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•••さて!今回のお買い物記事は初ですかね?『デカール』のみという…あっ、デカールというのはプラモなどに使うシールなのよ(@ ̄ρ ̄@)←それでは!\(〃゜Д゜)ノ{…物欲バンザイ!あっ、ところで…この季節といえばパンのシールが有名ですよね?ということで?タイトルの元ネタもここに書いておきますわ(@ ̄ρ ̄@)←香澄ちゃん「赤チェック袋きたーーw」蘭ちゃん「ここでは定番の袋だからねw」有咲ちゃん「ということは、鉄道模型のお店ってことだが…この袋の薄さは……」香澄ちゃん「タッキーで
わに塚(山梨県韮崎市)の名前の由来は日本武尊の王子、武田王が埋葬された場所なので王仁塚と呼ぶようになったといわれます。今日は、その「わに塚」の桜が満開でした。武田廣神社の境内にあります。ホツマツタヱによると、日本武尊との間に、尾張の宮簀媛が武田王と佐伯王の2人を産んだとされます。武田王は、武田の祖と言われます。
武田信玄は、NO.2に弟の信繁を家臣におく。父である信虎を駿河へと追放し、武田家の家督を継いだ。飢饉などが続いた時で、食料不足に陥り、民衆に用意しなかったら甲州の人々に総スカンを食らう。追放されたのもそういう理由ではないかと言っていた。信玄は、何故上杉謙信との戦いの川中島にこだわったのか?それは、越後制覇の足掛かりにするためだったらしい。しかし、その戦いで弟の信繁を亡くしてしまう。これが番組でいう信玄の敗北だという。信繁の存在は、信玄の右腕であり、裏方
お客さんとの打ち合わせが終わって、帰りのタクシーの中で今日の打ち合わせについて雑談をしていたのである。お客さん方の部長がとても若く見える人だったので、「秋山さん(その部長さん)!若いよねぇ〜」と同僚に私の印象を伝えようとしたら、タクシーの運転手さんが「いやぁ〜、もう60を過ぎました!」と話題に入ってきたのである。運転手のプレートを見ると、運転手さんも秋山さんだったのである。そこから、運転手さんの武田家談議、秋山家自慢が駅まで続いたのである。武田家24将の1人、秋山虎繁の流れ、分家、秋山家
2/25の甲府お昼の気温は1℃いかないくらいだったかと…最高気温が3℃の予想でした…18日がこの天気でなくて、助かりました(´Д`)ハァ…LanLan、寒いのは苦手だもん人って、寒いと歯がカチカチして自分の意思では止められないって、本当にあるんだって山梨で経験しましたね😱清里だったかな寒いほどお得、ってキャンペーンがありますね絶対に、LanLan、無理ですよ(笑)さて▲東京エレクトロンというのは、ネーミングライツですね確か、市内に工場があるんです▲ニーラは、韮崎市の
ヽ(。・`ω´・)ノ・*:..。o○☆*゚。+゚GOODMORNING!。+゚☆★(*´ひ`*)ヽコンニチゎデス!!!(*´ひ`*)ヽ☆★平素より大変お世話になっておりますm(__)mどうも鏡夜です(*^^*)このブログを見て頂き、そして『いいね!』を押してくださるみなさん、ほんとありがとうございます!m(__)m心よりお礼をいたします^^2024年も飲食を楽しんで参ります!(≧▽≦)2024.14杯目のラーメンで伺ったお店は・・・『横浜家系ラーメン武田家札幌すす
信玄に仕える前の山本勘助ではないけれど世の中的に無名の自分が果たしてどんな風に評価されるのか自分で思っている実力と果たして相手が自分に感じるもの自分の外見だったり実力だったり年令、経歴、資格の有無、それらが、どんな風に映るのかをちょっと楽しみに感じる今日この頃山本勘助が武田信玄に出会ったことによって仕官が決まるその後も、ちゃんと実力を評価されて行って軍師にまで上り詰める武田家の前に、今川義元のところに仕官に行ったけれどそこでは
小山田平(へい)八(はち)は何ら間違ったことを言ってはいない。小山田平(へい)八(はち)の言ったことこそ、この時分(じぶん)において主流の考え方であり、家の繁栄(はんえい)を願うのは武家として至極(しごく)当然のことである。加えて、郡内(ぐんない)は狭く貧しい土地である。領外(りょうがい)へ出ていかなければ、領地(りょうち)を広げなければ、いつまで経っても自らも民も豊かにはなれない。小山田家の考え方はあまりに土豪(どごう)的で前時代的、つまりは母系社会の名残(なごり)のような閉鎖的(へ
玉ねぎトッピングはやはり最高✨ランチはライス無料です!・しょうゆラーメン・赤家系ラーメン(確か、、)美味しかったーー!横濱家系ラーメン武田家札幌すすきの店·3.8★(166)·ラーメン屋〒064-0804北海道札幌市中央区南4条西5丁目81Fmaps.app.goo.gl
郡内(ぐんない)大月。時は少し前に戻る。小山田信(のぶ)有(あり)が甲斐へ赴(おもむ)き、武田信(のぶ)直(ただ)と会(お)うた日より数日後のこと。甲斐より戻りて息つく暇(いとま)なく、小山田信(のぶ)有(あり)は親族家臣連中にせっつかれていた。「ご無事のお戻り、なによりでございます信(のぶ)有(あり)様。甲斐にてなんぞ危(あや)うい目に遭(あ)われたのではないかと、一同非常に心配しておりましたぞ」「御館(おやかた)様!武田信(のぶ)直(ただ)はなんと?どのように申し
その夜。川田の武田館(やかた)。武田信(のぶ)直(ただ)の部屋へ尋ね来(き)たる者がいた。信(のぶ)直(ただ)は誰(たれ)ぞか問い定めると、目を丸くしながら迎え入れた。正室・蕗(ふき)姫であった。「珍しいこともあるものだな。何用(なによう)だ」蕗(ふき)姫は前置きもなく静かに告げた。「大井は反乱するやもしれません」丸くしていた目をさらに見開いたのち、信(のぶ)直(ただ)は硬く眉をしかめた。「何の話だ」「畏(おそ)れながら、お昼間に家臣の皆様方とお話されていた
からあげ酒場武田家香川県高松市一宮町933-2唐揚げは専門店でいただくと違いを感じます。2021.8武田家で昼食をいただきました。最近増えてきた唐揚げ専門のお店で、イートインも可能なお店です。夜は鶏肉を主とした焼肉もいただけるお店です。ミックス定食をいただきました。料理内容は、チキン南蛮、モモとムネの唐揚げ、ご飯、味噌汁、漬物です。揚げたてを仕上げたチキン南蛮はさくッとした食感で、甘酢とタルタルソースが馴染み美味しかったです。モモとムネの唐揚げも揚げたてで美
武田信(のぶ)直(ただ)が造(つく)った新しい街(まち)は、これまで甲斐(かい)の国には無かったかたち(・・・)のものであった。新しい武田館(やかた)の南側の扇状地(せんじょうち)には、東西南北縦横(たてよこ)いくつも道が敷(し)かれ、まるで京(きょう)か駿河(するが)を手本にしたかの如(ごと)くの街(まち)割(わり)が成(な)された。街(まち)割(わり)の東と西の表(おもて)には、市(いち)が立つよう広場を設(もう)けた。市(いち)があれば商(しょう)が集まり、商(しょう)が集
甲斐源氏ゆうたら文献少ないけど摂津と河内で多田も摂津だしね世のなか大阪は矢張り先にとんでて早いわ甲斐源氏ゆうたら武田家武田信玄やねその甲斐源氏は清和源氏の流れを組むらしいですが世のなか源氏と平家しかないわけでうちは甲斐源氏の流れを組むわけですが南北朝の石津の戦いからみても大阪来てるやん関西来てるやんというわけでだんだんだんだん関西に上陸したはりますのが面白いです次はどこ行かはりますんやらもう関西ここ京都でええけどみんなが憧れていた古都京都やで
甲斐(かい)。武田館(やかた)を訪れた小山田信(のぶ)有(あり)は、武田信(のぶ)直(ただ)への目通りを願った。座敷(ざしき)に上げられ、ほどなくして武田信(のぶ)直(ただ)は現れた。しかし、武田信(のぶ)直(ただ)は腰を下ろすでもなく、小山田信(のぶ)有(あり)の顔をちらり見るなり「ついてこい」と一言声をかけると、そのまま廊下(ろうか)を通り過ぎて行った。小山田信(のぶ)有(あり)は小首(こくび)を傾(かし)げながら立ち上がると、さっさと廊下(ろうか)を遠(とお)ざか
武田勝頼新田次郎著小説徳川家康で設楽ヶ原の合戦、通称「長篠の戦い」が始まる前に読み途中だが、ちょいと寄り道して小説武田勝頼を読んだもっとも謎が多い長篠の戦い三段撃ちの前に騎馬隊がただ単純に突っ込んで行ったというが、合戦はそんな簡単ではない天才信長の策略、裏切り愚将凡将ではなかったが、あまりにも偉大な父を持ったため親類達の支持も得られず立場の弱かった勝頼圧倒的権力者がいての最強の騎馬隊武田家滅亡間際には雪崩のごとく離反してゆく
今日は何の日(^_^)/1569年永禄11年のええ話(^_^)/上杉謙信が敵の武田家に送った塩が松本に着いた日なんやそうです!有名な「敵に塩を送る」の語源になった話。武田と今川・北条氏との合戦の最中、今川氏は北条氏と協力して、武田領内への「塩留」を行います。武田が統治する信州一帯は、海に面しておらず、塩が入らないことで領民は困窮しました。この窮地に、敵方の上杉謙信が「救いの手」をさしのべます。日本海岸の塩を糸魚川経由で牛車に乗せ送ったそうです。敵に塩を送る❗また今日は塩の日にもなってます。
武田菱家紋をデザインに盛り込んだ、おしゃれでカッコいいオーダーメイド門扉(門・ゲート)の、デザインスケッチをご紹介します【Ver.2】。デザインとしては、両開き扉のそれぞれ中央上段に、幾何学文様の一環として武田菱を盛り込んでいますが、一目でそれとわかるというより、「わかる人には、わかる」程度に抑えています。その幾何学文様は、例えば現代で言えばバーバリーチェックを彷彿とさせるような、上品さ・上質さを感じるパターンになるよう、心掛けました。【Ver.2】では、フレームで分割した
前回記事で、武田信玄入道晴信で有名な家紋「武田菱」をデザインに盛り込んだ、おしゃれでカッコいいオーダーメイド門扉(門・ゲート)の、デザインスケッチをご紹介しました。全体をして、上品かつ、上質、気品に溢れ、格式高く、おしゃれで、カッコいいデザインに仕上がったと書きましたが、それには「武田菱」自体が持つルーツやデザインのチカラに理由があると思っていますので、今回はその辺りを補足していきます。そもそも、「武田菱」と呼ばれる家紋は、数多くある菱紋の一種に過ぎません。また、天皇家でも使用して
※武田氏館全体図…主郭、西曲輪、北曲輪、味噌曲輪、隠居曲輪、稲荷曲輪、東大手曲輪(馬出)、梅翁曲輪(南側、徳川期に増設)…周りは完全に宅地化されていますが、中世居館遺構がほぼ完存しています武田氏館(躑躅ヶ崎館、武田神社)に行きました!3️⃣100名城No.24武田氏館(躑躅ヶ崎館、武田神社)には、今回初めて行きました。室町〜戦国期の遺構がほぼ完存する全国的にも非常に珍しい城であることがよくわかりました😃※武田氏館東大手復元土塁…巨大な山のような土塁…宅地、水
※武田氏館(躑躅ヶ崎館)配置図…主郭(中、東曲輪)と西曲輪を中心に建物を配置していました。武田氏館(躑躅ヶ崎館、武田神社)に行きました!2️⃣100名城No.24武田氏館(躑躅ヶ崎館、武田神社)には、今回初めて行きました。室町〜戦国期の遺構がほぼ完存する全国的にも非常に珍しい城であることがよくわかりました😃※主郭庭園案内板…神社建設時に主郭の遺構のほとんどは壊されましたが、発掘調査で庭園跡が発見されました。池泉式庭園と考えられ、立石組み遺構、青と白
※戦国最強の「軍神」「武田信玄公銅像」武田氏館(躑躅ヶ崎館、武田神社)に行きました!1️⃣100名城No.24武田氏館(躑躅ヶ崎館、武田神社)には、今回初めて行きました。室町〜戦国期の遺構がほぼ完存する全国的にも非常に珍しい城であることがよくわかりました😃※武田神社の巨大な石柱武田氏館(躑躅ヶ崎館、武田神社)日本100名城No.24武田氏館(躑躅ヶ崎館、武田神社)は、JR甲府駅の北側にあり、現在、主郭部分には、
※こちらの記事は、令和元年8月10日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「合戦における戦術について」シリーズの第18弾ということで今までの総括をします。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。参考第1弾勝弦峠の合戦第2弾戸石城の合戦第3弾長森原の合戦第4弾三分一原の合戦第5弾栃尾城の合戦第6弾川中島の合戦第7弾箕輪城の合戦第8弾三増峠の合戦第9弾七尾城の合戦第10弾御館の乱第11弾郡山城の合戦第12弾第一次月山富田城
https://one-news.jp/article/1169879/徳川家御用達の雨具店だったとはしかもしかも武田家の~甲斐の山奥で落ち武者~真田家まで登場するなんてワーオ突然の雨には助かりますねそうです骨組みだけやられた状態でビニール傘ほかしてありますものビニール傘はすぐあかんとかいわはりますけど私は滅多にビニール傘買ったことありませんがなんせ弁当忘れても傘忘れるなのところで生まれ育ちましたから弁当忘れても困るところでしたけど油脂製雨具のことは祖父から聞いたことあります
※鉄砲構え案内板…馬防柵が三重、しかも2kmもあったなんて…それに想像以上の鉄砲の数!武田軍は驚いたに違いありません!※柳田前激戦地…手前の連吾川を越え進軍する武田軍と織田・徳川軍が激しく戦い、また、武田軍敗走中、本陣の勝頼を守るため多くの武田軍将兵が踏みとどまり戦った場所ですいろはかるた「ぬかるみに馬もしりごむ連吾川」設楽原古戦場に行きました!パート8️⃣設楽原の戦いパート8️⃣長篠・設楽原の戦い後の武田家その2続きです🙇
※設楽原再現馬防柵と案内板設楽原古戦場に行きました!パート6️⃣設楽原の戦いパート6️⃣武田軍の敗因その2続きです🙇独自分析④「陣代」…仮の当主である勝頼の葛藤と苦悩、家臣たちとの軋轢武田勝頼は「諏訪四郎」と呼ばれた信玄の四男で、当初は次期当主の兄義信を支える将来のNo.2になる立場でした。四男なのに何でNo.2?と思う方もいらっしゃると思います。勝頼は四男なので、当然兄が三人います。長兄の義信
※長篠・設楽原合戦図屏風と案内板…原本は、公財)犬山白帝文庫所蔵です設楽原古戦場に行きました!パート3️⃣①設楽原の戦い〜はじめに僕は、故新田次郎さんの小説「武田信玄」「武田勝頼」を、中学生の頃図書館で読んで、戦国大名武田家が大好きになりました⚔️今、思い返してみると、よくあんな分厚い小説読んでたなと思います。歴史漫画も今はたくさんありますが、当時は「信長」(池上遼一さん)「花の慶次」(原哲夫さん)なども出ておらず、その頃
※設楽原歴史資料館前にある幕末の日本開国の立役者岩瀬忠震(ただなり)公像設楽原古戦場に行きました!パート2️⃣設楽原歴史資料館設楽原古戦場に着いたのは、15時を過ぎた頃でした。※新城市歓迎横断幕…勝頼VS信長、家康です!まずは、設楽原歴史資料館に行きました。長篠城址史跡保存館で共通券を買っていましたので、見学することにしました。展示内容は、長篠・設楽原の戦い関連で、書状、図屏風、甲冑、鉄砲(火縄銃)及び古戦場でみつ
徳川家康が幼少期、今川での人質時代。ともにしたのが、平岩親吉でした。年も同じで家康の幼馴染でした。家康の嫡男岡崎三郎信康の守役でした。武田との密通疑いにより、信康が自刃する際には傅役の立場から、罪を被ろうとしますが、家康に止められます。武田家が滅ぶと、鳥居元忠とともに甲斐郡代に抜擢されます。子がなかったため、家康8男仙千代を養子にします。のちに、家康9男義直を藩祖として尾張徳川家が成立した際には親吉も清洲に移ります。
~おしどり夫婦の物語~その3北条氏政公と黄梅院(2022年7月の記事の再掲です)相模の獅子と称された北条氏康公の長男である氏政公は武田信玄公の長女・後の黄梅院を正室にします。通説では武田家の駿河侵攻に伴い黄梅院は甲斐に送り返された事になっていますが、氏政公と黄梅院は夫婦仲が良かったとも伝わっています。2人の相性をインド占星術から占います。夫婦の相性は命の関係です。運命的な縁で結ばれている相手です。価値観や好みが似て共鳴できるので相手の気持ちを汲み取る関係になります。しかし、強い