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昨日、宇佐神宮を参拝してきました。宇佐神宮は、歴史の中で源氏も平氏も関わってきた神社です。能楽堂の近くには源義家に関する記述があり、義家は八幡太郎義家と名乗った武将として知られているとありました。義家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先にあたるそう。八幡神を氏神と尊崇し、ご神徳を頂いた清和源氏は、八幡さまを全国各地へ勧請していったという記述がありました。清和天皇は外祖父藤原義房を摂政とし、母は藤原明子。宇佐神宮は平家が都落ちし安徳天皇とと
平塚神社と七社神社旧古河庭園を出て、本郷通りを北西に向かって歩いて行くと、平塚神社があります。この神社の創建は平安時代末期といわれ、ご祭神は八幡太郎・源義家とその兄弟です。さらにその先に、七社神社があります。創建はかなり古いそうですが、火災で焼失して詳しいことはわかりません。イザナギノミコトをはじめ7人の神様をご祭神として祀っています。渋沢栄一もこの神社の氏子だったそうです。(撮影:2024.10.7)
栃木県矢板市幸岡字剣下「剣神社」にやって来ました!「剱神社」とも書くみたい…草茫々の藪の中…石段は苔生しています。放ったらかしですが、前九年の役で源頼義と源義家父子が太刀を奉納したという由緒ある神社。考えてみれば、草に埋もれているほうが自然や神様と一体になってて神社としては良いのかもしれませんね。
10月23日の歴史源義家が武士としては初めて昇殿を許可される源義家(八幡太郎義家)後三年の役から10年後正四位下に昇進し10月23日には院昇殿を許された武士として初この10年間色々とあったみたいですがこの昇殿は結果は後三年合戦(内紛)をおさめたからやねんけど10年は長いですね義家60歳になってしまってます院昇殿を許されましたが役職=前陸奥守ままで昇進することはなかったそうです奥州での戦い義家の孫の孫である義経は奥州に援助されてる頼朝は欧州を攻め
前九年の役より20年後の1083年、再び奥六郡で後三年の役が勃発する。はじまりは前九年の役によって奥六郡を支配することになり、出羽と陸奥の二ヶ国に跨がる広大な地域を支配した清原氏の内紛からだ。この時代は、前回の前九年で活躍した源頼義や清原武則の子の時代となっており、河内源氏の惣領も頼義の子たる源義家に、清原氏も清原武則から武貞、次いで真衡へと世代交代している。↑源義家像(東京都府中)↑源義家像説明さて、清原氏の内紛・御家騒動について説明しておこう。前九年の役で活躍した清原武則には、
永承6年(1051)から康平5年(1062)にかけて、陸奥むつの豪族安倍頼良(頼時)とその子貞任・宗任らが起こした反乱を、朝廷が源頼義・義家を派遣して平定させた戦役。後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築くきっかけとなった。↑源義家画【前九年の役概略】「前九年の役」とは、1051年から1062年にかけて起こった奥州での戦争のことを指す。ことの発端は、陸奥六郡に根を張っていた豪族安倍氏が、税を朝廷に納めることをせず、かつ衣川柵の境界線を越えて南進に兵を進めてその勢力範囲の拡大を試みたことに
今回から何回かに分けて、日本中世を代表する武家の一つである佐竹氏の誕生前後(~治承・文治の内乱〔源平合戦〕の頃まで)のお話しをしようと思います。第1回目の今回は佐竹氏のおおもとである新羅三郎こと源義光の話(前半)です。【佐竹氏vol.1】佐竹氏以前(前)|およまる今回から数回にわたって、佐竹氏が誕生した頃から治承・文治の内乱が始まった頃までのお話しをしていきたいと思います。佐竹氏の氏祖は佐竹昌義という11世紀末~12世紀に活動した人物であるというのが定説となっていますが
※こちらの記事は、平成29年1月24日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は東京都新宿区早稲田(とうきょうと・しんじゅくく・わせだ)にある「穴八幡宮(あなはちまんぐう)」というお社に行った話です。【神社シリーズのこれまでの記事】・明治神宮まだまだ新春なので、初詣に行ったのかと思いきや、去年の八月に行ったときの話です。八幡様関連の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:鶴岡八幡宮を味わう(3)―源平池とゆかりの人物同関連記事:鶴岡八幡宮を味わう(2)―大銀杏と本
勿来関(なこそのせき)に久々に訪問源義家(自分的にキングof源と思ってます)ここが東北の玄関口の一つです
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡昨夜から機嫌悪いです。昨夜グランパス逆転負けです。前半2-0リード→後半早々内田一発レッド退場→3点取られて負け。ありえんでしょ。本職2人をベンチに置いてなぜ内田を使う?内田はこの間も一発レッド食らってるのに、またやらかしたわ。ハセケン、もう交代させやなミッチの花道飾れん・・・。静岡県浜松市にある、源義家公ゆかり「浜松八幡宮」の御朱印です。直書きの立派な御朱印、ありがとうございます。これにて浜松ネタ終了です。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡静岡県浜松市にある、源義家公ゆかり「浜松八幡宮」に行ってきました。手水舎本殿浜松稲荷社雲立のクス。かなり大きなクスノキです。住宅街の中にありますが、静かにお参り出来る神社です。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
44.斥候山(せきこうざん)(物見山)(横手市金沢中野)標高:137m駐車場:道の駅美郷に止めさせていただきますトイレ:道の駅美郷登り片道:10分(⛩から)スマホ高低差:80mおすすめPoint:「後三年の役」のファンの方歴史:後三年の役で清原氏が「物見の兵」を置いた所。山頂に八木沢神社(通称:新町の観音様)が鎮座している。後三年の役とは(一言でいうのは難しいけど)平安末期の1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)に起こった、奥州の支配者・清原氏の内
6,7年ほど前になると思いますが、これも不思議な体験でした。gooブログの時。一切経山へ若い時に登っていて、その時の写真と阿部貞任の伝説を書いていた時だったと思います。※噴煙あがる一切経山不思議とこの頃、「安倍貞任の末裔です」という複数の安倍氏の子孫の方からコメントやメールを頂いた事がありました。たまたま重なっただけと思いますが、みな女性で、このブログを読んで頂いている方の多くは、ご先祖様のことを調べて来られる方です。たまに、情報を教えて頂けることがあり、それは私
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡群馬県太田市にある、新田義重公の四男で徳川氏始祖の義季公ゆかりの「長楽寺」に行ってきました。八幡太郎義家公のひ孫です。鐘楼本堂徳川義季公のお墓新田一族の供養塔新田家のお墓開山堂三仏堂忠霊塔太鼓門徳川氏のルーツと新田家の関係が良くわかるお寺でした。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
37.勝軍山(摩利支天山)(大仙市南外)標高:339m駐車場:林道の終点にありトイレ:なし登り片道:11分(駐車場から)スマホ高低差:80mおすすめPoint:信仰の山です。三角点を集めている人(二等)。歴史:古記によれば、天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757年)、八沢木の神官守屋氏(物部系類)の創設であった。(秋田県神社庁)この神官は保呂羽山波宇志別神社の一族と思われます。保呂羽山、勝軍山、昼川山、鉢位山、溝壑山など、一体化し修験道の聖地として繁栄していたよう
日々、一歌197/365+1降る雨に手綱はしとどそぼ濡れてようよう越える筑肥の高嶺を源進能直吹く風を勿来の関と思へども道もせに散る山桜かな八幡太郎義家千載集
今朝のジョギングです(・ω・)出だしから霧の発生(゚Д゚;)しばらくすると・・・・更に霧が濃くなったんだな(;´▽`A``ただ歩道は薄っすら見えたので特にジョギングに影響ないけど・・・車の運転なら視界の悪さで慎重に走らないと危ないな(・・;)`さて今日はジョギングのあと少し散歩した程度です(;´▽`A``その散歩途中・・・・大物忌神社を発見(・ω・)この神社は昔・・・新田目城があったようだ調べると、平
日々、一歌196/365+1西海の八幡杜に鏑矢の遥か照覧相模の氏神画/九代足利将軍・義尚
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡神奈川県川崎市にある、源頼義公ゆかり「白幡八幡大神」の御朱印。書置きに宮司さんが日付を入れてくださいました。強そうな御朱印です。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
上野国(こうずけのくに)八幡荘(やわたのしょう)市民活動センター(ソシアス)からの地域ガイド要請により、その準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう第36回源頼義が八幡八幡宮に源義義・義家伝説天正十九(1591)年に記された「八幡八幡宮縁起」によると、永承6(1051)年5月上旬のこと、奥州(東北地方)の安倍一族が反乱を起こした。時の第70代後冷泉天皇は、源頼義に安倍一族の討伐を命じた。頼義はこの命に
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡神奈川県川崎市にある、源頼義公ゆかり「白幡八幡大神」に行ってきました。源頼義公は河内源氏の祖、源頼信公の子供で、八幡太郎義家公のお父さんです。参道階段途中に手水舎拝殿源氏は京都から関東や東北にまで戦に来て大変ですよね。お疲れ様でした。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
亀ヶ森八幡神社の御朱印鳥居⛩️社号標社歴句碑参道階段階段およそ200段🚶拝殿永保・寛治のころ(1083~1087)、源義家奥州下向の折り京都石清水八幡宮の分霊を亀ヶ森頂上に勧請し社殿を造営⛩️文治5年9月葛西清重源頼朝の奥州征伐に功あり桃生外数郡を与えられたが本社の社殿に修理を加えたという⛩️郷人、今尚亀ヶ森山頂を占八幡と呼ぶ🧐社を今の地に移したのは、永禄年中葛西家幕下の今野和泉守である🧐元禄8年には藩主綱村が社参して記念植樹をし、又、享保13年に吉
ふたたび上高田運動場前に戻り、妙正寺川を上流へ四ッ村橋から哲学堂通りへ進む哲学堂通り脇に公園とは異なる雰囲気の林周りこんでみると通りを背にした葛谷御霊神社に散々、中野行きバスに乗り通り過ぎていたけど気がつかなかった手水舎とその奥に境内社も葛谷御霊神社拝殿葛谷御霊神社は、新宿区西落合にある御霊神社創建年代は、寛治年間(1087年~1094年)源義家が前九年の役で奥州に赴く際付き従った山城国桂の里の一族が役の帰途に地形・風土の似た落合のあたりに住み着きその際、
上高田氷川神社より、西武新宿線の踏み切を渡ると緑に囲まれた、中野区の上高田公園運動場ここも数年前、の野球大会で来たっけそれも寒い新春1月に妙正寺川を渡るとそこは新宿区ごりょう坂通りのクランクを上る正面には目白大学、右手に鎮守の森回り込んでみるか御霊神社に出会うとりあえず中井御霊神社としておきましょうかでは、二本の黒松の間より境内へ手水舎中井御霊神社拝殿金網に守られている狛犬さん新宿区内最古の狛犬とされ、正徳5年(1715年)に奉納されたものだそ
こちらは「はちまん」読みの多い東北地方の拡大です。福島や宮城に地名が集中しているだけでなく、多くは国道4号線(奥州街道)沿いにあるんです!そのほか旧街道沿いに八幡地名が点在しているのがわかりますでしょうか?pic.twitter.com/S3oqdBkpwk—株式会社ゼンリン🗾(@ZENRIN_official)June21,2024八幡呼びにもなりまする神社も八幡宮(はちまんぐう)ですしちょうど先日歴史探偵6月12日(水)22:00〜NHK
上野国(こうずけのくに)八幡荘(やわたのしょう)市民活動センター(ソシアス)からの地域ガイド要請により、その準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう第16回八幡八幡宮源義経伝説平安時代、天徳元(957)年、京都の石清水八幡宮を勧請して創建されました。一国一社の八幡宮として代々源氏の崇敬が深く、源頼義・源義家(八幡太郎)は奥州征伐の折、当社に必勝祈願し、源頼朝は鎌倉に幕府を開くと、参道杉並木の開削、遠鳥居
上野国(こうずけのくに)八幡荘(やわたのしょう)市民活動センター(ソシアス)からの地域ガイド要請により、その準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう第15回八幡八幡宮源頼義平安時代、天徳元(957)年、京都の石清水八幡宮を勧請して創建されました。一国一社の八幡宮として代々源氏の崇敬が深く、源頼義・源義家(八幡太郎)は奥州征伐の折、当社に必勝祈願し、源頼朝は鎌倉に幕府を開くと、参道杉並木の開削、遠鳥居の建
【文武両道グッズ紹介】56…いわき絵のぼり屋外絵幟『八幡太郎勿来の関』4.5m×0.7m文武両道@人形の東月いわき絵のぼり屋外絵幟『八幡太郎勿来の関』4.5m×0.7m文武両道いわき絵幟三代目辰昇作総手描き文武両道の図柄八幡太郎は文武両道でたくましい子供に育ってほしいとの願いを込めて節句幟に描かれます。奥州討伐の際にいわきの勿来の関を通過する際に歌を詠んだ場面を描いております。【吹く風を勿来の関と思へども道もせに散る山桜かな】八幡太郎義家(1039-1106
第21回慎泉会展2024年6月4日(火)~9日(日)リーガロイヤルホテルB1Fリーガロイヤルギャラリーテーマは「和み」。ほっと和んで見ていただける書や工芸、陶芸などの作品をそれぞれ工夫して作成しました。こんにちは、西松庵からお知らせです!慎泉会主催による「慎泉会展」が開催されております。素晴らしい作品の数々ですので、ぜひお勧めです。9日(日)まで開催中です。動画で紹介しておりますので、こちらもどうぞ💁♀️⬇️https://vt.tiktok.com/ZSYkdTU78/
ご来訪ありがとうございます✨道長の取り巻きは…超人ばかりです…凄い逸話です…https://mag.japaaan.com/archives/224480陰陽師・安倍晴明に名医に武神に大僧正…藤原道長の側にいた優れた者たち「瓜の大事件」:Japaaan大河ドラマ「光る君へ」でも注目の藤原道長。彼の邸宅で、安倍晴明も絡む怪異があったのはご存知ですか?その昔、藤原道長の邸宅に、陰陽師の安倍晴明と武神と謳われた八幡太郎義家(源義家)と、名医であり典薬頭(薬を扱う役所の長官)である丹波