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ココロとカラダの心地よいめぐり~知ることは癒しの始まり~🏠福岡養生気功教室ホームページご案内はこちら↓無極椿はもしかしたら最強かもしれないこれに正しい型はないただ好きなように立つ心もコントロールしないそのまんま動かず立つだけただ内から湧いてくるように動きが生じることもある自発動というリラックスすればするほど内気は活発に動く今日は特に凄かったなみんな咳したりクシャミしたり涙が出たりこれは内気が動いた証自分の内気が巡ったらどうなるか?を
【ブッダの真の悟り、解脱を体現したい方のための専門指導】中村幸ムとは!?簡単なプロフィール、数十秒でわかります。中村幸ム【RealBuddha】【ブッダの真の悟り、解脱を体現したい方のための専門指導】世間にはびこる偽物の悟り、覚者達から離れ、自己の真相を体現したい方の場世間に出回っていないブッダの本物の悟り、真の解脱を体現して自分自身を救い、真の自由そのものとして生きるrqjws.hp.peraichi.com世間にはびこる偽物の悟り、覚者達から離れ、自己の真相を体現したい
【ブッダの真の悟り、解脱を体現したい方のための専門指導】中村幸ムとは!?簡単なプロフィール、数十秒でわかります。悟りの実践の指導をしている者で、自分と向き合って気づきや智慧、何かしらの理想的なものを得ようとやっている指導者は、ブッダが指し示した本物の悟りではない。180度真逆であり、その向き合って都合の良いものを求め得ようとしている実体なき観念そのものが消滅すべき自己なのである。悟りに一定の無我の境地だとか、悟りの状態などは
皆様、こんにちは。陶芸家の馬場泰嘉です。今日は私が日々の制作の中で大切にしている「無心」の哲学についてお話ししたいと思います。私が轆轤の前に座ると、時間の感覚が薄れていきます。土を掌で感じながら形を整えていくその瞬間、心は何も考えず、ただ土の声に耳を傾けることに集中します。この「無心」の状態こそが、私の創作活動の核と言えるものです。日本の伝統思想である老荘思想には、「無為自然」という言葉があります。これは、作為をせず自然の流れに従うことで物事が調和を生む、という教えです。轆轤を回すという
3月31日に氣功の『遠隔ヒーリング』を行います。今回は茨木県日立の『御岩神社』にインスパイアされた大宇宙のパワーをうちのオリジナルヒーリングである陰陽調和ヒーリングの手法でお届けします。御岩神社の空人生を変える!明るい未来を手に入れる!新しい自分になる!過去を手放す!恐れを手放す!そのような想いを持っている人宇宙と一つになる!愛と調和の世界に生きる!自然体で生きる!そのような臨場感を高めたい人は是非ご
有田焼の窯元である真右エ門窯が生み出す器には、私!馬場泰嘉が長年培ってきた「自然体」の哲学が込められています。荘子が説く「無為自然」に学び、能楽の幽玄に触れることで得た洞察は、400年にわたる『有田焼の伝統』と見事に融合しています。その結果、日常に静けさと調和をもたらす器を生み出してきました。【真右エ門窯の器に込めた哲学と美】馬場泰嘉が追求するのは、派手な革新ではなく、伝統の技術に自然体の息吹を加え、未来に根付かせることです。【花の光酒杯】ルビーのような鮮やかな輝きは、ただ美しいだけ
ハッキリするのにかかるのは、理に長けた人です。解りたがるからです。このような解ろう、理屈で納めようとするのはビジネスなどの問題解決では、力を発揮出来ますが、お釈迦さんの悟り、解脱と云うものは、いっさい考え方を必要としない、観念知識をいっさい必要としないのです。お釈迦さんの悟り、解脱はこれから知識を学んで、技術を磨いて、上手になって努力して、精進して積み重ねた先
私のところでは平日と週末、週に2回ほど伝統的な氣功のワークや呼吸や瞑想のワークをオンラインでみんなで一緒にやっています。大連のデパートで。クリスマスの時期、とーっても寒いです。「氣」は感じるもの。そして氣功は「身体」で行うものです。だからみんなには自分の身体の感覚と向き合う時間身体に意識を向ける時間をできるだけ沢山作ってほしいと思っています。忙しくてなかなか一緒にワークをする時間がない人も録画動画を使って週に一度は自分でワークをやってもら
こんにちは、ナイチンゲールスバルです。わたしは完全である‼️私たちは、もともと完全な存在なのです。えー😱と思われると思います💦たとえば、赤ちゃんを見て「この子は不完全だ」とは思いませんよね?ただそこに存在しているだけで何の問題もなく「完全」です。私たちも本来、その状態と変わらないのです。でも、成長し社会の中で生きるうちに「こうあるべき」「これが足りない」「もっと成功しなければ」といった条件をつけて、自分を評価し始めます。そして、「まだ完全ではない」
窓の外を見ると、牡丹雪が降っていて東京では珍しい朝を迎えました。こんな日は、体の内側から温まり、気の巡りを整える時間を持ちませんか?本日は、気のトレーニングの2つ目の道家動功術についてご紹介します。生き方が変わる「道家動功術」激動の時代を生き抜いてゆくことのできるしなやかな強さと柔軟さを、動きの中で身につけることができます。護身術ではありますが、健康法でもあり体のくせをとり無為自然な美しい動きが身につきます。また、道家動功術は、生き方を学ぶ稽古で
【老荘思想と引き寄せの法則】私たちは日々、何かを手に入れようと努力し、時には無理をして頑張りすぎてしまうことがあります。しかし、本当に望むものを手に入れるためには、「努力」よりも「流れに身を任せること」が重要だとしたらどうでしょうか?古代中国の老荘思想は、自然の流れに逆らわず、無理なく生きることの大切さを説いています。一方で、引き寄せの法則は、自分の思考や感情が現実を創るといいます。この二つの思想を組み合わせることで、私たちはもっと楽に、望む現実を手に入れることができるのです
【ブッダの真の悟り、解脱を体現したい方のための専門指導】中村幸ムとは!?簡単なプロフィール、数十秒でわかります。釈尊の真の悟り、解脱と右脳はいっさい関係がありません。右脳優位に身体の声を聴くなど、五感や感覚に意識を向けようと、都合良く、創意工夫してやっている実体のない考えそのもの、観念そのものこそが、仏道における消滅すべき自己です。身体の中に右脳を優位にしたり、身体を自在にコントロールできる自分など存在していません。万が
【ブッダの真の悟り、解脱を体現したい方のための専門指導】中村幸ムとは!?簡単なプロフィール、数十秒でわかります。どんなに坐しても仏果に与れない事例として、「この身は誰よりも、宇宙上においてどんな事にも代え難い存在価値があるものだ」そのように意図して思い、何者かになろうとし、存在価値があるとか、存在価値がないとか、自分について考え続け、自分と向き合い問題にし、自分を見つめ続け、坐を通して、都合の良い、ちっぽけで
3月8日(土)昨日の慌ただしさから明けて……未明、背中の猛烈なかゆみであらぬ時間に目覚めた。当該部分をいじると直径1センチ厚さ数ミリくらいの水ぶくれが。さわると結構痛い。これって実は1年半位前からある症状。今回はまた別の場所です。背中は自分で見られないけど複数箇所あるかも知れない。そっち界隈だと『シェー』って言う人もいそうである。まぁ色々ありますわね。大したこっちゃないから放置。かゆいし、触ると痛いけどそのうち忘れる。放置しとくと完全には消えな
【理想の自己】孤高でひとり超然としているいつも笑顔をたやさず焚き火の輝きのように周囲に愛情を振りまいている泰然自若として悠々自適雲烟過眼で閑雲野鶴明鏡止水安心立命の境地に達しているすなわち涅槃寂静の悟りの境地に到達しているそういう人に私はなりたい(参考図書)『老子』(訳者福永光司ちくま学芸文庫)『ゆだねるということ(下)』(著者ディーパック・チョプラ訳者住友進サンマーク文庫)
まだ寒さは残りますが野山には春のいぶきが感じられる昨今私が住む島にも林床にはウグイス🐦が鳴き始めました*:.:♬🌟*ヨモギ¨*•💚Y💚.•*¨*•🍃O🍃.•*¨*•🌿M🌿.•*¨*•🌱O🌱.•*¨*•🍃G🍃.•*¨*•💚I💚.•*って私が子供の頃には擦り傷作った膝小僧の血止草𖡼.𖤣𖥧𖡼.𖤣𖥧⚘の認識でしたけど、それ以上の薬効も素晴らしいようです。特に春の新芽🌱にパワーがあるようです。ほぼ、無料で採取できて薬効があるなんてあなたは、¨*•💚Y💚.•*¨*•🍃O🍃.
「ニュートラルな意識」を持とう。「ニュートラルな意識」とは、「中庸」のことです。「陰」と「陽」のバランスが取れた状態のことです。「ニュートラルな意識」を持つことで、「陰陽の統合」(宇宙の源)の意識と繋がることになります。「あるがままの自分」を受け容れましょう。それが「道」(タオ)と呼ばれる「宇宙の原理」です。あるがままの自分で生きることが「宇宙の道」なのです。これを「無為自然」と言います。「あるがままの自分」とは、「ニュートラルな自分」のことです。「ニュートラルな意識」とは、
あなたはどれくらい「自然」な自分で過ごしていますか?「自然」な自分でいるとは、人生や自分に対して一切の無理や緊張が生じない、あるがままの自分でいるということです。「自然」であるということは自分が100%幸せであることでもあります。心から幸せを感じて生きる自分が、世界に喜びや調和の「氣」を発していくことで、豊かさや愛がどんどん拡大していくという「氣」の使い方をマスターする、そのために氣功を学び、人生に活用していきたいと思いませんか?
因果律。原因と結果。作用と反作用。今の現実を直視して気づくこと。多くの人々が平和を希求し続けているにも関わらず、終わらない戦争。多くの人々が豊かさを希求し続けているにも関わらず、広がる貧困。多くの人々が幸せを希求し続けているにも関わらず、そうならないシステムと世界。すべてが個の期待と真逆です。求めている事と、やってる事が真逆なので、そのような結果となります。求めれば、求めるだけ、反作用が強化されます。無いものねだりに
カルマの解消。。。カルマの法則があると前提でこの法則を捉えた時、私にはどう考えても、すべてのカルマが解消される状態が、一般生活の上で本当に起こりえるのかと疑問が残る。私には実感できない。仙人のように、自分以外の存在との接触をさけることで、なるべく新たなカルマを作り出さないことは可能かもしれないが、それはカルマを解消すると言えるのか。。。仙人は、里の行を極めたうえで、かつすべてのカルマを解消できるだろうか。。。仙人は山にいるから仙人でいられるだけでは?覚者たちは皆里に下りてきてた。十
無為自然と悟り、そして空と悟り無為自然と悟り、そして空と悟りは、東洋思想における大変に深い概念であり、それぞれが密接に関連しています。ここでは、これらの概念を理解しつつ悟りへの道筋を探究してみたいと思います。1.無為自然と悟り無為自然とは無為自然とは、道教の根本思想であり、無理な作為をせず、自然の流れに身を任せることを意味し、自然界の法則に従い、あるがままを受け入れることで、心の平穏を得ることができると言うことです。無為自然と悟りの関連性悟りとは、真理を
0の概念、中庸、そしてタオ(道)と虚(きょ)の宇宙観“0”のイメージフィットネスでは、0=中心という本質を基本においています。中心意識と感覚は、呼吸、動作、リズムとバランスのを整えて、宇宙全体と私を結ぶ基本概念です。そこで、0の概念や中庸、そしてタオやその中心である虚の概念を解説しながら、その本質を理解してみたいと思います。0の概念、中庸、そしてタオ(道)と虚(きょ)の宇宙観は、東洋思想における深遠な概念であり、それぞれが深く関連しています。これらの概念を統合的に理解することで、宇
『無為自然』守屋大介さんのセッションを受けてきました。触れられているのか触れられていないのか自分のものなのか自分のものじゃ無いのか空間の中で溶け合ってエネルギーの境目がわからなくなる感覚肩かと思ったらハートチャクラが開いていたり足かと思ったら目の奥が反応していたり只々自分の身体に意識を向けている時間がとても豊かで贅沢なものに感じました。『緩む』ということ。筋肉だったり自律神経だったり呼吸だったり色々と知識として頭でわかっていることが大ちゃんの手を通して身体に伝わると
1.はじめに老子は、紀元前6世紀頃に活躍したと伝えられる中国古代の思想家であり、その思想は『道徳経』という一書に凝縮されています。老子の教えは、自然と調和し、無為自然の生き方を説くものであり、東洋だけでなく、世界中の哲学、宗教、倫理に多大な影響を与えてきました。本記事では、老子の生涯、思想の基本概念、その後の影響、そして現代における実践的な意義について、専門家の視点から詳しく解説していきます。多角的な視点を通じ、老子の教えがどのように今の生き方や社会に寄与しているのか、その奥深さに迫ります。
シャドウは気がつくだけでは、全然癒えなくて。。。認めても、認めても、次々憎しみとして溢れてくる。感情が溢れるたびに体が激痛。感情を感じる。巷でいろいろ言っているけど。。。統合すると私の空っぽな生きるエネルギーが本当に湧いてくるのか。私の場合、それまでに、だいぶ体を消耗させそうだが。。。そんなときに友人が教えてくれた”無為自然”。単純に”そのままの私で生きる。”老子。シーベリーも同じことを言っていたのかな。頑張るのをやめるだけでも、だいぶ楽になる。頑張るのをやめるのは、環境によ
みなさん、こんにちは。せしりあです。いつもブログを御覧下さいましてありがとうございます。今日のタイトルはいつにもなく少し堅苦しい感じになりましたが、諸行無常(しょぎょうむじょう)とは、この世のすべてのものは常に同じではなく、変化していくものだという意味。また、無為自然(むいしぜん)とは、人間の作為を加えず、自然界の生き物たちのようにあるがままに生きるという意味ですが、今の私は、この2つの言葉を実感しています。特に【諸行無常】という言葉はガッツリ体感してるかなー。
物事は想像以上に小さな力で十分なのかもしれない。脳みそは生きようとして心と身体を頑張らせる。そうして疲弊して結局永つづきしなくなる。森の樹々は光と水と土を受けてしなやかに緩やかに成長する。人も自然の一部。必要十分な力加減がわかれば自分にも周りにも優しくなれる。〜〜〜インスタ始めました!【からだプラス研究所】@karadaplus.labフォローよろしくお願いします!
すべての道は、ただ「在る」——無為自然・不二・仏教・神道・インド哲学の核心「本当の自由」を知ったとき、人生の見え方が変わります。何かを得る必要も、何者かになろうとする必要もなく、ただ「在る」ことの心地よさが広がっていきます。では、そもそも「在る」とは何でしょうか?言葉にしなくても、何かを証明しなくても、すべてはただ映し出されているだけなら、本当は何もする必要がないのかもしれません。それでも、こうして書いています。理由なんてなく、ただ楽しいから。誰かに何かを教えた
スピリチュアル、非二元、ノンデュアリティ、悟り系で「エゴ」の話しをする者がいますが、エゴがあるとか、ないとかで、真我があるとか、ないとかではなく、現実の今の目の前の事実の様子として、実体がなく、考え上の観念、造り事であり、もともと鼻っから、そんなものは実在ではないのです。サンタクロースや小人が存在していると、「いる」、「そうだ」と認識して、認め思い込んでいると、誰かに「サンタクロー