と母のマイナンバーカードがやっと届いたというかいつ届いていたのか。。。封も開かずそのまんまお手紙保管場所へ父と母。。。お役所からのお手紙その他のお手紙も基本見ないのでお恥ずかしい話何かの納付書が来ちょっても基本スルーやき、お手紙が届いたらここへ貯めちょってって言うちょいて時々私が来て確認するシステムという訳でマイナンバーカードが届いても分かってないマイナンバーカード来たら確定申告するき教えてよと言うちょったけど私の言うたこともスルーまぁ別に私はか
郵便物ですが、まだ、来るんです。もう、実家は住んでいないし、誰もいない家。それなのに郵便物が来るんです。それが、解約したお店のものが。一度解約しているのですから、もう、電話はしないとは決めていますが。ほとんど、お手紙も来なくなっていますが、それでも住所があると通販の手紙が送られてきています。後、父の行っていた会社の会報がまだ、来ています。これも手続きをするのが大変だったにも関わらず、まだ、来ているんです。なぜ、来るのか?ちゃんと手続きをし、それも1週間のある時間にしか電話が
生きている間に見つからなかったものとありましたが、これらのものは、亡くなってからも見つかりませんでした。まあ、通帳は、わんさか出てきたのですが(笑い)。通帳が無くなったと言っては作りを繰り返していたんだと思いますが。しかし、置いた場所、しまった場所を忘れてしまうというのは、よくあることですが、年をとるともっと忘れるのです。でも、父にとっては、他人にはわからない所にしまうということが頭にあったんだと思います。考えたら、父が生きていた時、布団の間から、母が通帳を出してきたことがあります
父と母がやっと入所しました部屋の入口には自分の部屋がわかりやすいよう防火のれんをかけることになっています同じのれんを掛けている人がいたので間違わないようひまわりを目印に🌻🌻父の部屋の入口母の部屋の入口お互いの部屋は食堂を挟んで離れているので遠くから見ても分かるようにママが工夫してくれました🌻父の部屋母の部屋何だかんだとありましたがどうか楽しく余生を過ごしてほしいものです施設へ持って行く物はママが全て準備してくれました🙇自分はお金に関することや諸々の変更手続きなど(まだ
じくさんは、どうしても、私の両親が、自分のことをどう思っているのかが、気になるらしい「まるちゃんのご両親は、僕のことどう思っているのかな」とか「こんな年寄りと、もう会っちゃだめよ、とか言われてない」とか何かにつけて、聞いてきます(笑)私はいい年ですが、今は、家の事情(祖母の介護の手伝いなのですが・・・)で、実家に居候の身なのでじくさんとデイトの時は、毎回、伝えています。(高校生みたい・・・。でも、お化粧して、きれいな格好しているので、言わなくても100%わかるはず)
母が調子が悪い時の父の対処が本当に難しかったです。家にいたときもやはり、同じ。父は、母が調子が悪いことはわかるのですが、本来ならばそっとしておいてあげた方がよいことがわからないんです。何度も何度も、大丈夫かと。それも5分も経たないうちに何度も大丈夫かと言われ、何か食べたいものがあるのかと言われ、熱を測った方がよいかとか、なんで寝ているんだなんてこともいろいろなことを言われても普通ならば、寝かせておいた方が一番と私たちは思うのですが、父は、そんなことはできなかったんです。心配すること
生活にお金は必要です。***例えその時何かの犠牲になったとしても、その犠牲になることを選んだのは自分なのです。相手には、それがあなたの本心なのだと伝わっています。それを相手に理解して欲しい。と言うのは甘えです。己の気持ちを察して欲しいだけ。伝える努力を怠ったのです。言っても伝わらないのなら、「やらない」と言う選択ができます。まぁ、それでは社会が回らないこともあります。現実にはそうせざるを得ない状況もあります。だけどあなたは、「個人的な問題を誰かのせいでそう
んは!皆様こんばんは。父と母と旦那さんといつものスナックへ来てます。いつものチューハイ!ママのだし巻き玉子。めちゃうま!!手羽先もー。^^楽しみます👍
今日からゴールデンウィーク??なんてことでしょう予定はあっても、遊びの予定は1つもない。まー、ゆっくりするかなさて、4月22日月曜日はパートを休みF大学病院での母の診察に付き添ったのですが診断結果は大した事なくてお薬なしの経過観察で済みました!しかし、大学病院は待たされますね〜お腹ペコペコですランチは近くのお米屋さんのレストラン🍽️でいただきましたせっかく平日に実家に行ったので、母のケアマネさんに会いたいなと思い連絡を取りました。4時半からなら時間がとれると言わ
気持ちが広がる動画ですクリックして頂きますと聴いて頂けます道は開けましたかwww.youtube.com10代はそらわからないまま過ぎましたねあっと言う間だった半世紀ですか時は流れますね65歳までわからないままわからないことをどのようにしたら良いだろうかと考えてましたね自分も含めて家族父母にも近所仕事多方面にわたりいろいろな問題が持ち上がってましたから気分的には良い気はしなかったんですが経験を重ねました今思いますよいろいろな問題というものは私
母が一人暮らしになり、父のいない生活。ただ、私たちにとっては、すごく楽になりました。実家へ行っても父のパニックの世話というのか、その対処をしなくてよくなったからです。しかし、母は、忘れることが多くなり、実家に行っても母がいないことが。これが一番困りました。後で帰ってくるのですが、それでもどこに行ったのかわからないんです。だから、朝、電話をかけてから行くようにしました。それでもちょっと買いものに出ていたと話したり、全く忘れて友達の所へ何かを渡しに行ったりもありました。それと、私が
「いいね!」やランキングバナーのクリックありがとうございます。大変励みになります闘病まんがを書いています。(3/5に無事退院しました)一話目は…こちらから前回は、生命保険を使わせてもらおうとした話と…現在、生命保険を見直したことを少し書きましたが今回から少し暗めの内容で親との関係を書きます。「もう書いてもいいかな」と決意が付いたので書きます。暗い話です。ごめんなさいねこんなこと書いてるけど両親のこと嫌いじゃないです。ただ、家から離
父と母に1台の携帯電話を持たせていました。というよりも何かあった場合のために。持たせたのは、認知症になる前。でもね。これが使えなかったんです。その頃は、ガラケーだったのですが、父と母に何度教えても電話の使い方を覚えてくれない。電話をかけるときも電話番号を押して入れてやっとかけられるという状態だったんです。母は、器械関係がダメ。父は、もう、このころには、認知症が始まっていたのかもしれません。認知症は、徐々に来るもの。それでも母は、携帯を持っていることで何か安心感は、あったのだと思い
✨私の両親の事父は板前で若い頃から転々と修行をして、その時に母と出会い結婚👨💗👩2人の子供も生まれ、最終的に今の場所で自分達の店を持ちました👨🍳父と母の頑張りで店(居酒屋)は地元に愛される店として繁盛していきました🍻私も何年かの修行を行い、地元に帰って父の手伝いをして自然な流れで2代目として今に至ります🙂現在、父と母は仲良く色んな所に旅行したりして楽しい余生を過ごしています🚗³₃が、こんな状況になって本当に心配かけてゴメン!🙏🏻父母共に私の治療が4時間以上かかるのに、毎回付き添っ
あれこれ、Kさんに聞いた後しばらく、近所の公園で1人になりました。なんというか、情けないの一言。自分の行いで、傷つく人がいる事を想像できない。理性が働かない。自制心が壊れている。…とりあえず、父親とか、男とか関係なく、人としてアウト。道徳の授業、一からやり直せ。→もう手遅れか。元々夫は、出会い系が好きだ。SNSも好きだ。過去にその事で何度か喧嘩もした。それこそ、浮気した事もあり、一番最初にされた時は本当に辛くて、悲しくて泣いた事もあった。でも、夫はずっとやめなかった。
父母たちの部屋は、何度か移動がありましたが、その中で楽しく過ごしていたようです。父と母が一緒の特養に入れた事は本当にありがたかったんです。特養の場合、要介護3以上でなければ特養には入れないのですが、母が入院して要介護3がとれたことによって一緒の施設に入る事ができました。そして、母も父と一緒の場所に入れるとのこともあり、それまで家に帰りたいと何度も言っていたのですが、母も同じ場所となったことでその願望は、抑えられていったように感じました。まあ、時々、変な言動は、ありましたが。それが、ここ
昨日も書きましたが、本人たちの自覚は、まったくありませんでした。友人の親も認知症となり、こちらは、すぐにいなくなってしまってどこかへ出かけてしまうという話を聞き、何回か警察のお世話になった話を聞いたことがあります。家の両親は、特養に入る前までそれはなかったのですが。どこかへ行ってしまう親を捜すというのは、本当に大変なことだったようです。それで、やはり、家で見ていることができず、有料老人ホームへ入所した方がいます。何しろいなくなるのは、あっという間。だから、日常も目が離せなかったと言っ
夫、来たみたいです。14時少し前に…バレる前と変わらない時間に。女の部屋から来て、自分の部屋に女を置いて。また、どうせいつものパターン。今日も夜には女の待つ自分の部屋に、、気持ち悪い。私は今銀座に来ています。私が生まれ育った街父と母と暮らした街ここで生き返るために…大きく深呼吸あんな奴らのことは気にしない気にしない自分になるのんのmyPickオイシックス・ラ・大地株式会社Oisix(オイシックス)食材宅配おためしセット株式会社CrunchStyleときめき
昼夜逆転の父。人間、夜中は寝るという風になっていますが、父は、夜中になぜか、起きていろいろなことをしていたことは、何度も書いてきました。これが困った行動につながっていくのです。みんなが寝静まっている夜中、起きてものを捜すというのが一番多かったんだと思います。だから、特養の中でも夜中に眼鏡を落としたり、飾ってあった額を登って取ったりと。ですので父の部屋には、起き上がると危ないので夜中は、センサーがおいてありました。それでもこのセンサーもベットの前に置いてあるのですが、センサーをベッ
認知症の人達は、自分たちが認知症だと思っていることが少ないということです。まあ、特に高齢者は、そう思っているのだと。自分たちが認知症と認めることもしないし、自分たちは、普通の人間だから、認知症になんかかかっていないということなんです。周りから見るとおかしいと感じるのですが、本人達には、まったくその意識はないのでそれが色々なことを引き起こす原因になっていくのだと。父は、病院が好きだったので一緒に病院へ行くのは、楽しみにしていました。しかし、母は、病院が大っ嫌い。認知症の診断をしてもらった
僕たちはみな母のお腹から生まれ出てくる。そのことに誰一人の例外もない。この世に生まれた人の数だけ母は存在していて、この先どんなに科学が発達したとしても、これは未来永劫変わらないと思う。父と母がいて僕は生まれた。その父と母にも当然両親がいて、そのまた父と母にも・・・・とさかのぼると、たった30世代の昔には10億人もの父と母があったことになる。僕だけでなく今を生きる全ての人が同じで、そんなことに思いをめぐらすと、圧倒的な数字に理解が追い付かずめまいがしてしまう。僕らは今
私の両親と同居するために私たち夫婦と父と母ダブル引っ越しで転居してもうすぐ4年一昨年の12月父は他界しました10年ほど前から心臓のペースメーカーでの生活だった父新しい何もない庭から毎日のようにお庭づくりネット通販で小石や砂を買って苗から育てた花を植え3年かかって素敵なお庭が出来上がりました^^もう花を植えるとこないなぁと話していた冬自宅でこけて肋骨が折れて心臓にも負担がかかったのか10日ほどして亡くなりましたそして今朝父と母が22年飼
今年は、辰年🐲生きていれば48歳だった妹私が小学校2年生の時に生まれた8歳違いだった生まれた時から、心臓が悪く入退院の繰り返しでした6歳で旅立った妹生まれた時から長くは生きられないと言われ続け、6年生きただけでも、奇跡だったらしい娘を亡くした父と母の心情は…いまだ、聞いたことはない私が肺がんになったことは、父と母には、言ってない当然、入院してることさえ知らない今朝も母からメールがあったいつもとかわりない内容のメール入院した日は、めずらしく電話がかかってきた母親と言うの
お互いに介護する年齢になった時老々介護が厳しくなり周りにホームに入れたらどうかと提案され最後まで自分で看るかホームに入れるか最終決断で悩んだ時こそ復讐のチャンス!この不倫の代償として罪悪感なく「ホームに入ってもらおう!」という決断をしよう☆自分では動けない父の介護を様々なサービスや地域の方のご支援で母はしている近くに住む妹が毎日通勤途中に見に行くけれど老々介護だ(母と父は2歳差)母は疲れた時「老人ホームに入ってもらおうか」と言うこと
昨日、言葉の暴力の話を書きましたが、これが、ひどくなっていくと手が出てくるんです。始めのうちは、物に当たっているのですが、母がなだめようとすると余計ひどくなると書きましたが、その上を行くときがあり、余計に興奮して手が出てくるんです。すると母も手が出てきて、二人のケンカは、本当に大変でした。そして、母は、最後には泣き出して、私の家に電話。大抵、家にいる私。だから、この電話で父に電話を変わってもらい、興奮している父の話を別な話へ。それが、夜中に起こると大変。泣きながらの母の電話が夜・夜中