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ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…ameblo.jp※全国の「
天海(166)「慶長五年七月十九日、徳川秀忠、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、下野宇都宮ニ陣ス。徳川家康、増田長盛ノ変報ニ接シ、之ヲ先発ノ諸将ニ告ゲシム。是ヨリ先、徳川家康、石田三成挙兵ニ備へ、越前府中ニ帰国セシム。」(「史料綜覧」)伏見城への総攻撃が始まったころ、先発の秀忠は宇都宮に進出し、家康はまだ江戸にいた。そこに続々と大坂異変の報が入ってきたのである。「慶長五年七月廿一日、徳川家康、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、武蔵鳩谷ニ泊ス。徳川家康、武蔵岩槻ニ泊ス、是ヨ
期間:2024/05/03〜05/04天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額射)雑賀孫一:建角身の導光射)北条氏綱:定礎の英主射)山県昌景:初心銘記射)山手殿:婉然たる風采射)池田輝政:姫路宰相射)伏姫:仁儀八行射)猿飛佐助:神速の跳躍射)加藤嘉明:沈勇の剛将星3射)樺山善久:心眼・参射)榊原康勝:会心撃・弐©コーエーテクモゲームス
※和意谷池田家墓所「二のお山」池田利隆公、正室鶴子の墓所・・・向かって左(奥)が利隆、右(手前)が鶴子の墓です池田利隆公、鶴子の墓戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2️⃣安土・桃山時代織田政権(天正元年1573
--------------------------------------------2024年人大事、地球も大事です。--------------------------------------------2023年物より人。人が大事ですよね。物は後からでも集められます。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)2,826〜3,410円
※和意谷池田家墓所「一のお山」池田輝政公の墓・・・巨大な亀趺(きふ)の上に巨大な櫛型墓が載っています墓の正面には法名ではなく、「参議正三位源輝政」と生前の官位名と本姓(池田氏は源氏を名乗っています)が刻まれています池田輝政公の墓3️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から
【問題】池田輝政の子・池田忠継は、大坂冬の陣では幕府方と豊臣方、どちらに属して戦ったか?【選択肢】幕府方豊臣方【正解】幕府方【解説】池田忠継は輝政の子として、慶長4年(1599)に生まれた。十代の時に訪れた大坂冬の陣に幕府方として参戦したが帰国後に発病し、翌年死去した。享年17。
※和意谷池田家墓所池田輝政公の墓所全景、一のお山、二のお山案内板・・・一のお山、輝政公墓所は、儒教式の墓です円墳の前に巨大な櫛型墓、回りには石製の玉垣が巡り、石扉は厳重に施錠されており、中には入れません池田輝政公の墓2️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅
※和意谷池田家墓所案内板・・・池田輝政公の墓所は「一のお山」になります※和意谷池田家墓所石碑…平成10年に国指定史跡になっています池田輝政公の墓1️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2
日を改めて豊橋公園に行ったところ昨晩から今朝にかけての雨風で桜も僅かとなっていました春爛漫は体感1フェムト秒ぐらい吉田城(豊橋公園)吉田城(豊橋公園内)豊橋公園全体と隣接する市役所の敷地が旧吉田城址です。1564年には松平時代の家康公が、今川方の吉田城代小原鎮実を攻め、吉田城を攻略し、城主に酒井忠次をおきました。酒井忠次は吉田城を改築し、新たに堀を掘ったことが発掘調査で明らかになっています。その後、羽柴秀吉配下にあった池田輝政(照政)が、吉田城の城主となり、大城郭を改造しています。輝
※和意谷池田家墓所入口に建つ巨大な石鳥居と国指定史跡「和意谷池田家墓所」案内板・・・岡山藩主初代池田光政公により2年間の歳月をかけ和意谷敦土山に池田宗家本墓所を築きました平成10年(1998)菩提寺岡山曹源寺とともに国指定史跡となっています和意谷池田家墓所※和意谷池田家墓所配置図案内板・・・この案内板を写真に撮って、パンフレットと見比べてまわりましたが、ほぼ「登山」でフラフラになりました(一から六のお山までしか行けませんでした)しかし、
篠山城は丹波篠山市にある平山城で、日本百名城の一つであり、国の史跡に指定されています。1609年、徳川家康は徳川譜代の松平康重を篠山に封じ、西国諸大名のおさえとして、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に篠山城を築きました。これは天下普請として、浅野幸長・蜂須賀至鎮・加藤嘉明・福島正則ら豊臣恩顧の大名を始めとして、15か国、20の大名を動員し、総奉行は池田輝政、縄張りは築城の名手・藤堂高虎が手がけました。明治に入り、1873年の廃城令で篠山城も取り
今日は#池田輝政が亡くなられた日#大河ドラマ#どうする家康でも出てきた#徳川家康の娘の#督姫を娶った武将#姫路城を今の型に作ってきた姫路城には縁のある#武将です数年前から#池田蝶の#家紋の#前立てを作って#影武者として、#石垣の上で#マネキンのように立っていますその武将名で呼ばれることはありませんが、姫路城で#武将隊として活動する上では重要な#戦国武将また機会があれば出陣させたいです……#推し活#武活#サムライ#姫路城甲
北条氏は豊臣軍の兵糧不足から長期戦を想定していたようですなんせ総勢22万人の大軍ですからそのように考えてもおかしくはないと思いますしかし小田原征伐の前哨戦となる山中城攻めを秀吉は重要視して戦い慣れた池田輝政や徳川家康・豊臣秀次・山内一豊・中村一氏一柳直末・堀尾吉晴と言う精鋭たちを投入して天下統一を決定づけた戦いとなったのでした
例の脚に真剣ブッ刺し事件だがとある記事を見て…初めに加害者の教員を擁護するつもりは全く無いと言っておく。この事件に対してコメンテーターらしき男が「居合道家は何故か知らないけど真剣を使いたがる」と発言。なんでわざわざ危険な日本刀を使うの?なんで居合刀を使わないの?という事。剣術家にとっての日本刀は職人の道具と同義。職人は自分の使う道具に強いこだわりを持つ。同様に剣術家は自分が扱う日本刀に強いこだわり持つ。もっと分かり易く言えば野球選手が自分好みのバットをオーダーする。これと同じこ
大阪からの帰路で、岡山に立ち寄りました。津山城。入園料310円です。無料駐車場あります。あと10日もすれば桜の名所でもある津山城を見ることができたのですが・・・城郭も、石高から考えると相当な大きさで、天守閣もかなり大きかったのが想像できます。森忠政(槍の名手、森可成の子供で、叔父は信長とともに殉死した森蘭丸)が建設に着手。忠政は、江戸城や駿府城の普請でと当時の城作りのノウハウを吸収したと言われ、この名城が1616年に完成したと言われています。建造物も本丸に31・二の丸12・三の丸17もあっ
3月16日が命日・忌日の有名人・著名人37年77歳没(病)ティベリウスさんローマ帝国の第2代皇帝1604年47歳没(病)菊姫さん上杉景勝の正室武田信玄の五女1613年50歳没(中風)池田輝政さん戦国武将、姫路藩主姫路城を現在残る姿に修築1898年25歳没(結核)オーブリー・ビアズリーさんイラストレーター、詩人、小説家1935年58歳没(?)ジョン・ジェームズ・リチャード・マクラウドさん医学者インスリンの発見ノーベル生理学・医学賞194
続・津山城。城内唯一の復元建造物である備中櫓。2002年が築城400年の節目だったそうで記念の一環として復元されたそうです。備中櫓の名は池田備中守長幸(鳥取藩主、池田輝政の甥で森忠政の娘婿)に由来するそうな。何かと縁の深かった森家と池田家。だが、櫓は後回しwまずは本丸主郭部へ。天守は権力の象徴的な意味合いが強く、城の本丸内は至ってシンプルな構造が多い。ほぼ例外なく天守の真下は大きな広場になっている……が、ここに例外があった。この津山城は天守の目前にも虎口が待ち受けてい
コロナ禍前に行った、本に書いていない温泉を紹介しています。oniビジョンの中四国八十八湯第10回でも紹介しました。新設の5大歴史のある温泉に、小森温泉(岡山県)を追加。備前池田藩の御用達の温泉です。アルカリ性単純泉です。かすかに白い湯の華が舞っています。建物も浴槽も大変レトロで、いい味を出しています。特に、地下の浴室の天井の低さが個人的には好きです。浸かると、実に泉質が滑らか。肌が若返ったような気になります。近くに、源泉池があります。ボウフラがわいていたので、入るのをやめま
2023.11.19立派な鉄櫓でした豊橋といえば訪ねたかった吉田城址がある豊橋公園まで吉田城は1505年に築城された今橋城が改称されたもので、昭和29年に復興された鉄櫓が豊川のほとりに建っています。▼土塁と堀の跡も見られます▼石垣(野面積)もしっかり▼鉄櫓(くろがねやぐら)昭和29年(1954)産業文化大博覧会の開催にあわせて模擬再建された復興櫓。天守が倒壊して以降は、隅櫓のひとつである鉄櫓が天守の代わりをしていたと伝わります。内部に入ります吉田城
期間:2024/01/19〜01/21天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額射)雑賀孫一:建角身の導光射)北条氏綱:定礎の英主射)山県昌景:初心銘記射)山手殿:婉然たる風采射)池田輝政:姫路宰相射)伏姫:仁儀八行射)猿飛佐助:神速の跳躍射)加藤嘉明:沈勇の剛将星3射)樺山善久:心眼・参射)榊原康勝:会心撃・弐©コーエーテクモゲームス
「レジェンド&バタフライ」の撮影場所ともなった別名「桐ヶ城」。徳川家康の命を受けて西国諸大名が動員されて築いた天守のない平山城です。関ヶ原の合戦後、豊臣秀頼の存在を警戒していた家康は、1609年浅野幸長・蜂須賀至鎮・加藤嘉明・福島正則ら豊臣恩顧の大名を動員して新たに篠山城を築きました。総奉行は池田輝政、縄張りは築城の名手・藤堂高虎が手がけました。15ヶ国、20の大名の夫役、総勢8万人の労力による大工事は、わずか6ヶ月で完成します。築城工事にかかる人件費・滞在費は全て大名持ちでした。いわゆる天下普
12/23(土)に城友と訪城した最後のお城(3城目)は「山崎陣屋」(兵庫県宍粟市山崎町)です。「篠ノ丸(ささのまる)城」から下山して駐車場から車に乗り、坂道を下ったすぐの所にあります。私達は、「山崎市立図書館」近くに車を置いくと、もうそこは「内堀」跡を綺麗に舗装した道になっていました。「内堀跡」碑↓「内堀」跡↓「山崎陣屋」の資料が「図書館」で貰えないかと入館して伺うと、「ブラやまさき」というガイドブックと「山崎歴史郷土館」の資料をいただきましたので、その後の遺構巡りに凄く役立
名古屋城:愛知県名古屋市名古屋城は1610年(慶長15年)御三家筆頭・尾張徳川家の居城として築城された城です。1607年(慶長12年)に清洲藩主になった徳川家康の9男「徳川義直」は土地が狭く、水害の遭いやすい清洲では尾張を統一することは不便だと感じていました。徳川義直から相談を受けた徳川家康は大坂で勢力を持つ豊臣秀頼や豊臣家の家臣を牽制するためにも天下普請として名古屋城の築城を開始。築城にあたっては「加藤清正」をはじめ、「福島正則」や「池田輝政」など西国や北国
1600年宇喜多秀家は関ヶ原の戦いにより改易・流罪となり姫路藩主池田輝政の弟長政が赤穂領主に任じられました。長政は赤穂郡加里屋に「掻上城」を築城これが赤穂城の前身となります1661年に赤穂城完成。3代浅野長矩が1701年に江戸城中で吉良義央に斬りつけ刃傷事件を起こし浅野氏は即日切腹し改易となり翌年1702年12月14日に家臣による吉良邸討ち入りとなります。
セミナーに行って来た。姫路に住んで、姫路の人は恵まれてるな~と思う事があります。それは姫路城があるだけではなく、あることにより、色々なセミナーが開催され、しかも無料でそれらを拝聴することが出来るのです姫路城の事だったり、姫路城の石垣についてや、千姫、姫路の山城、などなどいろいろな物がありました。前回の朝来市であった「山城サミット」のお話は千田先生と高橋英樹さんのトークで、詳しい専門的なことは何一つありませんでしたが…今回は姫路埋蔵文化財センターでの池田輝政の築城につ
さて、昨日『【信長の野望20XX噺】戦国一の出世頭(1)』大変申し訳ないが、今週は仕事がベラボーに忙しい故に全て吟味している余裕がない。本来なら全く分ける必要はないのだが、数回に分ける……回数は不明。先ずは星5覇道秀…ameblo.jpの続きである。本日最初は星5呪術秀長さん。横列味方防+40%&麻痺治癒縦列味方溜め付与or攻+70%(既に溜めなら攻バフ)全てが“専門家”には及ばないものの、大変便利にまとまった“太閤の右腕”に恥じない性能。最近のトレンド(?)である、溜め付与が無駄
お城に、どんどん近づいていきますが、イルミは、そろそろ終わり。お城付近は、この時間でも結構な人がいます。駅方向へ戻ります。シャチホコのオブジェがありました。いつ頃出来たんだろう?。これはアゲハ蝶、関ヶ原の戦の後、城主となった、池田輝政の家紋です。これは、イルミと、色付いた銀杏のコラボですね。駅で、友人と待ち合わせな
景福寺は、鳥取城下西端に位置する伯耆街道に面した道筋にある。山門前から西に行き、鍛冶側の川の土橋までの町が、新品治町(しんほんじまち)である。景福寺の位置する町は新鋳物師町である。この街道が城下の出入り口となり、往来する人々でにぎわっていた。享保八年(1723)2月城下町人地四八町の一町として起立された町だ。景福寺門前に「大阪陣猛将後藤又兵衛父子之墓」と刻まれた石柱が建てられている。後藤又兵衛は黒田如水の旧家臣であり、筑前六端城大隅城1万六千石の領主だったが、出奔し、豊臣秀頼の軍師となった。