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南無阿弥陀佛をいっぱい唱えたら、極楽浄土に行けるかなぁ。阿弥陀様はお迎えに来てくださるかなぁ。現世でよく見ておきましょう。法然と熊谷直実との交流を知り、これから『熊谷陣屋』を観る時の気持ちが少し変わりそうです。立体涅槃群像を、ぜひ香川の法然寺で拝見したいものです。とりあえず今は、我が家のお風呂を極楽にして楽しみます。(エコバッグを下のロッカーに預けていたので、まるでこれからお風呂屋さんに向かうかのように、黄色い桶とタオルを持ってエスカレーターを降りました。)
先日、友人と須磨寺~須磨浦公園を散策してきました。一度訪ねてみたいと思いつつ、なかなか行けなかった須磨寺へ。源平合戦で有名な須磨。須磨寺の正式名称を上野山(じょうやさん)福祥寺。仁和2年(886年)に聞鏡上人が勅命により開山。聖観世音菩薩をご本尊として奉祀したのが始まりとか。山陽電車・須磨寺駅を降りて、商店街をまっすぐに山側へ向かうと石畳の向こうに山門が見えてきました。朱塗りの橋は龍華橋。橋の手前には、左に塔頭の一つ・正覚院(愛染明王)、右にはアジアの神々の石像が
神戸の須磨寺に行きました。平敦盛と熊谷直実の像の桜も咲いていました。心地よい日です。
呼ばれたとしか思えないできごと一の谷の合戦の日に一の谷へ行くいつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!元々、今年行く予定でいましたが、5月くらいを予定していました。しかし、昨日いきなり、そういえば一の谷の合戦って旧暦で2月7日だったけど、今年だといつになるのかと思い、調べたら16日!(◎_◎;)でした。これは行った方がよいというか、もう呼ばれたとしか思えないと思い、行きまし
真正極楽寺(真如堂)から移動して。金戒光明寺の北門。再訪です。くろ谷さんの塔頭顕岑院。塔頭栄摂院,金戒光明寺(くろ谷さん)の手水舎。御影堂(本堂)。大殿(だいでん)とも言う。法然75歳時の肖像(坐像)を安置。1934年(昭和9年)、火災により焼失。1944年(昭和19年)に再建。中山文殊と吉備観音を安置。誠新撰組土地の人はこの寺もことを「黒谷(くろだに)さん」と呼んでいる。この黒谷という名は、法然の師匠叡空の里坊がここにあったので、叡空の比叡山延暦寺西塔の青龍寺がある黒谷にち
京都文殊第一番札所である金戒光明寺。三重塔は永らく文殊塔と呼ばれています。塔本尊である文殊菩薩半跏像は、もとは中山宝幢寺の本尊でした。応仁の乱(1467-77)により中山宝幢寺は廃寺。近隣の小堂より金戒光明寺に遷され・・・・1633年(寛永10年)方丈に安置後、三重塔に遷座。2008年(平成20年)中山文殊菩薩を御影堂に遷座。■蓮池院金戒光明寺塔頭。熊谷堂。1192年(建久3年)熊谷直実(1142-1207)出家。当地蓮池院の前進、蒲生庵にて庵を結ぶ。1
鯖大師に向かって左に蓮生院(れんしょういん、本尊は不動明王)。--------------------------塔頭三院の一つで、「蓮生」とは熊谷直実が「蓮生坊」と名乗ったことに由来する。直実は一の谷の合戦で戦死した平敦盛菩提の為、法然上人のもとで修行し、諸国行脚の途中、須磨を訪れたといわれている。大正五年、花火大会の飛火のため出火焼失したが、昭和九年不動明王を本尊として現在地に再建、成田山不動明王分霊も奉祀し不動明王信仰の中心となっている。
〝人間五十年下天のうちを比ぶれば夢幻の如く也一度生を受け滅せぬもののあるべきか〟織田信長が桶狭間の戦いの際、一差(ひとさし)舞って出陣したことで有名な、幸若舞(こうわかまい=室町時代に流行した曲舞の一種)のひとつ、『敦盛』の一節。〝下天〟とは天界の中で最下位の世でありながら、その一昼夜は人間界の50年に当たるとされることから、「人の世の50年は下天の1日にしか当たらぬ(一瞬のこと)。この世に生まれた者には必ず死が訪れる。」と、人生の儚さを詠
須磨寺は、山陽電鉄:須磨寺駅から来たへ500mのところにあります。駅を出ると参道で、真っ直ぐ歩くと到着です。住所:兵庫県神戸市須磨区須磨寺町4-6-8参道の右に亜細亜万神殿があります。アジア各地で蒐集した神仏の石像が多数祀られています。その一部。ストゥーパ、これが日本に渡って、卒塔婆になりました。三重塔や五重塔も、元は卒塔婆で、ストゥーパです。上から見た砂曼荼羅の全景(の写真)展示されている仏像
昨日に引き続き、能に関連する記事です。「能」と言うと、世間一般で一番広く認知されているのは「織田信長の『敦盛』」と言えるでしょう。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を受け、滅せぬもののあるべきか」と桶狭間の合戦の前や、本能寺の変の自害直前に舞う姿は映像作品などで観たことがある方も多いでしょう。私も、「信長の野望」や歴史小説などを読む中で、中学生の頃には「能」と認識して、『敦盛』の一節をそらんじられるようになり
さてさて………………【須磨寺(すまでら)】兵庫県神戸市須磨区須磨寺4丁目6−8我々はいよいよ、その場所に辿り着いた……………【敦盛首塚】【平敦盛(たいらのあつもり)】平安時代末期の武将平清盛の弟経盛の末子。階位は従五位下。官職にもついておらず、「無官大夫」と称された。笛の名手であり、祖父平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝(または青葉)』という笛を譲り受ける。【胴塚】は、一ノ谷(須磨浦公園)にあるという敦盛を討った熊谷直実は、この一件を境に出家の志が一段と強くなったと語られる。
さてさて…………………日本100名城のひとつである【明石城】を出発した我々は、この日最後となる目的地に到着した…………到着したのは…………………【須磨寺(すまでら)】兵庫県神戸市須磨区須磨寺4丁目6−8正式名称は【福祥寺】。新西国三十三箇所第24番札所。「須磨寺略歴縁起」によると平安時代の初め、漁師が和田岬の沖で聖観音像を引き上げた。その聖観音像を安置するために淳和天皇の勅命によって『恵偈山北峰寺』が建立された。そして仁和2年(886年)に光孝天皇の勅命によって聞鏡上人が上野山【
吉田の風景東行庵の背後にある山から撮影。下の建物は吉田緑保育園。正面の小山には奇兵隊堂ノ尾募地跡がある。〈吉田·昭和30年代·提供=東行庵〉(下関市の昭和より)(彦島のけしきより)注奇兵隊堂尾ノ墓地跡の裏には、法然聖人の弟子でもある熊谷直実の直系子孫の墓がある(参考)。参考①下関市吉田を見下ろす下関市吉田グーグルアース(3D、北北西を見下ろす)②東行庵あたりの今昔最近1975年(昭和50年)1963年(昭和38年)
うずしおクルーズは淡路島の南端にある福良港から鳴門海峡に向けて出航します。鳴門海峡に面しながら奥に入り込んでいるため天然の良港として知られているそうです。この入り込んだ湾内に2つの島があります。そのうち岸壁から約150メートルほど沖にお椀を伏せたような形の小島があります。これが煙島です。画像はお借りしました。手の届きそうなほど近くにある島ですが定期的に通う船もなくそれどころか上陸のためには許可が必要となります。むしろ古来より立ち入りが非常に制限された禁足地であると言
「百寺巡礼」の第148番は須磨寺です。須磨寺は神戸市須磨区にある真言宗須磨寺派の大本山で、正式な寺名は福祥寺です。寺伝によれば、886年に光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が現在の地に福祥寺を建立したと伝えられ、本尊・聖観世音は1169年に源頼政が安置したとされます。源頼政は平安末期に平清盛の下で源氏の長老として中央政界に留まり、清和源氏としては初めて従三位に叙せられました。この境内には敦盛首塚や義経腰掛の松などがあり、源平ゆかりの古刹と
御辰稲荷神社から真如堂を経て紫雲山金戒光明寺当日は栄摂院→真如堂から金戒光明寺に入りましたから画像は時系列的には逆になります。けっこうな時間、真如堂や金戒光明寺御影堂で雨宿りしていましたから、高麗門(総門)に来た時は晴れていました😊。山門最近、真如堂から吉田神社、哲学の道コースを採ったせいか久しぶりの拝観。万延元年(1860)再建の山門。「浄土真宗最初門」の勅額は後小松天皇の宸翰。左手に鐘楼納骨堂(経蔵)元禄
寂光院のあとは近くの三千院へ。苔に覆われた庭のところどころにわらべ地蔵さんが置かれています。それぞれ表情が違っていて、見つけるたびにほっこり。川沿いにもわらべ地蔵さんが。わらべ地蔵さん自体は置かれたのは平成になってからだそうです。熊谷直実腰掛け石。出家した後の熊谷直実が、師である法然上人が他宗派の僧と問答しているのを腰掛けて聞いた場所。師が問答で負けたら相手を切り捨ててやろうと隠し持っていたナタ🪓を師に咎められて捨てた薮。そりゃ咎めますよね・・。と言いますか、熊谷直実、敦盛の件で
秀山祭三月大歌舞伎平成二十四年(2012年)三月二十七日南座公演中村歌昇改め三代目中村又五郎襲名披露中村種太郎改め四代目中村歌昇襲名披露昼の部『元禄忠臣蔵御浜御殿綱豊卿』『猩々』『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」『元禄忠臣蔵御浜御殿綱豊卿』真山青果作真山美保演出徳川綱豊片岡愛之助富森助右衛門中村錦之助中臈お喜劇世中村壱太郎御祐筆江島中村芝雀『猩々』猩々中村翫雀猩々中村歌昇『
祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり娑羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらはす平敦盛VS熊谷直実「平家物語・敦盛の最後」さてさて、無常観を感じに須磨寺に行ってきました。「敵に後ろを見せるは卑怯なり、返せ、返せ」と直実が敦盛に呼びかけてる場面ですね↑いや~、この局面、私ならガン無視して逃げてますよ(・ω・`)彡プィで、誕生寺に行ったとき、熊谷直実の鉦があってびっくり。えー、そうなんだ!?Σ(゚Д゚)
信長が愛し歌った幸若舞の『敦盛』について疑問があったので『幸若舞3』を読みました。敦盛は、16歳で討ち死にしていますが、、、なぜ、人間五十年・・・幸若舞3本書について本書は、幸若舞の作品として、以下の4つが所収されています。①烏帽子折(義経が元服して盗賊を退治)②敦盛(平敦盛と熊谷直実の一の谷の悲劇)③和田酒盛(和田義盛がのちに仇討ちを行う曽我兄弟の所で酒盛りする話)④夜討曾我(有名な曾我兄弟の仇討ち)私がこれを読もうと思ったのは、織田信長が、桶狭間の戦いの前などで好
先日の帝国ホテルでのアフタヌーンティー特別講座にて受講者の方に色々とお土産を頂きました。広島からの受講者の方から青森は八戸の地酒「陸奥八仙」何故広島の人が青森??な理由は、直前に青森旅行に行かれていたから。ソムリエであり、日本酒の専門家でもある受講者さんセレクトのお酒ですので楽しみです。こちらは熊谷の受講者の方からの熊谷の地酒「直実」日本史に詳しい人は直ぐに分かると思います。平家物語に登場する「熊谷直実」がその銘の由来。能でも舞わ
“ある方”からのスピリチュアル系の仕事の案件ー“いろんな企業の方々が有志で集まり...、この世の中を良くしていこう・・・”といった案件について、話を聴く機会を得た...。その内容についてはここでは語れないが、話を伺っている時に...突如、ある啓示がやってきた。その“ある方”の過去世...が。この方は...、あの「平敦盛」の首を切った“熊谷直実”だった。(詳細は、【神さまの導き_0069】龍神様との縁(過去世:源義経)※part24)鎌倉時代...一ノ谷の戦いで
美作国は久米郡にある誕生寺に行ってきました。近頃ちょいと仏教にはまっちゃって。死生観というんですか?前にそんな夢みたら仏教がめちゃくちゃそんなこと説いてるやん\(◎o◎)/!「浄土仏教」ですよ。ということで法然上人に会いに行く気分で誕生寺に行ってみました。ほーほーここが法然上人誕生、そして旅立ちの地か。といっても自分とこの墓と寺からけっこう近い。本殿から続く建物の中歩いてるとたまたま通りかかった愛想のいい
『旧中山道』と『八木橋』と熊谷でご縁を頂いたお店😁👌9/2(土)11時の気温は31.4℃その後絶対38℃位まで上がってるよ🌞💦9月に入ったばかりなのに…既に10/31ハロウィーン向け~🎃祭衣装:江戸一売っているお店見付けて~濃口購入👛Kさんは手ぬぐいを🎶お揃いです😄👌熊谷直実さん(平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。主君:源頼朝)ありがとうございました❤️2023.9/2(土)再来の『熊谷』『マイ・ダディ』ロケ地巡り🎦とお勧めカフェ巡り☕と熊谷7社参りとetc.🎶満喫&
毎年お世話になっている熊谷市の公民館担当の皆さま今年は中央公民館の講座に加えて直実(なおざね)市民大学の共通学習にて「断捨離®」を取り上げていただきましたこんにちはやましたひでこ公認断捨離®トレーナー&リヒト管理人の新井みづゑですプロフィール大学の名前となっている直実(なおざね)とは熊谷市を本拠地とした平安時代末期から鎌倉時代初期の武将熊谷直実(くまがいなおざね)に由来しています会場のある熊谷市中央公
熊谷幸安寺のクマガイソウH11,4,20クマガイソウの自生地があるというので出掛ける。熊谷の幸安寺という花の寺だ。本堂の裏の方に回るとクマガイソウは咲いていた。面白い形をしている。提灯を下げているようだ。クマガイソウの名はあの提灯のような丸い物が熊谷直実という武将の背負っていた母衣(ホロ)に似ているからその名が付いたという。名のつけ方にもいろいろあるようだ。葉も面白い形をしている。さっそくスケッチしてみる。
松尾芭蕉は「笈の小文」の旅で須磨を訪れていますが、一の谷の戦いでの平敦盛と熊谷直実の話に涙しています。札花はそろそろ開花期をむかえるアツモリソウですが、野生種は乱獲のため数を減らしており、採集すると罰金・懲役に処せられます。とは言え人工栽培も進んでおり、園芸は可能です。ちなみに同じアツモリソウ属には源氏方のクマガイソウもあります。
クマガイソウ花の名前の由来が源平合戦の「熊谷直実」の背中に背負った母衣の形から名付けられたといわれていて、アツモリソウの仲間のようです。熊谷直実は現在の埼玉県熊谷市に本拠を置いた武将ですが当初は平家方についていて、その後源頼朝の御家人として活躍した人物ですね。葉は扇形の形状の葉が2枚対にになっていて、花は薄緑色の部分で5枚の楕円形の形状をしています。特徴的な袋状の唇弁は左右から閉じるような形状になっていて、白地に紫褐色の模様がついています。ユニークな形状ですね。
中山道歩き旅、埼玉県熊谷市の熊谷桜堤で桜と菜の花のコラボを楽しんでいます(2023年4月1日に歩きました)。動画もどうぞ。いやあ、本当に良い時期に訪れたなあ。この動画では桜の花びらが舞い散る様子をどうぞ。思わず動画内で「うわ~」と言ってしまうほどきれいでした。しばし桜と菜の花を楽しんだ後は
松川町水原地区のクマガイソウ群生地、日本最大級とされる約3万5000株が自生しています。群生地への入り口から約500メートル登ると、斜面一面に広がるクマガイソウが迎えてくれます。杉林の中、クマがいそうな樹林帯ですが、足元には森の妖精たちの群舞が繰り広げられています。野生のクマガイソウが咲いているのを見つけた地元の人たちが、当初は自分たちだけで大事にしてきたのですが、貴重な群生地を守るために、水原の自然を守る会が発足し、行政の指導や後押しもあって、「クマガイソウの里まつり