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貴様と俺の碑海軍航空隊鹿児島基地跡の石碑というか、鴨池小学校の前のバス停から市営バスに乗り、鴨池市営プールのバス停で下車。鹿児島市勤労女性センターの隣、駐車場スペースの角地の木々が植えられたスペースに「貴様と俺の碑」があります。鹿児島海軍航空隊任隊者有志の方々により、1966年(昭和41年)に建てられた碑。なんだか、すっごい愛と哀惜がこもった碑です。中村晋也という方の造った碑ということです。「多くの若鷲がこの鴨池に巣立ち祖国防衛戦に散った」と碑に刻まれています。
鹿児島にもあった予科練の空指宿駅から菜の花特急という電車に乗って南鹿児島駅で下車。南鹿児島駅から海側に行くと、「鴨池」という地名の地域があり、そこに鹿児島海軍航空隊がありました。航空基地跡は戦後民間飛行場となり、1972年までは鴨池空港として、空の玄関になっていたそうです。その後溝辺の現在の位置に鹿児島空港が移されました。鹿児島海軍航空隊は、予科練の練成を行おうということで始まりました。茨城県・土浦の予科練だけでは足りなくなり、鹿児島市の鴨池海岸にあった鹿児島市営の水陸両用の飛行場を予
こんにちは。本日は、台湾在住K.T様より、台湾の日本軍愛好家の皆様との交流写真が届きましたのでご紹介したいと思います。皆さま、様々な軍装でお集まりになっています。髙雄の漫画フェスティバル会場と震洋神社付近にて向かって左から、陸軍航空兵、海軍航空隊搭乗員、海軍陸戦隊隊員、陸軍航空兵。何か打合せしているのでしょうか。陸軍と海軍での作戦会議のような(まぼろしの)陸軍航空兵と海軍航空隊搭乗員震洋神社付近での海軍航空隊搭乗員の再現奥の御方は初期の前
ニチモの零式三座水偵が完成しました元々このキットは小学生時分にサンシティで見かけてから欲しいと思っていたものの、難しいイメージが先行し買わないでいたら店頭でとんと見かけなくなりしばらく忘れてたらまさかのニチモが廃業という。。ということで、作ることはないだろうなーとぼんやり考えてたら、今回まさかの廃業寸前に出したキットの中古が地元オフハウスに!しかも3,300円という、廃業したメーカーの中古にしては驚きの安さで、そりゃ買うわなと。作ってみたら、ギミック満載の昔のキットで
水上機基地、指宿1944年(昭和19年)1月に指宿の地に海軍航空基地が置かれ、第453海軍航空隊の基地となりました。第453海軍航空隊は、もともとは高知県幡多郡宿毛町の指毛基地にあり、水上機の搭乗員の教育を行っていたのですが。戦況が厳しくなるにつれ、教育隊ではなく、実戦部隊となっていきました。零式水上偵察機(万世特攻平和祈念館で見た機ですね!)、九四式水上偵察機、零式観測機で、索敵活動や対潜水艦の哨戒活動をしていました。沖縄戦が始まると南西諸島方面索敵の要めの基地となりました。そして
出水海軍航空隊ゆかりの戦跡出水特攻碑公園の近くには、出水海軍航空隊ゆかりの戦跡が残されています。出水特攻碑公園の前の大通り沿いに、幾つか戦跡があります。↑気象観測所民家の一部として建っています。個人宅の庭の中にある感じなので中に入るのは差し控えて、道路から撮影。航空隊の作戦にとって気象は重要情報でしたからねえ。でも、海軍の気象観測施設が残っているって、珍しいのではないだろうか。↑ボイラー室お花が植えられていて、地元の方がきちんと保存活動をなさってくれていますね。ここらへんには航空隊
出水海軍航空隊1943年(昭和18年)に、鹿児島県の現在の出水市に出水海軍航空隊が開隊。当初は搭乗員の訓練をしていましたが。戦況が厳しくなるにつれ、出水も特攻隊の出撃地になっていきます。アメリカ艦隊が沖縄に侵攻していく中で海軍は菊水作戦の名のもとに恐ろしいほど多くの特攻隊を沖縄へ出撃させています。鹿児島の、鹿屋、出水、串良、国分は特に特攻隊が多く飛び立った飛行基地です。各地の航空隊から飛んできた特攻隊がこれらの飛行場から沖縄へむけて出撃していきました。出水といえば、私にとっては『雲の墓標
伝説の紫電改部隊零戦の後継戦闘機、紫電改。源田実司令率いる三四三空で、太平洋戦争の末期、光芒を放った紫電改部隊。鴛淵孝大尉が率いる七○一隊(通称が維新隊)菅野直大尉が率いる三〇一隊(通称新選組)そして、林喜重大尉が四〇七隊(通称天誅組)を率いていました。林大尉についてはこのブログでも「大変な部下思い:四〇七隊長林喜直大尉」で紹介しております。『大変な部下思い:四〇七隊長林喜重大尉』林大尉の紫電改引き揚げプロジェクト進行中!以前「よみがえる紫電改」で、鹿児島県阿久根市折口海
fuyunoA&B、鹿児島へ行く飛行機が大の苦手な私。いえ、見るのはいいのよ、見るのは・・・。零戦見たり彗星見たり、見るのは好きなのですが・・・。飛行機に乗るのが苦手。怖い。とにかく避けたい。しかし・・・飛行機に乗らねば行くことができない海軍航空隊跡地は多い。・・・ということで一大決心して、鹿児島県にある海軍航空隊跡地を巡る旅に出ることにしました。そして陸軍の飛行場跡も回ってこようと。第二国分海軍航空基地跡(十三塚原)出水海軍航空隊跡折口の林喜直大尉の慰霊碑と紫電改が沈んでいる
1941年(昭和16年)12月8日。ハワイの真珠湾を日本海軍が攻撃した日。その日から太平洋戦争が始まりました。あの日、真珠湾を攻撃した日本海軍の飛行隊の陣容は、第一次攻撃隊182機と第二次攻撃隊167機の合計350機。魚雷を放つ艦上攻撃機(艦攻)、爆弾を放つ艦上爆撃機(艦爆)、そして敵戦闘機と戦闘する零戦と、3種類の航空隊が出撃しています。総指揮官は淵田美津雄中佐。淵田中佐の指揮官機から、有名な「トラトラトラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)の電信が発せられました。その時の海軍攻撃飛行隊を
日本海軍では航空機に乗る搭乗員には追加で航空糧食というものが提供されたそうです。プラスアルファの食事ですね。吉田俊雄著『日本海軍のこころ』(文藝春秋)によると。平時卵1個、または牛乳1合航空時白米砂糖いりビスケット牛肉または魚肉生野菜生果物紅茶、コーヒー、ココア白砂糖牛乳サイダー、シトロエンなどの清涼飲料当時としては結構ゴージャスな食べ物ですねえ。さて、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃の時の搭乗員達は何を食べていたでしょう?瑞鶴の攻撃隊が食
12月7日15時より、NHKBSプレミアムで『トラ・トラ・トラ!』が放映されます。バッチリ録画しちゃうもんね。リピート見しちゃうもんね。この映画、以前、アマゾンプライムビデオのレンタルで見たのですが。強烈な印象を受けた真珠湾攻撃を描いた戦争映画。「トラ・トラ・トラ!」は1941年(昭和16年)12月8日、日本海軍の真珠湾攻撃隊の淵田美津雄指揮官機から発せられた、ハワイの真珠湾奇襲に成功したことを知らせる暗号電信。意味するところは「ワレ奇襲ニ成功セリ」。1941年12月の真珠湾攻
アマゾンプライムで桜花を描いた映画「サクラ花」が配信開始になったので見てみたのです。桜花。若い搭乗員の命を部品として扱った非道の特攻兵器。当時の最先端ロケットエンジンを装備し高速で敵艦に向かっていく。一式陸攻に敵艦近くまで運ばれて切り離されロケットエンジン噴射。桜花は飛行機というよりも滑空機。プロペラも車輪もなく、ただ高速で敵艦に突っ込んで行くだけ。まさに人間爆弾。この桜花に乗るのは若い搭乗員達。学徒出陣で海軍に入り少尉になった予備飛行学生達も多かった・・・。桜花については
今、この時!―南太平洋海戦真珠湾攻撃の後も、村田少佐率いる雷撃隊は戦い続けます。しかしミッドウェー海戦で日本海軍は惨敗。ミッドウェーの雪辱を果たそうと必死の南雲忠一長官率いる南雲機動部隊。南雲長官は、旗艦翔鶴に乗り、南太平洋海戦に挑みます。村田少佐は翔鶴の飛行隊長となっていました。南太平洋海戦は、ソロモン海域で行われた空母決戦。1942年(昭和17年)8月にアメリカがガダルカナル島に上陸して以来、ガダルカナルを巡る激しい攻防戦が展開されます。起こった海戦を時系列にみれば第
春風駘蕩村田重治少佐(むらたしげはる)。海軍兵学校卒58期。長崎県出身。戦死後、二階級特進で大佐。享年33歳。(↑写真はWikiからお借りしています)豊田穣氏によれば村田少佐のあだ名は「ブーツ」。いつも飛行ブーツを履いていたからとか。山本悌一郎氏によれば村田少佐のあだ名は「ぶつ」。仏をさすということ。春風駘蕩とした仏様のような風采だったからとか。どちらが本当かわかりませんが。あるいはどちらも本当かもしれません。豊田氏も山本氏も共通して書いているのが、村田少佐は闘志を胸に秘
fuyunoB、美保基地を直撃して挫折私の妹、このブログでいうところのfuyunoB。仕事で鳥取県堺港市に行ったので、フリー時間を利用して、美保海軍航空隊跡を調べようと、美保基地資料館を訪問・・・しようとしたのですが。事前予約が必要だった・・・ということで諦める・・・(事前調査は重要ですね・・・)美保基地資料館は、航空自衛隊美保基地内にあります。事前予約すれば約2時間たっぷり案内して頂けるそうです。↑写真が曲がっとるゾ・・・(^^;)↑パンフレットはいただいた・・・落ち込むfuy
日本画家が描いた戦争画ツラギ夜襲戦。1943年。三輪晃勢(みわちょうせい)という日本画家が描いた戦争記録画です。1943年(昭和18年)の第2回大東亜戦争美術展に出品された絵画。この絵画は、東京国立近代美術館の「記録をひらく記憶をつむぐ展」で展示されていました。ツラギ夜襲戦は、第一次ソロモン海戦とも呼ばれ、1942年(昭和17年)8月、日本海軍がアメリカ艦隊に勝利した海戦です。夜戦はやっぱり日本海軍は強いんだと、当時の海軍が鼻息を荒くした夜戦です。ツラギというのは島の名前で、
はだしのゲン1976年1月24日公開太平洋戦争終了時の広島を舞台に一人の少年を通して戦争の悲惨さと原爆の非道さを告発する。原作は中沢啓治の同名劇画。あらすじ昭和20年4月、太平洋戦争も終わりの頃の広島。国民学校2年の中岡ゲンは、今がわんぱく盛りの男の子。ゲンの父・大吉は、日頃から戦争に批判的だったが、ある日、町内会の竹やり訓練の時「この戦争は間違ってる」と言ったために“非国民”とののしられ、特高警察に逮捕されて拷問を受けた。そのため大吉の家族に、米を売ってくれなくなり、“非国民の子”とし
ゲリラの捕虜となるパラオを発った二式大艇二番機がセブ島近くの海に墜落後、海上を漂っていた搭乗員達のもとに、夜が明けて、現地住民のカヌーが近づいてきて救助してくれました。(↑地図はWikiからお借りしています)問題は、この時、福留参謀長と山本作戦参謀はZ作戦計画書と暗号書類という、超機密書類を防水書類ケースに入れて持っていたことです。本来、この時にこの重要機密書類を海中に沈めないといけないと思いますが、セブ島は一応当時日本の占領地ですし、カヌーの現地住民がフレンドリーそうにみえたという
日本海軍最大の不祥事、海軍乙事件ダバオ誤報事件と並び、いや、それ以上に、日本海軍最大の不祥事といっても過言ではない海軍乙事件。1943年(昭和18年)4月18日、ブイン上空で乗機を撃墜され戦死した山本五十六長官(これが海軍甲事件)。彼の後を継いで連合艦隊司令長官になったのが古賀峯一長官。その古賀長官と幕僚達を乗せて、1944年(昭和19年)3月31日の夜、パラオからダバオへ向けて飛び立った二機の二式大艇が、悪天候ゆえか海に墜落。古賀長官を乗せた一機目はどうなったのかわからない。搭
人間の翼最後のキャッチボール1996年6月29日(土)公開野球への情熱を燃やしながら戦中を生き、特攻隊員として24歳の若さで命を散らせた実在の元プロ野球投手・石丸進一(名古屋軍=現・中日ドラゴンズ)をモデルにした青春ドラマ。あらすじ🛫昭和15年、佐賀商業野球部には“いひゅう(異風)者”と呼ばれたエース・石丸進一がいた。厳しい練習に明け暮れる毎日の中で、彼は東京生まれの女子高生・桜井圭子に出会い、恋におちる。翌年、卒業式を待たずして上京した進一は、兄・藤吉の所属していたプロ野球・名古屋
九州の鹿屋に存在する海上自衛隊鹿屋基地ここに併設されている航空資料館まずは最大の見どころである二式大艇かつて船の科学館で屋外展示されていたものだそうです当時世界最高水準にあった本機のほかに海上自衛隊で運用されていた航空機たちが多数屋外展示をされていますただ屋外展示なだけあってか状態はあまり良くないのが少し残念史料館には旧海軍航空隊から現代までの鹿屋基地の歴史を見ることができ海上自衛隊の航空隊がどのようなことをしているのかが紹介されていました特に対潜哨戒や南極
高座海軍工廠座間には、海軍ゆかりの戦跡と、陸軍ゆかりの戦跡とあり、ダブルで楽しめます。太平洋戦争中、座間には高座海軍工廠があって、零戦の後継機(と期待された)の雷電の工場がありました。そして、陸軍士官学校があった場所でもあります。今回は、海軍編と陸軍編に分けて、座間戦跡を紹介したいと思います。1943年(昭和18年)に、現在の座間市東原一帯に高座海軍工廠が開設されました。約1万人規模の工場で、新型の戦闘機「雷電」を生産する目的でした。工場の周りには、宿舎や倉庫も建てられました。行き方
こんばんは。本日は完成披露宴、戦時中の日本の飛行機って言ったらコレですよね、以前、靖国神社に修復された実機を見た事がありますが主翼幅(11m)って大型トラックと同じですからね、大きい機体なのに2tも無いって・・・まるで拒食症の体ですね。A6M2c零式艦上戦闘機52型丙1945年8月第203海軍航空隊長崎県大村基地所属機A6M2c零式艦上戦闘機52型丙1945年8月第203海軍航空隊長崎県大村基地所属機A6M2c零式艦上戦闘機52型丙
英霊に感謝!石破談話と自民党-公明党の連立が解消、26年の協力関係に終止符した件に関して!宮崎市県護国神社と宮崎海軍航空隊跡-神風特攻隊慰霊碑を慰霊訪問!英霊に感謝!靖国神社、日本全国の護国神社参拝
雨がしとしと水曜日晩酌も早めに切り上げ模型整理先ずは二式戦闘機、鐘馗(陸軍)若松少佐機性能諸元(キ44Ⅱ型乙)全長;8.84m全幅;9.45m全高;3.24m正規全備重量;2106kgエンジン;ハ109(離昇出力:1400馬力)最大速度;615km/h海軍航空隊と彗星海軍航空隊と彗星彗星11型は、スリムな胴体に日本製艦上爆撃機では初の爆弾倉を採用したほか、面積を最小限に抑え内翼側に層流翼を採用した中翼式の主翼などが特徴的な高速爆撃機である
1.10代がつくる平和新聞−ひろしま国:8.6探検隊【原爆投下「8時15分」は違うって本当?】www.hiroshimapeacemedia.jp>Q原爆が投下されたのは午前8時15分じゃないといううわさを聞きました。本当ですか。>Aおっと、学校では常識として、そう習ったよね。ジュニアライターからの素朴な質問だ。投下と爆発した時間の区別が必要かも。真相を探ってみようか。まず原爆資料館に行ってみた。米軍B29爆撃機エノラ・ゲイ号が広島市上空で原子爆弾を「投下」したのも
今月の9月6日、鹿嶋市にあります旧海軍神之池海軍航空隊跡である桜花公園を見てきました。桜花公園は、鹿島工業地域内にある日本製鉄東日本製鉄所の一角にあります。ナビの案内で進みましたが、駐車場が見えにくかったので通り過ぎてしまいました(^^;Uターンして、再度探したら、やっと見つかりました。フェンスに桜花公園駐車場という看板が立てかけてありました。草に覆われてるので、わかりにくいですよね(^-^;駐車場に車を止めて、公園に向かいました。まだ残暑が残っ
前回は戦時中に海軍技術研究所で兵器開発していた防衛大学校の恩師のお話をしました。今回は私の勉強不足で初めて知った海軍よもやま話です。先日、九州の博多駅で列車を待っている時、ふと熊本県の観光案内のデジタルサイネージが目に映りました。「列車とホテルはJTBでまとめて予約!」熊本デスティネーション・キャンペーンのサイネージですが・・・列車内でも同様の案内板が掲示されていました。一般の人はこの掲示板で熊本観光
巌部隊がいた壕fuyunoBの沖縄戦跡巡りは続く・・・。海軍司令部壕から車で10分くらいの所にあるカテーラムイ海軍壕へ。ムイは沖縄の言葉で「森」を意味するので、カテーラ森ということですね。海軍は「寿山」と呼んだそうです。現在は田原公園(たばるこうえん)となっています。カテーラムイ海軍壕には南西諸島海軍航空隊がこもっていました。この航空隊の愛称が「巌部隊」。この航空隊は、海軍司令部壕にいた大田實司令官の指揮下にありました。巌部隊は小禄飛行場(現在の那覇空港)の防衛と、南西諸島の航空