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よろしくお願いします。正3-9-5②『第三仏性』第九段その5②〔「一切諸仏は無仏性」ということはいまだ夢にもみたことはないであろう〕shobougenzo.blogspot.com
『正法眼蔵』「発菩提心」講義①ネルケ無方2024年1月29日、安泰寺山内のため。学道用心集第一菩提心を発すべき事(1)右、菩提心は、多名一心なり。竜樹祖師の曰く、唯、世間の生滅無常を観ずるの心も亦菩提心と名(付)くと。(2)然(しか)れば乃(すなわ)ち暫くこの心に依つて、菩提心と為すべきものか。誠に其れ無常を観ずるの時、吾我の心生ぜず、名利(みょうり)の念起こらず、時光の太(はなは)だ速やかなることを恐怖(くふ)す、所以(ゆえ)に行道は頭燃(ずねん)を救う。正法眼
「ぼくは昔から、生まれる前はどうだったのだろうとか、死んだ先はどうなるのだろう、なんて考えるたちで、いつも親を困らせていたものです。いまも鮮明に覚えていますが、ぼくが桜の幻想を見るようになったのは中学の入学式のときです。その日は桜が満開でいまにも散りそうな感じでした。田舎でしたので父兄が新入生に連れ添ってきていました。みんな和服を着ているのです。校門を入ったときのことです。後ろからどーっという音がして衝撃が走りました。春の突風だったと言うのですが、ぼくには爆風に思えました。そのときふ
こんにちは。赤いユウスケです。スピリチュアルに関する記事を書いてます!占術に関しては自由意思の話ヒーリングは特技の1つ宇宙系の話は左右、両方の脳を使うと話しました。更に話を発展させます。まとめると使い方の問題色んなスピリチュアルに関するツールや情報がありますが要は使い方を間違えなければ薬にも毒にもなるということです。使い方が上手い人と下手な人がいますが何が違うのでしょうか?見る目があるか、ないか仏教に正法蔵、正法眼蔵という書物があります。お経などを知る
曹洞宗(本山は福井の永平寺さんと横浜の總持寺さん)の開祖、道元禅師がお書きになった「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)。その中に「生死」という巻があります。その巻の一部に、現在の高僧と多くの方々が認める藤田一照老師がよく引用される文言があります。ボクも坐禅を始める時にいつもその文言を思い浮かべ、そしてその文言を忘れ、只座るようにしています。その文言とは、「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、
こんばんは。本屋に行きました。〇〇PAYの買い物前の残高が6699。買い物の金額が4477。買い物後の残高が2222。え、なに?買ったもの。揃いました。花柄もお揃いです。
上記は、外から見るダライ・ラマ法王の館です。地味ですが暖かく感じられる館でした。ブログを途中からお読み頂いた方々の為に、過去のブログを、改めてご案内させて頂いております。なお、私のつぶやきは実生活には何の役にも立ちません。謝謝『禅宗』曹洞宗・祖『道元』が書き表した『正法眼蔵』と言う書が御座います。私が尊敬する先生、石井恭二氏が原文『正法眼蔵』を『全訳』現代文とされたものから勉強させて頂き、皆様にご案内しています。『坐禅(ざぜん)』の姿態【『禅定』(定学)】について、再度、前日のブログと併せ
上の写真は、隆健が訪問した当時、ダライ・ラマ法王の住む村。ブログを途中からお読み頂いた方々の為に、過去のブログを、改めてご案内させて頂いております。なお、私のつぶやきは実生活には何の役にも立ちません。謝謝『坐禅(ざぜん)』の姿態【『禅定』(定学)】とは。〔環境について〕・・・坐禅は静かな処がよい。身体を置く場所を大切にしなければならない。室内に風や烟(けむり)などを入れてはならない。雨露に濡れるようにしてはならない。坐る処は明るくしなければいけない。昼夜とも暗くしてはならない。
【出演情報】日本文化の入り口マガジン『和樂web』にて連載【SHIHOの楽禅ライフ】が公開されました!自分をを一番愛せるのは自分だけ。あなたにとってハッピーな選択をしていますか?是非ご注目ください♪公式サイト:https://intojapanwaraku.com/lifestyle/234092自分を一番愛せるのは自分だけ。あなたにとってハッピーな選択をしていますか?【SHIHOの楽禅ライフ8】|和樂web美の国ニッポンをもっと知る!選択は私たち自身今回の禅語:魚、水を行くに、
『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)は、道元禅師によって書かれた禅の経典の一つです。この書は、深い哲学的な思想と禅の教えを豊富に含んでおり、現代を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。1.「今ここ」に意識を集中する『正法眼蔵』では「只管打坐」(しかんたざ)という言葉が登場します。これは「ただひたすらに座禅を組む」という意味で、私たちの日常生活においては、「今この瞬間に集中する」という教えとして捉えることができます。スマートフォンやインターネットが氾濫する現代社会では、常に多
『辨道話』を読む⑭(2022年5月31日)ネルケ無方#正法眼蔵#弁道話#坐禅無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)辨道話(十八問)とうていはく、「西天(サイテン)および神丹国(シンタンコク)は、人もとより質直(シツジキ)なり。中華のしからしむるによりて、仏法を教化(キョウケ)するに、いとはやく会入(エニュウ)す。我朝(
この世界は誰によって創られているのだろう?どんな仕組みなんだろう?私の中に疑問が湧いた幼い頃ヘッドの中で私の中の、私と思ってる私がそして他の人達の内にもそれぞれの私がいるのかなぁ?そして私が死んだら私と思ってる者は何処に行くのかなぁ?私消えてしまうのかなぁ?漠然と考えていた記憶がリアルにずっと残っていたそれから数十年もの間沢山の経験を積んで(山あり谷あり)苦しくて苦しくてどうぞ助けてください!この苦しみから抜け出す方法を教えて下さいと神に願ったそして
※修証義しゅしょうぎ曹洞宗の信仰指導書の一。1890年(明治23年)成立。道元の「正法眼蔵しようぼうげんぞう」より文章を選び、五章三一節に整理したもの。(大辞林)(修証義総序)冒頭の言葉を引用させて頂きます。生を明らめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なりこの勇ましい宣言を初めて見た時びっくりした。すごい覚悟だなあ、と。【全国曹洞宗青年会】修證義第一章総序ShushogiGeneralIntroduction続けて(修証義第二章)より引用さ
『学道用心集』講義⑩ネルケ無方2023年11月30日、安泰寺山内に向けて。学道用心集第十直下承当の事(1)右、身心を決択(けつちゃく)するに、自(おのず)から両般(りょうはん)あり、参師聞法(さんしもんぽう)と、功夫坐禅(くふうざぜん)となり。(2)聞法は心識を遊化(ゆげ)し、坐禅は行證を左右にす。(3)是を以て佛道に入るに、尚ほ一を捨てて承当すべからず。(4)夫、人は皆な身心あり、作は必ず強弱あり。勇猛と昧劣となり。也(ま)たは動、也たは容、此の身心を以て、直
仏門に入るには、酒に溺れてはいけないとの修証義受戒入位の読経が会場にながれる前日の通夜振る舞い...おぼれてないよ〜😉まだ仏門には入らないし😁#通夜振る舞い#ワイン#ボルドー#葬儀#修証義#正法眼蔵#曹洞宗#ボルトカルワイン#シャンパーニュ#ヴィーニョヴェルデ#シャルドネ#ブルゴーニュ
正法眼蔵の現代語訳正法眼蔵の現代語訳(syosetu.com)
人と諍談するは自他ともに無益なり道元(1200年-1253年)道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月26日)-建長5年8月28日(1253年9月29日)[3])は、鎌倉時代初期の禅僧[4]。日本における曹洞宗の開祖[4]。晩年には、希玄という異称も用いた。宗門では高祖承陽大師と尊称される。諡号は仏性伝東国師、承陽大師。諱は希玄[4]。道元禅師とも呼ばれる。主著・『正法眼蔵』は、和辻哲郎やスティーブ・ジョブズら後世に亘って影響を与えている[5]。ウキペデ
下記の商品は本日入荷したホンの一部です。『大久保利通関係文書』(全5巻揃)立教大学日本史研究会編昭和40~46年、吉川弘文館刊売価9,000円『全訳正法眼蔵(全4巻揃)+『正法眼蔵用語辞典』(中村宗一)昭和53~55年、51年、誠信書房刊売価3,500円上記の商品はインターネット古書検索サイト「日本の古本屋」で御注文いただけます。http://www.kosho.or.jp/でご注文ください。「日本の古本屋」で検索してヒットしない場合は既に売り
朝食は、豚小間唐揚げの具でホットサンドと、自家製豆乳ヨーグルト。昼食は、久しぶりのサイゼリヤで。1年ぶりくらいに酒をちょっと飲んだ。ゆっくり食べながら聴く、今日のmp3は澤木老師提唱「八大人覚」何度も聴いてるが、何度聴いてもいい。沢木興道老師釈尊最後の教え1-YouTubewww.youtube.com沢木興道老師釈尊最後の教え2-YouTubewww.youtube.com遺教経は、昔も今も、一般にはほとんど知られてない教えだ。歴史実証上異
今日は雲ひとつないような秋晴れでした。週の初め。心までスッキリするような・・。ふと「八大人覚」を思い出して、ブログにも以前書いたっけ?と見返してみると2017年でした。もう6年前なのですね。『正法眼蔵』は難解ですから、「ヨシ!」と一念発起しないと、なかなか読もうとは思いませんが、「八大人覚」と「四摂法(ししょうぼう)」は好きで、今日のように思い出すと、そこだけ読み返したりしています。「菩提薩埵」は般若心経にも出て来ますが、サンスクリット語で「ボーディサットヴァ」。仏道を修
一昨日、「死の体験旅行®」で道元禅師にふれたので、久しぶりに、仏教思想家である、ひろさちや(本名増原良彦)さんが書いた著書『100分de名著道元正法眼蔵』を読んでみた。『正法眼蔵』2016年11月(100分de名著)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり」道元禅師これは、自然の美をありのまま、素直に賞
内山興正(こうしょう)老師(1912-1998)早稲田大学大学院で西洋哲学を学んだ後半年間だけ神学校の講師をして生涯唯一の現金収入360円を稼ぎ、29才で出家、20年以上坐禅や托鉢(たくはつ)などの修行を続け、53才の時に先代の後を継いでご住職になられたそうです。生きるとは何か。自己とは何か。一見難しく重いテーマを独特のユーモアでやさしくお話ししてくださり、そのお人柄に魅かれました。ぜひご本も拝読させていただきたいと思います。◆内山興正老師「私の修行」(1)内山興正老師「私の修行
スポーツなど『勝負事』で『負けに不思議の負け無し』と。『負けには相応の理由』がある。逆に言えば『勝ちには不思議の勝ちあり』と言うことか。昨日の大相撲『阿炎・熱海富士戦』は『土俵際の運』を引き寄せた『熱海富士』の勝利。師匠曰く『稽古をよくするからな』と。つまり日頃の『稽古』の『証拠』であり『証明』。『稽古』したものにだけに突如訪れる『不思議な力』。正法眼蔵にもこうある。『稽古のおろそかなり、慕古いたらざるなり』と。なんとなく分かる。『稽古』はともかく『慕古』
『修証義(しゅしょうぎ)』とは日本曹洞宗の開祖道元禅師が著わされた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』という膨大な書物を、明治時代になって一般に向けて分かりやすくその文言を抜き出し編纂されたものです。仏教の教えを日常生活の中で生かす沢山のヒントが示されているのですが、明治時代に編纂されたものなので現代的に分かり辛いのは否めません。出所:https://horaizen.com/syusyogi1/無常むじょう憑たのみ難がたし、知しらず露命ろめいいかなる道みちの草くさにか
曹洞宗には『修証義(しゅしょうぎ)』という名前の経典がある。永平寺の開山である道元禅師が著した大作『正法眼蔵』の中から、在家向けに比較的平易な語句を選び出して再編成されたのが『修証義』であり、『正法眼蔵』のダイジェスト版とでもいうような位置付けとされている経典である。『正法眼蔵』を一度でも読んだことのある方ならご存じかと思うが、『正法眼蔵』は本当に難解な書物。それはもう、哀しいほどに難しい。内容を理解する以前に、言葉を読み進めことがもう困難なのである。現代語訳された文章の内容を理解する
道元禅師は、正法眼蔵で三回考えてから言うべきか?言わないべきか?を決めなさい、とおっしゃっていて、その二回目の思考は、相手、みんな、自分の為になるのか?を改めて考えた時に、もしそれを言った場合に、言われた方も、視覚化されていなかったらわからないかもしれないし、またはそれに変わる対案がなければ、聞いた所でどうにもならないのでは?という思考が生まれた。だから、物事の核心がどこで、今は何がズレているのか?をもう少し視覚化した方がよいな、と感じた。だから、伝えたい事を
相手の為にもなり、自分の為にもなるか?それを三度よく考えてから、言うか言わないか?を決めなさい、と正法眼蔵で道元禅師がおっしゃっている。今、人生を左右するような重大な事について、言うべきか?言わないべきか?について思案している。言う事がエゴなのか?言わない事がエゴなのか?言う事は保身なのか?言わない事が保身なのか?よくよく考えて決断しようと思うが、一回目の結論は、言うべき、と結論がでたが、あと2回よく考えようと思う。
誰かに迎合するだけでは品がないだからと言って、独りよがりは美しくない真実とは意外とシンプルなものだ人は、人目を気にしだしたら弱いし物わかりの良さは、時に深い毒を吐く例えば、植物でも外形の棘は内に秘める弱脆さを際立たせる道元禅師が、正法眼蔵が現成公案で、「仏道をならふといふは、自己をならふなり自己をならふといふは、自己を忘るるなり自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり」という言葉を残されています
ああ…落ち込んでますはぁ…理由?眉毛のアートメークがあっという間に汗で消えたからですよ。。真夏にやるもんじゃないってこと、知らなかったんでね…2回目の施術ですら数日であっという間に落ちたよ…いや、体質もあるだろうけど、この季節汗をかかないなんて無理だもの。うん、まあそうだよね…保証期間があるらしいので連絡しないと。。リーディングをしない人、特に占いというのを怪しいと思う人の視点から見ると、このカードリーディングを「当然の結果」として受け入れている様に、異様性とか、変態性、
三回考えてから発言する。道元さんが、正法眼蔵で伝えてくれている教えを守る。悟っている人以外は、自我意識のフィルターを通して世界を見ているから、発言が自分だけ都合の主観的になるのはある面では仕方ないが、相手の為に、それは主観的ですよ、と指摘する事をすべきか?言わないで流すべきか?その判断をしていく必要が、もう一回り下の世代にも現象化している。その理由は、過去に自分が卑屈であった為に、自我を真我と思い違いしている人に光を感じてしまい、その場所に長く依存してしまった