ブログ記事7,647件
2024年4月19日(金)。気持ちのよいお天気に恵まれて早起きをして向かった先は初訪問の地静岡県の三島市。これまでにも度々ブログに登場して頂いている氣セラピストのゆーりーさんからお誘い頂いた『0.5dayトリップ』は富士山づくしの心が洗われる時間でした。最初に訪問したのは『三嶋大社』。三島市は初訪問なのでお許し頂けると思いますがゆーりーさんから教えて頂くまで存在を存じ上げなかった神社でした🙏。こちらの大社に移動す
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡静岡県伊東市にある「音無神社」に行ってきました。小道に囲まれた小さな神社ですが、見どころいっぱいの神社です。手水舎。蛇口のままですw底の抜けた柄杓がわんさかありました。無数の穴が開いた竹があちこちにあります。竹で出来た燈籠です。夜はライトアップされるみたいです。頼朝と八重姫の顔出しパネル。ここは頼朝と八重姫が愛を語らった場所です。頼朝公と八重姫が祭られてます。玉猫神社。招き猫のような猫の石像が祭られてます。巨大な絵巻があったはずですが、倒されて
すご訪問ありがとうございます鶴岡八幡宮鎌倉市雪ノ下2-1-31「応神天皇」「神功皇后」「比売神」の三柱の神様が御祭神鎌倉初代将軍、源頼朝にゆかりが深く武士の守護神と言われています勝運出世運のご利益がありますこちらを上がっていくと御本殿があります手すりのない階段ですので混雑時には人とのすれ違いなどには充分にお気をつけて下さいね随神門をくぐる時に招かれる様な光が射し込みました早朝参拝でしたので人の雑念もなくとてもスピリチュアルな空気に包まれました祈願絵馬御神木
バルス!目がー目がー!ムスカの寺田農さんも帰らぬ人に。それでもバルスはつづきます。
対話検索型人工知能のBINGCHAT、本日も対話の結果を、掲示していきます。本日第1の話題は、奥州藤原氏の興亡についてです。奥州藤原氏は12世紀に平泉を中心に栄えた地方政権です。その興隆の基盤は豊富な砂金と優秀な馬で、これらは藤原氏以前からあったものですが、初代清衡が戦役(前九年、後三年)や交易を経て、京の文化や統治法を学ぶことにより集約され、その結果藤原氏は有力な地方政権に成長します。そして約100年後に第4代泰衡は、源頼朝に滅ぼされるわけですが、この滅亡はどの手を
百人一首を作ったのは有名歌人である藤原定家ですがその製作に深い関わりをもった鎌倉御家人がいました下野国(現、栃木県)の武士宇都宮頼綱です彼がいなければ百人一首はこの世に誕生しなかったといわれています坂東武士としての宇都宮頼綱は文化人としての蓮生としての顔も持っていました宇都宮頼綱の半生を辿りながら鎌倉時代の歌の世界に入ってみたいと思います坂東サガヒガシと京都との関係というのは結構面白いものでそもそも関東というものは室町幕府においては鎌倉公方の管轄する相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、
二村山山頂との分岐点に説明板このような案内板がありますと、鎌倉街道歩いている実感がマシマシです上の案内板の絵はこれ傍らに道標源頼朝の歌碑ここは、景勝地だったらしく歌を詠まれた人達が多くみえるようですここには二村山地蔵尊があります続く
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡静岡県熱海市にある「頼朝の一杯水」に行ってきました。頼朝ラインから少し脇へ降りていくとあります。頼朝公が伊東より熱海へ逃げる途中に口にした水です。頼朝ラインはかなり坂が急です。特に熱海市街側から行くと入り口が判りづらくかつ、かなりの斜度ののぼり道です。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
源頼朝も訪れた由緒ある石濱神社こちらの神社もよく参拝に行きます。いつもシオンちゃんと一緒です桜を愛でながら参拝しましょうね。浅草七福神である壽老人が祀られています。見どころ満載の由緒ある神社石の獅子頭にシオンちゃんの健康祈念にシオンちゃんの頭を噛んで頂きましょう!私、何されてるの?的なシオンちゃん足で必死に拒絶するシオンちゃんごめんね。縁起物だから頭を噛んでもらいたいのよね。最後は獅子の口に足をかけてさ
同日、後鳥羽天皇が退位して為仁親王に帝位を譲ったのである。土御門天皇の治世のスタートであり、後鳥羽院の院政のスタートの瞬間でもあった。土御門天皇はまだ三歳であるため、天皇としての政務を執ることは期待できず摂政が必要となる。土御門天皇の治世のスタートに合わせて関白近衛基通は関白を一旦辞任し、改めて土御門天皇の摂政に任命された。摂政にしろ、関白にしろ、自動的に就任できる役職ではなく天皇によってその都度任命される役職であるという建前は変わることない。そして注意すべきは、摂政近衛基通が土御門天
静岡県三島市大宮町にある三嶋大社にバスツアーで行きました2018年4月の蔵出し写真です三嶋大社は伊豆国一の宮、伊豆国総社です源頼朝が源氏再興を祈願した神社として有名~ご祭神は大山祇命と事代主神の二神で総じて三嶋大明神と称します枝垂桜や三嶋桜、染井吉野、大島桜、八重桜など15種200本余の桜の名所です大鳥居左右を旧東海道南へ旧下田街道(起点)参道しだれ桜は葉桜神門参道葉桜手水舎神馬舎舞殿拝殿拝殿の彫刻拝殿の中で結婚式授与所芸能殿鹿苑結婚式の花嫁と
4月19日その1出来事1160年(承安・しょうあん4年3月11日)-平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆に流される。頼朝数え年で13歳。雌伏の後平家打倒に立ち上がる。1326年(かりゃく元年3月16日)-北条高時(ほうじょうたかとき)の出家に伴い北条貞顕(ほうじょうさだあき)が鎌倉幕府第15代執権に就任。しかし、幕府内部の多量出家の責任を負うため10日後に退任。鎌倉幕府はこの7年後に新田義貞らの挙兵により終わりを迎える。1915年-日本海軍の巡洋戦艦「榛名」・「霧島」が竣工(完成)誕生
百人一首といえば源頼朝と源実朝ですかねやっぱと勝手に思っております源頼朝は我が祖の主君でもあり我が祖は奥州合戦で奥州藤原氏討伐入りで関東から東北入りしました百人一首は結構歴史が繁栄されていて面白いです百人一首は百人の一首で辞世の句を詠んだ句なんだと打首獄門磔で思ってた私でしただって丁重な箱にいれてあるし怖い声で札読みするし坊主や女の幽霊や変なひとばかり出てくるんやもんね
さてさて…………………【まるか食堂】にて、至福のランチタイムをとって元気モリモリのココロは、次の目的地へと向かって歩いた…………………【開田城跡の土塁】歩いていると、史跡に出会う【八条ヶ池】この【八条ヶ池】の向こうに【長岡天満宮】が鎮座する。『天下分け目の天王山⑪〜長岡天満宮〜』さてさて…………天下分け目の【天王山】を出発した我々は、次の目的地に到着した…………到着したのは…………【長岡天満宮(ながおかてんまんぐう)】京都府長岡京市天…ameblo.jp【長岡天満宮】のココロ過去
関東と東北て以外に近いんだなとつくづく思います源頼朝が奥州合戦の際に下野に滞在して藤原定家、宇都宮氏と婚戚となり百人一首と関わる原敬と栃木とか楢山佐渡と原敬のこともっと知りたいですね
建久九(一一九八)年一月五日、権大納言土御門通親が後院別当に就任することが発表された。後院別当とは、字義だけを捉えれば天皇の退位後の住まいの管理人であるが、そのような字義で捉える者などいない。院政という概念が誕生した後の後院別当とは間もなく始まる院政のキーパーソンに任命されたことを意味する。土御門通親の後院別当就任により、間もなく後鳥羽天皇が退位すること、退位して後鳥羽院政が始まること、後鳥羽院政において土御門通親が重用されることが決まったのだ。そして、次期天皇が事実上公表された。建久
東京十社めぐり品川神社先日、所用があり、品川方面へ。早めに家を出て、午前中、品川神社さんへ伺いました。源頼朝公、徳川家康公ゆかりの神社さん。京浜急行、新馬場駅からすぐ。時間がある時は、品川駅からも歩けそう。鳥居前でご挨拶をして、階段をのぼります。車道も、右側にあります。東京十社のひとつ品川神社さま天比理乃咩命さま(あめのひりのめのみこと)宇賀之売命さま(うがのめのみこと)素戔嗚尊さま
平戸白旗神社源氏を御祭神とするのが白旗神社。源氏の色の白い旗からきてるよ💡全国には「白旗」の名を冠する神社が80以上あるよ✨こちらは神奈川県の戸塚にある白旗神社その中でも珍しい源義経を祀った神社で僅か8社しか存在しないんだって隣の東福寺に源頼朝の遺髪があるらしいよ御利益:合格祈願・開運・必勝💯祭神源頼朝▶️【銀座ヘルメス】にて◀️❦10分無料オンライン鑑定❦顔出しなし、音声のみ🆗👀カードで視覚化し・霊視・チャネリング💥エネルギーにより・遠隔ヒーリング・メンタ
後鳥羽天皇の即位の状況はこの時代の人であれば誰もが知っている。ゆえに、帝位に就く資格を有しながら弟に追い抜かれた守貞親王と惟明親王のことは、この時代の人であれば誰もが知っている。これは平家物語の延慶本の伝えるところであるが、どうやら源頼朝は守貞親王を後鳥羽天皇の次の天皇と目論んでいたようなのである。ただし、源頼朝が守貞親王をわかりやすい形で推していたのではなく、文覚を通じて守貞親王の即位の後援をしていたというのが平家物語の記載だ。ただ、これは平家物語の過剰反応とも言える。守貞親王と文覚
北陸地方で被災された多くの方々に、心よりお見舞い申し上げます。一日も早い復興を、心より願っております。こんばんわ、らぶしねまです。パチョが『くしゃみ』で、飛沫を飛ばしているため・・・訪問&コメレスが『大変』遅れています(笑)みなさま、もう少しお待ちくださいにゃ~♪さてさて・・・今年初の新曲『街外れのカルメン』を発表したにゃ~♪☆『街外れのカルメン』うた:しのはらみわ~プロモーション用~うた:しのはらみわ作詞・作曲:きらよし
建久八(一一九七)年の年末時点での鎌倉幕府の継承は理論上の話であったが、それよりはるかに大きな継承、すなわち、皇位継承は現実味を帯びてきていた。かなりの可能性で、後鳥羽天皇は退位して上皇となり、院政を敷くという未来が見えてきたのである。建久七年の政変時、後鳥羽院政は可能性の一つとして考えられはしたものの、現実味を帯びた話ではなかった。それが一年近くの時間経過で現実味を帯びるようになってきた。源頼朝は情報の重要性を強く認識していた人であるから例外に近いが、源頼家が従五位上右近衛権少将に任命さ
4月13日(土)14日(日)富士の巻狩り狩宿さくらまつりが、狩宿(井出館)周辺で開催されました🌸日本五大桜のひとつで、国の天然記念物“狩宿の下馬桜”源頼朝が「富士の巻狩」を行った際に、この1本桜の枝に馬を繋いだという伝説があり、この名で呼ばれるようになりました。井出館では曽我物語供養祭が執り行われました。源頼朝の富士の巻狩りにおいて、曾我祐成と曾我時致の兄弟が、父親の仇である工藤祐経を巻狩りの際に仇討ちをした地区である
今週の「暮らしの古典73話」は「名告り(結)」です。前回、示しましたように、「暮らしの古典」での「名告り」を最後の戦に出陣する木曽義仲の名告り110字程度に焦点を絞りました。本ブログでは高校での「古典」の定番を載せています。写真図甲冑姿の木曾義仲イラストテキストは『平家物語二』(日本古典文学全集30、小学館、1975年)を用います。適宜、私的に漢字を宛て、原文に振られたルビは現代仮名遣いに改めます。◆鐙(ルビ:あぶみ)踏ンばり立ちあがり、大音声(ルビ:だいおんじょ
吾妻鏡の欠落のために、昔から議論の起こる話がある。源頼家はいつから源頼家と名乗るようになったのかという話である。源頼家の幼名が万寿であることは誰も異論がなく、元服時に源頼家と名乗るようになったことも意見の一致を見ている。問題は、どのタイミングで元服を迎えたのかという点だ?建久四(一一九三)年の巻狩のときか?建久六(一一九五)年の上洛のときか?吾妻鏡が源頼家を詳しく書き記している場面を読んでも、また、同時代史料における源頼家の扱いを見ても、建久六(一一九五)年の上洛までの
伴大納言絵詞は、平安時代末期に制作された絵巻物で、応天門の変を題材にしている。現在、国宝に指定されている。この絵巻は、応天門の変が起きてから約300年後、後白河法皇が常盤光長に描かせたという。作成年は不明だが、平清盛、源頼朝、源義経が生きていた頃に描かれたようだ。時代は下り江戸時代に入ると、山形の大名・最上義光が一時所有した事があった。その後、若狭の大名・酒井家へと渡った。1982年、酒井家は、出光美術館へ譲渡した。その時の代価は、30億
6日頃通り掛かった三嶋大社の池に挟まれた参道の桜です。この手前右側には源頼朝が願掛け参りをしていた時に腰掛けたと言われている石が有ります西側の池の向こう側に咲いてる桜です中門を潜った先の参道の様子ですこの左側に本部の建物が有りますまた右側には宝物館が有りその奥には神鹿園が有り昔奈良の春日大社から贈られた鹿達の子孫が多数暮らしてますもうちょっと奥から撮りましたこの先にもう一つ門があり中には舞殿が有りその奥に本殿が有りますこの両側に咲いてるのは市内にある遺伝学研究所で交配して出来た「三島
(画像お借りしています)数週間前に人生初!の江ノ島に行ってきました。観光で「鎌倉」までは何度も行っていますが「江ノ島」は今まで観光のイメージがなくサーファーが楽しむ場所かな?と思ってたので行きそびれていましたが実は江ノ島って観光スポットが色々あるんですよね。(画像お借りしています)江ノ電に乗るのも何十年ぶりでした。江ノ電の車窓から見えてくる江ノ島に興奮。「あ、江ノ島が見える!」江ノ島駅で下車。江ノ島駅から真っすぐに
仁和寺は、宇多天皇・祖父の敦実親王ゆかりの寺院。敦実親王の三男源雅信、その娘源倫子は仁和寺に葬られました。紫式部の『源氏物語』~若菜上~で光源氏の兄・朱雀院が出家した寺は、仁和寺がモデルらしい。鎌倉時代には、源頼朝の息子貞暁が仁和寺の法眼隆暁に弟子入りしています。仁和寺☆☆☆☆☆
13日、鎌倉幕府を開いた源頼朝公墓前祭に光くんが参列しました。*************************源頼朝公の墓(法華堂跡)は鶴岡八幡宮から10分ほど、大倉幕府があったとされる一帯を見下ろす北側の山腹にある。若宮大路の喧騒とは離れ、ひっそりと佇んでいる。頼朝の没年齢と同じ51段の階段を上がるとすぐ石塔がある。墓前祭は「源頼朝会」により毎年4月14日に執り行われている。頼朝会は毎月清掃活動や草むしりなど行って、お墓を守って下さっている方々だ。開始の午前10時に、白装束の鶴
父の伊東祐親が大番役で在京している間に、流人だった源頼朝と恋仲となった八重姫。千鶴丸という男児も授かりますが・・・それを知った父祐親は許さず、千鶴丸を殺害し、八重姫を伊東館に幽閉しました。頼朝は北条時政を頼ったようです。嘆き悲しみの幽閉生活を送った八重姫ですが、頼朝に会いたい一心で伊東館を抜け出して北条館へと向かいます。しかし、頼朝は時政の娘政子と結ばれていました。傷心の八重姫は、真珠ヶ淵に身を投げたのだといいます。八重姫梯子供養は、「せめて梯子あったら救うことができたのに」という