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小栗さんとの食事を翌日に控え、重い気分でデスクに戻ったおれの元に、一通のメールが届いた。次期プロジェクトにおける担当者変更のお知らせ一瞬、目を疑った。仕事にかこつけて食事の約束まで取り付けてきた小栗さんが、プロジェクトの担当から外れたという。理由は「諸般の事情」とだけ記されていた。「おい、大野、聞いたか?」岡田が、声を潜めて椅子を寄せてきた。その顔は、数日前におれに警告した時よりもずっと険しい。「小栗のやつ、うちの会社、出入り禁止になったらしいぞ」「え……?出禁っ
ご依頼の件、お受けいたします。食事の件も、前向きに検討させてください。結局、おれは小栗さんへ返信メールを打つことにした。仕事と考えれば妥当な回答。だけど、送信ボタンを押す指先が、やけに重かった。おれは椅子の背もたれに深く体を預けた。案件を取りたいという欲と、会社への責任感。それらが、おれ自身を無理やり納得させていた。しかし、一度決めてしまえば、今度は「二人きり」というシチュエーションがじわじわと胃のあたりを重くさせる。胸の奥に冷たい泥が溜まっていくような、形容しがたい嫌悪感が拭え
数日後、小栗さんから次の案件もうちの会社と進めたいという魅力的な提案と、詳細な要件定義の前に二人でゆっくり食事をしたいという連絡を受けた。これは、会社にとって大きな利益になる。仕事として考えれば、この誘いに乗るのが正解だ。会社のためにも、自分のキャリアのためにも。だけど、脳裏をよぎったのは、先日の岡田の言葉。たとえ社交辞令だとしても、あいつの目は笑ってなかった。お前の反応を楽しんでるっていうか……。ああいうヤツが一番、中身が真っ黒だったりするんだ岡田のあの鋭い指摘が、今になって呪文のよ
「……では、今回のデザイン案については、この方向で進めていただければ。それにしても、大野さんの感性には、いつも驚かされますね」取引先であるトライ・ストーン社の小栗さんは、手元のパソコンを閉じると、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。仕事は完璧で、立ち居振る舞いにも余裕がある。仕立ての良いスーツを着こなし、非の打ち所がない、誰もが憧れる大人といった佇まいだ。「ありがとうございます。……あの、時間、大丈夫ですか?今日は少し長引いてしまいましたが」おれが時計を気にして尋ねると、小栗さんは「ああ、そう
さっそく女の子との約束、取りつけましたよ。今週末、参加しませんか?会社の昼休憩中、スマホに届いたメッセージを見て、おれは頬張っていたおにぎりを吹き出しそうになった。見られて困るような内容ではないはずなのに、何故か後ろめたい。誰も覗き込んではいないと分かっていても、落ち着かず、そわそわと周囲を見渡してしまう。向かいに座っている岡田が不思議そうに首を傾げた。あの日以来、塞ぎ込んでいるおれを心配してのことだろう。正直、気乗りはしなかった。けれど、櫻井が「いいじゃないですか。新しい出会い、俺
週末のバーベキューは、櫻井の言う通り、賑やかで穏やかな時間だった。彼の友人はみんな明るく、失恋したばかりのおれを腫れ物に触るようには扱わなかった。それどころか、おれの趣味や仕事の話を興味深そうに聞いてくれる。「翔から聞いてますよ。すごい絵を描かれるんですよね」そんな風に言われるたび、おれは少し照れくさく、けれど久しぶりに自分の居場所があるような充足感に浸っていた。「ちょっと、飲みすぎですよ」夕暮れ時、片付けを始めた連中から少し離れたベンチで、櫻井が苦笑しながらおれの隣に座った。「.
彼女と別れてからの数日間、おれの生活は彩りを失った。仕事をしていても、ふとした瞬間にあの日の冷ややかな空気と彼女の言葉が蘇り、手が止まる。おれはそんなに、誰かを追い詰めるほど自分勝手だったんだろうか。「大野さん、顔色悪いですよ。……また根詰めてるんですか?」背後から声をかけられ、肩を震わせた。振り返ると、そこには後輩の櫻井.翔が立っていた。おれの一年あとに入社してきた櫻井は、仕事が丁寧なだけでなく、驚くほど周囲に気が利く男だ。整った顔立ちに柔らかな笑みを浮かべ、櫻井は俺のデスクの端
銀座の路地裏。看板のないフレンチレストランの重厚な扉を開けた瞬間、冷ややかなバロック音楽が耳を撫でた。おれは慣れないネクタイを指で緩め、案内されたテーブル席で小さく息を吐く。「智くん、お待たせ」彼女は出会った頃と変わらず可憐だ。だけど、その微笑みにどこか違和感を感じた。「ううん、今来たとこ。はい、これ」「……ありがとう」差し出した小さな花束を受け取る彼女の指が、一瞬、おれの手を避けるように動いた。食事が始まっても、会話はどこか上滑りしていく。仕事の話や、おれが最近描いている絵
キスが解けてもすぐには離れられなかった。額と額がそっと触れ合ったまま、ふたりはただ静かに息を整える。世界はまだ、雨の音で満ちている。他にもう何も聞こえなかった。大野の指先が、櫻井のシャツの袖をつかんだ。その微かな力だけが物語っていた。櫻井がゆっくり顔を上げる。「……ホテル、来る?」その問いに、大野はふと目を伏せた。口元には、少しだけ苦笑が滲んでいた。「あ、いや、別に……そういう意味じゃなくて……ほら、このままじゃ風邪ひくだろうし」「ふふっ。うん、わかってる」雨は少しずつ小降りに
取材が終わったのは、まだ昼前だった。スタッフが片づけに入る中、ふと隣を見れば、大野がさりげなくスマホをしまいながら言った。「……このあとって、時間ある?ちょっと歩くんだけど、いいとこ、あるんだ」それはまるで、長年暮らしていた街の住人にしか出せないテンポで。櫻井は軽く頷き、ふたりは撮影スタジオを出た。*昼下がりのニューヨークは、午前の緊張感が嘘のように穏やかだった。車の喧騒もどこか遠く、空気はやや湿り気を帯びていたけれど、風が心地よかった。「こっちの道、ちょっと外れると静かで好きなん
インタビューテーブルには、ガラスのボトルに入った水と、白い陶器のカップがふたつ。櫻井は軽く咳払いをして、資料を保存してあるタブレットに目を落とした。インタビューという形式に逃げ込まなければ、バランスを崩してしまいそうだった。「じゃあ、始めましょうか」スタッフの合図に櫻井が静かに頷き、口を開く。「ニューヨークでの生活はいかがですか?」大野は少し笑って、小さく肩をすくめる。「うーん……最初は、やっぱり寒かったかな。空気も人も、ぜんぶちょっと距離があるっていうか。でも、慣れるとその距離感が
スタジオの壁に、午前の陽光が射し込んでいる。マンハッタンの外れ、アート系のスタジオが多く立ち並ぶエリアの一角。カメラマンが機材をチェックし、照明スタッフが角度を調整している。英語と日本語が交じる現場のざわつきが、取材当日の緊張感をさらに高めていた。櫻井はモニターの前で、台本を静かに確認していた。黒のジャケットに白いシャツ。タイは少しだけラフに緩めてある。新人とはいえ何本も現地取材を経験してきた櫻井にとっては、いつもと変わらない朝──のはずだった。だけど今日だけは違う。一枚の扉の
取材決定の知らせは、あっけないほどあっさりと届いた。メールには大野のマネージャーからの返信が添えられていた。日程の提案、現地スタジオの住所、そして「当人も快く承諾しております」との言葉。本当に、あっさりと。胸の奥では波のような感情が絶え間なく打ち寄せているというのに。「取材、よろしくお願いしますね。櫻井くんなら安心だ」ディレクターが笑顔でそう言って、櫻井の肩にを軽く手を添えた。ニューヨークロケの取材対象は大野の他にも何人かいた。活動歴や関係者のリスト、スタジオの名前、タイムテー
会議室にこもる午後の空気は、少しだけ重たかった。ニュース特集の次回のテーマが決まらず、ディレクターやAPたちは手元の資料をめくりながら、候補案を探っている。「この前好評だった、“海外で活躍する日本人”シリーズ、またやりませんか?」若手のスタッフが手を挙げる。「前回のフランスの建築家も反応良かったし、今度は文化系で……例えばダンスとか、芸術分野とか」櫻井は、タブレットにペン先を落としたまま、その言葉に静かに反応した。「……そういえば」ディレクターが何かを思い出したように言う。「この前
タクシーのドアが、静かな音を立てて閉じる。その音はまるでひとつの幕を引くようだった。車内に、再び沈黙が満ちる。櫻井は動けなかった。手も、足も、視線すらも。タクシーの運転手がルームミラー越しにこちらをうかがっている気配がしたが、構う余裕はなかった。──"おれが好きなだけじゃ、戻れない"その言葉が、胸の奥に鈍く残っていた。それは大野が自分の気持ちを否定したように聞こえた。──"今でも翔くんのこと、好きだよ"あの人は今もどこか自分よりも他人の感情を優先してしまう。“変わってるかもしれ
タクシーのドアが閉まると、車内に静けさが満ちた。窓の外を流れていく東京の街並み。それらがフロントガラスに滲みながら、どこまでも淡々と景色を変えていく。大野は窓の外に目を向けたまま。櫻井も同じく手元で指を組んだまま、何も言わずにいた。車内は運転手が流していたラジオの音だけが聞こえる。しばらくして、沈黙に耐えかねた櫻井が口を開いた。「……すみません、今日は」「なんで翔くんが謝るの?」「いえ、なんか……疲れてるはずなのに付き合わせしまって」「……ううん。そんなことないよ」大野の声はとても優し
第二の部屋に踏み込んだ瞬間、櫻井は思わず眉をひそめた。そこは、先ほどの白い部屋よりも一回り狭い。おまけに、天井からは絶え間なく重低音のノイズが流れ、隣に立つ大野の気配すら掻き消そうとしている。正面にはぽつんと、一組のワイヤレスイヤホンが置かれていた。壁のモニターが冷たく光る。【MISSION2】イヤホンから聞き取った3つの『キーワード』を正確に相手に伝達せよ。櫻井は瞬時に思考を巡らせた。この轟音の中、正確に言葉を拾い上げ、正解を導き出すには、並外れた集中力と語彙の推測が必要だ。「
「お疲れ様でしたー!」バラエティ番組の収録を終えたスタジオに、櫻井.翔の張りのある声が響く。数時間の緊張感から解放され、ネクタイを少し緩めながら、勝手知ったるテレビ局の廊下を歩く。迷うはずのない、幾度となく往復してきた角を曲がり、自分の名前が貼られた楽屋のドアを開けた。「……あれ?」踏み込んだものの、違和感に足が止まる。そこにあるはずの自分の荷物も、メイク台もソファもなく、代わりに広がっていたのは、窓一つない、四方を真っ白な壁に囲まれた無機質な立方体の空間。背後を振り返るが、そこはすでに
深夜。局近くの居酒屋の個室。番組スタッフ数人とプロデューサー。そして大野と櫻井。テーブルには料理が並び、乾杯のグラスが交わされる。櫻井は一口だけビールを飲んで、静かに周りの話に相槌を打っていた。スタッフのひとりが気を利かせて、「櫻井さんと大野さんの大学時代、どんな感じだったんですか?」と話を振ってくる。ーーーやめてくれ。今一番触れてほしくない話題!「んー、翔くん、真面目でしたよ。毎回ちゃんと講義に出てみたいだし」「いや、それダンスじゃなくて普通の授業の話じゃないですか」スタッ
番組終了後、大野はスタッフに囲まれ、笑顔で礼を言っていた。放送中は張り詰めていた空気が、スタッフの笑い声やモニターの明かりに和らいでいく。けれど、櫻井の中だけがずっとざわついていた。収録中、プロとして振る舞う大野の姿を見ながら、何度も言いかけては呑み込んだ言葉があった。「……翔くん」櫻井はひと足先に控室を出ようとしたところで、呼び止められる。「……ん?」「お疲れさま。連絡くれてたのに、返せなくてごめん。ずっと見てたよ」背中が跳ねる。「ただ……返したら、たぶん、帰りたくなってたと
一面ガラス張りの高層ビル。23時。都内某テレビ局・報道スタジオ。今日も変わらず、情報を届ける時間。櫻井.翔は、スーツの襟を整え、照明の下で台本に目を通していた。毎晩、同じ時間に放送される報道番組。政治、経済、社会情勢……感情を挟まず、事実を正確に伝えることが求められる世界。でも、今日は違う。いつも通りに見せなくてはいけないのに、心臓だけが異様に騒いでいる。理由はわかっていた。今夜の特集コーナーのゲスト——「ニューヨークを拠点に活動するダンサー、大野.智さんです」4年半ぶりの
大野は一人、母校のサッカー部の部室の前に立っていた。櫻井は約束を覚えているだろうか。もしかしたら、もう忘れてしまっているかもしれない。不安を抱えたまま、部室のドアを開ける。床板を剥がし、取り出した缶の蓋を開けると、二通の手紙が静かに重なっていた。大野は、震える手で櫻井の封筒を開いた。「……おせぇよ」大野の目から、涙が溢れ出した。自分に見合う男になってほしいなんて、一度も願ったことはない。不器用でも、迷っていても、ただ隣にいて欲しかった。「……っ、智くん」背後から、聞き慣れた
高校の卒業式。校舎の方からは、まだ卒業生たちのざわめきが聞こえる。使い込まれた石灰の匂いと、埃っぽい空気を含んだサッカー部の部室で、櫻井は、隅にある重い備品棚の裏の床板を少しだけ持ち上げた。「ここなら、たぶん誰にも見つからないと思う」二人は、一通ずつ手紙を入れた小さな缶を、その暗がりにそっと置いた。櫻井は、心の中で誓う。(智くんに見合う自立した男になる。その自信が持てたら。そしたら-----)櫻井は、部室のドアをそっと閉めた。これが、二人が同じ時間を過ごした最後の日だった。*
放課後に呼びつけられて出向いた先で、教師がつらつらと話すのは、先日の模試の判定を誉めそやすだけの中身のない内容だった。荒立つ心を押し殺して聞き流していた櫻井は、待ちぼうけているであろう大野のことで頭がいっぱいだった。話もそこそこには駆けつけた櫻井を、大野は出迎えるようにゆったりとそばへ寄っていく。「翔くん、おつかれぇ」ふにゃりといつも通りに笑う大野を前に、息を整えながら櫻井は瞬く。「あ…あぁ、うん…遅くなってごめん」「ううん」朝から降り続いていた雨は、放課後のチャイムが鳴るのを待って
街灯が一つ、また一つと消えていく。坂道を上り、小学校へ続く国道を、二人は風になって駆け抜ける。やがて見えてきた、懐かしい校舎。その裏庭には重機が置かれ、フェンスに囲まれたその場所は、かつての遊び場とは違う顔をしていた。「……あ、あそこだ。ニワトリ小屋の裏」フェンスの隙間から忍び込み、二人は静まり返った裏庭に立った。湿った土の匂い。小さなスコップで泥だらけになりながら掘り起こしたのは、錆びついたクッキーの缶だった。二人が顔を見合わせたとき、東の空が爆発したような劇的なオレンジ色に染
東の空が、藍色から微かに白み始めた頃。櫻井.翔は、静寂に包まれたマンモス団地の前にいた。ツンと鼻をつく、夜露に濡れたアスファルトの匂い。まだ誰も目覚めていないこの時間、世界には自分と、愛車のマウンテンバイク(隣のクラスの相葉いわく"チャリンコ")しか存在しないような気がする。櫻井は、汗ばんだ手の平をジーンズで拭い、団地の一角の窓を見上げた。静寂の中でそこだけが、櫻井の意識を引き寄せる。(……智くん、起きてっかな)昨日、サッカー部の練習を終えた櫻井は、今や定位置となった図書室の片隅でう
大野が旅立つまで、あと三ヶ月。あの雨の日、傘の下で宙に浮いたままの返事は、季節が巡っても届けられることはなかった。ダンスサークルのスタジオへ向かう足は日に日に重くなり、櫻井はいつしか、逃げるように大野との接触を断っていた。酔った勢いの一夜。それに縋り付いて、運命だと勘違いして。先走った自分を嘲笑うたび、胸の奥がひりひりと焼ける。ふにゃりと笑う眉尻も、指を通したくなる柔らかな髪も、重力を忘れさせるダンスも、その細い体に宿る熱も。全部、忘れなければならない。枕に顔を埋め、声にならない嗚咽を
いびつな三角形の食卓個展の最終日。閉廊間際のギャラリーで智が最後の片付けをしていると、背後から聞き慣れた、けれど以前よりずっと甘い響きを含んだ声がした。「智くん、お疲れ様」振り返ると、そこには病み上がりとは思えない凛とした佇まいで、完璧にスーツを着こなした櫻井が立っていた。「あ、翔くん。もう大丈夫なの?」「ええ。おかげさまで。……それで、先日の看病のお礼をさせてほしいんです。よかったら今夜、二人で飲みに行きませんか?個展の成功も祝わせてほしいですし」智が返事に迷っていると、入り
あの一夜から、櫻井の夜は一変した。目を閉じれば、雨音に混じって聞こえた大野の甘い声が蘇り、シーツを掴む指先にまで熱が宿る。(「好き」って言われなかった......)付き合ってほしいという告白。それに対する答えは、今も曖昧な霧の中に消えたままだ。あの熱は、ただのアルコールの悪戯だったのか。募る想いに胸が張り裂けそうになり、櫻井は隣に誰もいない布団をきつく抱きしめて丸まった。*鬱屈とした感情を叩きつけるように、櫻井はいつもより早く大学の練習スタジオへ向かった。重い扉を開けると、そこには既に一
銀だらの焦げ目と、誰かの残り香出張帰りの新幹線、潤は智の顔ばかり思い浮かべていた。たった二日。それなのに、智のいない夜はあまりに長く、味気なかった。出張先で買った銘酒と、智が好きそうな珍味の入った紙袋を握り直し、潤はマンションの廊下を足早に進む。しかし、自分の家のドアを開ける直前、櫻井の家のドアが静かに開いた。「……あ」出てきたのは、少し眠たげな目を擦り、髪を乱した智だった。「智?.....何してんの、そんなところで」「あ、潤。おけぇり。……いや、翔くんがひどい風邪引いちゃってさ。ち