ブログ記事102件
関宿・東の追分で東海道と別れ、伊勢参宮道へと進みます。国道をわたり進みますと…鈴鹿川に架かる「勧進橋」を渡ります。「鈴鹿川」は、滋賀県と県境をなす鈴鹿山系の高畑山に源を発し、伊勢湾に注ぐ1級河川です。その昔、大海人皇子(後の天武天皇)が、東国に向かう途中洪水に難渋していたところ、鈴をつけた鹿が現れ川を渡ったことから名付けられた(『源平盛衰記』など)という。古来歌枕として和歌に詠まれ…「鈴鹿川やそせの波はわけもせで渡らぬ袖のぬるる頃かな」…『玉葉和
残念ながら素養の不足、100円書斎Love。和歌の浦フリーペーパーや、パンフレットなんかのなかにも、読むと読みでがあって、しかもしっかりとした内容のものもあり、そんな小冊子とかに出会えるととてもうれしい。これはそういう一冊でした。和歌の浦、和歌山県の名前の由来はここからなのかな。きれいなことはわかったけど、シッタカの素養不足が読んでいて明らかになってきた。やはり新古今くらいは読んでないとダメなんだろう。歌枕の地と知ってと知らずでは訪れても感動が違うんだろうなあ。そん
今日は、朝は曇っていましたが日中は晴れて風の強い一日でした。午前中に散歩をかねて、先週オープンした多賀城跡ガイダンス施設に行ってみました『多賀城跡ガイダンス施設に行ってみました』先週の25日にオープンしたばかりの「多賀城跡ガイダンス施設」に行ってきました。平屋のさほど大きくない建物です周囲に看板は無く、入り口の上に「多賀城跡ガイダ…ameblo.jpオープンしたばかりで混んでいるかと思ったら、お客さんはほとんどいませんでした(^-^;多賀城市民としては、せっかく作った施設に
別に知らなくても馬鹿にされるシチュエーションは少ないし、知っていても尊敬される事はさらに稀、、、でもそんな分野こそアタシだけの世界(^^)短歌や俳句の世界では既にシカトされる和歌だけの空間だから、、、まあそういことウィキの解説もその程度の、次元がいささか、、、かもしれないが致し方ないか間違いではないから零点はつけない言葉とりわけ固有名詞には呪術性があるとされ、かかるが故に「クニホメ」なる古代信仰がある。加えて縁語掛け言葉に代表される言語遊戯とのしあわせなマリアージュの結果、王朝美學が死に
くいだおれビルのバラエティ・ショウマルカートのミニライブなどでお世話になりましたソプラノの歌枕美和さんが出演されてます!海外からの方にも人気です。お誘い合わせの上ぜひ〜!!https://www.osaka-variety-actshow.comOSAKAVARIETYACTSHOWGetreadytolightupthenightinOsaka’sDotonbori—whereelectrifyingmusic,danceandmagiccoll
※2025年4月6日訪問※仙台市宮城野区岩切の【十符の池跡】を訪れましたサッカー観戦後、利府から岩切を経由して泉中央まで歩いていた帰路の途中、道路沿いの施設の柵に何やら案内板を発見【「十符の菅」「十符の池跡」】と書かれていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼「十符の菅」「十符の池跡」「十符の菅」は、中世以来「みちのくの十符の菅薦七符には君を寝させて三符に我が寝む」等と詠まれ、その菅は網目が十筋の菅薦の材料として使用される良質なものといわれ、陸奥の歌枕として知られて
○2024年12月16日に、岳陽の岳陽楼を訪れた。2013年6月、2014年6月に引き続き、三回目の岳陽楼だった。中国文学を語る上で、江南三楼の存在は大きい。それが目的で2013年2014年に、江南三楼の全てを訪れた。○結果、江南三楼は、どう考えても、歌枕であることは間違いない。日本人の私たちに、そういう感覚は無い。それを感じたのが2013年5月11日の岳陽楼訪問だった。午後6時過ぎに訪れた岳陽楼は、すでに閉門していて、中へ入ることが出来なかった。それでも、何とか、外から岳陽楼を眺めることがで
○2024年12月15日、「湖北省湖南省周遊」旅で、黄鶴楼を訪れた。ここまで、ブログ『黄鶴楼:胜像宝塔』から『黄鶴楼:三楚一屡碑坊』、『黄鶴楼:気呑雲夢』、『歌枕としての黄鶴楼』、『黄鶴楼:辛氏楼』、『今上黄鶴楼』、『更上黄鶴楼』、『崔顥:黄鶴楼』と書き続けて来ている。○これ程、真面目に、黄鶴楼について、考えたのは、初めてでである。以前、2013年6月に、最初に黄鶴楼を訪れた際に感じたのが、歌枕としての黄鶴楼だった。もちろん、それは、その前日に訪れた岳陽楼の影響が大きい。つまり、江南三楼は、全
○2024年12月15日、「湖北省湖南省周遊」旅で、黄鶴楼を訪れた。すでに、ブログ『歌枕としての黄鶴楼』を書いて、黄鶴楼が歌枕であることは案内済みである。日本人は、歌枕が日本オリジナルのものと信じて疑わない。○しかし、中国各地を巡ると、歌枕が中国のものであることを痛感させられる。何しろ、その歴史は日本のそれよりも遥かに古いのだから。結果、どちらがもともとの歌枕であるかは、誰が考えても判ることである。○その黄鶴楼で、最も有名なのが崔顥の「黄鶴楼」詩ではないか。すでに、2013年9月25日に、崔
JR東北本線・国府多賀城駅近くの館前遺跡から、案内の道標に従ってしばし歩いてまいりますと、広々した芝地(水辺部分はあやめ園になるらしい)の向こうに、大きな瓦葺きの屋根が見えて「すわ!歴史的建造物か?」と。実はただの(といっては失礼ながら)お寺さんであるようでしたが、それでもお寺の屋根の手前側には太い柱が並んでおりますな。そこの部分はやはり、古代史跡の再現であるということで。つまりは、いよいよ多賀城の史跡がもうすぐのところまで来ていることになりますな。ただ、一番上の写真で目を止
○2024年12月15日、「湖北省湖南省周遊」旅で、黄鶴楼を訪れた。黄鶴楼と言えば、崔顥の「黄鶴楼」詩だろう。黄鶴楼が歌枕であることを日本人で理解しているひとは少ない気がする。2013年6月12日に、最初に黄鶴楼を訪れた時に、そのことを理解した。○と言うか、江南三楼が全てそうなのである。前日の2013年6月11日に、初めて岳陽楼を訪れ、そのことを痛感した。それで、岳陽楼に関する詩文を、范仲淹の「岳陽楼記」から査慎行の「中秋夜洞庭湖対月歌」詩まで、合計、34個ものブログを書いている。・テー
さてと、JR仙石線の多賀城駅に到着いたしました。ここもきれいな高架駅となっていましたので、てっきり震災の影響?と思えば、それ以前から仙石線の一部高架化は進められていたようで。もっとも、新駅舎の開業は震災後までもつれ込んだようですが…。ともあれ、朱塗りの門のようなデザインが施された駅舎が、この日の最終目的地である国特別史跡・多賀城跡への期待を膨らませるといいますか。もっとも、多賀城跡に直接向かうには多賀城駅は決して近くはないのですなあ。下のマップ(「史都多賀城」観光パンフレット)でご覧の
おはようございます帰省3日目2/5(水)のウォーキングは浮島神社に参拝歌枕であり源融ゆかりの神社渡辺競(きおう)の先祖の融かっこいい訳だお参りの後は政庁跡へ雪がちらついていました総社宮野田玉川留ヶ谷を巡って締めて13.565歩9.9km稼げましたさて本日2/11(火)はウォーキングからの勉強会へ
A百首歌の恋歌を詠み進めていきましょう。まず79丁目番から下にのみせめて思へど片敷きの袖こすたぎつ音まさるなりこの和歌は、我々現代人の感覚からすると、あまり面白くないというか、空疎な印象を受けるのではないでしょうか。特に下句「袖こすたぎつ」は、(恋の苦しみで)涙が激しく流れるさまを、涙の川、ないし滝と見なした表現ですが、どうも大げさな感じがしますね。以前は僕も、こういう修辞表現に出会うと、敬遠したくなったものですが、今では、こういった修辞を用いる古の歌人のものの感じ方を理
〇2024年8月22日に、陝西省咸陽市馬嵬街道の楊貴妃墓を訪れた。馬嵬驛は中国の歌枕の一つではないか。そう思って、馬嵬驛を訪れたわけである。〇馬嵬驛を舞台にした詩作は多い。これまで、ブログ『白居易:長恨歌』から『長恨歌:馬嵬驛』、『張祜:馬嵬坡』、『温庭筠:馬嵬驛』、『李商隠:馬嵬二首・其一』、『李商隠:馬嵬二首・其二』、『高駢:馬嵬驛』、『鄭畋:馬嵬坡』、『羅隠:馬嵬坡』、『羅隠:帝幸蜀』、『黄滔:馬嵬三首』と続けている。〇このままこの話を何時までも続けるわけにもいかない。しかし、当古代文
栃木市惣社町の「大神神社」にやって来ました。下野国の惣社で、二之宮とも言われます。雨上がりでジメジメしてる〜木が4本に分かれてる〜和歌の歌枕や松尾芭蕉の奥の細道にも出てくる「室の八嶋」もありますよ!境内の池にある8つの島のことで、ここが思川の低湿地帯でいつも水煙や湧水が出ていたことから常に煙がかかっていて恋心が晴れないような意味に使われたようです。今日もモヤがかかっていて、一番イイ時に来たかもしれません!ようやく涼しくなって来たのでいろいろお出かけしてみます…
万葉に愛の歌あり後瀬山(のちせやま)城跡に立つ石謎めいて😸小浜市にある後瀬山は、万葉歌人の大伴家持、坂上大嬢(さかのうえおおいらつめ)の相聞歌で知られる。二人の歌の後、後瀬山は若狭の歌枕となる。そこに後瀬山城跡がいり、天守跡には大きな石が、ただ一つ立っている。これは本丸の石垣の隅石が残ったものらしい。御食国(みけつくに)鯖運びたる街道に熊川ありて京遠からず😸御食国とは、飛鳥時代の頃から朝廷に、特
以下は、小生の「読書ノート」にある著書。よい機会だと思って調べ直してみたが、懐かしかった。😄(ア)『おくのほそ道福島県探勝記』(猪狩三郎、歴史春秋社、写真左)たしか、福島駅構内の地元書籍コーナーにあった本。もっと言えば、地元でしか買えない本だった。著者は、元高校教諭で歌人。「福島県は歌枕の宝庫だ!」、と著者は胸を張る。こういう本を旅行先ではついつい買ってしまう小生。労作!(イ)『小説松尾芭蕉』(中津攸子著、新人物往来社)「芭蕉=隠密説」を否定した小説。(ウ)『悪党芭
宮城野は今もまほろば萩こぼるフーザンボー萩の花がそろそろ見ごろになってくる時期。今年は9月中旬に萩の寺で有名な鎌倉の宝戒寺に行く予定です。宮城野・・・宮城野原とも言い、仙台市の東部にあった平野で、昔は萩の名所として有名だったようです。宮城県の県名はこれに由来しているとのこと。奥州の歌枕として知られ、古今集など多くの歌に詠まれているようです。宮城野萩もここに由来するのでしょうか。まほろば・・・「まほらま」の転じたもので、すぐれたよい所の意です。
JamesSetouchi読書会記録2024年8月17日(土)松尾芭蕉『奥の細道』(レポーターのレポートと、参加者の発言とを、区別せず示した。少し補足した。信頼できるメンバーの集合的な知識に信頼する、という考え方からである。但し読者は、全てを信じず、安易に引用せず、個々に検証してみてください。)松尾芭蕉1622~1694。江戸時代前半の人。生まれは伊賀上野で、江戸を中心に活躍、諸国を旅し、大坂で没した。松尾桃青とも言う。母の出自が伊予宇和島の百地氏であるとしてモ
天の橋立に行ってきた。百人一首60番、小式部内侍の、大江山生野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立で知られる歌枕である。この歌が詠まれた背景は、多くの説話集や歌論書に採られている。母の和泉式部が夫の任国の丹後に下っているときに、娘の小式部内侍が京での歌合に参加することになった。その歌合が近づいた頃、藤原定頼が局にいた小式部に、「丹後につかわした人は帰ってきましたか。待ち遠しいでしょうね」と言った。母に代作してもらうのだろう、と、からかったのである。即座に小式部が詠
若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(わかのうらにしおみちくればかたおなみあしべをさしてたづなきわたる)山部赤人『万葉集』巻6・919昨日書いた山部赤人の上記の歌だが、いただいたコメントについて考えたり、自分なりに考えたりして、なんとなくわかった。『赤人「和歌の浦」の歌~鶴って海辺にいるの?』(和歌山県和歌山市和歌の浦)若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(わかのうらにしおみちくればかたおなみあしべをさしてたづなきわたる
これって歌枕を巡る旅に出た小野小町・在原業平・康秀と変わらない行為だよね..今放送してる。青学の前までいってまあ..笑サザンかけて湘南ドライブねえ。嫌な思い出か良い思い出か..🏖今どーしてるのか知りたくもないがあの桐朋の彼氏は夜の世界でそれなりになったのやら。あんまり目立たれると生け花作家とか塾バイトとか昼の世界満々の私は倒さないといけなくなるからあまり表面に出てこずチンアナゴみたいに生きてなよ。いや深海魚?は会長か。隠し玉は幾つもあるのが鉄則ネ。あっ
北陸新幹線が脚光を浴びている。3月16日に金沢-敦賀間が開業し、首都圏から北陸への旅が便利になったのである。この北陸新幹線の駅で、わたしがもっとも気になるのが、安中榛名である。わたしがこの駅を知ったのは、朝日歌壇に2023年6月25日に掲載された、この歌による。間違えて作ってしまったような駅「安中榛名」何にもあらぬ(安中市岡本千恵子)「何にもあらぬ」ところに「間違えて作ってしまった駅」とはどのような駅なのか、気になってしょう
綺麗ですね🌸花の力は凄い💐もう桜川よ。笑笑羽生結弦ゆかりの「ゆづ桜」満開氷上のようなネモフィラと共演〈宮城〉(仙台放送)-Yahoo!ニュース仙台市泉区の七北田公園です。1本のサクラを取り囲むように植えられた淡いブルーのネモフィラ。公園の中にスケートリンクが再現されています。プロフィギュアスケーター、羽生結弦さんにちなんだ「ゆづ桜」news.yahoo.co.jp
下野国の一之宮としては、宇都宮の二荒山神社と日光にも同じ名前の二荒山神社のふたつがあって、お互い「一之宮」の座を譲らず論争があるようですが、栃木市に鎮座されている大神(おおみわ)神社は下野国の惣社として位置付けされています。ということは、現在の栃木市に下野国の国府が置かれていたことになります。県名と県庁所在地名が違う例は結構ありますが、栃木県もそのひとつで、宇都宮市が県庁所在地になります。しかし、廃藩置県が行われた明治時代の初期においては、栃木県と宇都宮県の両方が存在していました。当時は
愛しいあの人と枕を並べて、、、などという話ではありません。和歌には枕詞と歌枕というふたつの枕があります。枕詞は、たとえば、母といえば「たらちねの」、山には「あしひきの」とか、あるいは「ひさかたの」だと天に関するものということで、空はもちろん、月、日、星、雨、光などなどに冠されるものもあります。これらは特定の語の頭につけられるということで「枕」と呼ぶことに納得ができます。一方、歌枕はどうかというと、和歌の世界で認められた特定の地名や名所ということになっています。元は地名だけで
気賀駅の南、浜名湖へ注ぐ都田川にかかる人道橋の澪つくし橋です。詳しい地図で見る澪つくし橋南西から。中央をバスケットハンドル型ニールセンローゼ桁とした3径間。周りに高い建物がないので、近くの道路を走るとこの橋のアーチがよく目立つ。ググるとこの辺りはハゼ釣りのポイントだそうで、河川敷には多くの車が駐まっていた。西詰から正対。人道橋(正確には自転車道橋)ということで幅員は狭い。親柱の上のマークは旧細江町(2005年に浜松市へ合併)の町章で、橋名の澪標(みおつくし)の図案
鳥羽市東方の生浦湾(おうのうらわん)にかかる麻生の浦大橋(おうのうらおおはし)です。詳しい地図で見る麻生の浦大橋西詰。奥に見えるアーチ部が目立つが、橋はその手前の写真の位置から始まっている。正確には西側の海沿い部分が麻生の浦大橋1号橋、アーチ部が2号橋と別の橋になる。写真の橋名が書かれた石碑以外には銘板の類はなし。左車線の高欄手前に見える台形のものが一応親柱にあたるのだろうか。まずは手前の分岐から今浦集落の方へ進み、橋を下から見てみる。麻生の浦大橋のアーチ部。橋
今朝は肌寒く、ようやく秋が訪れたと感じます。北海道の大雪山系、黒岳では昨日初雪が降ったそうです。今日は、本当は、式子内親王が斎院を去る時、琵琶湖畔の唐崎で詠んだ歌を取り上げるつもりでしたが、急に秋めいてきたので、変更して秋の歌を取り上げます。これぞ、式子内親王の歌!と言いたくなるような秀歌です。ただ、僕が秀歌たるゆえんをうまく伝えられるか、全く自信がありませんが。更けにけり山の端ちかく月さえて十市(とをち)の里に衣うつ声《歌意》夜も更けたことよ。山の端近く、月の光が冴