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本日、福岡市中央区の福岡城跡の藤棚を見に出かけた。どうして、今日に藤棚をと思ったか?というと、前回、訪れたのは、4月15日であった。『福岡城跡の藤棚』福岡城跡には立派な藤棚がある。これには、訳ありなのである。福岡藩主の黒田家の家紋が藤の花であるからである。何故、黒田家の家紋が藤の花か?というと『黒田家の家伝…ameblo.jpそろそろ満開ではと気にかかっていた。藤棚は少し盛りを過ぎていたようだ。しかし、藤の房が長いものも見られた。やはり、平年よりも10日くらい早く咲いたのでは?と思
岐阜県中津川市の苗木城址は続日本100名城に認定されている名城。いろんな見どころポイントはありますが、その中でも牢屋跡は貴重な遺構です。こちらは牢屋跡の説明看板。実際に使われた歴史があり、明治初年頃に起きた苗木藩んの政争の際に上級武士が収監され処断されたそうな。それがこの場所。今では牢屋はありませんが、中に登ることはできます。そういえば黒田官兵衛も荒木村重が織田信長に背いた時、有岡城に説得に行って捕まり、1年ほど牢屋で監禁されて足が不自由になったというエピソードがあり
荒木村重という戦国大名が今回のテーマ私はあまり知らなかったが、テレビ東京で再放送していた国盗り物語で取り上げられていたのを思い出した。摂津の国人37万石までのぼりつめる。しかし1578年に信長に謀反。一族を見捨てた卑怯者といわれるようになる。足利義昭と織田信長が対立するようになっていた時代。1570年から1573年くらいにかけて信長包囲網というのがあった。まわりは敵だらけ。越前は朝倉義景琵琶湖の北の方は浅井長政甲府は武田信玄伊勢長嶋一向一揆摂津や大阪
令和6年2月4日(日)有岡城跡にあるアイホール(伊丹市立演劇ホール)にて、天理大学教授の天野忠幸さんに「伊丹城?有岡城?あなたはどう呼ぶ?」をテーマにおはなしいただきました。参加者は87名。はじめに山梨県甲州市から駆けつけてくださった荒木村重子孫の荒木Mさんより、江戸時代初期に甲州市にあった徳美藩の藩主伊丹氏は伊丹城主伊丹氏の子孫だった、甲州市と伊丹市には深い縁がある、との挨拶をいただきました。その後天野先生が登壇され、天野セミナーが始まりました。最近、村重が注目され
去る2月4日(日)の15時〜、伊丹市のアイホール(伊丹市立演劇ホール、JR伊丹駅前)にて、天野忠幸さん(天理大学教授)による講演会が開催されました。会場内は、ほぼ満席・盛況になりました。私を含めた当研究会の会員も、準備・後片付け役を兼ねて、参加させていただきました。(当日参加された方との公平性の点などにより、)講演内容の掲載は差し控えさせていただきますが、天野忠幸さんの着眼点・分析は素晴らしく、親しみ易い内容で楽しめました。晩には、当研究会の有志の会員が天野忠幸さんをお招きし、夕食会も開
今回の日本🇯🇵への一時帰国の目的、免許証の更新、無事終了した。再びゴールド免許。日本🇯🇵国内で車を運転してないのだから当然と言えば当然である。今回、初めて兵庫県の伊丹の更新センターに行った。伊丹の更新センターは、戦国大名で、織田信長に対して謀叛を起こした荒木村重の居城有岡城の近くにある。この荒木村重縁の地を自分は、かつて訪ねた事がある。村重が池田氏の家臣であった時の池田城址。和田氏との戦いの舞台、白井河原の古戦場。信長との戦いで1年以上立て籠った有岡城址。一族郎党が長屋に押し込め
昨日もハイジャン男は福岡城址を訪れた。淡墨桜と松前桜のご本尊の写真を撮るためだった。その帰りに、福岡城址の藤棚の前を通った。東京の俳人の先生がこの藤棚の大きさに感嘆されていた。何故、このような大きな藤棚が福岡城址にあるのか?というと、、。この写真にあるように、黒田家の家紋が藤なのである。大河ドラマの軍師官兵衛でもやっていた。有岡城の牢獄に幽閉されていた時に、官兵衛は牢獄の外に見えていた藤の花に勇気をもらったという。その後、家紋を藤に変えたという。「藤の花芽ぶく福岡城址かな」ハ
前から気になっていた黒牢城読んでみました。荒木村重が織田信長に背いて有岡城に立てこもった後の不可解な密室殺人から始まる様々な事件を黒田官兵衛の知恵を借りながら解決していくと一個の根っこに繋がっていくという。戦国時代の歴史観見にはめ込む描写は見事としか言いようがなかったです。この本の作者凄い!!と思いましたね。誰か、この小説をもとに映画化してくれたら自分は即座に見に行くんですが・・・
赤い羽根助成事業歴史と文化のまち伊丹有岡有岡歷史企画講演「伊丹城?有岡城?あなたはどう呼ぶ?」講師:天理大学教授天野忠幸さん参加費無料●日時:令和6年2月4日(日)15時~●場所:アイホール(伊丹市立演劇ホール)(伊丹市伊丹2丁目4-1)定員:100名●対象:どなたでもお申込み下記よりお申し込みください(お申込み多数の場合は抽選。抽選の場合のみご連絡致します。)http://www.city.itami.lg.jp/SOSIKI/SHIMIN/MACHI/Z
こんにちはns深沢のブログへ来ていただきありがとうございます。いつの間にか大晦日になってしまいました。またまた夏前に行ったままこちらに書いていなかったお店年明ける前にアップしておきます気ままにやってるから許してください💦伊丹に用事があり、お昼ご飯にとJR伊丹駅をおりて西へ170メートルほど、伊丹酒造通りを行くとありますお店、『鶏白湯そば松もと』さんへ行かせていただきました。石畳の趣のある通りを歩きますとありました白を基調とした店内はすごく洗練された感じです。お店の方は
有岡城跡公園のいちょう、先日また出掛け召したので。空の色に黄色が映えます。レシピブログに参加中♪ランキングに参加してます。ここもぽちっと押して下さいマセ。
去る11月25日(土)、午前は当研究会の例会、午後には「荒木村重交流会」(定員30名・当日先着順、無料)が、伊丹市の有岡城跡向かいのアイホール(伊丹市立演劇ホール)の2階(カルチャールーム)で開催されました。例会の方では、当研究会の今後の行事予定の連絡などがありました。「荒木村重交流会」については、(有岡城跡のお膝元の)有岡小学校区まちづくり協議会主催で、募集人数が少人数ということもあり、当研究会のブログでは広報されませんでした。交流会は、当研究会会員の内の、(私を含めた)村重の子孫4名に
有岡城跡のいちょうがきれいに色づいていました。伊丹をチョコっと散歩。レシピブログに参加中♪ランキングに参加してます。ここもぽちっと押して下さいマセ。
JR伊丹駅からJR西宮駅を目指すのですが、マップを見たら駅が有岡城跡ということがわかりました。有岡城と言えば荒木村重公だよねえ。信長公を裏切った理由は定説はないけど、松永久秀公が裏切り、荒木村重公が裏切り、4年後に本能寺の変で信長公の夢が途絶えたのは、この二人の裏切りが伏線になってるような気がしますねえ。あんまり遺構は残ってないみたい。この建物跡と石垣は当時のものみたいです。主郭周りの堀っぽいのも石垣もどういう経緯のものかわかりませんでした。( ̄∇ ̄;)ハッ
2022年10月。第三次雲州乃旅路なんだけど、正確には4度目の島根県。2021年の6月は島根も含めた近畿・中国地方。今回の旅は島根主体のオマケで大坂です。出発前の千歳空港。いざ、旅立たん。長野県上空。半年前に行ったなw日本アルプスの背後にマウント富士。確かにここからでも肉眼で確認できるので高島城の天守からも綺麗に見えるんだろうな。天気が微妙で見えなかったけどさwもみじ湖?太平洋側へたぶん三河湾か伊勢湾三重県上空奈良県上空偶然撮った写真
8月13日伊丹市アイホールで開催された「こども能発表会」は満席、盛況のうちに閉幕。こども達の頑張りに感動しました。そのあとはプロの能楽師による能の上演、新作「村重能」が発表されるなど熱い舞台となりました。始まりの挨拶で紹介しました、村重の一子孫の移動について、配布資料をアップしましたので、ご覧ください。また、ご質問や情報提供がありましたらご遠慮なくご連絡ください。有岡城の戦いは、荒木摂津守村重が織田信長に謀反し、1578年(天正6)7月から1579年(天正7)10月まで籠城して戦い、その
2日目草津を出てから、まずは大阪下車スタバでコーヒーを買い込み、電車に乗り込む通勤時間帯なので、駅はごった返していて…うんざりぃ~~~(早朝に出たことに後悔)伊丹駅下車、目の前有岡城南北朝時代、摂津国人の伊丹氏によって建築され、文明4年(1472年)に改築されるまでの伊丹城が日本最古の天守台を持つ平城となった。しかし天正2年11月15日、荒木村重によって攻め落とされ、のちに伊丹氏の伊丹城を大改修し、有岡城に改称した。荒木村重は後に謀反を起こし、有岡城は織田信長に攻められて落城し
朝の京都は安産祈願へ~市バスで移動します。ホテルで乗り場案内をもらったらとっても便利~岡崎神社にやって来た。うさぎ神社とも呼ばれる安産の神様。狛犬の代わりが多産のうさぎです。来年お孫4号が生まれるそうですからお参りしました~凄いね。ご神体のお腹をさするそうですよ。お札を買って帰ります~京都市内を回るのに🚌は便利です。西院にて、この後、京都駅でショッピングをしてJRで大津へ~山科駅。大津に到着
明智秀満⑮「信長公記」『古しへの綾羅錦繡よりも、今の経帷ありがたし。世にありし時は、きくも忌々しき経帷に、戒名さづかり、頼もしく思はれ候。千年、万年と契りし婦妻・親子・兄弟の間の中をも去離、思はずも、都にて諸人に恥をさらす事、此の上は、更に荒木をもうらみず、先世の因果、浅ましきとばかりにて、たし、歌あまた読み置き候。きゆる身はおしむべきにも無き物を母のおもひぞさはりたはなるたし残しをくそのみどり子の心こそおもひやられてかなしかりけりたし木
明智秀満⑭「信長公記」『十二月十三日、辰の刻に、百二十二人、尼崎ちかき七松と云う所にて、張付けに懸けらるべく、相定め、各引き出さし候。さすが歴々の上臈達、衣装美々しき出立、叶はぬ道をさとり、うつくしき女房達、並び居たるを、さもあらけなき武士どもが、請け取り、その母親にいだかせて、引き上げ引き上げ張付けに懸け、鉄砲を以て、ひしひしと打ち殺し、鑓・長刀を以て差し殺し、害せられ、百廿二人の女房、一度に悲しみ叫声、天にも響ばかりにて、見る人、目もくれ心も消えて、かんるい押さへ難
明智秀満⑬「信長公記」『此の由、聞こしめし及ばれ、不便におぼしめされ候と雖も、侫人懲らしめのため、人質御成敗の様子、山崎にて、条々仰せ出される。荒木一類の者どもをば、都にて仰せ付けらるべきの由候で、』信長は安土城に重臣、側近らを集めた。「摂津はまだしも久左衛門までもが逃げたか。荒木一族には真面な武士は、いないようだな。」と信長は、呆れたような顔で、光秀に言った。これには光秀も返す言葉もない。村重には自らの命と引換えにしてでも、妻子を救う手立てを期待していた
明智秀満⑫「信長公記」『荒木返歌思きやあまのかけ橋ふみならしなにはの花も夢ならんとは』さて、この返歌は色々と解釈が分かれるようだ。私は素直に「二人で天のかけ橋を渡ろうと思って、ここに来たのに、浪花の花も夢になってしまうとは思わなかった。」と理解したい。つまり、包囲された有岡城を尼崎から救援に行くつもりであった、というのだろう。ところが内通者がして、その策を織田方に知られてしまい、反攻策は夢のように消えたのである。しかしながら、村重が本気で尼崎
明智秀満⑪「信長公記」『十一月十九日、荒木久左衛門、其の外、歴々の者ども、妻子を人質として伊丹に残し置き、あまが崎へ罷り越し、荒木に異見申し、尼崎・はなくま進上仕り、其の上、各々の妻子助け申すべきの御請け申し究め、何れも尼崎へ越し申すなり。此の時、久左衛門一首。いくたびも毛利を憑みにありをかやけふ思ひたつあまのはごろもと読みをき候。』本丸のみとなった有岡城に籠っていた城代・荒木久左衛門は、光秀を介して信長から「村重が尼崎城と花隈城を明け渡すならば、家
明智秀満⑩「信長公記」『十月廿四日、維任日向守、丹波・丹後両国一篇に申し付け、安土へ御礼まいり。其の時、志々良百端進上候ヘキ十月晦日、備前宇喜多和泉、御赦免に付きて、名代として、宇喜多与太郎、摂州古屋野まで罷り上がり、中将信忠卿へ御礼、羽柴筑前秀吉御取次なり。』宇喜多氏の赦免の願いは、信長の怒りを買い、一度は播磨に追い返された秀吉であったが、漸く信長の許しを得たようである。直家の養子・宇喜多基家が名代として、摂津の陣にいる信忠のもとにお礼に訪れている。宇喜多
明智秀満⑨「信長公記」『九月十二日、岐阜中将信忠、伊丹表の御人数半分召し列れられ、尼崎へ相働きなされ、七松と云う所に、近々と取出二ケ所仰せ付けらる。塩河伯耆、高山右近、一与に定番として置かる。中川瀬兵衛、福富平左衛門、山岡対馬、一組に仰せ付けられ、古屋野へ御人数打ち帰らる。』有岡城は、とても大きな城で城内には砦が作られていたという。織田勢は長期戦を覚悟し、周囲に砦を作り、二重三重に堀を打ち、柵を設け、幾重にも包囲していた。村重は毛利氏や本願寺の援軍を待ち続けた
明智秀満⑧「信長公記」『荒木伊丹、城・妻子捨て忍び出づるの事九月二日の夜、五、六人召し列れ、伊丹を忍び出で、尼崎へ移り候。九月四日、羽柴筑前秀吉、播州より安土へ罷り越さる。備前の宇喜田御赦免の筋目申し合わせ候間、御朱印なされ候の様にと、言上のところに、御諚をも伺い申されず、示し合わすの段、曲事の旨、仰せ出され、即ち、播州へ追い還され候なり。』村重が何故、謀叛を起こしたかには議論があるようだ。信長自身、心当たりがなかったからである。何せ、摂津国の石高は2
明智秀満②「史料綜覧」『天正七年正月三日、筒井順慶、播磨ヨリ軍ヲ班ス(多門院日記)五日、信長ノ水軍九鬼嘉隆、和泉ヨリ安土ニ到リ、歳首を賀ス(原本信長記)天正七年二月十八日、信長安土ヨリ上洛ス(兼見卿記他)廿八日、信長ノ将惟任光秀、丹波亀山ニ出陣ス(兼見卿記)是月、羽柴秀吉、別所長治ノ属城摂津丹生山城ヲ攻メテ、之ヲ取ル(別所長治記他)天正七年三月四日、織田信忠等、上洛シテ信長ニ謁ス(兼見卿記)五
三宅弥平次(92)天正7年(1579年)1月、八上城の包囲は厳重になり、危機感を抱いた波多野氏は小畠永明が守る籠山の陣を襲撃した。この戦いで永明は戦死してしまうのである。光秀は永明の死を悼み、明智姓を与えた。嫡男・伊勢千代丸にも明智姓を与え、13歳になったら必ず家督を継承するよう厳命した。弥平次は坂本城から二千の兵を率いて有岡城方面に進んだ。在陣が長くなった藤田伝五の部隊と交代する爲である。伝五の部隊は一度、坂本に戻り補給と休養を取る。如何に包囲戦とはいえ、長期間の
今日も伊丹市のマンホール蓋とカードを記事アップします。旧岡田家住宅・酒蔵デザイン(D)3種類めのマンホール蓋の撮影とカードをいただきに向かったのは、旧岡田家住宅。現存する国内最古の酒蔵として、1992年に国の重要文化財に指定されています。旧岡田家住宅は、市立伊丹ミュージアムを構成する施設の1つとなっています。兵庫県の南東部に位置する伊丹市は江戸時代に酒のまちとして繁栄したそう。令和4(2022)年4月、柿衞文庫、伊丹市立美術館、伊丹市立工芸センター、伊丹市立伊丹郷町館、伊