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昨年秋よりお届けしてきました「天守台シリーズ」ですが、年末年始にかけて訪城した「お城紀行」を優先して投稿しましたので、暫しの間中断していましたが、第67弾「鳥取城」から再開いたします。現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケ
さて、昨日『【信長の野望20XX噺】戦国一の出世頭(1)』大変申し訳ないが、今週は仕事がベラボーに忙しい故に全て吟味している余裕がない。本来なら全く分ける必要はないのだが、数回に分ける……回数は不明。先ずは星5覇道秀…ameblo.jpの続きである。本日最初は星5呪術秀長さん。横列味方防+40%&麻痺治癒縦列味方溜め付与or攻+70%(既に溜めなら攻バフ)全てが“専門家”には及ばないものの、大変便利にまとまった“太閤の右腕”に恥じない性能。最近のトレンド(?)である、溜め付与が無駄
全国お城の「石・石垣シリーズ」は、『「石」の使われ方』において「刻印石」が見られるお城をお届けしています。今回は「中編」として「近畿」のお城で見られる「刻印石」です。私が今回掲載するお城以外にも「刻印石」が見られる石があると思いますが、思いついたお城のモノを掲載しました。「刻印石」というのは、近世になって石垣を積上げる際に、請け負った場所(エリア)を示す為の目印として石の表面に彫った印を言います。特に、江戸時代に入り、「徳川家康」が命じた「天下普請」による築城において、1つのお
天海(166)「慶長五年七月十九日、徳川秀忠、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、下野宇都宮ニ陣ス。徳川家康、増田長盛ノ変報ニ接シ、之ヲ先発ノ諸将ニ告ゲシム。是ヨリ先、徳川家康、石田三成挙兵ニ備へ、越前府中ニ帰国セシム。」(「史料綜覧」)伏見城への総攻撃が始まったころ、先発の秀忠は宇都宮に進出し、家康はまだ江戸にいた。そこに続々と大坂異変の報が入ってきたのである。「慶長五年七月廿一日、徳川家康、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、武蔵鳩谷ニ泊ス。徳川家康、武蔵岩槻ニ泊ス、是ヨ
ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…ameblo.jp※全国の「
JRグループの「鉄道開業150年記念秋の乗り放題パス」で、10/18(火)〜20(木)にかけて、山陰、山陽地方の「城巡り」に出掛けました。「鳥取城」(鳥取県鳥取市)に到着しましたので、「北ノ御門」跡から登城を開始します。その前に、歴史と城主についてお話をしておきます。1500年中頃には「久松山(きゅうしょうざん)」には「山名氏」によって砦が築かれました。1573年に、因幡守護の「山名豊国」は守護所をここへ移します。その後、「毛利氏」の傘下になりますが、「織田信長」軍との間
武具の記事です。今回は、岡山城天守閣に展示ある小早川秀秋・池田輝政甲冑です。どちらとも今風にマネキンに着せてあります。写真撮影可能が有り難い。岡山県は、甲冑も甲冑研の岡山支部があり、刀剣も熱心な県ですね。小早川秀秋の具足と陣羽織は靖国神社の宝物館にあるので実物は見たことがあります。本物の具足は、もう少し時代が下がっていると思います。池田輝政の方は、立物は、家紋の揚羽蝶をあしらていますが、どの具足をモデルに制作したかは、よくわかりません。長年の飾りの直しがないのか、兜がズレ落
2018年6月3日JR東海のさわやかウォーキングに参加してます。豊橋駅をスタートして、ぐるっと回って豊橋公園へ来ています。いよいよ吉田城へ登頂します。豊橋公園全体と市役所の敷地を合わせた場所が「旧吉田城址」です。1564年に、松平時代の家康公が、今川方の吉田城代小原鎮実を攻め、吉田城を攻略し、城主に酒井忠次をおきました。酒井忠次は吉田城を改築し、新たに堀を掘ったことが発掘調査で明らかになっています。その後、羽柴秀吉配下にあった池田輝政