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次のブログです。よろしくお願いします。正3-2-1仏性の義を知ろうと思うなら
時間論を考えたくて図書館で借りたが、難解で何度読んでもわからない。あと時間の議論、あまり出てこなかった・・・当然、誤読しているという前提のメモ。哲学は現実から遊離してしまった(p8)。正法眼藏は弁証法的哲学的である(p19-20)。宗教で哲学を刷新しようと田邊は試みる。哲学的宗教読解ではない。超越への信と内在の証とが行において相即し、超越即内在となる(p36)。行為し(本当は修行だろう)、大いなるものを信じれば、それは内面化される。絶対は遡源的に自己を現成す
次のブログです。よろしくお願いします。根も茎も枝も葉も、みなともに生き、ともに死に、はじめ芽が生ずるときから枯死するまで残らず仏性だ
今回のYouTube超熟睡は禅ZEN悟りのお経、参同契(さんどうかい)です。【睡眠32】お経で睡眠導入10分後に画面消灯悟りの言葉は聞き心地が良く安らかに眠れます超熟睡、朝までお経、参同契をご覧いただき、誠にありがとうございます。このチャンネルでは現在、BGMにのせて真言宗や曹洞宗などで読まれる有名なお経を中心に、睡眠導入と瞑想を探究してお届けしています。参同契は「石頭(せきとう)のとき江西(こうぜい)あり」と道元が正法眼蔵古仏心巻の中で言ったあの石頭希遷(せきと
実家の菩提寺が曹洞宗だから・・・と言うわけではありませんが、今日は私が敬愛する鎌倉時代の禅僧にして曹洞宗の開祖、道元禅師の命日・没後770周年にあたります。道元は、1200(正治2)年に右大臣・久我通親、太政大臣・藤原基房の娘・伊子との間に生まれました。(※両親については別説あり)しかし3歳の時に父を、そして8歳で母を亡くすという過酷な幼少期を送り、13歳の時に仏道を求めて比叡山にいる叔父を尋ね、翌年に出家。天台宗を学ぶ中で教義に矛盾を感じた道
【バイオリンの日】1880年(明治13年)8月28日、東京・深川の楽器職人、松永定次郎によって国産第1号のバイオリンが完成。【民放テレビスタートの日】1953年(昭和28年)8月28日、日本テレビが民間放送として国内で初めてテレビ放送を開始。翌日には後楽園球場から巨人-阪神戦を、翌年の2月19日には力道山の試合を初めて中継。NHKは、1953年2月1日にテレビ放送をすでに開始。【道元の命日道元忌享年53】鎌倉中期の禅僧で日本における曹洞宗の開祖。福井・越前に永平寺を開き、『正法眼蔵
寺に生まれた私はずっと疑っていたことがある。それは・・・・本当に仏っているのかって事。本堂に仏像はあっても、何も動かない、お供え物も食べてない。子供の私にとってこれほど疑わしいものはありませんでした。とはいえ、物心ついたときから檀家を盆経で参ってましたから、仏にはいてもらわなければ困るわけです。お経を習う事から始まり、お経を暗誦する事、毎朝の本堂でのお勤め、先祖供
次のブログです。よろしくお願いします。正3-1-14草木花葉実種はそれぞれみな仏性である
【曹洞宗】道元は、曹洞宗の開祖です。曹洞宗は、福井県の永平寺「太平山」と、横浜市鶴見区の「總持寺」を二大本山としています。道元は、上級貴族の子として生まれ、その後、中国の宋に渡り、如浄「にょじょう」という人物に師事しました。曹洞宗は、禅宗です。禅宗は「自力本願」を基本としています。自力本願とは、自分自身で悟りを開くことです。そのため、禅宗では、自己の鍛錬に重きをおきました。自力本願に対するのが、浄土宗などの「他力本願」です。他力本願では、念仏を唱えるだけで、阿弥陀如来が救済してくれるとされて
次のブログです。よろしくお願いします。正3-1-13『第三仏性』第一段その13〔仏性は必ずあるぞ、天地のありとあらゆるものはみな仏性であるから〕shobougenzo.blogspot.com
よろしくお願いします。正3-1-12『第三仏性』第一段その12〔覚知は神経細胞の動きではない〕shobougenzo.blogspot.com
仏道とか神道とか宗教とか言われるものは仮に多数の人々と歩むにしても本当は独りで歩むものそして独りで到達するものです。自分の外にあって自分以外の人から許可をもらったり資格をもらったりして評価されるようなものではありません。宗なるものは常に自分の内にあります。だからこそただ自分の内に独り本当の自分を見つける旅をすればよいのです。鎌倉時代の高僧道元は正師との出会いをとても大切にする一方、悟る
よろしくお願いします正3-1-11『第三仏性』第一段その11〔人は妄想分別を覚知と思っているが、そうではない〕shobougenzo.blogspot.com
本当の自分に会いたいとか仏を観たいとか人は柔軟で素直に欲する心が起こってくるとその心には既に絶対的ななにかが、今風に言うならばつまり神が既に来たり住んでいると鎌倉時代の高僧道元は正法眼蔵見仏巻の中で言います。今回のYouTubeはそんな見仏について説かれたお経妙法蓮華経の如来寿量品偈です。(⇩⇩⇩今夜UPした睡眠や瞑想の為のお経動画です。)【睡眠25】BGM法華経の要、如来寿量品偈と音楽で最高の眠りつく一心に仏を観よ
よろしくお願いします正3-1-10『第三仏性』第一段その10〔ただ無辺際の諸仏、それを覚知と言う〕shobougenzo.blogspot.com
よろしくお願いします8−3.聖徳太子がお釈迦様に語りかける!僭越ですが、聖徳太子になったつもりで、imaginary聖徳太子の独白を書いてみます。#################################お釈迦様、あなたは、神々が住まい修行されている霊峰ヒマラヤ山脈の麓のシャカ国の皇太子...yamatokotaro.blogspot.com
〔『正法眼蔵』本文〕仏性の言をきゝて、学者おほく先尼外道センニゲドウの我ガのごとく邪計ジャケイせり。それ、人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆへなり。いたづらに風火の動著ドウチャクする心意識を、仏性の覚知覚了とおもへり。たれかいふし、仏性に覚知覚了ありと。〔抄私訳〕・また、先尼外道センニゲドウ(固定不変の実体我を認め、心は常住であり身は滅すると説く教え)の見をこれに引かれるのは、文の通りである。・「風火の動著」〈環境に触れて感覚器官が動くこ
次のブログです。よろしくお願いします。『正法眼蔵』読解・御抄私訳:正3-1-8後半〔すべての存在と衆生と仏性は一つだから、衆生は仏性に逢いようがない〕shobougenzo.blogspot.com
次のブログです。よろしくお願いします。『正法眼蔵』読解・御抄私訳:正3-1-8『第三仏性』第一段その8〔すべての存在と衆生と仏性は一つだから、衆生は仏性に逢いようがない〕shobougenzo.blogspot.com
次のブログです。よろしくお願いします。『正法眼蔵』読解・御抄私訳:正3-1-7『第三仏性』第一段その7〔仏性は、無始無終のものでもない。この何物〈仏性〉がこのように現前しているからである〕shobougenzo.blogspot.com
次のブログです。よろしくお願いします。『正法眼蔵』読解・御抄私訳:正3-1-6『第三仏性』第一段その6〔仏性は、本来有るなどというものでもない、本末もなく初めも終りもない仏性であるから〕shobougenzo.blogspot.com
〔『正法眼蔵』本文〕まさに知るべし、悉有中に衆生快便難逢カイベンナンホウ《衆生は快い便宜には逢い難い》なり。悉有を会取エシュすることかくの如くなれば、悉有それ透体脱落なり。〔聞書私訳〕/「遍界不曾蔵ヘンカイフスンゾウ」〈全世界はこれまで何も蔵カクすものはなく、仏性が常に現れている〉、「亘古亘今カンコカンコン」(古今にわたる)、「不受一塵」(煩悩の塵一つも受けない)、「合取ガッシュ」(全部合わせたもの)、「平常心是道ビョウジョウシンゼドウ」(普段の心が道である)などと
三元神社⛩️チャンネルーYouTube三元神社の朝拝(2023/8/12お話は40:54頃から宮司寺島浩幸)毎朝8時から、修祓、大祓詞、日供詞、龍神祝詞、般若心経、光明真言など、ご唱和出来る方はご一緒にご唱和ください。三元神社(単立)の朝拝をclubhouseでライブ配信したアーカイブです。最初はお参りで、40:54頃からお話タイムです。(宮司寺島浩幸)2023.8.12◯観音経普門品偈奏上◯「迷子のすすめ」阿純章著・自由は幸福か?◯正法眼蔵現成公案by道元禅師・「諸仏のまさしく諸仏なる
加納石人の書朕兆未萌道元に「朕兆未萌(ちんちょうみもう)の自己」という言葉があります。「自分が萌え出づる以前の兆しに立つ」ということです。つまり、でき上がる前の自分に戻れということ。そこに戻れれば、山水と一体化することができるのに、なぜ、お前はでき上がってしまった自分から始めようとするのだと。ようこそ!随風社加納朱美です。上記の解説は、一番最初に投稿した時のものです。その後、幾度かこの《朕兆未萌》を紹介したので、その都度さまざまな文献に出
よろしくお願いします正3-1-5『第三仏性』第一段その5〔全世界はこれまで何も蔵カクすものはなく、仏性が常に現れている〕shobougenzo.blogspot.com
よろしくお願いします正3-1-4『第三仏性』第一段その4〔全世界は一点の煩悩もなく、また迷いもない〕shobougenzo.blogspot.com
〔『正法眼蔵』私訳〕釈迦牟尼仏が仰る、「シャーリプトラ(釈尊の第一弟子)よ、このもろもろの衆生は、この般若波羅蜜多〈不生不滅の境界に渡す般若の智慧のはたらき〉において、仏が今ここにおられるように供養し(真心から供物を捧げ)礼敬ライキョウ(礼拝し敬うこと)すべきである。(釈迦牟尼仏シャカムニブツの言ノタマワく「舎利子シャリシ、是れ諸モロモロの有情ウジョウ、此の般若波羅蜜多ハンニャハラミタに於いて、仏の住したまふが如く供養クヨウし礼敬ライキョウ
〔『正法眼蔵』原文〕釈迦牟尼仏シャカムニブツの言ノタマワく、「舎利子シャリシ、是れ諸モロモロの有情ウジョウ、此の般若波羅蜜多ハンニャハラミタに於いて、仏の住したまふが如く供養クヨウし礼敬ライキョウし、思惟シユイすべし。般若波羅蜜多を思惟すること、応に仏薄伽梵ブツバギャボンを供養し礼敬するが如くすべし。所以ユエは如何イカン。般若波羅蜜多は仏薄伽梵に異ならず、仏薄伽梵は般若波羅蜜多に異
〔『正法眼蔵』原文〕先師古仏云イワく、渾身コンシン口に似て虚空コクウに掛り、東西南北の風を問はず、一等他の為に般若を談ず、滴丁東了滴丁東チッチントウリョウチッチントウ。これ仏祖嫡々テキテキの談般若なり。
〔『正法眼蔵』原文〕天帝釈テンタイシャク、また仏に白モウして言さく、「世尊、若し善男子ゼンナンシ善女人ゼンニョニン等、此の所説の甚深ジンジン般若波羅蜜多ハンニャハラミタに於いて、受持読誦ジュシドクジュし、如理思惟ニョリシユイし、他の為に演説せんに、我れまさに如何イカンが守護すべき。ただ願はくは世尊、哀ア