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本木雅弘さんが、荒木村重役を・・!面白そうです・・そして、官兵衛役は、菅田将暉さんとの事で・・予想外のキャスティングで、わくわくします。(原作米澤穂信氏「黒牢城」)有岡城籠城のお話は、NHK大河ドラマ、「軍師官兵衛」をずっと見てたので、あの時の岡田准一さんの、熱血の熱演が、今も忘れられず・・今もあのイメージが強いんですが・・(あの時の荒木村重は、田中哲司さんでした)今回の映画は、また違ったテイストで、違
地域に眠る歴史の魅力を再発見する「有岡歴史企画」。大変ご好評をいただいている天野セミナーの第3弾の開催が決定いたしました!今回のテーマは、伊丹市民なら誰もが知る有岡城主・荒木村重と、後の天下人・豊臣秀吉。信長という絶対的なリーダーの下で、この二人はどのような関係だったのか?「実はライバルだったのではないか?」という刺激的な視点で、戦国時代のドラマに迫ります。講師は戦国史研究の第一人者・天野忠幸先生!講師には、昨年に引き続き天理大学教授の天野忠幸先生をお迎えします。天野先生は「荒木村重
本養寺は、池田市内唯一の日蓮宗寺院であり、正式名称は「瑞光山本養寺」、本尊は、本門教主釈尊です。江戸時代中期の画家、松村月渓(四条派の祖、呉春)が滞在し、画道に精進したことから、「呉春の寺」と呼ばれています。[本養寺の略歴]室町時代初期の応永十六(1409)年五月、玉洞妙院日秀上人(関白従一位近衛道嗣公の末子)により開創されました。戦国時代、荒木村重が居城を池田城から有岡城(伊丹)に変更したのに伴い、本養寺を伊丹に移しました(*1)が、有岡城落城後の天正十(1582)年、本養寺は、近衛
福岡市南区の住人、ハイジャン男のブログアメブロ友の芳根杏子さんの「芳根杏子日記」の俳句の昨日のお題は「爽やか」だった。アップが遅れてしまった。それは標題の俳句と関係がある。先ずは、杏子さんに送った俳句とコメントを紹介しよう。『ハイジャン男さん福岡市は雨、気温24℃です。朝は晴れていたのですが、、。本日のお題は「爽やか」。爽やかに歴史紐解く日なりけり今日は従兄弟の家を訪ねて、四百年前の歴史を紐解く出会いに参加して来ます。』昨日、拙ブログの過去の記事に福岡市にご在住のKさんよりお尋
登山をした経験ある?ありまッス!今日の表題に書いた通りッス!本当の頂上に立ったのは甲山だけっス!司馬遼太郎さんの小説噺によれば、天正の昔、伊丹有岡城主だった荒木村重が主君の右大臣信長に謀反した時、有岡城周辺での戦いの様子を、近隣の百姓たちは手弁当もって甲山の上から戦見物とばかりに眺めてました。夜も山上で松明を焚いて騒いでいるような百姓たちのしざまに立腹した信長の命令で織田軍の兵の一部が甲山を取り囲み、戦見物に登山してた農民たちは皆コ●サレちゃったそうな…。この甲山と
駄六川(だろくがわ)駄六川は、兵庫県伊丹市を流れる川で、伊丹市北部の瑞ヶ池(ずがいけ)などを水源としています。川は南下し、最終的に猪名川に合流します。法定河川としての延長は約3.3kmです。Googlemap伊丹駅前地図掲示板歴史的に見ると、川の流域にはかつて北河原村や天津村などの農村があり、灌漑用水として利用されていました。また、猪名川との合流点付近は「川湊(かわみなと)」と呼ばれ、江戸時代には伊丹の酒を運ぶ水運の拠点でした。伊丹観光略図(抜粋)村重の時代の有岡城は、もっと広く
大廣寺は、曹洞宗大本山總持寺(そうじじ)(横浜市鶴見区)直属の末寺かつ池田家(池田城主)の菩提寺で、本尊は釈迦如来です。牡丹の名所でもあります。[大廣寺の略歴]永平寺(福井県)を開山した道元禅師から第7代目にあたる天巌禅師により、応永二(1395)年に創建されました。室町時代中期の文明年間、第四世祥山祖琳禅師の代に、池田城主池田充正が禅師の徳を慕い帰依し、伽藍諸堂等を再建、修禅の場「望海亭」を設けました。戦国時代に、荒木村重が大廣寺を伊丹に移しました(*1)が、有岡城落城後は池田に戻さ
最近、はまって観ているこちらのシリーズ。前の加来耕三先生のシリーズの方が楽しかったし、「敗北」というタイトルに無理矢理合わせていて違和感を感じる回もありますが、前シリーズで扱わなった歴史上の人物もあり、楽しいです。今回は、戦国時代~安土桃山時代の武将、荒木村重です。天下の覇者となっていた織田信長に反旗を翻し、居城の摂津・有岡城に籠城。和解の使者としてやって来た黒田官兵衛を監禁。官兵衛は一年余の監禁生活の中で下半身に障害が残り、頭には皮膚病による傷痕と、心身に大きな傷が残りました。しかし、
織田信長方であった荒木村重は、堀(中島)城の本願寺勢に次いで、伊丹忠親にも戦を仕掛けました。伊丹城内に兵糧が無いことから、村重は持久戦に持ち込むであろうと天正二(1574)年七月二十九日、村重の伊丹氏攻めについて、信長が明智光秀に伝えました。(『細川家文書』)そして、(既に池田と尼崎を押さえていた)村重は、同年十一月十五日に伊丹氏を滅ぼしました。伊丹城は、六甲山地から南東に伸びる舌状の台地(伊丹台地)の東縁辺部に築かれ、『細川両家記(ほそかわりょうけき)』には、「伊丹城ばかり堅固也、誠不思
戦国の将村重の軌跡とその時代「荒木村重研究序説」海鳥社瓦田昇(かわらだのぼる)著信長麾下にあった荒木村重は、天正6年秋、反逆し有岡城に籠る。落城後、一人生き延びた村重は秀吉に茶人として仕え「利休七哲」に数えられた。膨大な史料を渉猟し、綿密な調査をもとに、乱世に埋もれた「異端の武将」に新たな光をあてる。(本文より)瓦田昇氏「人間、順境にある時は、驕りの心は生じることはあっても、人間の弱みやみじめさや、心の痛みなどなかなか感じることはできないものだ。健康な人が病弱な人の心を察するこ
瓦田昇(かわらだのぼる)著『荒木村重研究序説』勉強会を有志企画として立ち上げた。そもそも私が入会した11年前にこの勉強会が女子会としてスタート。女性7~8人が毎月集まり、本文を順番に読んで感想を述べ合った。2年程続いた後、1人抜け2人抜け・・・自然消滅してしまった。その時のメンバーで今も残っているのは2人。研究会の例会でメンバーの発表を聞いているうちに、やはり『荒木村重研究序説』でベースとなる基本知識をまず身に着けたい、という声が出され、じゃあもう一度やってみようかと。『荒木村重研究
戦国武将荒木村重について改めてまとめてみました。村重という人物は非常に個性的で、小説やインターネット上では誇張されたイメージも少なくありません。しかし、信頼できる史料を紡いでいくと、新たな人物像が浮かび上がり、その人間関係や時代特有の事情が見えてきます。こうした気付きは、歴史勉強の醍醐味かもしれません。荒木村重研究会では、随時会員募集しています。記事最後に記載のアドレスにご連絡ください。村重像の再発見―信長視点からの脱却荒木村重についての史料は意外と少なく、残されているものの多くは
『伊丹ミュージアム『荒木村重』展』伊丹ミュージアム、行って来ました❗️…そうなんです。力のある戦国武将であり、当時の文化人の中でも、トップクラスそれなのに…好感度が低いというか……ameblo.jpBonzeonInstagram:"国指定史跡「有岡城跡(主郭部)https://ameblo.jp/0nce-upon-a-t1me/entry-12779923621.html有岡城落城後に捕虜となった、荒木村重の妻だしは、天正7年(1579年)12月、京都鴨川の河原で打ち首に
荒木村重ゆかりの城巡り第3弾です阪急池田駅近くで美味しいきつねうどんを食べた後この経路で有岡城に向かいました阪急川西能勢口でJRに乗り換えるため歩行者デッキを歩いているとおやJR川西池田の駅そばに武者の銅像を発見拡大するととりあえず写真に収めて電車の中で調べてみたら〜源満仲(みなもとみつなか)さんの像でした源満仲さんは、幕府から派遣されて二度国の守を務めたあと摂津に土着し武士団を形成したんだそうですその縁で、JR川西池田駅の駅前ロータリーに満仲の像があるとか
黒牢城(角川文庫)Amazon(アマゾン)★★★★★文庫本になったので、と言いながら、仕事にかまけて購入してから読み終わるまでにだいぶ時間がかかってしまった。他にも積んである文庫本があるのだが、読めるのはいつのことやら…・「粗略にされておるのは、城の守りではない。」と、村重は言う。「油断なく守れという儂の下知ーそれよ」…一つ一つは、謀叛というにはあまりに些事だった。だがそれらはたしかに、叛意であったのだ。・「宗門の教えにもなき片言隻句が人を惑わすのもこの世なら、
令和7年2月23日(祝・日)有岡城跡にあるアイホール(伊丹市立演劇ホール)にて、天理大学教授の天野忠幸さんに「村重と光秀ふたりはなぜ信長から離れたのか?」をテーマにおはなしいただきました。参加者は定員の倍の200名。予定を大きく上回る参加者で埋め尽くされた会場はじめに荒木村重研究会役員で村重子孫の西﨑Gouさんより、荒木村重研究会のブログを是非ご覧くださいと挨拶があり、その後天野先生が登壇され、天野セミナーが始まりました。織田政権は急成長して部下によって滅びるという運命をたどった、
こんばんは現役保育士フルタイムワーママのかわかみゆきです。小3息子との暮らしや勉強が好きになるために親ができる日常の工夫を更新しています。運転免許証の更新に行ってきました。職場の先輩と一緒に行ったのですがああ、都会っていいなぁ…と朝からほのぼの。太陽に照らされ整備された歩行者天国。普段見ることのない景色。お店が立ち並び素敵な景観。自転車と歩く人の靴の音。田舎は車通勤なので山に挟まれた車道をただただひ
令和7年1月13日(祝・月)、荒木村重研究会1月例会寒いけど天気に恵まれた成人の日、2025年初回の荒木村重研究会例会を伊丹市アイホールにて午前9時30分から開催しました。今回は、入会ご希望の方がご見学に来られ、その後に入会していただきました。以下は例会の概要です。◎新年の挨拶、個々の近況、2024年の活動報告(歴史散策会「有岡城跡惣構を歩く」、村重陶板プロジェクト、ジタル上映会「洛中洛外図屏風舟木本」など)◎2025年天野教授によるセミナー令和7年2月23日、テーマ「村
「黒牢城」米澤穂信高山市の出身の作家さん。文庫本になったので早速購入。私が好きな戦国武将の黒田官兵衛が土牢に捕えられた有岡城での物語。当時の事は誰にもわからないが有岡城城主木村村重と官兵衛にこんなのやりとりがあったとすれば面白いだろうなと感じながら楽しく読ませていただきました。この時代の本は文の節回し?が苦手で読むのには苦労しました。
AfterleavingtheNagoyaCityMunicilpalArchives,Ifoundtheremainsofamoatnearby.Ilookedatasigntoseewhichcastle'smoatbelongedto,andIsawthatitwastheoutermoatofNagoyaCastle.Eventhoughwewerestillquiteadistanceawa
おはようございます!ZEAK川西能勢口店江口です。興味がある人は有る!無い人は全く無いwそんなお話しです!日本にかつてお城は二~五万程在ったそうです。その数の開きはどこまでが城なのか…砦なのか?屋敷なのか?その定義が曖昧で決めつけられないからだそうです。そして一般的に見学ができるお城は二百ほど…そのうち江戸時代以前から天守が残されているのは十二城しかないそうです内
荒木村重顕彰碑(陶版)お披露目感謝状贈呈式令和6年(2024年)11月3日午前11時よりJR伊丹駅西側カリヨン横にて晴天のもと行われました。村重伊丹入城450年伊丹市・荒木村重顕彰碑は、荒木村重研究会が伊丹市に寄贈し、設置いただいたものです。この度の寄贈、設置については、伊丹市広報誌令和6年2024年12月号にて市民の皆さんに広報されました。
日本有数の巨大さを誇る名古屋城を見た翌日、大きさが明らかに劣る、兵庫県内の城址を見るのもなぁと思いつつ、JR伊丹駅に降り立ちました。JR伊丹駅の北西に接するように、有岡城址はあります。公園として整備されており、一見、花隈城の花隈公園のようなものかと思いましたが、花隈公園と違い、ほんの一部ですが当時の石垣や堀が残っています。花隈城と同じく、荒木村重ゆかりのお城ですが、黒田官兵衛が囚われていたお城としても有名で、遠藤周作の「反逆」や米澤穂信の「黒牢城」といった小説でも
おはようございます10/20(日)ウォーキングも兼ねてAEONMALLへその前に老松で土日限定の有料試飲②純米酒を1杯を分け分けそしてハマっいる大阪王へ3人前¥1.080支払いは現金のみ自販機より早く熱々の餃子が出てきますなぜ業スーで購入した濃いめのハイボールで乾杯〆は自宅のオープンで焼いた焼き芋いつか食べた時のスターバックスの袋を取っておいたので(貧乏性)焼き芋を入れて持参JR伊丹駅前でのピクニックを終えてお客感で買い出ししてJRで宝塚に戻りましたさて本日10/31(木)
有岡城惣構を歩く参加11名荒木村重研究会の有志が企画し、2024年10月13日(日曜)に実施しました。散策の概要午前10時有岡城跡集合事前説明「有岡城は伊丹台地の東縁の高台を巧みに利用した平城です。元は伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていた所です。その後荒木村重が大改造を行い、城だけでなく待町、町屋地区共に堀と土塁で囲んだ惣構えの城としての価値を認められ、昭和54年12月に国の史跡に指定されました。」散策は先ず北方面へ出発北ノ口砦趾主要な出入口のうち北にあ
前回からの続き(9月7日のこと)ですマンホールカードを貰って、イオンへ戻って行きます伊丹駅の手前に有岡城跡があったことは書きましたが、戻るときその周辺を少し撮ったのでそれをアップしておきます以前、主郭部分のことは記事にしました有岡城『目指せ!100無名城No55官兵衛が囚われた城(有岡城)』今回から8月19日に巡ったマンホールカード以外のとこの一部をアップしていきます一部というのは、小さな駅以外小さな駅は、また駅シリーズでまとめてアップしていきた…ameblo.jpその主郭の西側
このところの猛暑のなか、車で出かけたりもしていますが、近くの散歩や公園歩きをする気はおきませんどうしても家の中で、オリンピック観戦、読書、パソコンインターネットが多くなります時間だけはたんまりあるので、たまには歴史長編ものでも読もうと思い、手に取ったのは2年くらい前に直木賞を受した米澤穂信さんの「黒牢城」この本は山田風太郎賞も受賞していました表紙に小さく、AriokaCitadelcaseと書いてありますCitadelって知らなかったので調べたら、城塞という意味らしい時は天正
※有岡城跡に建てられた懐古園碑文と案内板・・・有岡城は廃城後、次第に忘れ去られ、寂れていく様を見かねた武内氏という資産家の妻と息子が荒木村重公の遺徳を称えるために、石碑を建てたそうです(自分も思いますが、なかなかできないし、すごい!)この石碑は、現在も伊丹駅前に建っています荒木村重公の墓4️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思いま
※墨染寺女郎塚・・・伊丹の地は、「酒造業」が盛んで、「歓楽街」が江戸時代以前からあったようです墨染寺は、かつて有岡城「上臈塚砦」跡に建てられていますこの塚が建てられる前から、何らかの「供養碑」が建っていたと思われますこの地で亡くなった女性(遊女)並びに非業の最後を遂げた、荒木の妻「だし」ら一族、家臣の女性たちの供養のために建てられた供養碑と思われます※墨染寺上島鬼貫碑・・・これは案内標柱で、上島親子の供養碑はこのとなりにあります上島鬼貫は、伊丹出身の江戸時代を代表す
※墨染寺荒木村重公の墓・・・かつての有岡城総構女臈塚砦跡に建てられた墨染寺に荒木村重公および一族供養塔として、九重の石塔があります標柱にはかすれて見えにくくなっていますが、「荒木村重の層塔」と書かれています荒木村重公の墓2️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)