ブログ記事1,260件
あれってそれってどんな人がいるの~歴史上人物としての国学者ー※社会歴史内容含みあくまでも受験レベルですが、、契沖「万葉代匠記」荷田春満「万葉習僻案抄」賀茂真淵「万葉考」本居信長「古事記伝」「源氏物語玉の小櫛」平田篤胤「古史成文」思想書鈴木重胤「日本書紀伝」…らが居るのだとか。。--国学者(江戸時代などの日本古典研究者)นักปราชญ์ญี่ปุ่นผู้ศึกษ
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************浅野氏は、恩人とも云える出口氏について、その著書で痛烈に批判している。『私は今王仁氏を捕へて、その器にあらずと申しましたが、その意味は、同氏が宗敎家たるに甚だ不適當であるといふつもりなのです。あれ位の藝當をする人ですから、同氏にも、他人の到底眞似のできない長所があります。萬事に如才なく、人意を察してこれに迎合することの巧妙なことは、殆んど一の天才といふべく、又、しやれ地口
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************ところで、そう語る浅野氏も、指導の折に何度も殺されかけたことがあったと述懐している。『霊から暴行を加へられて、九死1生の散々な目に逢ふに至りては、さらに一層つらいものであります。ところが、最初両三年間、私は「今度という今度は、いよいよお陀仏かな」と覚悟したことが、幾度あったか知れません。審神者という者は、ある意味に於て、全く命懸けでなければ勤まらない職業です。』『彼等は
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************「七年八年となると、イヤ實驗材料が集まる集まる、一日平均二三百人にも上るのですから、私に取りては、誠に以て有難い仕合せで、腕によりをかけて、片ツ端から神懸りの實驗を試みました」大本での鎮魂帰神法は彼の人体実験の場だったのだ。これでは出口氏が中止させたのも当然だと思う。霊的な浄化や向上を求めて集まった多くの信徒達を、単なる実験材料として扱っていたわけなのだから。「實はある
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************浅野氏はその著書で自ら指導したという鎮魂帰神法について、その実態を吐露している。『が、過去現在の大本敎が何であらうとも、靈的體驗を、ふんだんに供給してくれたことにかけては、私はどんなに感謝しても、感謝し切れなく、考へて居るのであります。信仰を求めて、大本に集つた人達から云へば、あそこが立派な修行場でありませうが、私から云へば、あそこは一の實驗場で、信者は悉く私の研究材料で
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************次に浅野氏ではなく、大本側の文献を見てみよう。『王仁三郎は四月二八日、浅野夫妻らと綾部を出発、二九日横須賀の浅野の宅につき、海軍機関学校長・木佐木少将夫妻ほか数人に面会し、鎮魂を実施した。五月一日東京池袋の尾寺宅へ出向き、五月三日には横須賀の三浦屋(成川浅子宅)に一泊して、そののちふたたび浅野宅に滞在し、海軍将校や海軍機関学校の教官たちに、宣教とともに鎮魂の実修をした。そ
「やまとごころに還る紙芝居のひととき」東京で開催された「日本を知る会第172回特別勉強会」にて、にほんのたね紙芝居として登壇させていただきました。いやさか祥平さんの神武天皇のお話から始まり、「家族」という最も身近で、最も難しいテーマへ。価値観が違うからこそ、簡単にはいかない。それでもなお、和をなそうとすること。その小さな積み重ねが、やがて世界平和へとつながっていく——そんな深いメッセージを受け取りながら、私たちは三つの物語をお届けしました。ひ
「物の哀れ」が主張された本。物の哀れとは「世のありさま、人のこころばへをしる」ことであり「心のうごきて、これはと思ふ事」全てで、「人の情」を知ること(p33、あとは頁をあげられないほど繰り返される)。その把握には「好色(=恋愛)にまさるはなし」(p109,140)。さらに色恋だけでなく、そこに「心としわざのよき」こと「形」「品・位をきはめて」いることも重要(p151)。面白いのが先行文献の批判から始まることで、現在の論文と同じ形式。当時、源氏物語は仏教や儒教に寄
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************一方、出口氏は自身の鎮魂帰神指導、並びに浅野氏との出会いについて下記のように回想している。どうやっても上手くゆかない自身の幽斎指導に嫌気がさし、自分の代わりに信徒の相手をする人物として浅野氏を選んだようだ。『それから自分も病人の鎮魂がサツパリ嫌になり、神懸りの修行も断念して了ふた。が大正五年に横須賀の浅野サンの宅へ行つた時、参考のために又もや幽斎の修行をして見せたのが元と
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『想ひまぐらせば大正五年の春、不図した動機から同志を集めて(判読できず)西洋式に言ったら、所謂家庭交霊会を催すことになったのですが、いよいよ行ってみると、他の人達は、上手下手は別として、兎も角或る程度の霊媒能力を発揮するのであるが、私ばかりは、人一倍の努力を佛っても、なかなかものにならず、通常意識が茫然自若として頑張っている。私はいつもしれッとして、他人に起こる諸現象を客観
こういう本を読みました。ここ最近神道関係の本を読んできた僕にとっては既知の内容が多く、目新しい発見は少なかったのですが、神道の辿ってきた歴史を通史的に見るという点では良い本だと思います。この本の主張を端的に説明すると、「神道は外来の宗教や思想に影響され、変化し発展していったので、神道独自の固有性は希薄である」と言うことになると思います。神道は本来「自然への畏れ」から生まれた素朴なアミニズムで、思想とか、倫理観とか、論理といった多くの宗教が持っている機能を持ってはいませんでし
今から60年前の1966年「古都保存法」が公布·施行された。奈良県明日香村が同法によって「古都」に指定されてからも丸60年。これを記念した「古都の自意識近世飛鳥の農民と遺跡」展が奈良文化財研究所飛鳥資料館(明日香村奥山)で始まった。飛鳥資料館が開館したのは1975年。開館50年目を迎えた昨年秋には建物が登録有形文化財となった。設計したのは建築家で文化勲章受章者の谷口吉郎(1904—79)。古代に都が置かれながら、その後長く忘れ去られていた飛鳥の地。再び脚光を集め始めるのは江戸時代にな
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************浅野和三郎氏の鎮魂帰神法出口氏と浅野氏の出会いは、大正5年4月という。初めて浅野氏が出口氏から大本霊学の講義と鎮魂帰神法の実修を受けたのは4月28日横須賀の浅野氏宅でのこと。浅野は2回目の鎮魂帰神法の実習の際に、王仁三郎から審神者を行うように言われて、参加者に対して審神者を行った。つまりその時に出口氏は浅野氏に大本での審神者の資格を与えている。しかしながら、当然これは本田霊
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************長沢翁に出会う前は、出口氏自身の過去の体験に基づいて指導していたが、実際の所、憑霊のほとんどが妖魅霊という有様だった。長沢翁に出会った後はどうだったかと言えば、状況はあまり変わっていない。わずか3日程度の静岡逗留では、自身が翁の審神者を受けることと、他の人達の幽斎を見学する程度しか時間的に無理だったはずなので、審神者の法の伝授など未だ程遠いレベルだったことは疑いない。故に、
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『上田会長の留守中に、上谷の修業場は、霊憑りの発動で、修業者二〇余人のうち大部分が妖魅に憑かれて大騒ぎとなった。なかでも、福島の霊憑りははげしかった。「丑の年に生まれた寅之助で、丑寅の金神だ」と叫んで、裸になり、開祖の筆先の言葉をまねて、のべつまくなしにどなりちらし、始末におえない状態となった。会長が祈願をこめて鎮魂をしたので、一時は発動がしずまったが、他の霊憑りにも、たく
皆様こんばんは!!今回の桜巡りでは、高見の里の桜を見るために、1日延泊しました。延泊した日は、あいにくの雨で、長谷寺に拝観しました💕二度目の拝観になります。鎌倉の長谷寺にも数回行きました。奈良、桜井の静かな山あいに佇む真言宗豊山派の総本山、長谷寺。四季折々の花に彩られることから、「花のお御寺」とも呼ばれ、多くの人々の祈りと癒しの場として親しまれています。本尊十一面観音像は日本最大級の木造観音として知られ古きより信仰を集めてきました。あいにくの雨でしたが、、、廻廊が、とても素
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『駿河より余等二人、帰村してみると、斎藤の家の内外は人の山を築いて居て、中には多田琴、斎藤しづ、同たか、岩森とくの四人に、妖魅なり野や狐や野天狗が懸って踊り回りて居る。門口には斎藤元市氏が、必死になって数多の見物人の侵入を制して居る最中である。家の内外は、狂乱と罵詈とに充たされて居て、取りつく島が無いのであるが、元市氏は、先ず二人の帰国を喜んで、「とも角、話は後で委しうするが
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************また鎮魂石を、「師の霊として大切に肌身はなさず守って居た」とあるが、鎮魂石には長沢翁の霊が鎮まっているわけではない。これを見ると、授与された時に翁の話(鎮魂法のやり方や諸注意)をきちんと聞いていなかったこと、そして御神霊の神気を感じる能力がなかったのがよくわかる。『それから神鏡を見せると、恐れて面をかくすのである。神前の扉を開かんとすれば、大声を出して絶叫するのである。鎮
瀬織津姫命は『日本神名辞典』では、こう説明されています。大祓詞に速川の瀬に坐す神として見られる祓所の四柱の神の一柱。伊邪那岐神の禊に照らして、禍津日神(まがつひのかみ)と同じであるとみなされている。また倭姫命世紀には皇大神宮の荒魂にあたり、八十禍津日神であるとする。なんか現代では瀬織津姫ファンの方々が美化しているけど、イメージぶち壊しだろうなぁと思いました。だけど『倭姫命世紀』の方が鎌倉時代初期には編纂されていると見られているくらいですから。先日、禍(まが)を直し給う神
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『総理閣下より鎮魂の玉、御母堂より天の岩笛を拝領したが、綾部へ来るまで、師の霊として大切に肌身はなさず守って居たが、ついに中村竹蔵にわが心を籠めて授与したのである。その大切なる品を下付した余の心を無にして、稲荷講社から出たものだからと云うて、迷信の余り、明治三十五年の旧十一月頃に、園部まで突き返すと云うて、園部で紛失させてしまった。』(出口王仁三郎著作集第1巻第11章)二回目
今の時代だからこそ、「やまとごころ」に還る時間を。2026年4月18日(土)東京・湯島にて「にほんのたね紙芝居」公演をさせていただきます。今回は、歴史や精神文化を学び続けている団体日本を知る会第172回特別勉強会にてお声がけいただきました。当日の流れ|神話・紙芝居・そして“体感”へ当日はまず、いやさか祥平さんによる神話のお話から始まります。神話を「遠い昔の物語」としてではなく、“今を生きる私たちの物語”として受け取っていく時間です。そのあと**にほんの
なんだかんだと言っても桜が好きな私たち日本人桜と言えばこの歌が頭に浮かびます敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花本居宣長日本は四季のうつろいがはっきりしてるから(最近はそうでもないけど)、私たちは季節の変化に敏感で、花鳥風月を愛でる民族本居宣長は大和の国の心は朝日に照り映える美しい山桜のようだと言いましたただ先の大戦時に愛国心を高揚するためにこの歌が引用されてイメージを損ねましたが、本居宣長は潔く散るのが大和魂だなんて言ってはいないと思います他にも桜
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『余は、総理の審神者で、有形の神感法を修行したのである。しかしただの三日の逗留であったから、充分に修行する事も出来ないのは遺憾であった。』(出口王仁三郎著作集第1巻第11章)総理とは長沢翁のこと。3日間の逗留では何度か帰神術の稽古(出口氏は有形の神感法と言っているが)をするのがやっとであろう。『帰りに臨んで、総理より大神の御分霊一体を幽斎修行発達の守護として下付せられた
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『多田が帰神を修得して正当の神主になるまでには、幾多の記すべきものあり。ほとんど数うるに暇なき程にて、また審神者の苦辛したる事実は、筆紙の尽くし得うべきにあらず。次に、修行者・石田小末が口を切り、斎藤たか、十三歳の女が口を切り、順次に修行者の口が切れて来たが、始めの程は妖魅ばかりで、審神者を非常に困らせた次第は、順を追いて記載するの考えである。さて八人の神主は、各々口を
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『かくの如く、邪神は神主に感合して第一に審神者を迷わせ、神主その者を迷わせ、しかして世人を瞞着せんとするなり。故に審神者にしてその器に非あらざる時は、ついに邪神のために、幽斎研究の道場を始め精神までも占領せられて、妖魅界に引き込まるる事あれば、最も慎しむべきなり。妖魅を退散せしむるには、まず言を以て懇ねんごろに説諭するにあり。二、三回までは、説諭を以て追い出すべしといえ
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『多田の感じかけた時は、非常に騒ぎまわって大いに余を窘迫せしめた。見る見る顔色は朱を注ぎ、身体を非常に動揺し、手を急激に上下し、口を一文字にし、猛悪なる血相を現し、以て余の審神者に向かって一生懸命に飛びかからんずる勢いを示して居るのである。余は、始めて有形感合法の妖魅に出で会くわしたのでいささか心配したのであったが、吾の修業であると思うたので、直ちに開き直って厳正の態度を示
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『路銀は調達したが、さて困るのは八人の修行者である。中途に放任して置いて一日でも他出したなら、それこそ妖魅が恐いものなしで神主を襲うて、半狂者に陥らしむるの恐れがある。そこへまた、反対の乗ずる懸念があるから、ともかく一人なりと神主を卒業させて、それを審神者代理にしておかねば旅行する訳にはゆかぬので、また一心に幽斎を研究するのである。』(出口王仁三郎著作集第1巻第10章)幽
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************これらは出口氏が長沢翁に会う前のことだが、後の大本流の鎮魂帰神法とは異なり、出口氏と神主は一対一で対峙している。しかしながらその後が問題だ。本来であれば、神主の霊魂の穢れがある程度祓われるまで、しばらくの間、審神者は祓いだけで転霊は行わない。なぜなら神界に対し失礼にあたるからだ。転霊していないのに憑霊が起こる場合は、ほぼ間違いなく妖魅霊だと思っていいだろう。何度か正神界の
今年も桜が満開になり、そろそろ散り始める時期になりました。「春」「桜」がこころの拠りどころといっては大げさでしょうか。最近、とくに日本人らしいなあ🌸と思うようになりました。今年も家族で近くの河原に咲く桜の下でピクニックをしました。私たちが「お花見」で愛でる桜は「ソメイヨシノ」が多いと思います。皆さんは「山桜」をご存じでしょうか。山の中腹に小ぶりで淡い花色をした桜です。春になると、思い出す和歌があります。敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************出口氏が長沢翁に出会う前後の状況を大本の資料から見てみたい。『喜三郎は深夜家を出て、産土神社に参詣して祈願をこめ、高熊山の洞穴でしばらく感合法の練習をし、園部の天満宮で神霊感合の状態にはいった。(中略)今回の出修で、はじめて帰神術の大略を体得したので、さらに幽斎の修業をすることにし、斎藤仲一宅で第一回の幽斎研究会を開いた。(中略)喜三郎は審神者(神感を審判し神の正邪を