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お仕事のご用命は太田社会保険労務士事務所まで!こんにちは。所長の太田です。今回は、東日本大震災の後、日本国籍を取得して「日本人」となった日本文学者・ドナルド・キーンの展覧会の模様をお伝えします。『ドナルド・キーン展』は京王線芦花公園駅からほど近い、世田谷文学館で現在開催中です。辺りは住宅街と樹々に囲まれ、しんとした静かな空気に包まれていました。私はもともとドナルド・キーンの仕事を詳しく知っていた訳ではありませんでした。ただし、私の地元・愛知県田原藩の家老である渡辺崋山に
好奇心旺盛な崋山先生は森羅万象すべてに興味を持っていらっしゃった。勿論〝人間〟もその中に含まれている。特に興味を持たれていたのはやはりというべきか、現代人の目から見ればちょっと風変わりな人間だったようだ。朝日直次郎などはその代表格だろう。崋山先生の四十歳前後に書かれた日記『全楽堂日録』には次のように書かれていた。現代語訳※参考『渡辺崋山』森銑三中公文庫(友人で儒学者の)朝日直次郎の妻が亡くなったというので弔問に出掛けた。直次郎は常陸国の出身である。美濃の木曽義仲の末裔だそうだ。
環四通りとは百年ほど前に計画された環状道路の一つであることはすでに述べた。環三通りはながく工事が続き、通り通称名を外苑東通りとした、とも書いた。環四通りとは不忍通りのことで、不忍池のほとりから反時計回りに進み本郷通りや白山通り、春日通り、音羽通りを通過し目白通りにぶつかって終わっている。この先は実は工事中で、明治通りの下をくぐり神田川を越え外苑西通りにつながるはずである。実はこの道、かなり前に大工事をしているところがある。それは千石交差点から西進した坂で、明治期までの地図ではこの辺
伊賀を出てから、道は再びひらけた。山の静けさを抜けると、人の声と荷の音が戻ってくる。澪は街道の流れに身を置きながら、伊賀で交わした言葉を反芻していた。——再来する戦。確証はない。だが、似ているという感覚は、消えなかった。名古屋の町は、思った以上に賑わっていた。城下を中心に、人と物が絶え間なく動いている。大坂ほどの規模ではないが、東西をつなぐ要衝としての熱を帯びていた。澪は、町の一角にある小さな書肆(しょし)を訪ねた。伊賀の棟梁から、名だけは聞いていた。
最新の西洋事情を研究し尽していた崋山先生だけに、当時の西洋の食文化にも相当精通されていたようです。特にワインに関してはこだわりがあったようで独自の飲み方まで紹介されています。「図らずもウェーン(ワイン)を頂戴しありがたく存じます。これは葡萄酒かと存じます。恐れながら少々水で割って薄めたものか、或いはもともとこのように薄い味の酒か分かりかねますが、味はいただいたものよりは少し濃いワインを飲んだことがあってそれは苦味もかなりきつかったです。私は非常にこのワインが好きで、ただ、このまま飲むのは
先週末渥美半島の田原市博物館に行き、渡辺崋山の遺品などを見学しました。印象に残ったのは「不忠不孝渡辺登」の軸と印刷された椿山宛遺書でした。この椿山宛遺書を読むと何故華山が自死を選ばざるを得なかったかがある程度見えてきます。遺書の大意は分かるのですが、冒頭の部分が分かりません。「半香義会に感」を中心とする最初の2行が分かりません。そこでAIに読んでもらうことにしました。まず写真から読み取ることを求めたのですがこちらは駄目でした。そこでワードでかな、カタカナ混じり一部漢文調の文書を書き出し、そ
展覧会サイトhttps://www.seikado.or.jp/exhibition/current_exhibition/話はさかのぼりますが、11月7日、『静嘉堂の重文・国宝・未来の国宝』前期展示を鑑賞いたしました。この展覧会は前期と後期に分かれていて第4章で宋元の名画が出る後期だけにしようかなとも思ったのですが、前期だけ展示にも気になるものがあったので、500円得になる前、後期パスポートを買いました。あまりやらない贅沢です。この美術館に来るのは初めてだったので、明治生命館にたどり着い
崋山神社拝殿奥正面には高々と立派な扁額が掲げられている。レリーフで崋山先生の御影、渡辺家の家紋である兜貝、そして「敷徳」の文字が見える。「敷」は教え広める、の意で間違いないだろう。では「徳」とは何か。儒教的解釈はAI全盛のこの時代だ。検索一番クリック一つでゾロゾロと様々な解釈論、ご高説が際限なく出てくる。でも、ここは崋山先生がご祭神の崋山神社。やはり崋山先生の言動から学びたいところである。そこで崋山先生から薫陶を受けた最後の愛弟子であり、田原藩士であり、娘婿でもあった松岡次郎氏の『全楽堂記伝』
こんにちは。人肌恋しい秋の夜長、皆様いかがお過ごしでしょうか。私は、腹が減って仕方がないので食べてばかりです。米がおいしくておいしくて。育ち盛りのオヤジです。さて田原城址の続きになります。田原城本丸跡には田原市博物館があるので寄ってみます。ただ内部は写真NGが多いため簡単にスルー。こちらは出丸跡の石垣。現在は崋山会館が建っています。左が本丸跡、右が出丸跡。城の南西に突き出した出丸部分ですが藩政時代と戦国期の名残りが見られて満足です。崋山会館には藩士の
10月28日(火)、『静嘉堂の重文・国宝・未来の国宝』展を見ました。10月4日(土)から12月21日(日)の会期で、前期と後期の展示替えがあります。そのため、『お得な前期後期セット券』も。チラシに、「大阪・関西万博にちなみ、20世紀初頭の博覧会に出品した岩﨑家(静嘉堂)所蔵の琳派や肉筆浮世絵、近代絵画などを皮切りに、国宝、重要文化財、重要美術品、そして未来の国宝!?菊池容斎の破格の巨大絵画が重要文化財『明治生命館』内の当館に登場します。」作品リストは、No.62まで。ただ、展示替えが
日本橋小伝馬町十思スクエア公園内にある小伝馬町牢屋敷展示館を見学に行ってきましたまずは、屋外に展示されている上水井戸と上水木樋地下に眠る牢屋敷の設備を足下のガラス越しに見学この頃の江戸市中の上水設備はホント素晴らしいその後、十思公園に隣接する十思スクエア別館で伝馬町牢屋敷の模型を見学慶長年間に常盤橋際からこの場所に移転敷地の広さは2,618坪(8,634㎡)収容者の総数は、江戸時代
丸の内の静嘉堂文庫美術館に行ってきた。東京駅三菱一号館?静嘉堂文庫美術館入口それでは、入ってみる。野口幽谷「菊鶏図屏風」(右隻)山本森之助「濁らぬ水」伝周文「山水図」酒井抱一「麦穂菜花図」伝尾形光琳「布引滝及び鶏図」陳紹英「夏景山水図」解説によれば、「陳紹英は浙江省仁和の人で、字を瓠菴、年垢道人と号した。伝歴の詳細については不明であるが、その画技よりみて文人画の系譜に属する画家であったと思われる。本図には順治十年(
静嘉堂文庫美術館で開催中の「2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)開催記念修理後大公開!静嘉堂の重文・国宝・未来の国宝」展へ行って来ました。今年は大阪・関西万博が開催されました。本展では、それを記念し、岩﨑彌之助、岩﨑小彌太、および静嘉堂として博覧会に出品した品々を皮切りに、静嘉堂ならではの東洋絵画の優品を一堂に展観します。加えて、後世に伝えたい静嘉堂の所蔵品を「未来の国宝」と銘打って紹介しています。さらに、近年修理を終えて甦った作品群もこのタイミングで公開しています。展
こんにちは。日中も過ごしやすくなってまいりましたが、行楽地は夏の暑さの鬱憤を晴らすかのように人だかりができております。かく云う私も、正倉院展、西本願寺、大阪市美術館と催しが詰まっておりますので楽しみです。さてさて今回は三河渥美半島の田原城址の模様をお届けします。今回は電車の旅です。名鉄にて豊橋へ、豊橋からは渥美線で終点田原まで行きます。久しぶりですが綺麗な駅になっていました。駅の近くに城宝寺がありますので行ってみます。渡辺崋山は江戸詰めの田原藩士で、田原藩
静嘉堂@丸の内2025年10月4日〜12月21日前期11月9日までなのでとりあえず行ってきました。博覧会出品作品で構成して一応万博からみ。野口幽谷鶏の目つきの悪さは華椿系にありがち。こちらは修理記念。生真面目模写とわりと自由な模写謝時臣は重要美術品から指定しなおされてないから結構翔らの国宝厳しいかも。薪担いだ人みたら朱買臣の可能性あるのか。人豚の故事。「宮廷の諍い女」にも出てきたな。袁派好きだわ。円山応挙との同時代性渡辺崋山「海錯図」お魚
恋夏です、こんばんは!月末の事務所を抜け出して、善行のチャコ先輩たちのお家に着きました。10月の「恋夏の地理トリップ」は、綾瀬の旧東海道を紹介します。宅地造成されたりして、跡を追うのさえ難しいところもありますが、森のような中や、家と家の間の路地を進む区間も一瞬あります。(写真は再掲です)そもそも、そもそも、綾瀬って、東海道関係ないじゃん…て思っちゃいますね、つい。でも、でも、でもよくよく考えてみると、今の東海道は、小田原~沼津間をかなり無
…7からの続きだよ。8お団子屋さん発見!いずれも美味しく頂きました😋9白猫のミルクを発見!小さくて分かりにくいと思うけど、白猫を見つけました。我が家にはココとナッツがいるので、もしうちに来る子がいたら、白猫のミルクかな。そう思いまして(笑)。10田原城惣門跡11村松愛蔵生誕の地はて?誰だろう?調べてみました。田原藩家老の家の出身の政治家の方なのですね。村松愛蔵(むらまつあいぞう)—自由民権運動の指導者—apec.aichi-c.ed.jp12藩校成章館
今日は、少しく趣きを変えて、根岸鎮衛(しずもり・やすもり)の随筆『耳嚢』(みみぶくろ)巻五「才能不埒(ふらち)を補ふ事」の、馬琴の若い時期の情報を見てみましょう。但し、表記などは、少し分りやすく変えます。山東京伝とて、天明・寛政の頃、草双紙・読本などを綴り、または新風流のたばこ入れなどを紙をもつて仕立て、世に行われしが、かれが高弟と称し、曲亭馬琴と名を記し、あまねく世に流布せる草双紙あまたありしが、その趣向・てには(助詞)のあ
愛知県田原市の田原城です。田原城は、戦国時代初期の文明12年(1480)に戸田宗光によって築城されました。戸田氏はその後5代にわたり田原城を拠点とし、全盛時には渥美半島一帯に勢力を伸ばしますが、天文年間には三河を狙う駿河の戦国大名今川氏の傘下にはいります。ところが天文16年(1547年)に戸田康光(宗光)・堯光父子が、岡崎城主松平広忠の子・竹千代(のちの徳川家康)を今川方の人質として駿河へ護送する途中、逆に敵方である尾張の織田信秀(信長の父)へお金で売りとばしてしまうという事件が起きます(諸
いつものようにそのカタチから見入る。日本には、それぜれ独特な半島があるけれど、愛知県にあるこの半島もかなり個性固有だな。細長くてまっすぐ。真っ先に思ったのはこのフォルムを活かして描くことだった。すなわち形状を塞がず見せる。なぜか?形霊を見せたいから。どうしてか?今あるカタチは、旬の力があるから。はるかむかしの海岸線とは違う壮大で綺麗さをはらむ今必要なカタチやと感じるから。いつなんどき津波地震噴火で変わるから。今を描く。半島と呼ばれるところはとくにそれが色濃
柳田は神島に二泊した。「遊海島記」の「水無月待宵の空の雲」云々により、渡ったのが旧暦の六月十四日(陽暦では八月一日)であることが分かる。島は祭りの最中であったというが、これは恐らく偶然ではない。神島の民俗を記した書籍、『潮騒の島―神島民俗誌―』(田辺悟、同弥栄子著、光書房、昭和五十五年)によると、島では七月十五日に「天王祭」が行われ、大正時代には若者による芝居が行われていたという。「遊海島記」は明治だが、芝居については、社の後の松原に舞台を設けて、「若者等、自ら俳優(わざおぎ)の巧を真似び
クリックしてご覧ください→過去の平成16年から令和元年の一言城宝寺浄土宗案内板古墳と穴倉案内図慶雲寺曹洞宗龍楽寺浄土真宗龍門寺曹洞宗八幡社道標神明社當行寺日蓮宗お寺の催し物案内大黒天ご真言の読経中和菓子屋の団子屋道端の案内板田原市報民倉田原城址の案内板歴史トレイル看板成章館跡田原城のお堀田原市民族資料館袖池田原城惣門跡二ノ丸櫓護国神社田原市博物館博物館裏手石垣博物館駐車場巴江神社崋山神社城のほとり街角の時計台新しい街で
神島については、「神島の岩の花のこと/三月石灰石の表の/気候の変化の為に/いろ白くなるをかくいひ/て見はやす」と書かれている。59頁にも記述があるが、これは「ひかたしほ」という潮が神島の方より渡ってくる、という直接的ではない話である。神島を知る老人は岩の花について語った。それを石灰石と言ったのか、あるいは柳田がそう解釈したのか。岩の花は「遊海島記」にも記載されている。東海岸に石窟(いはや)があり、「五月海気蒸す頃は、此石壁に奇しき花開(さ)くと、昔より言ひ伝ふ、形は牡丹の如く、径(わたり)
六月二十九日。今日は三つのお題を。・菅野真道。・滝廉太郎と『荒城の月』。・鷹見泉石。【菅野真道。】弘仁五年(八一四)のこの日、菅野真道が亡くなりました。享年、七十九。天平十三年(七四一)に誕生しました。延暦十年(七九一)頃に、『続日本紀』の撰修を務めました。六国史の一つですね。おそらく菅野真道に関して有名なのは次の箇所かと思われます(個人的にここの印象が強いので)。延暦二十四年(八〇五)、藤原緒嗣と論争を行いました。緒嗣が「軍事と造作を中止するべき」と言ったのに対し、反論した
熊谷は県庁を置く予定もあったほど、大きな街だった、というよりも北関東随一の街であった。県名も熊谷県というのも想定されていた。熊谷県は北関東の広い地域を指した。戊辰戦争の一連の戦争の中での北関東戦争は、会津戦争の前で知る人は多くないが、大きな戦争だった。いまの北関東が一丸となって反幕府軍と戦った。上野戦争の後になる。北関東戦争では小栗忠順を筆頭に多くの優秀な幕臣が犠牲になった。それ以前は、渡辺崋山が頻繁に訪れており、作品も多く残されていることからもわかるように、文化的にも高水準の
田原城周辺の御家中住宅地図と現代の地図を重ね合わせてみました。画像が粗いのと縮尺が適当なのは御勘弁ください。田原城を中心に家老級、用人級の家柄の藩士が宏大な屋敷地と屋敷付畑地を所有していたことが分かります。間瀬家は現在の田原中学校運動場の3分の2と体育館が建てられている敷地(3,505坪)、丹羽家は同校舎と武道場が建てられている敷地(2,591坪)、村松家は現在の田原中部小学校の敷地の3分の1程の広さの屋敷地(1,050坪)を所有していました。その土地から得られる収穫物はもちろん年貢免除。
渥美鉄道の「三河田原駅」から、比較的近いエリアにある「城宝寺(浄土宗)」があります。渡辺崋山の菩提寺として有名です。田原城の防衛上の「寺町」は、もう少し上にあり、霊厳寺、当行寺、八幡社、神明社などが点在しています。此のエリアは、比較的防備が薄い箇所で「寺下通り」と呼ばれ、城下最南部に並ぶ4カ寺のうちでは、東の端にあります。山門です。本堂です。本堂奥には、有数の画家・書家による作品で、天井が飾られているようです。
旅行けば~第34宿吉田宿東海道五十三次豊川の橋です三河湾、美しいですあかるく静かな湾ですお城をきれいにしている壁塗りの職人さんすばらしい、、現代の「名古屋城」「姫路城」,,etcにまで「プロジェクトX」として、伝統技術の継承が行われています👏
大河ドラマ便乗だし、早くも見放題だしで面白くなさそうな雰囲気満々・・・役所広司さんと内野聖陽さんを眺められるだけでも良いかと見てみました。やはり、あまり面白くはなかったです。滝沢馬琴(曲亭馬琴とするのが正しいらしいが)の28年にも及ぶ超大作「南総里見八犬伝」の制作を葛飾北斎との友情を絡めながら、「南総里見八犬伝」のシーンを交えながらでした。それでも良かった点として、・渡辺崋山が田原藩家老として登場。絵も・「南総里見八犬伝」の制作最終盤では馬琴は視力を失っており、嫁のお路さ
旅行けば~第34宿吉田宿東海道五十三次三河湾美しいですよ行った事、、有りますよ!豊川の橋!橋も立派です。あ、また立派なお方を思い出します。(o^―^o)ニコ近藤寿市郎翁です。豊川用水!です。👏ぜひ、豊川用水のホームページで学んでいってほしいです。渥美半島、、魅力いっぱいですよ。