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小楠公とは南北朝期の武将である楠木正行のことで、湊川の戦いで戦死した楠木正成の嫡男になる。父の死後も南朝に仕えて北朝の足利勢と戦い、1347年には摂津天満の渡辺橋において山名・細川の連合軍を破り、川に落ちた敗残兵を助けて京まで送り返したとされる。古戦場の石碑は大阪市中央区北浜東1の大川沿いにある。寡兵で北朝の大軍を何度も破った正行だったが、翌年の四条畷の戦いで戦死した。
清涼寺の次は、宝筐院に行きました。清涼寺もそうですが、嵯峨野めぐりのメインコースから少し外れているので、紅葉の季節も常寂光寺や二尊院に比べてゆっくり見学することができました。紅葉が庭にぎゅっと凝縮されていて、鮮やかな紅葉を効率よく楽しむことができました。お気に入りの紅葉ポイントです。一昨年久し振りに秋に行ったのですが、11月中旬では、まだ、色づきが不十分で残念な結果に終わりました。また、リベンジしたいところです。宝筐院(ほうきょういん)について京都市右京区嵯峨にある臨済宗系の単立寺院です
飯盛山の山頂で、小楠公様にお会いできました。そして、景色を眺めることにします。真ん中に見えますのは、一時、ジダンの職場となっていました、深北緑地ですよね。公園事務所の位置、桜の園、テニスコートに野球場、手に取るようにわかります。ダ〜っ!勤めてたんやったら、わかって、アタリマエやろが、くそポンコツドアホっ山頂の気温は、この時4℃。スタートから1時間10分経過の、10時20分。ムムムムムと唸ってから、決めました。権現の滝に向かいます。そのためには。滝谷楠水の場を通過していくのが
JR学研都市線の野崎駅をスタートしまして、飯盛山の山頂が近づいてきました。山頂の手前には、千畳敷郭があります。山頂の城址部よりも広いので、居住空間はこちらだったと考えられています。さて、いよいよ、山頂へと登ります。ジャーン!ドドーンと、後ろ姿も凛々しく登場されましたのは、楠木正行公、楠木正成公の嫡男であります。山すそにあります、四条畷神社には、ご両親が祀られていますし。麓の四条畷駅近くには、ご自身のお墓があり。地名や橋の名前、建物にも、楠公の文字が使われているのです。ただ、最近
感謝してます!まるかんのお店美来の中川典子です!いつもブログをお読みいただき、ありがとうございます「身体」「心」「魂」の三位一体で、人生を豊かにするお手伝いをしています・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・令和8年日の元の暦販売中!『令和8年「日の元の暦」販売開始いたします!』感謝してます!まるかんのお店美来の中川典子です!いつもブログをお読みいただき、ありがとうございます「身体」「心」「魂」の三位一
義詮と正行吉野の如意輪寺で楠木正行の辞世の歌を鑑賞していたら、2023年に紅葉を見に訪れた京都嵯峨野の宝筐院にあった、足利義詮と楠木正行の墓につて書いた記事を思い出しました
如意輪寺如意輪寺の宝物館に、楠木正行の辞世の歌が保存されていました・・・・・・写真1(↓):如意輪寺の宝物館の入り口(去年の3月28日)写真2(↓):如意輪寺の寺宝「楠木正行辞世の歌」(吉野山観光協会公式サイトより)「かえらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」(この戦いは生きて帰れぬ身であるが故に亡き人の仲間入りをする名前を残し出発いたします=訳は如意輪寺パンフレットより)時は後村上天皇(後醍醐天皇の第八皇子)の世、高師直を
如意輪寺如意輪寺の山門の左右の柱に、木札がかけられていました・・・・・・写真1(↓):如意輪寺の山門(去年の3月28日)奥に見えるのが本堂です・・・写真2(↓):右側の木札「吉野朝勅願所如意輪寺」吉野朝というのは南朝の別称で、勅願所とは天皇の発願により、国家の鎮護や皇室の繁栄を祈願するために建立または指定された寺院のことです如意輪寺は日蔵道賢上人によって延喜年間(901~923年)に建立され、1336年に後醍醐天皇によって南朝の勅願寺に
軍神と崇められる楠木正成を父に持つ正行は、戦なき世を求めて、北朝に降る決意を固める。それは、楠木家こそ挽回の鍵だと頼みにしている南朝を滅亡に向かわせることに他ならないのだが……。朝日新聞の大人気連載、待望の単行本化!司馬遼太郎は確か題材にしていないと思う南北朝時代は美意識がないと何やらインタビューで語ったそう?そのせいか司馬のような偉人が言っているから後進作家も遠慮したらしい私が住んでいるこの河内の英傑楠木正成正行親子の名前は知ってはいるが南北朝時代を全然知らなくて
四條畷神社にある楠木正成公供養塔の謎について『四條畷神社へ初参拝』雁屋墓所に続き、四條畷神社へ初参拝広い境内、立派な社務所もあり、別格な創始の神社であることが分かりました。とにかく、毎日の掃除が大変なのが分か…ameblo.jp四條畷神社にある楠木正成公供養塔彫られてある銘文から、室町幕府・北朝方の有力守護大名であった大内義弘が、恐らくは豊中市にある安楽寺というお寺において建立した楠木正成公の供養塔ということが分かります。大内義弘Wiki
雁屋墓所に続き、四條畷神社へ初参拝広い境内、立派な社務所もあり、別格な創始の神社であることが分かりました。とにかく、毎日の掃除は大変でしょうね。摂社には天神社が祀られてあり、やはりという感じでもあります。楠木氏は、出雲族、出雲忍者が、その出自となります。(摂社に、天神社の他にも、熊野神社や出雲系神社の摂社があるかと思って探しましたが無かったですね、、)一つ驚いたのが、どこかの山中にあったとされる楠木正成公の古い供養五輪塔が
拙寺(往生院六萬寺)は小楠公菩提寺で、境内に楠木正行公胴塚の墓所がありますが、初めて四條畷市の雁屋墓所へと参拝しました。実際に訪れてみないと、やはり分からないことがあります。目的の一つ「南無権現」の石碑の確認へと行きましたが、高い玉垣に囲まれた中には入れずで、大楠の根元にあるらしいのですが、遠目ではもちろん分かりませんでした。しかし、楠の大木はかなり立派でしたね。また、大久保利通揮毫の石碑が、あまりに巨大でビックリしました。こちらの由
2025-11-24吉野如意輪寺こちらで、今回のハイキングの最後のスポットになります菊が沢山ん〜とぉ?楠木正行(まさつらって読むみたい)が木を植えてぇ〜その木の前に後醍醐天皇が腰掛けた石があるってことかなお久しぶりだし、行っとこか…後醍醐天皇陵エッホエッホと、境内にいた数人の方たちが、まろんの後に続いて階段を上がって来られたよ気になってたんだね〜こちらではなくぅ〜もちっと上ですひえ〜〜〜着いたぁお辞儀をして、階段を下りますどこからいらしたのか、5人くらい上がっ
「往生院稲荷社御縁起」(往生院稲荷大明神と楠木正行公の恋人・弁内侍)について往生院稲荷大明神、鎮座20周年で発行された「往生院稲荷社御縁起」についての当時の四大紙の新聞記事が寺史に残されています。記事によると、鎮座20周年において弁内侍の出生から自害までについて改めて編纂した冊子を作った上で、楠木正行公墓所の北東50メートルほどの現在の稲荷社の地に弁内侍が自害の後に祀られたと、先代(川口立誡)が最終的に見立てられたことが分かります。もちろん、黙庵周諭禅師によって
「映画・国宝」・「イクサガミ」・「SHOGUN将軍」の共通項「映画・国宝」・「イクサガミ」・「SHOGUN将軍」の共通項:岩瀧山往生院六萬寺そういえば、徳力基彦さんの「映画・国宝」の記事の中で出てくる、「イクサガミ」、「SHOGUN将軍」、ある共通項も一つ見えてきます。それは・・「楠公」、「楠木正行」です。映画「国宝」、中盤の重要なところとして、喜久雄、半二郎、幸子のお墓参りのシーンが撮影された当blog.livedoor.jp・・そういえば、徳力基彦さんの「映画
2025、令和7年も残り1か月余。今年力を入れた小楠公こと楠木正行(まさつら)公。その思いを地元のタウン紙(「MGプレス」)に投稿した…が……載らない…ウーン…ボツか問い合わせあったのだが…ウーン…待つこと1か月余……ダメか…ところが、オ?…載った、よかった正行さん!『語りたかった楠木正行(くすのきまさつら)の美談』楠木正行という武将を知る人は少ない。だが「父親は楠木正成…」と聞くと頷く人は多い。父正成は皇居前広場に立つ有名な騎馬武者像であり、いちずに後醍醐天皇に
楠木正行と楠木党の物語だった。めちゃくちゃ面白かったし、ラストは泣けた「誰かのために散ってよい命などない」父を失った楠木正行は、ずっと悩み考えていた。父を無謀な戦いに向かわせた者たちに、憤りを感じていた。だから朝廷からの使者をかわしてきた。英傑とされた楠木正成の子というだけで同じ道を辿ることを期待される。でも楠木正行は、皆と生きたい。滅ぶだけしかない南朝ではなく、武家の北朝に降ろうとしていた。楠木党が北朝に行き、この不毛な戦を終わらせる。北朝は楠木党を疑うだろうか
今日は、近大院生による研究取材がありました。テーマが「楠公道場」について。なかなか博士課程論文テーマに「楠公道場」を持ってくるとは、奇特な方ではありますが、埋もれつつある歴史でもあり、有り難いことであります。今はこの二つの石碑を遺すのみですが、資料は豊富にあり、研究に役立つかと思います。この後、昨日に別件で訪れていた上四条の正行・正時石碑がある福富神社へと向かわれました。こちらも戦時では学童疎開を受け入れており、顕彰石碑もあるように、元は楠公道場であったのか
意見交換の中で一番驚いたのは、この西光寺(庵)(東大阪市上四条)から役所に出された「忠臣小楠之墓」の石碑建立の願い。(正平四年は正平三年の間違い。貞和ならば四年。)実は彫られた文字の揮毫元版があり、相国寺の住職によるもので、その写しまで現存しているということでありました。この「忠臣小楠之墓」を揮毫したのは、相国寺・南禅寺の住持を務めた大典顕常(だいてんけんじょう)禅師(1719-1801)で、その原版の写しが残されているのであります。天保7年(1836)の伺いを出した時点で
11/14は、一日、楠公研究者の方に楠木正行公関連史跡の案内西光寺跡・舟形板碑五輪塔前にて四條縄手古戦場戦没者追善法要(私有地のため事前に立ち入り許可を頂いてのお参り)正行公・正時公自刃地の天王堂ヶ芝、花草神社跡、神宮寺小太郎首塚福富神社跡・楠木正行公碑旧楠公院跡・畑小路地蔵堂浄土院跡、多門寺跡、大光寺跡、楽音寺跡戻って本堂を案内して、正成公・正行公位牌、正行公念持仏毘沙門天、映画「国宝」ロケ地、弁内侍稲荷社
◎人よ、花よ、上下今村翔吾今度の今村ワールドは、楠木正成の長男で父と並び名武将と名高い”楠木正行”が主人公名武将と呼ばれなくても、己も民も死なず幸せに生きたいという彼の思いは…⇑クリックお願いいたします<(__*)>
十二社権現寺・堂之宮権現宮を参拝しました。往生院六萬寺の表階段から西へ100メートルほどのところになります。東大阪市六万寺町1丁目https://share.google/4bIpyvpYZenCTWsqa「違い大根紋」を確認。出雲王国の向(富)家の先祖が祀られている出雲国一之宮「熊野大社」との繋がりを示すものとなります。そして、やはり、「大国主命」(大物主命・大己貴命)が祀られてある社もありました。正面には「三宝荒神」。
江戸時代に再興された河内「往生院」と出雲国一之宮「熊野大社」との繋がりについて江戸時代、関白・鷹司信房と松平信平の父子により再興された河内・往生院は、池嶋村(東大阪市池島町)の庄屋であった富家氏から中興開山となる僧侶を迎えることになり、それが、欣譽浄泉和尚(浄土宗鎮西派)であります。富家家は、元々は能楽の家元でもあったことから、出雲散家・出雲忍者の出自であったことも窺え、摂関家・公家の鷹司家(信房)との関わりも能によることからとなり、富家という姓名も鷹司信房から与えられており、楠木正
熊野大社・社紋「大文字紋」と江戸時代・旧往生院本堂・鳥衾瓦の「大文字紋」についての考察出雲国一之宮である熊野大社の社紋が「大文字紋」で、そういえば、江戸時代の旧往生院本堂の鳥衾瓦が「大文字紋」であったことを思い出しました。旧往生院本堂の鳥衾瓦出雲国一之宮・熊野大社調べてみましたが、大文字紋の鳥衾(とりぶすま)瓦(雀瓦)は極めて異例と言えるものになります。通常は、巴紋がやはり多いものとなります。また、最も目立つものであり、装飾的に特注で誂えるとし
本年7月から公開しております森町新調だんじりのご紹介シリーズも8回目の最終回を迎えました。いよいよ大詰め、最終回はズバリ「見送り」です。まずは全体像から見ていきましょう。地車後方の姿見から順にセンター(馬乗り:楠木正行)へと迫っていく構図。しかも網無しというシーンは、見学会でしか体験できないもの。ド迫力のその題目は「四条畷合戦」。四条畷の合戦南北朝時代の正平3年(1348年)1月5日に河内国の四条畷で発生。この戦いは、南朝の楠木正行とその弟正時が、
ワタシの大好きな武将に楠木正成さんがいます。嫡男さんが正行(まさつら:小楠公)さんで正成さんの弟さんが正季(まさすえ)さん。一時期は正成さんに関する本をずっと読んでいたのですけれど、ここ2年ほど離れてしまっていたこともあって、正行さんと正季さんのどちらが正成さんの息子さんで弟さんだったのかごちゃごちゃになっていました。1週間前にYouTubeの動画を見ていて、四条畷神社の動画が目に留まったのです。生まれてこの方、住み家を大阪から外にしたことはないものの、四条畷
河内ふるさと文化誌「若楠(わかくす)」88号(記念号)が発行されました。今号では、住職が「民具歳時記」に、副住職が、シリーズ5回目「南朝と往生院について前編」と巻頭「岩瀧山の一本杉」に寄稿させて頂いています。シリーズの今回は、楠木正行公と往生院の関係について詳しく述べています。購読希望は、ハガキか、手紙で、申込先まで。購読会員は1年2000円で、年2回、新しい若楠が届くことになります。支援、協力を頂ける賛助会員・協賛会員も募集しています。次回(来年4
令和7年9月26日(金)今回は、朝から車まで四條畷市にある小楠公(楠木正行公)縁の四條畷神社に行くことにした。第二京阪道路⇒寝屋川北IC↓府道20号線↓四條畷神社〈四條畷神社〉参拝者駐車場。10台くらい止められる。絵馬堂。境内。飯盛山の中腹に鎮座する。石碑。神社会館。絵馬堂。休憩所となっている。石段。上から下を見る。金雲(金運)サンタ?が迎えてくれる。みくじ掛け。社務所。人形奉謝祭が10月12日(日)にあるようだ。雛人形が多いようだ。楠天神。手水舎。有源
さ、さ、寒い信州!今朝(9/20)は23℃、クルッテルゥ~!炎天下、あえぎ、あえぎながら宇治の正行寺へ、さらに京都・宝筐院へあのころの猛暑が夢のよう、うそだったような。交野市・星野小学校の正行公石像から北へ、宇治市へ。ここに楠木正行のまさにその名のごとく「正行寺」という古刹が。境内の一角に、正行と一子・正時及び一族の墓所が祀られていた。四条畷の激戦で敗北、ついに討ち死にした正行と一子・正時。一族家臣らがその首級をたずさえ、吉野へと逃れようとしたが、北朝方の追撃は厳しく
(オリジナル:2022.8.3)【生き様を汚すなかれ】太田道灌(おおた・どうかん)という室町時代後期を生きた武将がいる。江戸城を築城した人であり、文武両道の名将であったとも伝承されている。しかし、強いということは多くの“誰か”を消したということ。消された者たちやその子孫の恨みたるや…です。それはどんな偉人にも歴史にも言えることですが。彼は歌にも秀でた人であったと言われている。絶世の句には品格があふれていると私は思う。刺客に「かかる時さこそ命の惜しからめ(こんな時はさぞ