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昼から番茶を買いにイテキマシタやっぱり美味しい。番茶やけどポットの湯で。この蕎麦猪口は昔々に東寺の骨董市で買いました。通りすがりのポストがクリスマスバージョンになっていました。局長さんご苦労様です。姪っ子から届きました冷凍↑↓誕生日が近いので送ってくれました。晩ご飯によばれてるわ。ありがた山ですべらぼうも次の日曜日が最終回なんですってね。なにやら本居宣長さんが登場するとか土鈴ですやん!本居さんのとは違いますが
図書館の本を読んで。『マンガ日本の歴史(34)米将軍吉宗と江戸の町人』『マンガ日本の歴史(35)田沼の政治と天明の飢饉』『マンガ日本の歴史(36)花ひらく江戸の町人文化』(石ノ森章太郎著中央公論社)徳川吉宗、田沼意次、本居宣長、平賀源内など。
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************(本田親徳全集「霊学抄」の西原壮聡氏による現代語訳)こ[の記載]は、その[=伊邪那岐命の]霊魂を附着させ[た玉によって、天照大御神を]現天[=顕天=顕の高天原⇔幽天=天御中主神が主宰するのが幽の高天原]の主宰たらしめようと、[伊邪那岐命が]御定めになった[ことに関する]ものである。そして、[時代が下り、天孫降臨の条において、]この玉は天照大御神から皇孫二二岐命[=邇邇芸
北村一輝、大河「べらぼう」出演決定「古事記伝」執筆の和学者・本居宣長役【コメント】【モデルプレス=2025/12/07】俳優の横浜流星が主演を務めるNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重..........≪続きを読む≫[アメーバニュース]来週で最終回かと思う、元アイドリング!!!1040号八兵衛です。何となく面白そうかなと思って見始めたが、ついに終わってしまうのか。大河ドラマを見たのは20年ぶりくらいだろうか。来年・再来年も見ることになりそうだが。その前にESCAPE
大河ドラマべらぼう最終回に本居宣長が登場。いま古事記が読めるのは、宣長が古事記研究をしてくれたおかげ。関連する斎藤英喜書籍の写真です。異貌の古事記Amazon(アマゾン)古事記はいかに読まれてきたか:〈神話〉の変貌Amazon(アマゾン)古事記不思議な1300年史Amazon(アマゾン)\北村一輝、大河「べらぼう」出演決定/蔦重(横浜流星)が会いに行く「古事記伝」執筆の和学者・本居宣長役🔻コメントhtt
【本居宣長(もとおりのりなが)】北村一輝享保十五年~享和元年(1730-1801)本居宣長は伊勢国松阪(現・三重県松阪市)の人で賀茂真淵に師事し、国学を大成した人物として知られている。現存する我が国最古の書籍『古事記』の注釈書である📖『古事記伝』を30数年の月日をかけて完成させた事でも有名だ。蔦重は晩年、本居宣長に興味を示していたらしく、寛政七年(1795)にわざわざ伊勢まで会いに行っている。同年、他の版元からも出版されている📖『玉勝間』を蔦屋から刊行しているが、わざわざ江戸から伊
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************まず「霊学抄」(「本田親徳全集」)の現代語訳(西原壮聡氏訳)を読んで頂きたい。但し理解しやすい様に「鎮魂」から「審神者の覚悟」までの全体を掲載する。<鎮魂>鎮魂の法は、霊学の根本なので、[まずは、]その原由[=神界における起源と由来]について論じ定め、[その上で]その末法[=神界が生み出した顕界の鎮魂法]について解明しなければならない。なので、これから皇典にもとづい
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************本田翁の遺訓に『帰神ノ法ヲ幽斎ノ法トイフ。神界ニ感合スルノ道ハ至尊至貴、濫ニ語ル可キ者ニ非ズ。吾朝古典往々其実績ヲ載スト雖モ、中世祭祀ノ道衰へ其術ヲ失フ既二久シ。神法ニ依リ其古ニ復ス。是即チ玄理ノ窮極、皇祖ノ以テ皇孫ニ伝ヘシ治国ノ大本ニシテ祭祀ノ薀奥ナリ。蓋シ幽斎ノ法タル至厳至重、深ク戒慎シ其人ニ非レバ行フ可ラザル者アリ。濫ニ伝フ可ラザル意蚊ニ存ス。然リト雖モ其精神萬難ニ撓
こんにちはソラです今日は穏やかな日曜最近は体内の脂肪を燃焼するため1日約1万歩を目標にがんばってますが…なんだかいつも軽い筋肉痛です!※さきほど、「あずきバー」1本(110㎉)を食べてしまいましたので、2キロ強ウォークしてきたところです1キロ歩いてもたった約50強㎉消費するだけ…50㎉×キロ数=消費カロリー食べるのはいいけど、消費するのはたいへん!夜の娯楽は?ネットフリックスでノーCMで見るドラマテレビはCM多すぎて疲れます…
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『第二章本田翁法式の帰神術(かむがかり)古法式は、三員構成で執行された事は既に述べたが、本田親徳翁によって此の古法は改められたのである。それは、三員の内琴師の一員を省かれたのである。なお琴を弾く代りに、石笛(いわぶえ)を使用する事になされた。何故に石笛を用いられたか此の点は不明であるが、恐らく神示に依られた事と推察する。古代は、石笛を楽器として使用された事も有ろうとも思はれ
妻帯したのに、妻の里よりも内裏(うち)住みの方が居心地よいとなれば、婿として迎えた左大臣は面目が立ちません。選りすぐりのお付きの女房たちを集め、みずからも源氏の機嫌取りに余念がありません。内裏においても、臣籍に下った源氏に、亡き桐壷更衣が住んだ淑景舎(しげいしゃ)を曹司として与え、さらには、更衣の里(後の二条院)を、宮中の役人たちに命じて邸内を造り改めさせました。破格の待遇です。源氏は心中思います。「かかる所に、思ふやうならむ人をすゑて住まばやと」。御かたがたの人々、世の中
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『第六編帰神術の法式第一章帰神術の古法式帰神(神懸り)は、古来では(古法式)、三員を以て執行された。即ち左図の如し。古代は、神主・琴師・審神者の三者に厳粛に執行された。琴師は、琴を弾じて神界より神霊の御降りを願い(琴師自身に)、その御降霊を神主に「転霊(御移しする)」するの役を謂ふ。神主とは、神霊の憑依(御懸り)されるところの役を謂い、審神者とは、神主に憑依された霊
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************ここでは前回琴師を担当していた仲哀天皇が居られないので、武内宿禰を琴師としている。古代の3員制に於ける各自の役割についてだが、本田霊学での2員制とどう違うのか、ここで考えてみたい。神主は両方とも同じだと思うが、琴師と審神者はどうなのだろうか。本田霊学では審神者が琴師を兼ねるため、その点が明確ではない。たとえば2員制の審神者が、岩笛を吹いている時が琴師であり、他の場合が3員制の審
オーガニック美容家ソリッドセラム開発者五感調律師加藤里花◆加藤里花プロフィール心・身体・魂を健やかに美しく整えるRica流ご自身を愛することで幸せで豊かになる未来をつくります将来のプランはバリ島に住むこといつも読んでいただきありがとうございます◆ご提供中のメニュー【一絃琴演奏と「大和心」—和歌から生まれる言霊の世界—開催のご報告】よく晴れた秋の午後。伊勢木綿や伊勢型紙の灯りがや
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『九年春二月に、足仲彦天皇は筑紫の橿日宮で崩御された。その時、皇后は、天皇が神のお教えに従わないために早く崩御されたことを悲しくお思いになって、祟りの神を知って、その上で財宝の国を求めようと考えられた。そこで、群臣及び百官に命じて、罪を祓い過ちを改めて、さらに斎宮を小山田邑に造らせられた。三月壬申朔(一日)に、皇后は吉日を選んで斎宮にお入りになり、自ら神主となられ、武内宿
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『四日本書紀巻九神功皇后の御紀(巻末O参照)九月春二月足仲彦天皇筑紫の橿日宮に崩りたまふ。時に皇后、天皇の神教に従はずして、早く崩りまししことを傷みたまひて、以為さく、崇りたまふ所の神を知りて、財宝国を求めむと欲ふと。是を以て群臣及び百寮に命せて罪を解へ過を改め、更斎宮を小山田邑に造らしめたまふ。三月壬申朔、皇后、吉日を選びて斎官に入り、親ら神主と為りたまふ。則ち武内
第3回松阪公民館の発表会(イオンタウン松阪船江と共催)にて『ベルキャッスル』の皆さまと結里花コラボさせて頂きました❣️曲は新曲『桑名deサンバ』素敵な💕お姉さま方の元気が出るダンス💃のお陰でエネルギーがわいてと~っても楽しく歌わせて頂けました🎵ありがとうございました週に1度ここ松阪公民館のクラスで様々な曲の健康体操ダンスを練習されていますこの日は課題曲に選んで下さった『桑名deサンバ』のダンス発表の場前で聴いて下さるお客様の中には一緒に歌って
2020年1月10日(金)、前日に名古屋での商用をこなした後、例によって名古屋泊として翌日に松坂城に足を伸ばしました。松坂城は日本百名城に入れられており、お城好きの私は以前より城巡りに加えて記念スタンプなどがあれば積極的に押すようにしています。いわゆる大都市圏の有名な城については概ね訪問はしていたのですが、松坂城はまだ行ってなかったので喜び勇んで出発しました。*(編集中記)2022年以降の散歩&旅行記の投稿はいよいよ2025年分に突入したのでネタ切れによるペースダウンを極力先送りするため
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『三日本書紀巻第八仲哀天皇の御紀(巻末M参照)秋九月乙亥朔。乙卯群臣に詔して熊襲を討つことを議らしめたまふ。時に神有して、皇后に託りて誨へまつりて曰はく、「天皇何ぞ熊襲の服はざることを憂ひたまふや。是れ膂宍の空国ぞ。豈兵を挙げて伐つに足らむや。」(中略)、天皇神の言を聞きて疑の情有します。便ち高き岳に登りて遙に望りたまふに、大海曠く遠くして国も見えす。是に天皇、神
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************恐らく欽明天皇の御代以前から、中国や朝鮮半島との交流を通して、仏教は流入していたと思う。しかしながら前述の理由で、天皇とその周辺の権力者たちは、天皇の帰依を望まなかった。むしろ神格化を進めることで、権威を高める方向へ進んでいった。後年、物部氏が蘇我氏に敗れた後も、廃仏派が一掃されたわけではない。伊勢神宮を神仏習合の嵐から守ったように。ある意味、これこそ神慮ではないだろうか。
「本居宣長」と言う伝説の書がある。小林秀雄確かに、意味のない引用はない。引用とは、ミュージックでは、サンプリングに当てるのではないか、メロディはプロット、テーマ、言葉は音色か。本居宣長は、古事記、源氏物語、桜を好んだ。それが、明治維新の、理論的支柱となっていく!漢語に塗れて、本来の意味からは違ってしまった物語を取り戻す。具体的ならば、当時の世界帝国として存在していた中国が揺らいでいた時代。モンゴルに征服され、満州民族に征服された中華。儒教と言うイデオロギーが相対化された。儒教に塗れ
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************古代日本に道教が浸透してきた頃、当然仏教的な要素も入ってきただろう。日本では神を重んじる支配層にとって道教は許容できても、仏教は受け入れ難かったはずだ。なぜなら、天(神)と民の間に天皇を置くならば天皇は人間界で最高の地位にいられるが、天皇が仏教に帰依したならばどうだろう。天皇が仏弟子になるには、深く三宝に帰依しなければならない。三宝とは「仏、法、僧」である。つまり「仏」と
朝は、もっと他のことを書こうと思っていたのですが。出かけぎわに、あ、この本読んでないな、と思った本が、金利。思いから、持っていけないし、新幹線ではぼぉーっとしようと思っていたので。で、昨日、何の名所でもなく、ただ行った寝屋川市駅のそばの大利神社さん。脇の祀られている神様をみる。歳神さまを祀っている。年末の大掃除とかって、歳神様をお迎えするから、綺麗にするとかいいますよね。今年、4月ごろに、本居宣長を知りたくて、松坂にいきましたが、三井家の創業の地がありました。伊勢商人ですね。
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************話を仏教に戻すが、中国に仏教が伝来した時、混乱が先に立った。それは上座部仏教から大乗仏教までがほぼ同じ頃に流入したからだろう。後に大乗非仏論と言われるように、当時も原始仏典から密教迄、ひとつの宗教とはとても思えなかったに違いない。しかも中国の儒教や道教と相性が悪かったため、仏教側は儒教や道教の思想を借用してカスタマイズせざるおえなかった。思想的な乖離というか隙間を埋めようと
日本思想大系全巻67冊セット揃い岩波書店/吉田松陰/本居宣長/空海/聖徳太子/古事記/水戸学/道元/親鸞/日蓮/天台本覚論/宗教/Z3270053Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}11月18日・オーバーツーリズムの問題や、マナーの問題がある。日本で観光業に従事する中国人も多い。どっしりと構えて、挑発に乗らず事の成り行きを見るときだと思う。・習首席周辺の勢力争いが激化しており、日本の媒体も煽っているので、これは中国から見て好機だったの
【2025年NO224】おはようございます!けんいちです(^^)大和心シリーズの第5回のテーマは、「誠(まこと)」と「義(ぎ)」──信頼を築く心の土台です。■「誠」とは、心の“嘘のなさ”日本人が古来より大切にしてきた価値の一つが誠(まこと)です。古事記でも「まこと」は神々の徳として語られ、『日本書紀』『万葉集』にも繰り返し登場します。誠とは、嘘や飾りをなくし、ありのままで向き合う心のこと。本居宣長はこれを「もののあはれ」に通じる“感じたままの素直な心”として捉えました。「
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************仏教が日本に伝えられたのは、6世紀の欽明天皇(539?-571?)の御代とされている。朝鮮半島はと言えば、公式には高句麗に372年、百済に384年だという。さらに中国についていえば、歴史書の「三国志」によると、仏教の初伝は紀元前後の漢の時代だという。『漢書』(「地理志」)によれば、日本は紀元前1世紀頃に既に朝鮮半島にある漢帝国の直轄地・楽浪郡に、定期的に使節を派遣し交流が
寛政7年(1795)3月25日、蔦屋重三郎は伊勢国松阪「鈴屋」に居た。松阪の国学者本居宣長に面会するためである。松平定信から身上半減の罪を受けたあと、学術書などの本を扱う書物問屋の株を手に入れ、当時流行りつつあった国学の権威である本居宣長の本を名古屋の書物問屋・永楽屋と協力して発刊するためだった。宣長の随筆には「同廿五日来ル一江戸油通町蔦屋重三郎来ル右ハ蔭春海ナトコンイノ書林也」とのみ記されていてどのような話があったのかは書かれていない。ただしこの一文に登場する春海は宣長と同じ国学者の村田
※下記の記事は2007年投稿時のものをそのまま添付しています。日付などにご注意ください。※行事などは過去のものになります。まつさか魚町・本町界隈そぞろ歩き2007年09月17日|日々是好日昨日は、崇敬者に誘われてドキュメンタリー映画「4分の1の奇跡」を観に松阪市本町の松阪市産業振興センターへ出かけました。石川県立明和養護学校教諭の山元加津子さんの、とても納得できる、感動的映画でした。映画観賞後、休憩を兼ね、ひさしぶりに近辺をブラブラと歩いてみました。ガイドブックの文章に従
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************この倭姫命だが第11代垂仁天皇の皇女である。「倭姫命世記」によれば、崇神天皇(第10代)の次の天皇の御代に、既に伊勢神宮では仏教用語が禁止されていたというが、それは、推古天皇の御代に聖徳太子が「十七条の憲法」(604年)において、「二曰、篤敬三寶。三寶者佛法僧也。」(「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。」)と定めるよりも、なんと22代も前のことだ。もちろん根拠とな