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杉原千畝(ちうね)この方はリトアニア日本領事館で働いていました第二次世界大戦中ユダヤ人が日本通過ビザを発行してくれないかと訪ねてきたのです電信で日本に許可を求めましたがもちろん許可はおりませんでしたしかし杉原氏は日本通過ビザを発行することに決めました始めは手書きでしかしここならビザが発給されるという噂が広まり大勢のユダヤ人が毎日並びましたスタンプ形式に改良し来る日も来る日もビザを発行し続けました杉原氏のおかげで多くのユダヤ人が助かりました一家族につき一枚
家族と気比神宮にも寄りました。こちらはまだ数年前に参拝にお伺いしていると思いますが、家族は初めてと言うことで一緒に。ここまで来ると、私は敦賀港にも寄りたくなります。杉原千畝さんの人道の港と記念館があるからです。第二次世界大戦で自分の命を顧みず、ユダヤ難民に命のパスポートを書き続け、多くの命を救った日本のシンドラーとして知られています。そして敦賀の皆さんは、命からがらこの地に辿り着いたユダヤ難民の方を手厚く歓迎されたと言うことで、私はこの地がとても好きです。今回は、寄れなくて残念でした
帰省旅行で、夫の実家に来ています。昨日は、岐阜県八百津町の杉原千畝記念館に、お義母さんと一緒に行きました。杉原千畝は八百津町出身で、第二次世界大戦中、リトアニアの領事だった時、ポーランドから逃げて来たユダヤ人に日本通過を許可するビザを発行して、6000人の命を救いました。記念館は、ホロコーストの説明や、第一次世界大戦に負けたドイツがナチスを支持した理由から丁寧に説明があり、展示がとても充実していました。領事館執務室で、パスポートにスタンプを押しました。八百津町には初めて来たのですが、趣
岐阜県八百津町を訪れた続きです8月1日~7日までのマンホールカード配布場所八百津町役場1階の水道環境課には展示蓋がありました八百津町の町章を中心に町の花「ササユリ」が4等分に描かれたデザインカラーの蓋は、展示蓋のみで町内では、カラーでない蓋が多く見られます役場の東側には、八百津小学校校舎は、昭和34年(1959)に竣工学校の南側に注目杉原千畝実家跡です昭和15年(1940)、リトアニアの日本領事館でナチス・ドイツの迫害
7月に美濃加茂市へ小さな一泊二日旅行をしたことはブログに書きました。『近場ビジホ一泊観光プラン-28キロもはなれて-』二週間くらい前になるかな。岐阜市からおよそ28キロ離れた(およそ28キロしか離れてない)美濃加茂市に泊まり、そこを拠点に観光をしました。・車で一時間く…ameblo.jpその際、初日に訪れた場所は杉原千畝記念館でした。>杉原千畝とは、第二次世界大戦のさなかリトアニアの日本領事館で領事代理を務めた外交官であり、ナチスドイツから逃れてきたユダヤ人に大
*8月1日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君と近現代史のしらたま教授との歴史トーク、今回のテーマは昭和戦時中の外交官・杉原千畝です。本日がシリーズ最終回、モスクワの杉原千畝のおはなし。あんみつ「しらたま先生、ルーマニアのブカレスト郊外、ゲンチャ収容所で終戦を迎えた杉原千畝一家は、1947年(昭和21)4月、日本に帰国がかなった直後に外務省から退職勧告を受けました。自宅の藤沢市で雑貨店を出したり、短期の委託契約で役所
人は狂気の沙汰だと思うだろう。夫には何度も止められ、呆れられ、「狂ってるにも程がある」と言われた。しかしひよこよさんはずっと後悔し、思い出しては気を揉んでいたことがあるのだ。やり残したり、出来なかったことがあることが非常に嫌な性分なのである。夫に狂っていると言われようが、決めたことは達成するまで追求したい。そんなクレイジーひよこよさんは朝3時ワルシャワのバスターミナルにいた。3時20分に出発する長距離バスに乗る。行き先は、リトアニア•カウナスだ。目的はただひとつ。杉原千畝博
*7月24日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君と近現代史のしらたま教授との歴史トーク、今回のテーマは昭和戦時中の外交官・杉原千畝です。本日は、ブカレストの杉原千畝のおはなし。あんみつ「しらたま先生、1941年(昭和16)6月の独ソ開戦は、日本の対ソ方針を混乱させました。4月に<日ソ中立条約>を締結したのは、アメリカによる石油など対日禁輸を受けて、ソ連との関係を静謐に保ち、日中戦争継続のための資源を南方に求めよう
★★★1-4テリィを浮上させられる人物は世界にただ一人。「とりあえずさ、家族に手紙を書きなよ」キノコが生えてきそうな暗い男にカールは提案した。「・・知ってるだろ?イギリス行きの船はUボートに撃沈されている」「でも、全てじゃない。10通書けば何通かは届くさ」船舶に頼っている郵便事情が、戦時下でスムーズにいくとは限らなかったが、アメリカにいてできることは、これくらいしかなかった。「あんたに手紙が来てるよ!」朗報は秋の終わりに届いた。「キャンディか!?」はやる
S・スピルバーグがメガホンを取った映画『シンドラーのリスト』に因み〝東洋のシンドラー〟と呼ばれる人物といえば、ちうね杉原千畝氏今日は第二次大戦中に多くのユダヤ人の命を救った、この元外交官の命日・没後40周年にあたります。杉原氏は、1900年元旦という実にキリのいい日に岐阜県賀茂郡で生まれました。税務署職員だった父は、幼少から頭脳明晰・成績優秀だった息子を医者にしようと、自ら京城医学専門学校の受験手続をします。しかし英語に関
7月31日が命日・忌日の有名人・著名人1784年満70歳没(肺気腫)ドゥニ・ディドロさん哲学者、作家百科全書派『百科全書』⇒『ドゥニ・ディドロ(1713年10月5日生~1784年7月31日没、哲学者)』1875年満66歳没(脳梗塞)アンドリュー・ジョンソンさん第17代アメリカ合衆国大統領1886年満74歳没(肺炎)フランツ・リストさん作曲家、ピアニスト⇒『フランツ・リスト(1811年10月22日生~1886年7月31日没、ピアニスト、作曲家)』1944年
明日の28日が川村カオリさんの命日です・・2023.08.16アネスタ!川村(かわむら)カオリさんはロック歌手として38年という短い人生を走り抜けました。私生活では一女を授かっていますが、結婚していた男性とは離婚をしていたそうです。川村カオリさんの娘、るちあさんの現在や旦那、弟など迫って行きます。⇩ロシア正教式で営まれた葬儀(埋葬式)には、ロシアに滞在していたカオリさんの父・秀(すぐる)さんも緊急帰国し献花から参列。昨年10月のがん転移公表から、カオリさんを支援していた
*7月18日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君と近現代史のしらたま教授との歴史トーク、今回のテーマは昭和戦時中の外交官・杉原千畝です。本日は、ユダヤ難民の運命のおはなし。あんみつ「しらたま先生、独ソ開戦と時を同じくして、ナチスによるユダヤ人最終的解決、すなわちホロコーストが激化。ヨーロッパ中に約980万人いたユダヤ人総人口のうち、約586万人が殺害されます。国別最大はドイツに占領されたポーランドの300万人」
「当記念館は、1939年11月から1940年8月までリトアニアの日本領事館として実際に使われていた建物です。当時まさにこの場所で、杉原千畝は日本政府の明確な許可を得ることなく、ソ連の弾圧や迫りくるナチスの迫害から逃れる人々に日本への経由ビザを発給しました。」詳細は、各種メディア、財団の資料に委ねます。リトアニアは、カウナスの「杉原記念館」を訪問しました。思ったよりこじんまりしていて意外でした。20分のドキュメンタリーを拝聴しました。「当博物館は、戦間期の家屋を忠実に再現
杉原千畝の名言「人間にとっていちばん大切なのは、愛と人道だ」この言葉には、杉原千畝の生き方そのものが表れている。人は時に、規則や損得を優先し、本当に大切なものを見失いがちである。しかし、どんな状況においても、人としての正しさを貫くことができるかどうか。それが、人生の真価を決めるのではないだろうか。杉原千畝は第二次世界大戦中、リトアニアの日本領事館で多くのユダヤ人難民にビザを発給し、彼らの命を救った。これは当時の政府の方針に反する行為であり、自身のキャリアを犠牲にする
*7月12日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君と近現代史のしらたま教授との歴史トーク、今回のテーマは昭和戦時中の外交官・杉原千畝です。本日は、ケーニヒスベルクの杉原千畝のおはなし。🥟あんみつ「しらたま先生、1941年(昭和16)3月、杉原千畝はカウナスでのヴィザ発給を咎められることなく東プロイセンのケーニヒスベルクに総領事代理として赴任します。バルト三国の領事館が閉鎖した今、東ヨーロッパ情報収集の最前線です」
もう完全に夏ですねぇ~(;^_^Aアセアセ・・・)暑すぎる!そんな土曜日は・・・バイクの日!(#^.^#)今回も・・・ツティンさんとパンツ~では無くて・・・久し振りのヤス参戦!(^.^)ノドモドモFLTRERO!?全部で7人?8人?の女神?がっ!(#^.^#)オンリーワンな塗装!(^^♪今回の目的地は・・・日本に1つだけのモノを見たい!これまたオンリーワン!という事で、そそくさと出発!ヽ(゚3゚)ノあっという間に
*7月6日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君と近現代史のしらたま教授との歴史トーク、今回のテーマは昭和戦時中の外交官・杉原千畝です。本日は、プラハの杉原千畝のおはなし。あんみつ「しらたま先生、カウナス在勤のリトアニア領事代理・杉原千畝は1940年(昭和15)7月下旬からユダヤ難民のためにヴィザ発給を開始しました。記録に残る総数は2139枚。その第一陣がシベリア鉄道経由でウラジオストックに到着します」しらたま
7月9日は、グレゴリオ暦で年始から190日目(閏年では191日目)にあたり、年末まであと175日ある。====7月9日の記念日====【ジェットコースターの日】1955年のこの日開園した後楽園遊園地に日本初の本格的なジェットコースターが設置された。下僕くぅ~騙したニャー!いろんなモノちびりそうニャーベルさん、ジェットコースター楽しいですか?もしもし・・・?もしもぉーし♪あっ!課長ッスかぁ?本日も、体調不良なので、会社休むッスぅうるさいですか?電車です、病院へ移動中なんでぇ切っ
7月9日の出来事455年ローマの指揮官アウィトゥスが西ローマ帝国皇帝即位を宣言。1540年イングランド王ヘンリー8世が、同年1月に行われた4番目の妻アン・オブ・クレーヴズとの結婚の無効(離婚)を宣言。1673年(延宝元年5月25日)日英関係:1623年以来途絶していた日英間の通商再開を求めてイングランド船「リターン号」が長崎に来航。幕府は拒絶。1755年フレンチ・インディアン戦争:モノンガヘラの戦い1762年(ユリウス暦6月28日)
1940年7月9日、在リトアニア日本領事代理・杉原千畝がユダヤ系難民に日本通過ビザ(通過査証)を発行、以降9月4日まで2千枚以上を発行しました。杉原千畝は、日本のシンドラーと言われ、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情して、外務省からの訓令に反して、大量の“命のビザ”発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られます。1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民
はい!今回は漫画というか、小学生用の参考書?いや、実は友達に『この人の漫画読んでみたいんだよね』と言ったら、なんと!誕生日プレゼントにくれたのです^^この前に読んで載せた『ハイウェイの堕天使』と一緒にwホントにとても読みやすくて、すんなり彼のしたことが頭に入りました^^とはいえ、すぐに忘れる年なので繰り返し読みたいかな!内容的には、彼は外交官で第二次世界大戦中、ヒットラーたちに迫害されたユダヤ人を逃がすため、日本行きの通行ビザを発行した人です。
*6月27日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君と近現代史のしらたま教授との歴史トーク、今回のテーマは昭和戦時中の外交官・杉原千畝です。本日は、杉原千畝と命のヴィザのおはなし。あんみつ「しらたま先生、1940年(昭和15年)5月、杉原千畝が領事代理を務めるリトアニアにソ連の脅威が迫ります。相互援助条約という名の保護国化に飽き足らず、露骨に領土併合を狙ってきたのでした。まるでナチス・ドイツのヨーロッパ蹂躙に刺激されたか
今日の日経で杉原千畝さんが命のビザを発行してユダヤ人を助けたことを”喜ばしいことは自分の中に助けを与える決定する力を見出したこと”という言葉があったそうだ。自分の中に人を喜ばせ助ける力がある能力があることは幸せだ。大抵の人はそれを持っていない。何かしてあげたいと思っても(勿論、ほんの少しの力はあるかもしれない、そして多くの力が集まれば大きな力になるかもしれないが)自分の力で大きな助けになることを成し遂げることはできない。私にはそんな力は
*6月21日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君と近現代史のしらたま教授との歴史トーク、今回のテーマは昭和戦時中の外交官・杉原千畝です。本日は、日本政府の‟河豚計画”のおはなし。🍣あんみつ「しらたま先生、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害に対し、政策不在だった日本政府は1938年(昭和13)12月に至ってようやく《猶太(ユダヤ)人対策要綱》を閣議決定します。これが終戦時まで続く基本姿勢となりました」しらた
身近にできる難民支援を考えよう▼本日限定!ブログスタンプ台湾有事日本への影響は12万避難民計画民族紛争と難民問題入管管理法改正6000人を救った日本人杉原千畝敦賀市敦賀市ムゼウム訪問ありがとうございます
岐阜県八百津町に行って来ました以前にもらったお酒がおいしかったので蔵元やまだまで行きました多治見市陶磁器意匠研究所の時の友達が案内してくれましたお目当てのお酒は正月限定で現在は無く今はこのお酒が主流のようで左の澄酒は度数が高く氷を入れてロックで飲むのがおいしいそうです真ん中の招き猫は純米酒ながらも冷よりかんがおいしいそです右の玉柏はここの看板のようですその後杉原千畝記念館に行きました帰りに五平餅食べました
*6月6日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君と近現代史のしらたま教授との歴史トーク、今回のテーマは昭和戦時中の外交官・杉原千畝です。本日は、杉原千畝とソリー・ガノール少年のおはなし。あんみつ「しらたま先生、杉原千畝が領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスでは、1939年(昭和14)の暮れあたりから、ポーランドを逃れてきたユダヤ難民が目だっていました。1938年11月の白色テロ《水晶の夜(クリスタル・ナハト
*5月31日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君と近現代史のしらたま教授との歴史トーク、今回のテーマは昭和戦時中の外交官・杉原千畝です。本日は、リトアニアの杉原千畝のおはなし。🍚あんみつ「しらたま先生、1939年(昭和14)8月、日本政府と軍部が独ソ不可侵条約に驚愕していたころ、杉原千畝はリトアニアのカウナスに領事代理として赴任していました。ちょうどナチス・ドイツの魔の手がポーランドに迫る直前です」しらたま
無事にリトアニアに入国し、まずはお目当てのお土産のお店を目指しているひよこよさん一家。『あと2分で到着てナビは言うとるけど、本当にこの道で合っとるんか。』合っているのかどうか分からないが、ナビがそう言うのであればとりあえず進むしかない。長野の実家までのような道を進むと、そのお店はちゃんとあった。“Salonas"Jaukūsnamai"Jaukūsnamai”リトアニアリネンのお店である。GoogleMapsFindlocalbusinesses,viewm