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東京から伊豆市に奥さんと二人で移住した50歳過ぎのオジサンです。伊豆で暮らし始めてから神社が大好きになり古事記を読みながら伊豆の神社をお参りしてまわっています。伊豆市の修善寺エリアで暮らしています。賃貸アパート暮らしなのですが町内会的にはこちらの『横瀬八幡神社』が氏神様になるんだと思います。町内会でのお掃除があるので参加したいとは思っているのですが中々タイミングが合わなくて申し訳なく思います。そもそも『修善寺村』だった頃は修善寺エリア全ての氏神様と言う事です
皆さん、おはようございます。今日もお忙しい中、ブログにお越しいただきましてありがとうございます。鎌倉三十三観音霊場の第17番は神奈川県鎌倉市材木座にある南向山補陀洛寺です。真言宗大覚寺派寺院で御本尊は不動明王さま、観音霊場御本尊は十一面観音さまになります。山門は石柱になっており小さなお寺ではありましたがきちんとお手入れをされていました。樹齢150年を超える百日紅もあり夏にはきれいにお花を咲かせてくれるそうです。源頼朝の祈願所として創建されました。
平安時代と鎌倉時代でもっとも大きな違いは、すでに述べてきた通り公家中心の朝廷政治が、武士によ武家政治に移ったことにある。それは鎌倉幕府の成立と同義であり、鎌倉幕府体制の確立と共に平安時代から鎌倉時代に時代区分が切り替わったと考えて良いだろう。そしてこの鎌倉時代の変化は、武士と呼ばれる人々の生活やその精神性も変化させる。武士道と言われる武士精神も同様だ。当記事では、鎌倉時代の武士道とはどのようなものか紹介説明することを主眼とするが、同時になぜそのような精神性が生まれ、形作られたのかという疑問
源平合戦は「源氏と平家」の戦いであると一般にいわれている。なぜ「源氏と平氏」または「源家と平家」の戦いではなく、「源氏と平家」の戦いというのだろう?そのことを以前から疑問に思っていたのだが、あるテレビ番組で歴史(多分)学者の人が次のようなことを言っていた。「源平合戦は実質的には平氏と平氏の戦いなんです。確かに一方の旗頭は源氏の棟梁である頼朝だけれど、それを支える主力軍は関東の平氏なんです。」言われてみれば確かに、源氏側には北条、千葉、三浦などの有力な武将は平氏が多い。つまり、負
前回の浅草の記事からの続きです。前回の記事はこちら。『浅草☆』石友達に付き合ってもらって浅草に行ってきましたぁ〜☆☆今戸神社に行く前にいつも行く寺院があるんだけど、先にそっちに行ったら1年に1回しか見れない観音菩薩様が見…ameblo.jp石友達さんと一緒に浅草に行った次の日に、子供の病院に薬をもらいに行きながら、お世話になってる近くの神社にちょっと早いけど「今年はありがとうございました。」の挨拶に行ってきました。で、子供のカバンに付けてるお守りがくたびれてきたから、新しいのを買ってイン
冨士川(ふじかは)水鳥(みづとり)左兵衛佐殿(さひやうゑのすけどの)む本(ほ)んのよしありて平家(へいけ)の大軍(たいぐん)冨士川(ふじかは)まで押(おし)よせ来(きた)りける所(ところ)耳(に)ある夜(よ)冨士沼(ふじぬま)尓(に)あま多(た)なる水鳥(みづとり)の何(なに)可(か)ハ驚(おどろ)起(き)一度(いちど)尓(に)者(は)つと立(たち)ける羽音(はおと)雷(いかづち)大風(たいふう)の様(やう)尓(に)聞(きこ)へけ連(れ)バ平家(へいけ)の兵(つはもの)ども源氏(げんじ)の大軍
夢の中で「せいこううどく」と出てきて意味がわからなく…起きた起きてもわからなく…ググったああそうそうそういう意味やな!今週も頑張って働いたので週末は読書でもするかこのまえ丸善で買った本私は土木や建築に興味があったので高校受験の時、工業大学附属の私立高校を滑り止めに受けたが、一緒に受験したのが学校で2番目に悪い、剃り込み学ランのN君で、この世界は俺には無理だと察し夢は消えたのだが、今でも素晴らしい建築には胸が高鳴るし、万博の有名パビリオンをもっと見てみたかった敬宮愛子さまを
【※この記事は、2024年5月5日公開記事の再投稿です。】こんにちは。アレテーを求めて~今日もトコトコ(・ω・)弁護士の岡本卓大です。【コウペンちゃんⒸるるてあ】今日は、投稿ネタ#夏休み宿題で嫌だったものにおじゃましております(・ω・)特別に「嫌だったもの」というと思いつきませんね。小学生の頃は、夏休みの宿題は、8月30日か31日くらいに始めて、一気に終わらせていました(・ω・)さて、日曜日で、普段の連載日とはちがいますが、特別版でやり
皆様、こんにちは鎌倉ハイキングに行ってまいりました。鎌倉は何度も行っていますが、ハイキング🥾は初めてです。紅葉🍁はもう終わりの頃でしたが、きれいでした。縁切り寺悲しいお話竹林
鎌倉には七口の切通しがあると言われ、「朝夷奈(あさいな)切通」はそのひとつ。鎌倉駅東口の4番線バス乗り場から金沢八景駅行きで約15分、「十二所神社(じゅうにそうじんじゃ)」停留所で下車。お蕎麦屋さんがあるのでここで腹ごしらえしてから行く手もあり。まずは普通の山道で始まります。「(梶原景時の)大刀洗水」上総介広常に謀反の疑いありと源頼朝が梶原景時に命じ上総介広常を誅殺。その時の太刀を洗った場所。梶原景時は鎌倉権五郎景政の直系の子孫であり、頼朝が石橋山で挙兵し敗れ、洞窟に隠れていたところを
皆さん、おはようございます。今日もお忙しい中、ブログにお越しいただきましてありがとうございます。鎌倉三十三観音霊場の第14番は隋我山来迎寺です。神奈川県鎌倉市材木座にある時宗寺院で阿弥陀如来さまと共に子育観音さまがお祀りされています。源頼朝が伊豆で旗揚げした際に、三浦半島の衣笠で頼朝が最も信頼していた御家人の三浦大介義明の霊を弔う建立された寺院です。このお寺の子育観音さまにお願いすると、必ず知恵福徳円満な子供が授かると言い伝え
前回報告の通り、ランニングへの未練を断ち切りウォーキングに徹することにしました。新しいコースを求めて、かねてより気になっていた善福寺公園を目指します。千川上水を経て青梅街道に出ると「江戸向き地蔵」に出会います。ここを右折、先ずは善福寺に向かいます。曹洞宗の寺院で、本尊は木造阿弥陀如来像です。隣接する道路沿いに庚申塔が保存されていました。少し歩くと善福寺公園に出ます。上池と下池があり、上池は広々とした池で、周囲を地元の人が思い思いに散策を楽しんでいます。源頼朝が奥州征伐
神社名椿八幡宮御祭神応神天皇仲哀天皇神宮皇后住所萩市大字椿3713由緒1243年に長門守護職の佐々木四郎高綱が源頼朝の命を受け、鶴ヶ岡八幡宮より勧請メモ旧県社イチョウの大木参拝年月日2025年11月23日久しぶりに参拝しました。秋に参拝したい神社です。イチョウの大木の黄葉は見ごたえがありますね。萩毛利本藩の尊崇が厚く、毛利本藩の家紋も見られます。
東海道歩きは藤沢宿・茅ヶ崎まで来た。今年中に茅ヶ崎を出て平塚宿を超え、大磯宿まで足を延ばすつもりだが「その前に何か忘れていないか!」と声がして、「いざ鎌倉」を通り越していたと茅ヶ崎から引き返した。街道歩きは後に回して、武家社会始まりの地・鎌倉を駆け足で廻る事にした。源頼朝が幕府を開き、その頼朝に特別な御家人として仕えた島津氏の祖・島津忠久、その島津氏の家臣として仕えた家系の者が鎌倉を素通りするとはこの不届き者!!と言っているような・・鎌倉は何回も来ているし、もういいかと思ったのだ
令和の日本って、平安時代(貴族支配の社会)から鎌倉時代(武士支配の社会)への移行期に似ている。ちょうど平清盛が台頭したり、源平合戦で源氏の棟梁である源頼朝が幕府を創建したり、といった頃だ。貴族を「ホワイトカラーサラリーマン」、武士を「ブルーカラー現場職人」と置き換えればよい。今のご時世、ホワイトカラーになるまでには一生懸命歳月と費用をかけて受験勉強をしなければならない上に、ホワイトカラーになっても、会社都合で簡単に早期退職に追い込まれる。また、人によっては
令和7年11月2日坂東三十三観音十八番札所日光山中禅寺を参拝しました道中の紅葉がきれいで期待が高まります日光山中禅寺は世界遺産「日光山輪王寺」の別院です仁王門仁王像門の裏には風神・雷神仁王門の天井には美しい迦陵頻伽さんかな?門を入っていきます鐘楼堂所願成就の梵鐘ということで撞くのを楽しみにしていたのですが・・・梁が虫に食べられて危険な状態
前右衛門佐源頼朝盤(は)永暦元年より伊豆の國に配流と成十四年の春秋を送り給ひケるうち伊東入道の姫尓(に)馴そめ人志(し)れ須(ず)ふ可(か)き中とそなりケる此事入道の耳ニ入りし給ひ奉るべきを祐清可(か)忠義ニよつて北條可(か)館ニ入御頼阿(あ)りて終ニ時政可(が)婦女堂(と)竊(ひそか)ニ相馴給ひケる是なん後ニ御臺所と仰可(か)れ給ひ頼朝公没後尼将軍と上連(れ)しハ此姫君の事なりケる一勇齋國芳画詞書から源頼朝と北條政子が描かれていることが判ります。「竊」、姫君の「君」は読めなかった。伊東入道
大御堂寺大門(愛知県指定有形文化財)源頼朝公により建久元年(1190)に創建父義朝公の法要の際、境内の様々な伽藍が建立されたのに伴い造られました。大御堂寺野間大坊に行きました尾張三十三観音霊場第8番札所になってます大御堂寺野間大坊|源義朝公最期の地野間大坊・大御堂寺の公式ウェブサイトです。源義朝公最期の地として源氏由来の祈願成就の寺として今に至ります。境内には狩野探幽作である義朝の最期を記した「義朝最期図」をはじめ、数々の指定文化財があり、
皆さん、おはようございます。今日もお忙しい中、ブログにお越しいただきましてありがとうございます。鎌倉三十三観音霊場の第12番は中座山教恩寺です。神奈川県鎌倉市大町にある時宗寺院です。こちらも浄土系の宗派になる為、御本尊が阿弥陀如来さまになります。その阿弥陀さまは運慶の作と伝えられています。一ノ谷の合戦で敗れた平重衡が囚われ鎌倉に連れてこられた時に、源頼朝が平家一族の菩提を弔うために重衡に与えたと伝えられています。山門の上部には十六羅漢の彫刻が施されています。
坊門姫の実父は源義朝である。源平合戦後ならばともかく、平治の乱から源平合戦勃発までの間、すなわち平清盛の時代において源義朝は国家反逆者として極悪人の烙印を押されており、その人物の娘なのだから普通であれば宮中に姿を見せるどころか隠遁生活を過ごしていなければおかしいところであるのに、坊門姫は藤原北家中御門流の貴族である一条能保のもとに嫁いでおり、一人の男児と三人の女児をもうけている。その三人の女児のうちの長女が後に九条良経のもとに嫁ぐことになる女児であり、次女が後に西園寺公経のもとに嫁ぐこととなる
馬入川(はにふがは)ハ平塚宿の手前にあり昔ハ相模川と唱(とな)ふ甲州猿(さる)橋より流連(れ)て大河也と相傳ふ建久(けんきう)九年十二月稲毛(いなげの)三郎相模川丹(に)橋供養(くやう)をいとなむ右大将(うだいしやう)頼朝(よりとも)公も行向ひ給ふ此時水上尓(に)悪霊(あくりやう)出てくろくも舞(まひ)下り雷電(らいてん)霹靂(へきれい)須(す)頼朝公の乗馬(じやうめ)駭(おどろい)て水中尓(に)飛入て忽ち死春(す)故(ゆゑ)尓(に)馬入川と号るよし俗説(ぞくせつ)尓(に)と言傳ふ稲毛三郎重
こんにちは明日からもやもや期突入予定なのでフラッシュバックしがちで不安定なのかもしれません楽しい想い出も記録していきます🌸後援会のイベントから明けて2日目興奮もあってか寝付けなかったのでお宿では早起きせずのんびり過ごす。4時起習慣は崩せない我が身の性だけど二度寝できる幸せ👍️温泉は気持ちいいけど短期間にやたら使うものでもないらしいので堪えました。今回予約してもらったお宿は貸切風呂もあって来る前に予約できるか聞いてみても良かったかも。←消極的な人でも早めに入浴したので大浴場をほぼ
源頼朝の改変IFストーリー、お読みいただいてありがとうございました。読み直すたびに納得がいかないところが多く、短く切り出し、リライト、そして挿絵の再編集をさせていただきました。スマホで短時間で一話ずつお読みいただけるように、カクヨムにて連載しております。https://ncode.syosetu.com/n9719kr/よろしければ目を通していただけたら幸いです。
本覚寺に行った後思い出しました。源頼朝のお墓に行ってない!というわけでUターンして戻ってきました。手前に法華堂跡。草刈りしようか?って言いたくなるほど(笑)そして長ーい階段を登るのであった。頼朝公のお墓幸運にも地元の方が掃除してらっしゃってお話を聞くことができました。ここらへんの山含めて史跡になっているから、あまり手を入れることはできないらしい、との事。いい人だったなぁ(*´ㅂ`*)大江広元のお墓毛利季光のお墓島津忠久のお墓なぜ島津だけ斜め左になっているかというと。も
源頼朝は鎌倉幕府の創建者。大久保利通は明治新政府の創建者。両者とも日本の歴史の大転換と発展に大きく貢献したのに、イマイチ人気が無い・・・偉大な創建者であっても、策謀が上手な人って、やはり日本史では人気者にはなれないのだろうか?
先日は、KBS京都ラジオの収録でした✨️清和天皇社(せいわてんのうしゃ)についての内容が中心でした!清和天皇社の御祭神は、・第56代・清和天皇(せいわてんのう)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)です。清和天皇社の敷地内にある摂社の四所神社(ししょじんじゃ)は、清和天皇の母親である藤原明子に関係が深い神社です。四所神社には、奈良の春日大社や、京都の吉田神社と同じ御祭神である、・武甕槌命(たけ
今週もS-Wave【Salut!Salut!】木曜日をお聴きいただき、ありがとうございましたゆるり温泉日和♨️静岡県伊豆の国市伊豆長岡の古奈温泉♨️をご紹介しました。お話を伺ったのは、コナステイ伊豆長岡副支配人・大嶽さん🎤こちらのホテルは、2019年に日本初のEバイクをテーマにしたホテルとしてオープン築40年の温泉旅館をリノベーションし、和と洋が調和したおしゃれな空間に生まれ変わりました東京オリンピックでは自転車競技のオランダ代表チームのオフィシャルホテルとして利用さ
鎌倉市腰越の、満福寺。本堂の脇から裏手には、やはり、義経伝説にまつわる物が。硯の池。↓↓↓義経が頼朝に宛てた『腰越状』を書く時に利用した水…だとか。↓↓↓その奥には、『義経公手洗の井戸』。↓↓↓義経公手洗の井戸…覗き込むと、こんな感じ。↓↓↓更に奥、本堂の真裏辺りには、満福寺開山師・行基菩薩が加持祈祷に使ったという水が。↓↓↓御加持瑠璃光水。今でも雫が滴り落ちていた。↓↓↓本堂脇には、弁慶による腰越状の下書きが展示されていたのだが、撮影は禁止。但し、縮小
長戸前回のオープニング通り、今回はいつもより順番を早めて『私見執権政治』だな。千佳今回から通常のサイクルですね。豚白という師走のスタートだ。それでは始めよう。長戸前回は正月のグダグダ話だった。豚白1238年2月4日、【落馬】源頼朝の乳母の【噂の乳母】寒河尼が亡くなった。千佳えっ、北条でいえば【若妻に狂う】北条時政さん世代の方ですよね。何歳だったんです?豚白91歳だよ。長戸この時代の91歳はもう凄いとしか言えん。豚白7日、【摂家将軍】藤原頼経の着物に鳶が糞をかけて
JR萩駅の南にある神社です。<御祭神>主神:応神天皇・仲哀天皇・神功皇后配祀:宇治皇子・難波皇子・玉依姫・高良大明神<由緒>後嵯峨天皇仁治四年三月一五日長門守護職佐々木四郎高綱が源頼朝の命を受けて鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのがはじまり。当時は阿武郡川上村立野に祠を建立したが、地頭三好康久御告の如く、今の地に古宮を建て、同年秋八月一五日喜部より遷祀した。藩政時代も毛利氏の尊崇厚く、万治二年に綱広公の造営により本殿と楼閣が備わり現在の